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アイヌについての長い長い覚書

gajumui

「コタン虐殺」についての覚書(1)芝居の主旋律は1669年の「シャクシャインの戦い」で、アイヌ対和人の大きなみっつの戦いのうちのひとつ。あとふたつは「コシャマインの戦い(1457)」と「クナシリ・メナシの戦い(1789)」、でもラジオでは、それよりずっと前の、内地のまつろわぬ民の話も紹介した…
02-12 22:51

「コタン虐殺」についての覚書(2)「アザマロの反乱」(宮城築館780年)「アテルイの戦い」(水沢市789年)桓武天皇に仕えた征夷大将軍、坂上田村麻呂のこと。あ、この人は権力側の人ですよ。(アイヌ民族抵抗史)対する"まつろわぬ人々"、晩年の宮澤賢治とアイヌのこと。 https://t.co/dB6gisT0gS
02-13 20:18

「コタン虐殺」についての覚書(補足)ラジオでは語らなかったが…宮澤賢治の「原体剣舞連」について、例えば吉本隆明は、東北が蝦夷地と言われていた頃の東北との関連を指摘している。dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
02-13 20:54

2009年10月、ふじたあさや作・演出の舞台、僕と宇夫方女史の二人芝居で、剣舞(“けんばい”と読む)を踊ったっけ。賢治がもっと長生きしていたら、国柱会とアイヌの葛藤から、どんな世界を構築しただろうか。【無伴奏デクノボー奏鳴曲 2日目】https://t.co/5XbwKXgekT
02-13 21:01

「コタン虐殺」についての覚書(補足2)新谷行『アイヌ民族抵抗史』より「天皇国家はアザマロ、アテルイの頑強な抗戦に苦しみ、アイヌモシリまでは手が届かなかった。(中略)だが、奥州藤原氏の滅亡(1189年)以降、アイヌモシリにもようやく和人の手がかかりはじめる」
02-13 21:16

「コタン虐殺」についての覚書(補足2-2)北海道に数多く残る義経伝説。新井白石も、義経は衣川館では死なず蝦夷地へ逃れたのだと説く。源義経と為朝に関する史料は少ない。次回のラジオの話題だが、義経は北海道へ、為朝は沖縄へと逃れた、そんな「英雄伝説」から見えるコト、次回のお楽しみ。
02-13 21:37

「コタン虐殺」についての覚書(3)「アイヌ」とは人間という意味。だからアイヌ民族って人間民族。なんか変だよね、みたいなセリフがあった。アイヌモシリで自足していたアイヌが和人という他者と出会いアイデンティティを確立していく…12年前に書いたブログ。https://t.co/aiPwby8chy
02-13 23:26

「コタン虐殺」についての覚書(4)どんな発端でアイヌと和人の戦いが始まったのか。パンフレットにはこう書いてある。「倭人ちょっとズルくね?ってのが原因」確かにどの戦いもそうだった。でもアイヌは強かった。その強いアイヌがなぜ負けたのか、それもやっぱり「倭人のズルさ」だった。
02-14 00:19

「コタン虐殺」についての覚書(5)昭和11年、鶴田知也の「コシャマイン記」が第三回芥川賞を受賞。当時、コシャマインの戦いの資料は殆どなく、鶴田氏の想像力に負う部分の大きい作品で、主人公コシャマインは、実在したコシャマインとは全く違う人物である。(続く https://t.co/kCuThl3Vx9
02-14 15:48

「コタン虐殺」についての覚書(補足3)「コシャマイン記」は次のように始まる。「勇猛で聞こえたセタナの酋長タナケシが、六つの部落を率いて蜂起した時、日本の大将カキザキ・ヨシヒロは佯(偽)りの降伏によってタナケシをその館に招き入れ、大いに酔わしめて之を殺した」…(続く
02-14 16:05

「コタン虐殺」についての覚書(補足3-2)酋長タナケシの蜂起は1529年のこと。鶴田のコシャマインはこのタケナシの後裔として設定されているが、コシャマインの戦いは1454年、つまり史実とは順序が逆なのだが、その鶴田が描いた架空のコシャマインが、今、僕の想像力を掻き立てている…(続く
02-14 16:29

「コタン虐殺」についての覚書(補足3-3)流山児★事務所の「コタン虐殺」では、和人の策略によってシャクシャインと分断させられる酋長オニビシが、いわば和人と手を結ぶヘタレアイヌとして登場するのだが、鶴田のコシャマインは、そのオニビシ側の人間としてシャクシャインと戦うのである…(続く
02-14 16:43

「コタン虐殺」についての覚書(補足3-4)弁証法的にいうのなら、鶴田のコシャマインは、シャクシャインが即自的なアイヌであるのに対し、和人と対話を試みる対自的な存在である。しかし結局、酔わされて和人に撲殺される。「コタン虐殺」の作者、詩森ろばさんに、このあたり聞いてみたいのだが。
02-14 16:57

「コタン虐殺」についての覚書(補足3-5)「コシャマイン記」はプロレタリア文学であった。プロレタリア文学で芥川賞を取った唯一の作品だとか。だが鶴田知也自身、社会主義文学がリアリズムでなければならぬとすれば、この作品は違うと述べている。以後、鶴田は農民文学作家へと転向するのである。
02-14 17:31

「コタン虐殺」についての覚書(6)日本では、応仁の乱が戦国時代の始まり。コシャマインの戦いは応仁の乱の10年前の出来事。函館の鍛冶屋がアイヌを殺害したことをきっかけに起きるのだが、北海道でも、それまで何とか住み分けしていたアイヌと和人の戦いの時代に突入する。松前藩の成立もその頃。
02-14 17:40

「コタン虐殺」についての覚書(7)コシャマインの戦いからタナケシの蜂起(1529)、タリコナの蜂起(1536)を経て、いよいよ1669年にシャクシャインの戦いが起こる。島原の乱にも匹敵する事件なのに、コシャマインの戦い同様、知っている日本人はほとんどいない。沖縄史も然り。歴史なんてそんなもの。
02-14 17:57

「コタン虐殺」についての覚書(8)結局シャクシャインも、和人の偽りの和平会議の席で、謀られて毒殺される。ちょっと寄り道。昔一緒に芝居をしていた女優さんが、家の事情で故郷の北海道に帰った。でも地元で芝居を続け、そこで出演した芝居が評判になり、東京で公演するというので観に行った…
02-14 19:26

「コタン虐殺」についての覚書(9)その芝居もシャクシャインの史実を扱った作品だった。そのラストシーン、和平会議に出向こうとするシャクシャインに、村の者たちは、シャモのことだ、策謀があるに違いないから行ってはならぬと進言する。それに対してシャクシャインは決然と言い放った…(続く
02-14 19:46

「コタン虐殺」についての覚書(10)「お前たちの言う通りかもしれない。しかしそうした疑念を抱いて和平に赴かず生き延びるより、シサムとの対話を信じる道を選ぶことこそ、たとえそれで騙され殺されたとしても、わが子たちに何より大切なアイヌの生き方とその誇りを伝えることができるだろう」
02-15 11:06

「コタン虐殺」についての覚書(補足4)2008年9月に書いたブログ。「アイヌ」のことhttps://t.co/wB6WhkmHAE
02-15 11:26



ずいぶんと間を開けてしまったが…「コタン虐殺」についての覚書(11)流山児事務所の「コタン虐殺」で描かれる「シャクシャインの戦い」の結末も、20数年前に見た芝居と同様であった。つまりそれが歴史の定説なのだろう。しかし「コタン虐殺」にはもう一筋、1974年の白老町長襲撃事件の話が絡む。
02-22 23:30

「コタン虐殺」についての覚書(12)1974年の話の前に。「科学を相対化する力」のこと。コロナの話ではない。ちょっと戻って、鶴田知也の「コシャマイン記」のこと。プロレタリア文学者だった鶴田知也は、「『コシャマイン記』あれこれ」という自作を語った文章の中で、次のように書いている…
02-22 23:49

「コタン虐殺」についての覚書(13)「私の同志の間では、はなはだ不評判だった。それというのも、社会主義文学はリアリズムでなければならぬという、偏狭な教条主義のためだった」「この作品は、偏狭ではないリアリズム」「私のコシャマインはまったく私の空想の生み出した人物である」
02-22 23:58

「コタン虐殺」についての覚書(14)白老町は「アイヌ」を観光の目玉としていた。それに対し、一人の男が「アイヌを観光の道具に使っている」と抗議、「死刑執行する」として、1974年3月9日、町長室に乱入、浅利町長の首を刺した。幸い村長の命に別状はなかったが、これが白老町長襲撃事件である。
02-23 12:55

「コタン虐殺」についての覚書(15)「コタン虐殺」の主旋律「シャクシャインの戦い」に、白老町長襲撃事件のベース音が重なっていく。というより、刑事が町長を刺した犯人を取り調べる部屋の背景に、シャクシャインの歴史が映し出されるというべきか。その前で、犯人は言う。「俺はアイヌだ」
02-23 23:15

「コタン虐殺」についての覚書(16)Wikipediaによると、白老町長襲撃事件の犯人は「特定の党派に属さないノンセクト・ラジカルであった」とある。ノンセクト・ラジカルとは全共闘以降に成立したセクトに属さない活動家やグループ。日本共産党と民青を批判する点は新左翼のセクトと変わりはない。
02-23 23:44

「コタン虐殺」についての覚書(17)Wikipediaの記述は続く。犯人は「やがてアイヌ革命論に感化され、事件を起こすこととなった」と。その「アイヌ革命論」を広めたのが「コタン虐殺」の台詞にも名前が出てくる太田竜。40年も前に読んだ本を探し出し、それをまた今、拾い読みしているのだが。 https://t.co/NQDAJBywPa
02-24 10:50

「コタン虐殺」についての覚書(補足4-1)従来のマルクス主義は、革命の主体は「労働者階級」であると考えた。さらに下の階級は極貧すぎてその日暮らしが精一杯であり、革命に対する意欲が薄く、むしろ反革命の温床となるとして、最下層の階級を「ルンペンプロレタリアート」と名付けて軽視した…
02-24 11:27

「コタン虐殺」についての覚書(補足4-1-a)ひと月後に結婚という時期に、なぜか「資本論」を再読を始めた僕。そんな時に書き留めたノート。僕の裏ブログ。《1987年7月9日のノート》https://t.co/fSXmBCDXt3
02-24 11:32

「コタン虐殺」についての覚書(補足4-1-b)結婚すると、毎日働きに出る「妻」と、舞台のある時だけ出掛ける「夫」は、日々洗濯しながらつらつら考えていたのである。《1989年1月4日のノート》https://t.co/t5vu4rqxzZ
02-24 11:38

「コタン虐殺」についての覚書(補足4-2)しかし、ミハイル・バクーニンなど、一部の無政府主義者はルンペンプロレタリアートを評価した。日本でいえば「世界革命浪人」を名乗る竹中労、平岡正明、そして太田竜。彼らは、新たに「窮民革命論」を唱えて注目を浴びる…
02-24 11:49

「コタン虐殺」についての覚書(補足4-3)Wikipedia"窮民革命論"より「一般の労働者は高度経済成長によって豊かな生活が享受できるようになったことで革命への意欲を失っており、革命の主体にはなりえない。疎外された窮民(ルンペンプロレタリアート)こそが革命の主体となりえる」
02-24 12:00

「コタン虐殺」についての覚書(補足4-4)竹中・平岡・太田らは、日本において、アイヌ、日雇い労働者、在日コリアン、部落民、そして沖縄人(ウチナーンチュ)などが「窮民」であるとした。太田竜の「アイヌ革命論」は、つまりこの窮民革命論の亜種なのである。
02-24 12:18

「コタン虐殺」についての覚書(補足4-4-a)事務所の書棚にある竹中労の「琉球共和国」はチョンダラーの話から始まる。先日「主権者~」のイベントで泉龍寺の東堂さんにお話しいただいたのも、能楽師の中村さんをコマラジのゲストに呼ぶのも無関係ではないのだが、それはまた別の長い話になる。 https://t.co/FTTSAwCnEd
02-24 12:52

「コタン虐殺」についての覚書(18)話を戻そう。僕は「アイヌ革命論」にマルクスや共産革命の文脈からたどり着いたのではなかった。ただただアイヌの現実を知って、貪るように読み漁ったアイヌ関係本の中の一冊であった。そして、太田竜という人物を「アイヌ」だと信じて疑わなかった。
02-24 13:16

「コタン虐殺」についての覚書(19)アイヌ・太田竜の言葉のいちいちに、当時の僕は動揺していたと記憶する。動揺しながらも、どれほどアイヌを理解し寄り添っても、倭人であることをやめることができない俺は、いったいどうすればいいのか、決して大げさではなく、一種の絶望を味わった。
02-24 13:41

「コタン虐殺」についての覚書(20)しかし太田竜はアイヌではなかった。それを知って読み返せば、確かに自らをアイヌだとか大和民族ではないとか、そんな記述は一切ない。しかし、太田自身が糾弾する倭人の罪から、彼は完全に逃れていた。太田竜とは何者なのか。以来、太田竜は嫌悪の対象となった。
02-24 13:57

先週の20日と今日、在日コリアン三世の姜龍一(Yong Il Kang カンヨンイル)君が事務所にやって気来た。昔、一日中、友とこんな話ばかりしていたような気がする。Lisaとか龍一とか、若い彼らが俺を活性化する。まだ俺の人生も捨てたもんじゃない。おかげで「アイヌ」の報告が中断しちまったが。 https://t.co/dMZsfGwZOT
02-24 16:37

「コタン虐殺」についての覚書(補足5)太田竜は「革命の原点・アイヌ」の中で竹中労と平岡正明を「いかなる根拠と思想をもって『ゲバリスタ(世界革命浪人)』と自称するのか」と批判する。平岡に対してはまず吉本隆明を切れと。竹中にはアナーキストはゲバリスタとは相容れないと。
02-24 23:48

「コタン虐殺」についての覚書(21)舞台の話、白老町長襲撃事件の犯人は取り調べる刑事の尋問によって、非アイヌ民族であることが明らかになっていく。実際の犯人も、アイヌではなく和人であったという。だが、いくら調べても、ネットでは犯人についてそれ以上の詳しい情報が出てこない。
02-25 00:15

「コタン虐殺」についての覚書(22)僕の知る限り、白老町長襲撃事件について最も詳しい本は、橋根直彦の「我れアイヌ、自然に起つ」である。その中で、この事件を報じた1974年の北海道新聞が紹介され、その3月11日付の記事に犯人の名前があった。実際の記事には、顔写真も掲載されていたらしい… https://t.co/wyK9LyW2yj
02-25 01:36

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-1)新聞に掲載された実名で再度検索してみた。しかしそれらしい記事は何も出てこない。いったい何故なのか。あれこれ探っていると、この犯人と太田竜の間にもうひとり、白老町長襲撃事件の首謀者がいた。その男を題材にすれば、芝居が一本書けるような人物が。
02-25 02:22

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-2)その謎めいた人物のことを語る前に、「我れアイヌ~」を書いた橋根直彦について。太田竜や実行犯は和人だが、橋根はアイヌである。その橋根が実行犯に「ありがとう」と言い、もし右翼左翼に関係なく自主行動なら、私はあなたと共に闘うと誓うのである。
02-25 02:36

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-3)橋根直彦のことは、先に紹介した「アイヌ民族抵抗史」に詳しい。彼は、東京山谷で、在日の友達ヤマちゃんとちょっとした喧嘩になり傷害を負わせる。「ヤマちゃんが言った『このアイヌ』という言葉は、私の人生をも狂わせて来た言葉だったのです」(続く…
02-25 11:34

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-4)その場で二人を取り調べた巡査は、苦しむヤマちゃんを病院へと懇願する橋根に対し、「余計なことは言うな、これはお前がやったのだぞ」と取り合わず、結局ヤマちゃんは出血多量で死に、橋根は殺人罪で刑を受ける。橋根は、闘うアイヌへと変貌していった。
02-25 11:51

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-5)公判での裁判長に向けての橋根の発言から。「アイヌとは何なのかということをよく勉強した上で、私を裁いてくれるものと思っていましたが(中略)、あなたは、はじめからたかが山谷の労務者、北海道のアイヌという気持ちがあったのではないですか」
02-25 12:23

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-6)「アイヌ民族抵抗史」を書いた新谷行は、太田竜とも親交があった。その新谷が、橋根について次のように述べている。「橋根の思想の中に太田竜の影響を見る者がいる。しかしそんなものをはるかに越えて彼の主張はアイヌのぎりぎりの魂の叫びとなっている」
02-25 12:39

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-7)さて、白老町長襲撃事件の実行犯と、事件に思想的な影響を与えた太田竜の間にいる謎の人物の話に戻そう。だが、どこまでTwitterで呟いていいものか、迷いながら…太田竜のアイヌ革命論に影響を受けて白老町長襲撃を【計画した】男…
02-25 12:52

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-8)【仲間が】実行に移したことで逮捕され(つまり実行犯とは別)懲役に服した男。その後、太田竜を厳しく批判して新右翼に接近し、南京虐殺事件の「真相」究明に取り組み、1987年から90年の「赤報隊事件」を起こした赤報隊のメンバーではないかと疑われた男。
02-25 13:05

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-8-a)「赤報隊事件」一覧朝日新聞東京本社銃撃朝日新聞阪神支局襲撃朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃朝日新聞静岡支局爆破未遂中曽根康弘・竹下登元元首相脅迫江副浩正リクルート会長宅銃撃愛知韓国人会館放火未解決のまま、2003年に時効を迎える。
02-25 13:20

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-9)実行犯のその後はよくわからない。太田竜も「アイヌモシリから出撃せよ!」に実名で書いているが、橋根の著作より詳しい情報はない。赤報隊と関係があるのか、戯曲「コタン虐殺」では、そのように設定されている。実際の実行犯についてはここまでにしよう。
02-25 14:16

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-10)そもそも事件の原因を作った太田竜はどうなったのか。まずはエコロジストになり、右翼に近づき、反ユダヤ主義、反国際金融支配を説く陰謀論者、さらには「西郷隆盛とイルミナティの秘密戦争」、ついには「人類は爬虫類人によって支配されている」と。
02-25 15:10

「コタン虐殺」についての覚書(23)ともかく、白老町長襲撃事件にかかわる左翼たちが右翼に「転向」することにリアリティを感じるか、というのが、今夜のラジオのテーマ。というつもりだったが、さてどうなるか。ずっと考え続けているのだ。姜君との三島由紀夫談義も、昨夜の沖縄の話も同じ文脈。
02-25 15:30

「コタン虐殺」についての覚書(補足7)浅沼稲次郎を刺殺した少年をモデルにした主人公が、最後に「天皇陛下万歳」と叫んで獄中自殺するという禁断の書。30数年前に北大そばの古本屋で大枚出して買ったガリ版刷り海賊版。後に赤軍シンパだった方に聞いたのだが、「これでずいぶん儲かった」と。 https://t.co/ejlNfzVt82
02-25 15:50

「コタン虐殺」についての覚書(補足6-11)太田竜についての追加。1983年「日本みどりの党」結成に参加。参院選に立候補し落選。陰謀論者になり「旧字体を使わないのは日本語を破壊しようとするユダヤの陰謀」との理由で太田竜から龍に改名し、靖国神社に参拝して玉串料を納めていた。
02-25 16:21

「コタン虐殺」についての覚書(補足8)少し横道へ。太田竜は三菱重工爆破事件などを起こした「東アジア反日武装戦線」にも思想的影響を与えたとされる。「天皇爆殺」はともかく、Hさんから聞いた「賃下げ闘争」は初耳だった。Hさんはそこで降りたが、進めば赤軍があった。https://t.co/vAiRoHVlHc
02-25 17:24

「コタン虐殺」についての覚書(補足8-2)鈴木邦男氏は赤報隊事件に関わっているのではとされる「9人のリスト」のひとり。その鈴木氏が赤報隊とは思想的に対極をなす「東アジア反日武装戦線」を評価し、太田竜とも交流があった。また鈴木氏にあれこれ聞いてみたくなった。https://t.co/TrJbBpVmat
02-25 17:53

「コタン虐殺」についての覚書(補足8-3)この写真は、2017年8月、ウチの映画祭で「赤軍PFLP・世界戦争宣言」を上映した後のトーク。1971年、若松孝二とともにパレスチナへ渡り、1974年、日本赤軍に合流、1997年にはレバノンで逮捕され、3年間の獄中生活をした足立正生氏と鈴木邦男氏。極左と極右。 https://t.co/Tz6mpsMN2W
02-25 18:00

「コタン虐殺」についての覚書(補足8-4)白老町長襲撃事件のキーパーソン、例の謎の男も、鈴木邦男氏と共に赤報隊事件の「9人のリスト」のひとりだった。その男を追った樋田毅『記者襲撃-赤報隊事件30年目の真実』を、中島岳志氏がツイートで紹介している。 https://t.co/4LXZfM1DuP
02-25 18:16

「コタン虐殺」についての覚書(補足8-5)はたして「思想的連続性」などというものがあるのだろうか。あるとすれば「空っぽな入れ物」という共通性。今日のラジオで、そのあたり、どこまで話せるだろうか。ツイートしておきたいことはまだたくさんあったのだが、もう時間が無くなった。#コマラジ https://t.co/pSji34eVnw
02-25 18:36

tag: アイヌ  ふじたあさや 

ふたりの企みに

自転車で上町へ。
とんでもなくたくさん抱えているのに、またひとつ、この二人の企みに乗っちまった。

企み

高橋美香と上田要。そしてまた喜多見にとんぼ返り。

《追伸》
そして原発対話の会の事務局の忘年会。

お開きの時間は午前2時過ぎ。
お二人様が事務所にお泊り。

もう寝ましょ

※次の日に呟いた呟きたち…

Hさんの話。東アジア反日武装戦線。天皇爆殺と賃下げ運動。行きつくところまで行った。そしてその論理的帰結に同意し満足した。しかし、それが同時にHさんの全共闘体験の終焉でもあった。到達点が、現実的には実現する可能性のないモノだったから。

僕は逆に、太田竜の「アイヌ論」周辺に対する嫌悪感から始まり、そこから遡行するようなかたちで全共闘に関する思索が始まったように記憶している。決定的な違いは、Hさんがまさに現在進行形の中にいた人で、対して僕が「遅れてきた青年」だったということ。

だからHさんは、例えば読み始めた「資本論」を途中で投げ出しても構わず、平気であった。しかし現実の場がない僕は、難行苦行、最後まで読了した。糸口は、書物にしかなかったのである。

僕にとって「資本論」がどのように今役立っているのか、心許ない。しかし精読し、ノートを取る、その膨大な時間の間に、獏と考え続けていたこそが重要だったという気がしてならない。例えば「賃下げ」という論理的帰結に対する僕の得心は、あの時間なしにはあり得なかったはずなのだ。

そこから、例えば現代の格差や貧困の問題、さらには障がい者の問題を考える時、巷で当然の如く喧伝される知識人たちの言説とは少しく違う地平で思索したがっている自分を発見するのである。


今、思うことがある。アイヌの具体的な問題を抱えていた僕は、太田竜に対する嫌悪感によって、東アジア反日武装戦線のような考え方にはまることもなかったのだが、もしあの頃の問題意識が「アイヌ」ではなく「パレスチナ」にあったら、違う思索の道程があったのだろうかと、今さら考えても仕方のないことを考えているのである。

tag: 高橋美香  上田要  アイヌ 

kyat&milk kyat 2マンライブにゲスト出演

喜多見と狛江の小さな映画祭+αに出演して頂いたmilk kyatさんのライブに、ゲストとしてお邪魔することになりました。

木村恵さん 村瀬洋子さん yayoさん anriさん
kyat presents 共生 ~大地と生きる人々~

日時:8月24日(日) open:18:00 start:18:30
場所:中目黒トライ
(目黒区上目黒3-6-5 中目ビル5階 03-3710-7666)
料金:予約:¥2,500 当日:¥3,000 (drink別)

kyatとmilk kyatの2マンライブ
“命が生まれる聖地~グチャン女性は語る”(会田民穂監督)上映
 ※この映画は喜多見と狛江の映画祭でも上映しました。
  ⇒その告知記事

カリブー(トナカイ)を糧とし、何千年も生きて来たアラスカ先住民グチャン族の物語を通して、日本の環境問題や社会問題を考えようという企画。
 ⇒kyat official blog
 ⇒FBのイベント
さて、いったい小生に何ができるのか?
でも、楽しみであります。

【前日8月23日に追記】
僕が知っているアイヌの話をしようと8月半ばに決めました。するとその直後、札幌市議の「もうアイヌはいない」発言で、なんだかSNSの「アイヌ周辺」が騒がしくなってきました。タイムリーな話をする気はなかったのです。でも思わず「アイヌ問題」は時事ネタに。さて困ったなと思いつつ、話す内容がまとまらないまま前日になってしまいました。
図らずも、明日8月24日は第45回のチプサンケのお祭り(舟に魂を入れる儀式)が二風谷の沙流川で行われることを知りました。
「そうか、ハナからタイムリーになる運命だったのかもしれない」
こうなればもう後には引けません。運動家でもなく、人類学者でもなく、ましてやアイヌでもないのだけれど、それでも30数年考え続けてきたのだから、きっと「アイヌ」について語っていい何かがあるはず。いつものことですが、ギリギリまで考えようと思っています。

チラシ1

チラシ2

tag: アイヌ 

「アイヌ」についてのツイート

gajumui

@Akky_Star 少し酔っていて、だから思い切ってお伝えいたします。佐々木さんの呟きに大変感謝しています。30数年、気にしながら何もできなかった沙流川について、これからも発信し続けてください。この夏、数十年ぶりで二風谷に行くことを考えています。
07-02 01:19

RT @Akky_Star 沙流川の現場を見れば、問題は、誰にでもすぐにわかると思います。そして、これからなすべきことも。ただ、多くの人は、それを意識して見る機会がほとんどないのです。7~9月は、ダムの水位が低かったりで、いろいろな状況を見られると思います。
07-02 08:17

tag: アイヌ 

《物語りたいことを物語る》【古屋和子“ストーリーテリングの力”】

事務所で仕事をしていると、あさやさんから電話が入った。
「今日の2時から4時まで、体、空かないか」
新百合ヶ丘の昭和音大で古屋和子さんとあさやさんのトークショーがあるらしい。なんでも古屋さんが琵琶を持ってきているとのこと。
北校舎の5階。
へえ、こんなホールがあったんだ。ラ・サーラ・スカラというコンサートホール。
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連続講座の第4回。
「心より心に伝うる~ストーリーテリングの力」
今回の語る人(ゲスト)は古屋和子さん。武順子さんの師匠で、チラシにはこんなふうに紹介されていた。
1947年京都市生まれ。ストーリーテラー。早稲田小劇場を経て、観世栄夫氏に師事。水上勉氏の「越前竹人形の会」「横浜ボートシアター」等で活躍した。その後は近松作品、説経節、泉鏡花作品などのひとり語りを行い、ここ20年ほどは、北米先住民など世界のストーリーテラーたち交流をふかめ、優れた語りや民俗音楽、絵本などの紹介につとめる。
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聞く人はふじたあさや氏。トークショーの前に古屋さんの語りを聞く。

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まずは近松門左衛門の「曽根崎心中」道行の場面。その後も「平家」などいくつか。予定の時間を大幅に超えて殆ど古屋和子独演会の様相、トークに残された時間は30分くらいになってしまった。

さて、ストーリーテラーとは何なのか。物語る人ということだが、いったいどう説明したらよいのだろう。朗読と物語ることとは何が違うのか。どうやら古屋さんは、ストーリーテラーとは、語るべきものを抱えて物語る表現者だといいたげである。

しかし、ならば「語るべきもの」とは何なのか。

古屋さんは言う。日本人は出自を聞かれても、たいがい親の出身地ぐらいしか答えられない。しかし例えばアメリカインディアンなどは、そういう時、自分のルーツを何代も遡って語り始めるのだと。
つまり「語るべきもの」とは、祖先の長い歴史の中で培われてきた自らも属する文化の記憶の総体と、それに対する祈りとでもいうべきものなのだろうか。

かつて古屋さんは、師である観世栄夫氏から、「上手くなったが悪くなった」と言われたという。その意味が古屋さんにはずっと理解できなかった。ざくっとハナシを端折ってしまうが、その壁を、古谷さんは「意味」でもなく「情緒」でもなく、「息」で克服しようとしてきた。

自分の話になるが、僕は学生の頃、歌舞伎研究で著名な今尾哲也氏から、「がっぽう」という芝居を通じて、台詞を息によってコントロールすることの重要性を教わった。呼吸は生理である。だから役者は無意識のうちに楽をして気がつかない。「止める」「吸う」「吐く」、呼吸を意識して操ることは極めて面倒な作業だが、それをしなければ碌な台詞など喋れない。
以来、古典を演ずる者にとって、息とは、古の言霊を復活させるために必要な、黄泉の国から吹いてくる風のようなものだという感覚が、ずっと僕にはあった。

「日本人は語るべきものを持っていない。沖縄とアイヌにはそれがあるけれど……」
ふじたあさや氏は、そう古屋さんに問いかけた。さすがふじたあさや氏、核心を突いた問いだと思った。さて、古屋さんは何と答えるか。
「そんなことないですよ。例えばおじいさんなら子供の頃の話をすればいいんです。みんなそれぞれ伝えたいことがあるでしょう、それを語ればいいんです。この本を読んで聞かせたい、それだけでもストーリーテラーなんですよ」
あさやさん、してやられたな。もう予定の時間。これ以上突っ込んだら終わらなくなる。
「なるほど、そういうことね。誰もがストーリーテラーになれる。大いに日本人も語れということだね」
「そうですよ」
僕としてはだいぶ残念な結末であったが致し方ない。
「しかし、昔はあなたのことを、ちょっと朗読の上手い役者がいるくらいに見ていたが、でもその頃のあなたの朗読は、どうだ!っていうような朗読だったねえ。それがずいぶん変わった」
「少しはよくなりましたか」
「うん、よくなった。変わるもんですねえ」
「そうですか、よかった、少しは私も成長したんですね」
「今日はたくさんの刺激的な話、ありがとうございました」

つまり、ただ語りたいという理由だけで「平家物語」が語れるわけはないということなのだ。自分が本当に語りたいものとして「平家物語」を語ることの困難さを、僕は思っていたのである。

世の朗読好きの方々、古屋和子さんのポジティブな結論に騙されてはいけません、ということかな。

それにしても、僕の琵琶の件はどうなっているのだろう。

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tag: 「枡形城落日の舞い」  アイヌ  朗読  ふじたあさや 

「銀の滴降る降るまわりに 首里1945」

「銀の滴降る降るまわりに 首里1945」を観てきました。
銀の滴降る降るまわりにチラシ表 銀の滴降る降るまわりにチラシ裏

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やっぱり、詳細は後で……

tag: 沖縄  アイヌ  その他の登場人物 

アイヌのこと、少し……

智内さんから電話があった。松元さんがNPOを立ち上げて、そのパーティーが今日の夜、青山であるから行かないかというお誘いである。智内さんはいつもいつも今日の今日電話してくるからなあ。今晩は三線教室、残念ながらパーティーには行けそうにない。

三線教室のことは宇夫方女史が専用ブログに書くだろうから、こちらは別のこと。

最近、比較的大きな劇場に芝居を見に行くと、大量のチラシを渡されて辟易する。開演前の時間つぶしにはいいのだが、その後の始末に困る。それでも、沖縄関係の演目があれば、それだけは商売柄スクラップ用に持ち帰るので抜き取るが、後は座席の下に重ねておく。

先日の紀伊国屋ホールでは、文化座のチラシを一枚だけ持って帰った。それと同じチラシを、今日の三線教室、持田明美が持ってきた。その芝居で三線の指導をしたのだという。文化座は沖縄にずっとこだわってきた劇団でもある。宇夫方女史の琉球舞踊の先生で、高山正樹のカミサンの親友である関りえ子が、文化座の「ハブの子タラー」で踊りの指導をしたのはもう20年も前のことだったと記憶するが、2004年の再演の時には、持田女史のユニットのシーサーズが、三線に加えて踊りの指導もしたらしい。なんだかなあ。

「銀の滴降る降るまわりに 首里1945」
銀の滴降る降るまわりにチラシ表 チラシ裏
それもこれも、きっと新城亘しぇんしぇいと文化座の繋がりがあってのことなんだけど。
佐々木愛さんと亘さんはお友達。

詳細は下記サイトからご覧いただくとして……
 ⇒http://www.bunkaza.com/theater/ginnosizuku…

実は、ボクの沖縄はここから始まった。
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そして今、ウチナーグチの勉強をしているのも、きっとここが始まりなのだと思う。
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“社長とは呼ばないで”に、「アイヌのこと」というカテゴリがあって、遅々として進まず停滞中だが、しかしそれがもう少し進めば、いずれこちらの表のブログでも、アイヌのことを正面から扱う時がくるのかもしれない。だから、「アイヌ」というカテゴリを作ってしまうことにした。今はまだ、アイヌの周辺をウロウロしているだけの記事ばかりだが。
果たして、あらためて読んでくださる方などいるのだろうか。
アイヌのことを語り始めれば、沖縄のように大変なことになることが分かっている。
だから、文化座の芝居、見に行こうかどうしようか、迷っている。

やっぱり、これから青山は無理だな。智内さんに連絡したが、留守番電話だった。しょうがないから三線教室の皆さん、一時間一本勝負で飲みに行きましょうか。

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tag: 文化座  佐々木愛  三線  アイヌ  智内好文  持田明美  MAP三線教室  関りえ子  うちなーぐち 

密かに世界のことを考えている【杉原千畝・鈴木宗男 vs.エリート官僚】

上野の東京文化会館を後にして、代田橋の稽古へ向かう。
小道具が来ていた。
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杉原千畝が外務省と交信する通信機。本当にこういうものを使っていたのかどうかは定かではないが、それらしきものが見つかるのだから、やっぱり高津小道具はたいしたもんだ。
(※9月14日追記:実はこれ、昔のレジの一部分なんだとか。いくら高津だって第二次世界大戦中に日本が使っていた通信機などありっこない。
それを本番ではこんな風にひっくり返して使うのです……
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……いつでもどこでも持ち運べるようにカバンに入っているものなので、お客さんからはカバンからちょっとはみ出している部分しか見えないのです。)


小生の父親は第二次世界大戦で通信兵であった。できれば本物の通信機がどんなものであったのか、聞いてみたいと思うのだが、要介護5の老人から要領を得ない話をじっくりと聞いている時間がない。いけないことだと思いながら、今の多忙に追い回されている。
晩年の千畝を演ずる時、いつも弱ってしまった父親の姿を思い出している。こちらの言葉はちゃんと理解している。しかし、それに対してこちらが分かる反応は返ってこない。だが、稽古場で千畝をその父のように演じるてみると、「ト書きに合った反応を」とダメが出る。

先日、母親が「こんなものが出てきたよ」と持ってきた古い手紙。
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「謹啓猛暑凌ぎ堪く覚え候折柄高堂皆々様には苛烈なる現時局下愈々御勇健の趣と存じ大慶至極に御座候
陳者●●殿には入隊以来頗る志気旺盛にて目下将校としての修養に専心努力致居り候間何卒御安心被下度候 小生儀
今般幹部候補生隊長の大命を拝し微力乍●●殿の訓育に全力を尽し居り候間御連絡御援助の程願上候
就いては●●殿将校軍装品の調達の件に御座候共甚だ不躾乍其の費用約七百円十月中に當隊ニ到着する如く御配慮相成度候
時局愈々重大の秋我等も又来るべき大陸決戦場に備へ磐石の決意を固め居候間何卒皆々様にも更に御自愛の上邦家の為御奮闘の程祈上候
右簡単乍御挨拶御連絡迄斯の如に御座候」


●●の部分には父の名が入っているのだが、明らかに他の部分より太く墨が濃い。おそらくガリ版で印刷した原本に、後から名前だけ書き込んだのであろう。最後に「幹部候補生隊榎本登」とある。日付は昭和20年7月20日、終戦間際である。
お宅の息子は間もなく将校になるので、そのための軍装品の費用700円(今の30万円から40位万円くらいといったところだろうか)を送れという手紙である。封筒の裏、差出人は「北支派遣北支第一八六九部隊力隊」。
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そして軍装品の一覧表も同封されている。
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祖父母はとっくに他界しているから、この手紙の「御援助の願い」をどう受け止めたのか、今となっては確かめようもないが、当時そんな大金があったとは思われないから、たとえ払いたくても払えなかったに違いない。しかしおそらく同じ内容の手紙が相当数送られたに違いないから、息子のためならと大枚七百円を送ってしまった親がいてもおかしくはない。だが、そんな話しは聞いたこともない。これは北支第一八六九部隊だけの特殊な出来事だったのか、それなら裏にどんな事情があったのか、興味は尽きないのだが、いったいどうやって調べればいいのか、何の手掛りもない。
ご存知の方がいらっしゃったら、是非ご教授いただきたい。

休憩時間、ロビーのテレビで速報。鈴木宗男氏の上告を最高裁が棄却し、実刑が確定したというニュース。
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「検察権力」
「青年将校化した検察官」
そうした鈴木宗男の言い分が100%正しいというつもりはないが、検察も巨大な官僚機構の一部、それを前提にして出来事を見直せば、マスコミが流す情報とは全く違うものも見えてくる。

かつて外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤優氏はこう語った。
「このタイミングでの上告棄却は非常に政治的。10日の郵便不正事件の公判では厚生労働省の元局長に無罪判決が出る公算が大きく、検察捜査への批判が高まる。また民主党代表選で鈴木氏を衆院外務委員長に抜擢した小沢一郎氏が勝って鈴木氏を要職に起用すれば手がつけられなくなる。その前に先手を打った。機密費問題などで外務省を追及する人物がいなくなって、一番喜ぶのは外務官僚。日本国家を支配するのは資格試験に合格したエリート官僚か、国民に信託された国会議員か、その権力闘争である」

関連記事ふたつ。
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.…(喜納昌吉のライブで)
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.…(~としては間違っている)

杉原千畝が外務省をクビになった理由はキャリアではなかったから。どうやらそれに間違いはないらしい。

専門学校の子どもたちは、そんなニュースに興味などない。
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さて、チラシが出来たようで。
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お時間がおありでしたならば、去年と同じ、照明を学ぶ若者たちの実習公演ですが、16日(木)は19時開演、17日(金)は18時の開演、東高円寺のセシオン杉並までお越しくださいますように。
 ⇒告知記事
このブログで書いてきたことを、ちょっと頭の隅においてご覧いただければ、少しは楽しんでいただけるかもしれない。

宇夫方路とふじたあさや氏の共演などもあり……
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(今年も子供たちとも共演…)
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[subcate.ふじたあさや]

最後に間もなく収監されるであろう鈴木宗男氏の会見から。
「アイヌ民族の権利の確立とか、政治は弱い人のためにあるということを、若い有為な人に訴えていきたい……」
 ⇒社長とは呼ばないでの“「アイヌ」のこと”というカテゴリ

稽古場で、密かに世界のことを考えていた。でも、あまりにも複雑な世の中で、考えれば考えるほど、何がなんだか分からなくなっていくのだった。

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tag: アイヌ  沖縄居酒屋.たきどぅん  六千人の命のビザ  ふじたあさや  佐藤優 

二風谷の記憶、アイヌの俎板《1986年の萱野茂氏の思い出》

昨夜の10時からでした。どなたかご覧になった方はいらっしゃいますでしょうか、こんなTV番組がありました。

ETV特集「あるダムの履歴書〜北海道・沙流川流域の記録~」

番組の内容を詳しくお知りになりたい方は下記サイトへ 。
2010年2月7日(日)第305回「あるダムの履歴書」の番組解説をご覧ください。
 ⇒http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum…
※直接リンクのURLを見つけました。(2013年7月5日)
 ⇒http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2010/0207.html

ただ僕は、とめどなく涙があふれて仕方がなかったのです。
アイヌのこと、二風谷のこと、萱野茂氏のこと…
それらは「社長とは呼ばないで」に、少しづつ綴っています。
例えば…
 ⇒萱野茂「アイヌの碑」
 ⇒着いた日のこと

「社長とは呼ばないで」は、遅々として進まないブログではありますが、これからも必ず続けて書いていきます。この“MAPafter5”をやめる事はあっても、「社長とは〜」はやめません。めでたく社長の任を解かれたら、「もう社長ではありません」という題名に変えてでも続けます。その中のカテゴリー、「アイヌのこと」を是非お読み頂きたいと思うのです。
 ⇒「アイヌ」のこと
 (※ブログを移行し、新ブログでは「アイヌ」というタグです。)

その「アイヌのこと」に書くつもりのなかったいくつかのこと。
1986年から2年間、僕は沙流川のアイヌの伝説を基にした芝居の主演を務めていました。その最期の公演を終えて、僕は観客に向かってこう語りかけました。
「今、沙流川に大きなダムが作られようとしています。そして、アイヌの聖地が失われようとしている。本当にダムを作ることが必要なのでしょうか……」

あれから二十数年、あの美しかった沙流川は死にました。ダムも、建設当初から一部の学者が指摘していたように、完成からわずか5年で土砂に埋もれ、その機能を失いつつあります。

その芝居で共演していた女性が、沖縄出身の、今の僕の妻です。
萱野茂さんは、アイヌ式の結婚式を開いてあげようとおっしゃってくださったのですが、シャモ(大和の人間)である我々には荷が重く、お断りしました。

その時に、二風谷の工房の方に記念に彫っていただいたアイヌの俎板を、久しぶりに引っ張り出してきました。
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使わなければいけないよと言われていたのに、もったいなくて結局一度も使っていない。間違っていた、と、僕は今、思っています。

俎板の側面には、「二風谷」と掘られています。
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借りたNIKONで撮ってみたのですが、うまくいきません。
そうだ、事務所に持っていって、五味さんに撮ってもらおう…

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「五味さん、ここに彫ってある文字を撮りたいのだけれど…」

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なるほどねえ…

そういえば昨日は北方領土の日でした。
二風谷の民宿で一緒になった外国の青年が言っていた言葉を思い出しました。
「北方領土を返せ、しかし日本にではなく、アイヌの人々に」

それが僕の「沖縄」の始まりでもあったのです。

この日の五味さんのブログ

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tag: 五味正伸  沖縄  アイヌ 

20年前の新聞の切り抜き《朝日新聞、損傷サンゴ捏造事件》

20年前からの、たまりにたまった新聞の切り抜き。
でっかい段ボールふたつに一杯。
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沖縄8割、アイヌ1割、その他1割くらい。
ボチボチ、整理しようかなと。

ペラペラとめくっていると、時を忘れる。

若き大城立裕氏を見つけたり。
喜那昌吉氏と萱野茂氏が対談していたり。(まさかこのふたりが国会議員になろうとは、当時は考えられませんでした。)

萱野茂氏の記事ふたつ……
http://lince.jp/mugon/kaeruhi…
http://lince.jp/mugon/ainunoisibumi…

それから、皆さん覚えていらっしゃいますでしょうか。
朝日新聞の損傷サンゴ捏造事件。
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上が1989年4月20日の「K・Yって誰だ」というコラム。
この記事が記者の捏造であることが発覚し、いろいろあって、下がサンゴの回復状況を報告した10月27日の記事です。

それから20年、このサンゴ、今どうなっているんだろう。

その他の記事も、いずれ機会があればご紹介します。
(高山正樹)

tag: 沖縄  アイヌ