貰ったお年玉のこと

京都からの御土産は北野天満宮の交通安全のステッカー。
北野天満宮の交通安全ステッカー
最近、健康ゲームで殆ど車には乗っていないのだが。

それから……
芸術新潮「沖縄の美しいもの」
どうしてまた……
かあちゃんの差し金かな。
パラパラとめくってみる。
null
「骨董店で見た古いジーファーが気に入って、写しを作ったり……」てなことが書いてある。沖縄に骨董店なんてあったかな。だいたい新品を置いている店も、まるで骨董屋のようだしなあ。

今度沖縄へ行った時には、探していってみようと思った。

しかし、俺の娘は、親父が何にこだわっているのか、どこまで知っているのだろう。

tag: 京都  健康ゲーム  ジーファー 

「クガニゼーク」と「カンゼーク」の謎

このミステリーの終着駅はどこにあるんだろう、一日ずっと考えていました。
「クガニゼーク」と「カンゼーク」の謎。どうもただ言葉だけの問題ではない、ずっと思っていたことです。

だから、この件に関連する記事の一覧を表示したページを作ったりもしたのです。そしてそのページを久しぶりに更新しました。
 ⇒【「クガニゼーク」と「カンゼーク」に関する主な記事一覧】
きっかけは大山街道ふるさと館のそばにあった川崎市の案内板なのですが。

少し、これまでのことを整理したいと思います。

現在沖縄で残っている「金細工」の職人さんは、もう又吉健次郎さん一人だと、僕は頭からそう思っていました。
以下がそれに関する記事です。
 ⇒首里のジーファーと那覇のジーファー

ところが、ある時、まだ見ぬ「金細工」職人がいるらしいという噂が耳に入りました。僕は、期待を抱いてその影を追いかけたのですが、結局それは、又吉健次郎さんの影でした。そのことを書いた一連の記事がこれです。
 ⇒2009年12月22日の記事その1(仲嶺舞踊小道具店のジーファー)
 ⇒2009年12月22日の記事その2(まだ見ぬ金細工師の顛末)
 ⇒2009年12月22日の記事その3(顛末を健次郎さんに話す)

しかし、これらの記事を今回あらためて読み直してみて、確かに昔ながらの方法でジーファーを作っているのは、もう健次郎さんしか残っていないのかもしれないけれど、簡易的な叩き出しの方法で作っている方ならどこかにいるかもしれない。その結論はまだ出ていないということに思い当たったのです。

今年の8月、宇夫方路は沖縄のある小道具屋さんに立ち寄りました。
 ⇒8月11日の記事を読む
そのお店で聞いたある情報。それは、これまでの流れから考えれば、すぐにも御報告したいことでした。しかし、言っていいものかどうか、迷ったのです。
もう少し調べてからと考えました。しかし、忙しさにママなりませんでした。

そこで、年の瀬になって、意を決してお話ししてしまおうと決めました。

健次郎さんとは別に、ジーファーを作っている職人さんがいるということ。
そして、その方が誰にも言わないでくれとおっしゃっているということ。

もしかすると、「クガニゼーク」とは違う「カンゼーク」のことを知りそして語ることのできる方かもしれない。もう引き返すことはできません。またもや竜頭蛇尾の結果に終わるのかもしれませんが、「クガニゼーク」と「カンゼーク」の謎を解く糸口がありそうならば、あきらめず追いかけてみたいのです。

ただ、願わくば、どなたにも御迷惑がかかりませんように。

続きを読む

tag: 「クガニゼーク」のこと  ジーファー  又吉健次郎  井上真喜 

銀細工の伝統

国際通りもクリスマス。
null

アルバトロス・シルバー館。ふと、気になって中に入った。
null
六代目又吉誠睦は、戦後宝飾店で働き、米兵向けのアクセサリーを作っていた。
http://lince.jp/hito/okinawamap/arumisede…
http://lince.jp/hito/koubousaihou…
もしかすると、この店で聞けば、その頃の「クガニゼーク」ならぬ「カンゼーク」のことが分かるかもしれない……

店の男の子は、興味を持って僕の話しをじっくりと聞いてくれた。
最近、ちょくちょくお客さんから又吉健次郎さんのことを聞かれるのだという。
「でも、勉強不足で。」
彼は、男性用の銀のカミサシをずっと探していたらしい。
「それなら一本だけ、売っている店、知ってるよ。もうこれから出ないかもしれない。絶対お買い得だよ」
仲嶺舞踊小道具店のことである。
「もうあきらめて、髪切っちゃいました」
「ウチナーカンプーにしたくて髪を伸ばしてたんだ」
「そうなんです」

たくさんの銀製品が展示されている。すごい品揃え。
「これ、叩いて作ってるの」
「いえ、鋳型です。叩いて作っていたら、値段も高くなるし、お客さんのニーズに答えられませんから。」

彼は、30年仕事をしている職人さんにわざわざ電話をかけて、「カンゼーク」について聞いてくれた。
「簪(かんざし)を作るからカンゼークというのだと思うよとのことでした」
又吉健次郎さんが「カンゼーク」であることに、何の疑問もないようであった。やはり、切れた伝統の中で、ウチナーグチも右往左往しているのだ、と、僕はそう思った。

「ありがとうね」
「いえ、今日は勉強になりました。」

続きを読む

tag: 沖縄_あんなとここんなとこ.国際通り  沖縄_首里  「クガニゼーク」のこと  沖縄(2009年冬)  ジーファー  沖縄_うちなーぐち.  房指輪 

宇夫方隆士「幻影」出版記念朗読会《又吉健次郎さんがメンテナンスしたジーファー》

パラダイス通り……大東そばで腹ごしらえして……
null

“Bar土”へ
null
今回の旅の最大の目的。
“宇夫方隆士「幻影」出版記念朗読会”
  ⇒告知記事

まだ準備中だったので、ちょいと2階のギャラリーへ……
“石川真生展”のためのスナップ写真がたくさん貼ってあった。

やっぱり強烈だ……

石川真生の名前を知ったのは、確か大江健三郎の何かの著作だったはず……
M.A.P.after5でも、ほんのちょっとだけ真生さんのことに触れたっけ……
  ⇒http://lince.jp/hito/…
「あしたの夜6時から、展覧会の会議やるけど来る?」
「そんな自由なの」
「そうだよ」
参加したいけど、今回はスケジュールが一杯。

開演前、流れる映像は“一瞬のコーヒー”……
  ⇒“一瞬のコーヒー”のページ

やがて朗読会が始まる。
こんな感じで語り……
null
こんな感じで聞いている。

真喜ちゃんが撮影している……
null
終演後……
null
左から、宇夫方隆士氏、沖縄タイムス文芸部長で論説委員の真久田巧さん、そして又吉健次郎さん
浦添美術館での宇夫方隆士詩画集展の仕掛け人が健次郎さん。それがきっかけで宇夫方隆士さんは沖縄タイムスの新聞小説の挿絵を書くことになった。その時の担当が真久田さん。その真久田さんが、私達を大城立裕氏に繋いでくださった。たった一年半前のことなのです……

その他に来てくださったM.A.P.ゆかりの方々。
石鹸の森山さんご夫妻
沖縄県立博物館ミュージアムショップ“ゆいむい”店長の池宮城さん
この度、“儀間進さんのコラムを読む”の企画に参加してくださることになった井上さん。
それから、今朝、首里の味噌屋で遭遇した映像クルーの女性。
(※実は真喜ちゃんの仕事仲間だったのです。こんなこと、沖縄ではよくあることです。)
その他、隆士さんのお知り合いの方々。(ご紹介できずにごめんなさい。)

皆様、ありがとうございました。

そして、おきなわおーでぃおぶっくのCD“人類館”と、それ以外にも、宇夫方隆士氏がジャケットデザインを担当した“カクテル・パーティー”“「対馬丸」より”“ノロエステ鉄道”も、“bar土”で販売してくれることになりました。ごうさんに感謝です。
null

これで一区切りつきました……

続きを読む

tag: 「クガニゼーク」のこと  井上真喜  沖縄の呑食処.大東そば  沖縄の呑食処.Bar土  沖縄_おーでぃおぶっく.  ジーファー  真久田巧  宇夫方隆士  又吉健次郎  沖縄(2009年冬) 

“おきなわ堂”を応援します!【“くがにぜーく”と“かんぜーく”の中間報告】

いつもの“おきなわ堂”今日も新商品入荷です。
 ⇒Natural Life
 ⇒中華

去年の7月に初めておきなわ堂の記事を書いた時、レジ周りの画像をご紹介しましたので、今日は残りの全貌をご紹介しましょう。
レジの手前にある売り場。CDなども置いてあります。
null
おきなわ関連雑誌〜県産本
null 
県産本〜沖縄関連古書
null
市町村史等〜沖縄関連古書
null

沖縄の古書店然とした古書店の2大巨頭は“じのん”さん“榕樹書林”さんで揺るがないかもしれませんが、新しい古書店の“おきなわ堂”だからこそできることがきっとあるはず。M.A.P.は今後もそれを応援していきたいと思っています。
やっぱり、考え続けること、そこからしか始まりません。金城さん、頑張りましょうね!

続きを読む

tag: 沖縄_古書店.おきなわ堂  沖縄_首里  沖縄_戦争・基地など.(その他)  「クガニゼーク」のこと  又吉健次郎  ジーファー  結び指輪  房指輪  沖縄_MAP販売商品.100シリーズ  沖縄(2009年冬) 

仲嶺舞踊小道具店のジーファー

きのう閉まっていたお店へ、諦めきれずに再訪しました。
それは仲嶺舞踊小道具店。
null
踊りで使うジーファーは、ここで売っているものがいいという噂を聞いたのです。ジーファーを作っている「クガニゼーク」は、もう又吉健次郎さんしかいない。ならば、ここで売られている踊り用のジーファーを作っているのは、いったい誰なのだろう。もしかすると、「カンゼーク」の謎を解く手掛かりがあるかもしれない……

しかし、残念ながら今日も人の気配はありません。仕方が無い、あきらめて帰ろうとしたその時でした。
向かいのお店のお兄さんが、近くで遊んでいた子どもに声を掛けた。
「お客さんが来ているよ」
すると、その子どもがこちらに向かって
「ちょっと待ってください。今おじいちゃんを呼んできます」
そう言って、お隣のお家に消えたのです。
「ありがとうございました。」と、向かいのお店にお礼を言って待つこと数分。
「お待たせしました」と、お店を開けてくださったのがこの方です。
null
どことなく垢抜けして、キリリとしたお顔立ち。後で名刺を頂いて分かったことなのですが、劇団眞永座の座長、仲嶺眞永さんでいらっしゃいました。納得であります。
昭和10年のお生まれ。昭和28年に沖縄芝居の役者になったが、昭和46年、生活のために小道具製作に専念することにした。でも、やはり舞台への想いが強く、2年前、眞永座を旗揚げた。その舞台には、八木政男さんも、北村三郎さんも出演された。

「カンゼークについてお伺いしたいのですが」
「カンゼークというのは鋳掛屋ですよ。壊れた鍋やヤカンを直す職人です。ナービナクークーサビラー、鍋の修理をいたしましょうと掛け声をかけながら旅をした。数年前までこのあたりにも来ていましたよ」
数年前というのは、果たしていつごろなのだろう……
「鍛冶屋の仲間ですよ」
「カンジャーヤーとはどう違うのですか?」
「カンジャーヤーは仕事場を持っていて、もっと大きなものも作ったが、カンゼークは小さな道具箱を持って小さなものを直す仕事。カンジャーヤーより下に見られていた。」

これが、僕の探していた答えなのでしょうか。よくわからない。だが、まだ繋がらないものがある。辻の遊女が踊っていた踊り。その頭に挿していたジーファー。それはいったい誰が作っていたのか。そのジーファーは又吉健次郎さんが受け継ぐ「クガニゼーク」の作るジーファーと何がどう違うのだろう。
仮に、雑踊の「金細工(カンゼーク)」のように、遊女のジーファーを直していたのが「カンゼーク」であったとしたら、僕が持ち込んだジーファーを直してくださる健次郎さんは、それこそ「カンゼーク」の仕事をしているということなのではないか……。

お店で売っているジーファーを見せていただきました。
ジーファーとカミサシ(男性用のかんざし)、どちらも3,000円とのこと。カミサシの方は他に耳かきのような押差(オシザシ)がついて2本セットです。
null
軽い。
「アルミです。」
「流し込み(鋳型)ですか」
「いえ、叩いて作っていますよ」
「そうなんですか」
僕には、道具を見る目はありません。でも、どうしても眞永さんの言葉を信じることができない。眞永さんは、何か勘違いをされているのではないだろうか。いくらアルミとはいえ、叩いて3,000円はあり得ない。
(※ちなみに「津波三味線店」という那覇のお店では、踊り用の合金メッキのジーファーが4,500円で売っています。また、健次郎さんのおっしゃっていた那覇の又吉さんが、アルミのジーファーも、ちゃんと叩いて作っていたという話を聞いたことがあるのですが、まさか3,000円ということはなかったと思うのです。)
  ⇒那覇の又吉さんについて書いてある記事
「又吉健次郎さんがジーファーを作っていますよね」
「ああ、コンクールとかに出るようなときは、いいものを挿すでしょうが、普段はもっとね。でも、それを作る人がいなくなってしまって」
「その方は、那覇の又吉さんでは」
「いや、なくすわけにはいかないのでね。頼んで作ってもらっています。」
何だか頭の中がシクシクしてきました。「クガニゼーク」を継承する又吉さんたちではなく、僕の全く知らない別の「金細工」の世界が、どこかにあるのでしょうか。
「その人のところへご案内しましょうか」
「え、それはうれしい。ありがとうございます。」
「今日はこれから出かけなければならないので、明日か……」
「明日、東京に戻らなければならないのです。今度来た時に是非とも」

僕は、ジーファーとカミサシのセットを購入して、お店を後にしたのです。
  ⇒上原直彦氏が書いた仲嶺真永さんのこと

続きを読む

tag: 「クガニゼーク」のこと  沖縄_沖縄芸能.琉球舞踊.  沖縄_うちなーぐち.  沖縄_遊郭  沖縄(2009年秋)  ジーファー  沖縄_沖縄の人.仲嶺眞永 

“金細工またよし”再訪

一昨日おじゃましたばかりなのに
昨日のジーファーを持って
今日また来てしまいました。

一昨日とは一本違う路地から入ろうとしたら、そこにこんな看板が。
「くがにぜーく」とルビを振られた「金細工またよし」の看板「また来てしまいました」
「誰も来なくなったらおしまいさ」
「今日はどうしても見てもらいたいものがあって」
そう言って、義理の妹が使っていたジーファーを手渡しました。
「ほー」
そう言って、又吉健次郎さんは、いきなりそのジーファーを叩き始めたのです。
null null null
見る見るうちに、曲がっていたジーファーがまっすぐになっていきました。知る人ぞ知る又吉健次郎が、記録として残すジーファー以外はもうは作らない、まして踊りのジーファーは一切作らないと宣言している名工が、昨日までカミサンの実家の箪笥の奥あたりに埋もれていた踊り用のジーファーを、たった今、僕の目の前で修理してくださっている、なんだか信じられない感じです。
「親父からこのカンカン叩く音を聞けとよく言われたが、その意味が分からなくてねえ、近頃やっと少し分かってきた」
null
「これ銀ですか? 叩いて作った銀のジーファーは折れないと聞いていたから、こんなに曲がるのは違うと思ったのですが」
「銀だから曲がる」
そうか、曲がるから折れないんだ。そうでなければポッキリ折れてしまう。
「なかなか質のいい銀を使っているんじゃないかなあ。銀貨ではなさそうだ」
「は?」
聞けば、昔はいい銀が手に入らなくて、アメリカの25セント銀貨を溶かして使ったらしいのです。
「国の象徴の硬貨を潰すのもどうかと思うが」
今から60年前、健次郎さんが20歳の頃、戦後間もなくです。でも、その頃の銀貨は、それでも比較的質が良かったのですが、その後、銀に銅を挟んだりして使えなくなったとのことでした。
(当時、健次郎さんの父上、6代目盛睦さんは、米兵向けの指輪を作られていたようです。ちなみに、盛睦さんが濱田庄司や棟方志功と出会うのはそれから10数年後、1960年代のことです。)
しかし、このジーファーは、それほど古いものではないと思います。義理の妹が踊りを始めてから購入したものだから、復帰直後くらいに作られたものなのではないでしょうか。
「この頃は丁寧な仕事をしていたんだなあ。これはなかなかいいものですよ。大切にしなければいけない」

叩けば表面が荒れてツヤがなくなります。だから後は、磨かなければなりません。その作業は、磨くための道具を、専用の砥石で研ぐところから始まります。
「ずいぶん使っていなかった」
null null
ジーファーの尖った方を木の台に突き立てて固定し、道具の取っ手側を足の指で挟み、そこを支点にして、車のワイパーのように道具を動かして磨くのです。
「今度来る時までに、ちゃんと磨いておこうね」
「ほんとうですか! ありがとうございます」

それから、この刻印はなんなのでしょうか。
null
「ああ、これはね、細いところに刻印してあるから、両側が切れてしまって分かりにくいのだが……」
健次郎さんは一本のポンチを出して、それを銀片に打ちつけて見せてくださいました。
null
「これと同じ、わかる? 王府の紋だ」
なるほど、左三巴紋です。沖縄では「左御紋(フィジャイグムン)」と呼ばれました。
null
(※後でよく見てわかったことなのですが、又吉さんのポンチは渦巻きが反対、これは右三巴紋です。これはいったい……。また謎が一つ増えました。)

やはり健次郎さんは、踊りのジーファーの大きさが気になるようでした。
null null
7代目のクガニゼーク、又吉健次郎が作るジーファーは、この小さな銀の塊から叩き出していくのですが、その重さは13匁、叩き磨いていく間に1匁ほど減って、完成品は12匁くらいになる。
(※1匁=3.45g)

「このジーファーは16匁あるなあ」
null
踊りのジーファーは作らないという又吉健次郎さんが、箪笥に埋もれていた曲がった16匁のジーファーに手を入れて磨いてくださる。なんて幸せなジーファーでしょう。沖縄には、今も家のどこかに眠っているジーファーがたくさんあるのではないか、そんな気がしてきました。

ひとりの若者が、工房にやってきました。
null
「お、8代目かい?」
「いえ、違います。ちょっと興味があって、叩かせてもらいに来ました」
すると健次郎さんがおっしゃいました。
「彼女に何か作ってあげたいのだろう。最初はそんなもんだよ」

僕は彼に席を譲って、ジーファーを預けて、工房を後にしました。

続きを読む

tag: 「クガニゼーク」のこと  又吉健次郎  沖縄(2009年秋)  ジーファー  金細工“またよし” 

もうひとつの沖縄(1)【イカの墨汁】と【蘇ったジーファー】

カミサンの実家へ。
まずはトートーメーにウートートゥー。
null

義母の実家が本部(もとぶ)。だから伊豆味の伊佐さんに頂いたミカンを、お土産に持ってきました。シークァーサーと、それから、えーと、なんだっけかな。
null
みんなも「わからん」。

カーブチー。
null
沖縄では普通に食べる。種は多いけど、みんなやっぱりこれがおいしいって。

ここへ帰ってくると、いつも思うのです。もうひとつの沖縄がココにはある。どこにも無いココだけの沖縄。これはどうにも説明しにくい感覚です。
お義母さんがいつも作ってくれるイカの墨汁。
null
前回の墨汁(おんなじ器だ……)
20数年前、はじめて食べさせてもらった時は驚きました。まだイカ墨のスパゲッティなど見たこともない頃です。
それから数年後、今からちょうど20年前、荒尾美代さんという女性が、イカの墨汁のルーツを探ったという新聞記事を読みました。イタリア旅行中に食べたイカ墨のスパゲッティがおいしかったこと、ある本で知った沖縄の墨汁のこと、それから彼女は、日本中の海沿いの町に片っ端から電話をかけて、イカ墨の料理を探したといいます。すると北陸に一ヶ所、「くろづくり」の塩辛はあったけれど、ポピュラーな料理としては沖縄の墨汁以外にはなかった。いったい沖縄の墨汁のルーツはどこなのか。まず中国を調べたが中国では全く食べない。そこから一年かけて、世界の料理をチェック、するとキリスト教信仰の土地が浮かび上がってきた。ならば長崎にもあるはずだ、そうして見つけたのが生月島の“くろみあえ”。つまり、沖縄のイカの墨汁は、フィリピンあたりから、キリスト教の宣教師と共に沖縄にやってきたのではないか……。
さて、この仮説は正しかったのかどうか、その後の研究はどうなったのでしょう。

今やイカ墨料理はちっとも珍しくないけれど、20数年前の沖縄は、僕にとって今よりずっと異国でした。そしてその異国性は、手懐けられ利用されている現代のそれとは全く違うものでした。でも、沖縄が変わったのではありません。それをいつも教えてくれるのが、この家なのです。

結婚した頃の僕の土産ばなしは、東京のことばかりでした。でも最近は、僕が沖縄で会った人たちの話をすることが多くなりました。今は、その方がずっと話が盛り上がります。
今日は、又吉健次郎さんの話題です。
すると、義理の妹が踊りを習っている時に使っていたジーファーと房指輪が、確かどこかにしまってあるはずと、家捜しが始まりました。そうして見つかったのがこれです。まずは房指輪。null
これは型抜きしたようで、左程のものではないと感じたのですが……

気になったのはジーファーです。null
誰かが踏んずけたのか、曲がっているのですが、ずっしりと重い。
姪っ子は、興味なさそうに漫画を読み耽っています。
null
なかなかいい形をしているように思います。
null

刻印がふたつ。なんだろう。
null
下の方の刻印は、文字が書いてあるようですが、最近老眼が進んで、全く読めません。
姪っ子に頼むと、あっさり「シルバー」。
null
なんだって!
「すいません。このジーファー、ちょっとお借りできませんか? 明日、健次郎さんのところへ、これ持って、もう一度行って来ます。」
もしかするとこの家には、たくさんのお宝が隠されているのかもしれない。

tag: 沖縄_沖縄的食物.果物.カーブチー  「クガニゼーク」のこと  沖縄_沖縄的食物.果物.シークヮーサー  沖縄_沖縄的食物.イカ墨汁  沖縄(2009年秋)  ジーファー  房指輪 

那覇のジーファー

“金細工またよし”の工房へ伺いました。
M.A.P.に注文が入って、それで制作をお願いしていた結び指輪を受け取るのが目的だったのですが、工房に上がると、いきなり又吉健次郎さんは、「あんたには感謝しているよ」とおっしゃられた。なんのことかと思えば、房指輪の意味のこと、「クガニゼーク」のこと。
「前からこれでいいのかなあと思っていたんだけれどね、あんたに言われて、あれがきっかけでちゃんとすることにしたんだ。」
健次郎さんがそう決められたという話は、前から宇夫方路に聞いていたことです。でも考えてみれば、そのはなしの後、僕が健次郎さんと直接お会いするのは今日がはじめてのこと、つまり健次郎さんは、僕ごとき者にも、きちんと礼を尽くしてくださったのだということに、後になって思い当たりました。なんとも頭が下がるばかりです。
関連記事を読む
null
工房の看板、パンフレット、ホームページ、それから県の資料、それら全て直すことにされたそうです。
「大変ですねえ」
「一年ぐらいかかるかな」
「パンフレットだっていっぱい残ってるのに。僕の所為ですかね」
「いや、これはやらんといけないことだから」
健次郎さんご自身も熟考された結論なのだと安堵しました。

しかし、又吉健次郎さんが背負おうとしている伝統が「クガニゼーク」であるとしても、又吉さんの工房の看板は何故か最近まで「かんぜーく」だった。どうして「クガニゼーク」が「カンゼーク」と名乗ることになったのか、それについてあらためて伺ってみたのですが、残念ながら、やはり明確なことはわかりませんでした。

何年か前まで、踊りの小道具を作る、やはり「かんぜーく」を看板に掲げる工房があったそうです(※注)。銀のジーファーを1本2万円にも満たない値段で売っていた。材料の銀だけだって相当高くなっているのに。健次郎さんは、何故そんなに安く売るのかとその方に聞いたことがあったそうです。すると「仕事がなくなるのがこわくて値上げできない」という答えが返ってきた。
(※注:健次郎さんが首里の又吉と呼ばれていたのに対し、この方は那覇の又吉と呼ばれていた方であると思われます。)
気持ちも分からないではないと、健次郎さんは、ご自分の若い頃の話をしてくださいました。人がたくさん通るところに店を開いてはみたが、全く売れなかったはなし。

今だって、一週間どこからも連絡のないことがある。そんな時はとっても不安になる。

その踊りの小道具を作っていた「カンゼーク」の方はお亡くなりになった。踊りの人たちはとっても困ったはずなのですが、誰一人として健次郎さんに相談しに来る方はいなかったそうです。

いつから飾り職人は踊りの先生に頭が上がらなくなってしまったのか。対等だったはずなのに。

昔、ある時、お店に一人のおじいさんが来てこういった、なんで「クガニゼーク」というか知っているか、それは高い金細工を注文する時は、手付金として小金を置いていくからだ。クガニゼークが一番偉いんだ、なぜなら、頭の上に挿すジーファーを作っているから。だから一番上なんだ。

お父様である6代目の技術は神業だったというはなし。小物を作るための小さな道具しかないのに、それでおおきなものも作った。どうするとそんなことができるのか、今となっては知る由もない。ある時、父はそうして作ったヤカンを抱えて出ていった。戻ってきたとき、ヤカンは食料に換わっていた……。

健次郎さんは僕たちに1本のジーファーを見せてくださいました。千葉県に住んでいる方が大切に所蔵していたジーファー。それは時代を感じさせ、小ぶりの、実に美しい姿をしている逸品でした。
null
「ジーファーは女性の姿をしているのだが、これは那覇のジーファーでね、首里のジーファーに較べて顔が小さくて、首の角度が少し深い。完璧な形だ」
はっきりと見えない刻印。
null
「たぶん父の作ったものだと思うんだが」

那覇のジーファー、そして踊りの小道具…… もしかすると、それが「かんぜーく」と何か関係があるのでは? いや、決して先走ってはいけません。それはゆっくり調べればいい。

健次郎さんは、ジーファーの良し悪しを確かめる秘密の方法を教えてくださいました。このジーファーは見事に……
いえ、このお話はココまでです。
「この方法で僕の作ったジーファーを調べられたら困るからなあ」

又吉健次郎さんは、今の踊りのジーファーは大きすぎるとおっしゃいます。バランスも悪い。踊りの美意識はそれでいいのだろうかと思ってしまう。
「僕はあくまでも民具を作っているんだ。踊りのためだけの道具は作らない」
だからジーファーばかりではなく、房指輪も、踊り用の注文にはお応えにならないでしょう。
実は今日、宇夫方路は、来年やる予定にしている教師免許取得のお披露目公演のために、ジーファーを作って頂けないだろうか、無理を承知で頼んでみるつもりだったのです。でも、健次郎さんは踊り用でなくても、もうジーファーは、「クガニゼーク」の伝統のために、資料館のようなところ以外には作ることをしないと決められた。体力的にもそれが精一杯。それを知っては、もうお願いすることなどできるものではありません。きっぱりと諦めました。
でも、踊り続けるためには、ジーファーはどうしても必要なのです。さてどうしようか、宇夫方は、これからゆっくり考えることでしょう。

「あんたほど、一生懸命聞きに来て、一生懸命調べてくれた人はいなかったよ。」
又吉健次郎さんは、そう僕におっしゃってくださいました。
「何かわかったら教える。新しい資料もみんな送る。僕の言ったこと、何でもインターネットに書いてもいいよ」

ありがとうございます。健次郎さん。また来ます。


おまけです。
12月に又吉健次郎さんとcoccoの対談があるとのこと。「対談の相手は是非又吉さんに」、coccoのご指名なのだそうです。対談が終わったら報告してあげるから、ブログのネタにしなさいと、健次郎さんは言ってくださいました。楽しみだなあ。

ちょっと前の、又吉健次郎さんとcoccoさんの記事です。よろしければお読みください。
 ⇒http://lince.jp/hito/husayubiwa…

続きを読む

tag: 「クガニゼーク」のこと  金細工“またよし”  又吉健次郎  沖縄(2009年秋)  ジーファー 

クガニゼークは遊女の指輪を作ったのか【Kahu-si】100店(Bar-002)と【廃藩置県】のこと少し

Banちゃんに連れられて、Banちゃんの知っている店へと向かいます。

ななしん屋の前を通って。
null
「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。

国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。
null
お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。

ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」

そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……
null
芹沢?介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。

確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。

実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里〜那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。

僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。

少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。

この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。

話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)

首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAX?”と“MAX?”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。

とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。
null
左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。

それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。

明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。

《追伸》
MAX CASAの暖簾です。
null
中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
MAXのSHOP MAP
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!

続きを読む

tag: 「クガニゼーク」のこと  沖縄_遊郭  沖縄_あんなとここんなとこ.国際通り  沖縄の呑食処.カフーシ  沖縄_首里  #100  沖縄(2009年秋)  房指輪  結び指輪  ジーファー