2016年02月26日(金)18時30分
後生のごうさんへのメッセージ
ごうさん(@haisaigohsan)が呟いた最後のツイート。
— 高山正樹 (@gajumui) 2016年2月26日
その日は僕の誕生日だったのねん。んなのどうでもいいけどさ…
FBでは、逝ってしまったごうさんへのメッセージが絶えない。https://t.co/KSKdYk8Oc2 https://t.co/mKAHIgTsLz
tag: ごうさん
2016年02月13日(土)23時45分
ごうさん…
パラダイス通りのBar土のGOさん、京都の病院で今夜が山場だって、いったいどうしたんだよ~!!
— 高山正樹 (@gajumui) 2016年2月13日
読谷の実さんに電話をした。
— 高山正樹 (@gajumui) 2016年2月13日
「孤独は覚悟しておったじゃろう、三上知恵に今夜会うから言っておく」
森口豁さんのことは「ありがとうなあ」と言われた。
「京都まで行かんでいいぞ」
実さんはどこまでも暖かく、しかしながら未来を見据えていた。
あらゆることについて、恩讐の彼方に、と思う。
— 高山正樹 (@gajumui) 2016年2月13日
思いながら、今日の憂鬱を抱えている。
そうだ、ごうさん。俺、まだごうさんに別役実の本、何冊も貸しているんだから、返すまで、死んでもらっちゃ困るんだ。だって別役の芝居、やるって言ったじゃないか❗️
— 高山正樹 (@gajumui) 2016年2月13日
ごうさんが死んだ…
— 高山正樹 (@gajumui) 2016年2月13日
ボクは今夜、ごうさんの事を思いながら
知花昌一さんと初めて会ったごうさんのBar土を思いながら
ある会合で、知花さんのことを話していたんだ。
ごうさんが
死んだ…
【追伸】
※2月19日午前1時に呟いた…
眠れぬ夜、携帯の画像を整理して眠気を待つ夜。Bar土の画像を見つける。去年の7月25日午前3時と26日の24時前。ずいぶん痩せていたごうさん。最後の日はごうさんのことは撮らなかった。それが最期になるなんて思ってもいなかったから。 pic.twitter.com/QHIMBk3DlD
— 高山正樹 (@gajumui) 2016年2月18日
2015年07月25日(土)04時50分
ああ、夜が明けそう…
台風情報見ながら、ななしんや。 pic.twitter.com/lBDfEpgJmN
— 高山正樹 (@gajumui) 2015年7月24日
パラダイス通り。Bar土。 pic.twitter.com/qE8GwErevH
— 高山正樹 (@gajumui) 2015年7月24日
間もなく4時。
— 高山正樹 (@gajumui) 2015年7月24日
いずれブログに書くさ。 pic.twitter.com/F4RnEQtybe
今から食う。文句あるか! pic.twitter.com/fprVFfeGWY
— 高山正樹 (@gajumui) 2015年7月24日
2015年05月27日(水)13時31分
「ぼくは写真で世界とつながる」上映会
ドキュメンタリー映画上映会
ぼくは写真で世界とつながる〜米田祐二 22歳〜

製作・著作・配給:マザーバード
PD・撮影・構成・編集:貞末麻哉子
制作補:梨木かおり・洪 福貴
日時:6月13日(土)20時 Start
※10時から20時までは同会場で彫刻展+写真展を開催しています。是非早めにおいでくださり、そちらも併せてご覧下されば幸いです。
会場:[金城実彫刻展&大城弘明写真展]会場 M.A.P.
狛江市岩戸北4-10-7 島田歯科2階 ※小田急線喜多見駅徒歩5分
⇒会場アクセス
料金:1,200円
お問い合わせ:03-3489-2246(M.A.Pうぶかた)
⇒FBのイベント
撮影スナップ。
米田祐二くんと金城実さん!あ、当ブログでおなじみのごうさんもいる。

今回、本映画を撮られた貞末麻哉子さんが、ロードショーの2週間前にも関わらず、金城実さんと一緒に観られるならばと、心よく上映を許可して下さいました。ご多忙の中、ご本人自ら会場に駆けつけて、上映して下さいます。
作品の詳細については是非HPをご覧下さい。
⇒http://www.motherbird.net/~bokutuna/
【貞末麻哉子さんプロフィール】
制作プロダクション「マザーバード」代表・映画プロデューサー。今回上映のドキュメンタリー映画「ぼくは写真で世界とつながる」では、制作プロデュース・撮影・構成・編集を担当。
1998年、劇映画「ゴンドラ」で脚本と初プロデュースを手掛けて以来、今日まで多くの映画の制作プロデュースを手掛けてきた。10年前にプロデュースした「朋の時間~母たちの季節~」をきっかけに、以後は「障がいのある人たち、家族の人生」をテーマに、障がい当事者、家族(特に母親)の視点から報告している。
《主な作品歴》
1985年 「ゴンドラ」(劇映画)脚本・プロデュース
1992年 「阿賀に生きる」(佐藤真監督作品)東京ロードショーをプロデュース
1993年 「水からの速達」(西山正啓監督作品)をプロデュース
2002年 「朋の時間~母たちの季節~」(西山正啓監督作品)をプロデュース
2011年 「普通に生きる~自立をめざして~」(マザーバード作品)を撮影・制作
2013年04月30日(火)04時44分
04/29のツイートまとめ
gajumui
@tuchi2009 @maYmaYuko_515 おーい舞山、聞いたか?
04-29 16:49@tuchi2009 @maYmaYuko_515 とんでもない。こちらこそ。土での出会いが僕の人生を限りなく深く大きくしてくれています。ごうさんに感謝。ところでさ、土のブログのサイドバーのM.A.P.after5のリンク先が旧ブログなんですけど、なんとか新しいほうに変えてん
04-29 16:52後出しじゃんけんの得意な演出家だから、何を言っても無駄なのだが、役者がイキイキやれるための最後の御奉公。僕が悪者になって、ダメが出なければそれで良しとしよう。これだけのことなら、僕は稽古3日あれば十分だった。もうここまで。
04-29 23:58
tag: ごうさん
2012年04月28日(土)23時59分
4/28のツイートまとめ
gajumui
あちらこちらから、結婚式より葬式優先だろうとのご意見を頂き、それもそうかなあと思い直した次第。若き夫婦には申し訳なし。お幸せに!
04-28 17:41チベット体操11日目。朝は時間がなくて夕方に。その所為か、相棒の連続●●●記録、10日でストップか。あと2時間あるが。
04-28 22:08
Twitterで智内さんに向けてのメッセージ
「明日10:30高尾駅南口に集合して山登ります。浅川金比羅神社、11:00から神事が30分くらい、その後宴会になってその中でゆるーく奉納踊りです」
読むかな…
ごうさんがFBに写真をアップした。
こんな投稿文だった。
「そう、三歳になる僕の愛娘は、バイクに跨って大和に行ってしまったのです。四月上旬のことでした」
僕が「大きくなったなあ。世界一かっこいいオヤジになる、だれとの約束?」とコメントしたら、「高山さん、僕そんなこと言ったっけ? 大言壮語だ~ね」と返ってきた…
2010年07月23日(金)12時46分
金城実アトリエ訪問(2年かけて書いた記事)
彫刻家、金城実氏のアトリエは読谷の儀間にある。「ホテル日航アリビラ入口の交差点から残波岬方面へ向かい1つ目を右折すると金城実アトリエの看板がある」と、箆柄暦(ぴらつかごよみ)という沖縄関連イベント情報サイトに案内がある。
残波岬から南へ2km、海から東へ1kmあたり、大小のサトウキビ畑と住宅の混在する地域の一角。大きなトラックが出発しようとしていた。8月から東京で開催される金城実展に出品する作品を、たった今積み終わったところで、明日には金城実さんも沖縄を出発する。僕らは実にいいタイミングだったようだ。今日を逃しては、金城さんとお話しできる機会はずっと先になったに違いない。
初対面の挨拶など特にない。土のオーナーのごうさんが一応僕らのことを紹介してくれたが、どうやらそんなものも必要ない。金城さんにとっては、近所の顔見知りがちょっと寄ったのとなんら変わりがないようだ。トラックを見送ると、アトリエの中へ招かれるでもなく、当然のようにみんなで入っていった。
金城さんは、テレビ番組のDVDが送られてきたから見るかとごうさんに聞く。見る見ないの返事なんか待つことなく、DVDを持ってきて機械にセットした。
沖縄で放送されたばかりのTV番組らしい。
JNNルポルタージュ“ちゃーすが(どうする)!?沖縄〜金城実のレジスタンス”
「なかなかうまく編集してるなあ」
関東でも、いずれ放送されるはずである。
作品の多くはトラックに載って出かけてしまったが、残ったものや製作中のものを見せていただいた。それらは、歴史上の人物のデスマスクだった。
平敷屋朝敏のデスマスク。
平敷屋朝敏(へしちゃちょうびん)は玉城朝薫と同時代に活躍した文学者である。「手水の縁」という組踊りの作者だとされるが、それに疑問を呈する学者もいる。琉球王府に叛いたとして、わずか34歳で磔の刑に処された。琉球王府が平敷屋朝敏の記録を抹殺したのだろうか、この事件についても謎が多い。
しかし、平敷屋朝敏に関わる歴史の真偽について、ここでどうこう言うつもりは無い。今日の主役は金城実である。伝説の平敷屋朝敏像を語ることによって、現代に生きる金城実の実相が浮かび上がればそれでいい。
なぜ玉城朝薫ではなく、平敷屋朝敏なのか。
(※以下順次執筆)
…と、此処まで書いて、とうとう2年以上も時が経ってしまった。この記事を完成させるための覚書のメモには、次の項目がある。
「平敷屋朝敏」
「瀬長亀次郎」
「チェ・ゲバラ」
「琉球親鸞塾」
みな反権力だと言ってしまえば簡単である。2年前の僕は、たぶんそういう括り方をして、あっさり済まそうとしていたのだと思う。だが今あらためてこの記事を仕上げようとするにあたり、そう簡単には書けなくなった。
大城立裕翁は、知り合いの女性に「先生は現代の玉城朝薫ですね」といわれ、そうかもしれないと答えたという。平敷屋朝敏が反抗したのは、文学者朝薫ではなく、大和を棄て中国に付こうとした政治家蔡温であった。朝敏は大和文化に深い造詣があったが、しかし時世の句は、七五調ではなく八八八六で詠んだ。
キューバ革命に身を投じたアルゼンチン出身のゲバラは、圧政から逃れるには武力で戦う以外ないと主張していた。
日の丸を焼き、闘争の内部に断絶を作った知花昌一を、金城実は許さず、10年以上絶交していた時期があったと、西山監督から聞いた。
どれもこれも、当時はまだ知らなかったことである。
瀬長亀次郎にしても、彼が政治家である限り、きっと単純なわけはないのである。
そうして親鸞を勉強していた知花昌一氏は、その後出家した。
それやこれやを知ってしまった今、僕に何かを語る資格も力もない。だから今日のところは、せっかく撮った画像だけ、あっさり紹介して終わっていいと思う。
⇒知花昌一がチェ・ゲバラのことを語った
ごうさんは、用事があると先に帰っていった。
「目ぼしいものはトラックに積み込んじまったんだが…」
そういって金城さんは表にとっとと歩いていく。僕はそれに続いた。
瀬長亀次郎、石彫りである。未完成なのかどうか。
製作中のチェ・ゲバラのデスマスク。木彫り。
なぜ、木彫りなのか。
「なんでかなあ。最近は木ばかり掘っている」
仏像と関係があるのかどうか…
「恨を解いて浄土を生きる」
なぜか、そんな言葉が思い浮かぶ。
倒木に実が生るのを待つ。
「台風で倒れたんだが、そのうちにまた実がなるだろう」
沖縄の変わらぬ現状を訴えるため、金城さんが10年かけてアメリカや日本に翻弄され続ける沖縄の歴史を刻んだ100メートルのレリーフ「戦争と人間」、その一部が庭に展示されている。その前で。

またアトリエの部屋に戻って話を始めた。
僕は、日本が嫌いだと言って憚らなかった義父について語った。その義父のことを、裏のブログに書いたことがある。
⇒「社長とは呼ばないで(裏M.A.P.)」の09年3月14日の記事
ブログには書けなかった秘密も話した。
「そこだ」そう言って、金城実さんは立ち上がり、部屋に置かれた泡盛の壺に向かった。
「飲まんわけにはいかんだろう」
まだ、昼前である。幸か不幸か覗いた壺の中は空であった。
金城実は、立派な日本人になる事によって差別をなくそうとした自分の実父を否定するのである。
「そういう親の世代を、叱らなければいかんのだ。あんたの孫が、戦争で死ぬ事になってもいいのかと」
残念ながら、この後こちらの予定が詰まっている。それに車で来てもいる。飲んでしまえば予定を全てキャンセルして、アトリエにでも泊めていただくしかない。
「今度お邪魔する時は、泡盛を担いできますよ」
「また話そう」
「是非とも…」
そういって、早々にアトリエを辞したのだった。
その後、何度かお会いしたが、この時の約束はまだ果たせていない。
tag: 沖縄戦 金城実 ごうさん 沖縄の旅_2010年7月
2010年07月23日(金)11時33分
読谷の海を眺めながら
撮影中のボク。
ボクが撮った海。
今から65年前、ここから米軍が上がってきたのだ。
義理の母も逃げた。そして蘇鉄を食べて生き延びた。
その恐怖がどれほどのものであったのか、どうか想像してみて欲しい。
やっぱり、ボクは沖縄で癒されることなんかない。
海岸にオオハマボウの木が植えられていた。
オオハマボウの花は赤くなって散る。あるいは散ってなお赤くなったのか。沖縄では墓の近くに咲くアカバナーを後生花と呼ぶ。
実はこの記事、11月23日のハイビスカスの記事をアップした後に書いたのだ。どうしてもその順番でアップしたかったのだ。ブログで、そんなこんなややこしい細工をしてみたところで、誰も気がついてくれそうもないのだが、ボクの独りよがりの自己満足なのだ。
つまり「オオハマボウ」の別名が「ゆうな」であるということ。
なぜごうさんは、それを教えてくれなかったのだろう。
さあ、いよいよ、金城実氏のアトリエへ向かうのだ。
さとうきび畑のスプリンクラーが動き出した。
tag: 沖縄の自然 ごうさん 沖縄の旅_2010年7月
2010年07月22日(木)23時50分
読谷のチビチリガマを訪れる
沖縄にはたくさんの鍾乳洞がある。その自然の洞窟を沖縄の人は「ガマ」と呼ぶ。「ガマ」は、あの沖縄戦で防空壕や避難壕になった。読谷にあるチビチリガマも、そうしたガマのひとつである。
⇒読谷村戦跡めぐりマップ
小さな駐車スペースに車を止めて、ごうさんの忠告で手足に虫除けスプレーを吹きかけて、ガマの前の広場へと降りて行く。
そこにはアメシガーラという細い川が流れていた。その流れは、ガマの中へ消えていくのだが、その先、どこに繋がっているのか、誰も知らない。
「チビ」は尻のこと。「チリ」は切るという意味。つまり「チビチリ」の名は、この「尻切れトンボ」の川に由来している。
ガマの入り口にはこんな立ち入り禁止の看板が立てられている。

「ここから先は、墓となっていますので……」
「私達、肉親の骨が多数残っています」
不思議な文言である。
1945年4月1日、アメリカ軍は読谷において上陸を開始、沖縄本島における地上戦が始まる。翌々日の4月3日に、このチビチリガマで悲劇が起きるのだが、以来この場所は近寄ってはならない場所となり、人々は口を閉ざした。
1983年に刊行された『沖縄大百科事典』に「チビチリガマ」の項目はない。
下嶋哲朗氏が、読谷から開拓者として八重山に渡った当山ウトさんと出会ったのは1978年のことだった。
戦後の八重山開拓移民のことも、日本人の多くが知らない。その歴史を知ってもなお、沖縄に基地を押し付けることを致し方なしと判断する日本人がいるとしたら、日本という国など消えてしまって構わないとさえ僕は思う。しかしそれはまた別の機会に話そう。
1983年の夏、下嶋哲朗氏が中心になって調査が始まる。そして、チビチリガマであった「集団自決」の真実が明らかにされていった。
読谷村では、「村史」のうち、第五巻の資料編4 『戦時記録』 上下巻を、Web上で公開している。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi…
村史には読谷村の「集団自決」について、12ページに亘って記述がある。ここで、僕がそれを要約することはしない。是非ご自分でお読みいただきたい。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm
チビチリガマの左手に大きな碑があって、次のような言葉が刻まれていた。
チビチリガマから世界へ平和の祈りを
1945年4月1日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米軍はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が「集団自決」をした。 尊い命を喪った。
あれから38年後、やっと真相が明らかになった。その結果、83名のうち約6割が18歳以下の子供達であった。その他、2名が米兵の手によって犠牲になった。
「集団自決」とは「国家のために命をささげよ」「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義による強制された死のことである。
遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から7ヶ月後、11月8日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。
全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから7年が経過し平和の像の再建が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄終戦50周年にあたり、再び国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、ここに碑を建立する。
チビチリガマ遺族会
再建された平和の像は、ガマの右にある。既に黄昏近く、安物のデジカメで写すには暗かった。はたして、坐像が見えるだろうか。
M.A.P.では、先に読谷にまつわる2本の映画の上映会を開いた。
⇒第一夜【ゆんたんざ沖縄(1987年)】
⇒第二夜【チビチリガマから日本国を問う!(2010年)】
しかし告知宣伝がママならず、残念ながら多くの方にご覧頂くことができなかった。こういう作品を声高に宣伝することに何故か躊躇してしまう役者の性癖。しかし、それはプロデューサーならあってはならぬこと、忸怩たる思いである。
平和の像を制作した金城実氏は、読谷にアトリエを構えている。ごうさんのお友達である。だから、アトリエへごうさんに連れて行って貰おうと思っている。しかし今日はもう遅い。あつかましくもごうさんのお宅に泊めていただくことになった。
太陽が読谷の海に沈んでいく。
沖縄の空には雲が多い。天辺の空に雲がないことはよくあることだが、水平線近くの空は、角度の所為で大気が厚い。だから、読谷の太陽が、雲に隠れずに海に沈むことは殆どないという。
この日も、太陽は海に到達する前に、灰色の雲の中に没していった。
スクで一杯。
塩漬けではないスクは、この時期しか、さらには水揚げされたタイミングでしか食べられない。
ごうさんと奥様に感謝。
2010年07月22日(木)06時45分
辺野古の前に(2)【6・23 国際反戦沖縄集会にて】(沖縄通信no.6)
ややこしいことのふたつめ。
Bar“土”のマスターごうさんの日記を、ごうさんに許可を貰って、ここに「沖縄通信」として転載します。
【沖縄通信 No.6】(from ごうさん)
第27回 6・23 国際反戦沖縄集会で
「大和から来た人たちは沖縄で活動しないで、大和に帰ってください」
「大和で活動してください」
演説の終わりで、Uさんは、このことを強調して演壇から下りた。
司会のHさんが
「ここにはいろんな考え方の人が集まっていますので、Uさんのように考えてる人もいますね」
と、フォローすると、
会場前列から「Uの意見を弱めるような発言をするな」と、声が上がった。
「Tさん、それなら、壇上に上がって、自分の意見を言ってください」
Tさんは壇上に上がり、更に民族主義的な、大和排斥的なことを言ったらしい。
聴衆の中の一人として、知花昌一が声を上げた。
「Tさん、やまとんちゅうにもうちなんちゅうにもいろんな人がいる。
排斥するよりも、力を合わせて運動を展開していくほうが活路が開けるんじゃないだろうか?
実際、辺野古新基地建設阻止運動は大和から来た人たちが半数以上いて、運動を支えている。
うちなーのことはうちなんちゅうでやる、と言ってるあなた自身、現地に行って、行動してるの?」
と知花昌一が問いかけると、Tさんは
「確かに知花さんは現地に行って戦ってるけど、うちなんちゅのみんなが知花昌一になれるわけじゃない」
と言い放って、議論はちょんちょん。
という一幕があって、その夜、金城実アトリエで、そんなこんなを議論した。
チェ・ゲバラはアルゼンチン出身だが、カストロやキューバの人たちから迎え入れられ、キューバ革命の大いなる力になったのではないか?
人頭税廃止運動を展開し、琉球王国によって課せられた重い人頭税に苦しんでいる宮古島の人々を重税から開放した。運動の中心人物は新潟出身の中村十作ではなかったか?
今、沖縄から靖国を問う裁判、靖国訴訟を支え続けてくれてる人々のほとんどは大和から来てる人たちだ。
だから、大和だウチナー(ウチナーで括ってしまったら、ヤイマーもミャーコも排除されるのだが)だのと、こだわりを捨て、世界規模で沖縄の基地のことなどを考える方向性をもっと浸透させなければ。
それをみんなに解ってもらうためにはどうしたらいいのか?
沖縄の住民の人たちのパワーをもともっと引き出すには何が必要なのか?
ということなどなどを、深夜まで、酒を酌み交わしながら、非国民的男どもは延々と語り合ったのだ。
しかし、沖縄県民は今回の選挙で
変節を繰り返してるあい子さまを選び、筋金入りの山城さんを見放したのだ。
いったい自分たちの将来を...
投票率は全国最下位。
あの県民大会などの怒りをどこに持って行けばいいのか解らなくなったのか?
日本にもアメリカにも沖縄にも民主主義は死語なのだろうか...
※6・23 国際反戦沖縄集会の会場にぼくはいなかったので、やりとりの正確さ詳しさが欠けてるだろうと思います。
【11月17日に追伸】
僕はこのごうさんの日記を転載するにあたり、この出来事について、何かを言おうとずっと考えていました。でも、なかなか書けずにいました。
この頃、多くの沖縄の人たちが大和を憎み始めているという印象を強く受けていました。だから、知花昌一さんの発言に救われた思いがして、そのことを書きたかったのですが、Uさんの名誉を傷つけることなく書くにはどうしたらよいかと考えていたのです。
さらにある日のこと、「やまとんちゅ」の運動家に寛容であった知花さんが、「もう独立しかないのではないかと思い始めている」と発言された場に居合わせることになりました。とうとうココまできたかと、その時僕は思いました。権力に対する闘争である限り、共闘は可能でしょう。しかし、独立運動となれば話は別です。支援はできても、知花さんの立つ場所とこちらとの間には、絶望的な溝が横たわっている、そんなことを考えていたら、ますますコメントできなくなっていきました。
(※その日の記事も、まだアップできずにいます。)
その頃から、沖縄のために活動している「やまとんちゅ」に対して、度々疑問を感じるようになりました。しかしなかなか説明しがたい。どういえばいいのでしょう、例えば活動家たちは、自分の考えの正しさを、あまりに天真爛漫に信じ過ぎているのではないか……
結果僕は、Uさんの「民族主義」に激しい嫌悪を感じながら、その一方で、Uさんの気持ちを尊重したいという思いに駆られるようになりました。
しかしUさんは、そういう僕と、「天真爛漫な活動家」とを全く区別しないでしょう。僕はUさんから拒絶されているのです。
だから、もう黙って転載だけしておくしかないと思ったのですが、結局少し語り過ぎてしまいました。
でも、これでようやく、辺野古のことを書く準備ができました。
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