2013年06月21日(金)00時00分
「ゆんたんざ沖縄」
ドキュメンタリー(110分/1987年)
監督:西山正啓
日本の戦後を問う「ゆんたんざ(読谷山)」の人々

沖縄戦で、米軍が沖縄本島で最初に上陸した地が読谷村であった。そこで起きたチビチリガマ強制集団死を調査して世に明らかにした知花昌一氏が、彫刻家金城実さんと協働で取り組んだ「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」製作過程と、沖縄海邦国体を前にして、「日の丸」「君が代」の強制に揺れる読谷校の卒業式を、西山監督が1986年から沖縄読谷村に滞在して記録したドキュメンタリーの傑作。
当時、ドキュメンタリー映画としては空前のヒットであった。
この映画が世に投げかけた問い、しかし40年近く経った現在も、日本人はその問いに答えることができていない。それどころか、今まさに、あらためて問われている現在の課題であるように思われる。
上映日時:6月28日14:00~
(※上映後、西山正啓監督によるトークあり)
※6月28日は他に10時から「江戸上り」、19時から「恨を解いて浄土を生きる」がございます。是非併せてご覧ください。お得な3枚綴りチケットもあります。
⇒喜多見と狛江の小さな小さな映画祭+α オフィシャルサイト
※2010年5月に、M.A.P.は初めて映画の上映会なるものを開催しました。会場は狛江市の中央公民館の一室。その時上映した作品が、この「ゆんたんざ沖縄」でした。10人にも満たないお客さん。その日の上映会のことを記録したブログ記事から、一部を抜粋してここに再掲します。
【2010年5月26日の上映会の記事から】
ひとつのエピソード。
この日、隣の部屋では、近隣にお住まいのシルバー世代の方々が、囲碁を楽しんでいらっしゃいました。その中のお一人が、私たちの企画の貼り紙を見て声を掛けてくださいました。
「沖縄のことはとっても気になっていてねえ」
「そうですか、それなら是非ご覧になってください」
「この人たちは、日の丸に反対している人たちなの、ふーん。僕はね、日本人なら日の丸を大切にしなければいかんと思うんだ。」
そう言って、こちらの話は一切聞こうともなさらずに去っていかれました。
僕はここで、日の丸の是非について語ろうとは思いません。ただ、たとえば日本を愛し、素直に日本人として日の丸を掲揚できるようになりたいのだが、どうしてもそれができない、日の丸を強制的に押し付けられることを、どうしても感情的に受け入れることが出来ない、そういう人たちがいるのだということ、そして一番重要なことは、そういう人たちが、なぜそう思わざるえを得なくなってしまったのか、その背景にある歴史を、まず知って頂きたいと思うのです。その上で、あらためて日の丸のことについても考えてほしい。
至極もっともらしく、自分の国の国旗に敬意をはらうのは当たり前だという単純な「モラル」を振りかざして、日の丸を見るだけで震えがくるほどにも心に深い傷を負っている人々の感情を理解することを、その入り口で拒否するような「日本人の良心」に、僕は憤りを覚えるのです。
「自分の国の国旗に敬意をはらうのは当たり前」だというなら、その前に、自国民をこれほどまでに長きにわたって他国の影響下に置いておくような国が、「当たり前の国」といえるのかを問うて頂きたいと思うのです。
もうひとつ、映画の一場面。
ありし日の丸木位里さんです。

丸木位里・俊ご夫妻が“沖縄戦の図”(佐喜眞美術館 所収)を書かれた際、実際に沖縄戦を体験された方々にポーズをとってもらって描いたという話は、何かで読んで知っていました。まさにその場面が、この映画の中に納められています。
監督:西山正啓
日本の戦後を問う「ゆんたんざ(読谷山)」の人々

沖縄戦で、米軍が沖縄本島で最初に上陸した地が読谷村であった。そこで起きたチビチリガマ強制集団死を調査して世に明らかにした知花昌一氏が、彫刻家金城実さんと協働で取り組んだ「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」製作過程と、沖縄海邦国体を前にして、「日の丸」「君が代」の強制に揺れる読谷校の卒業式を、西山監督が1986年から沖縄読谷村に滞在して記録したドキュメンタリーの傑作。
当時、ドキュメンタリー映画としては空前のヒットであった。
この映画が世に投げかけた問い、しかし40年近く経った現在も、日本人はその問いに答えることができていない。それどころか、今まさに、あらためて問われている現在の課題であるように思われる。
上映日時:6月28日14:00~
(※上映後、西山正啓監督によるトークあり)
※6月28日は他に10時から「江戸上り」、19時から「恨を解いて浄土を生きる」がございます。是非併せてご覧ください。お得な3枚綴りチケットもあります。
⇒喜多見と狛江の小さな小さな映画祭+α オフィシャルサイト
※2010年5月に、M.A.P.は初めて映画の上映会なるものを開催しました。会場は狛江市の中央公民館の一室。その時上映した作品が、この「ゆんたんざ沖縄」でした。10人にも満たないお客さん。その日の上映会のことを記録したブログ記事から、一部を抜粋してここに再掲します。
【2010年5月26日の上映会の記事から】
ひとつのエピソード。
この日、隣の部屋では、近隣にお住まいのシルバー世代の方々が、囲碁を楽しんでいらっしゃいました。その中のお一人が、私たちの企画の貼り紙を見て声を掛けてくださいました。
「沖縄のことはとっても気になっていてねえ」
「そうですか、それなら是非ご覧になってください」
「この人たちは、日の丸に反対している人たちなの、ふーん。僕はね、日本人なら日の丸を大切にしなければいかんと思うんだ。」
そう言って、こちらの話は一切聞こうともなさらずに去っていかれました。
僕はここで、日の丸の是非について語ろうとは思いません。ただ、たとえば日本を愛し、素直に日本人として日の丸を掲揚できるようになりたいのだが、どうしてもそれができない、日の丸を強制的に押し付けられることを、どうしても感情的に受け入れることが出来ない、そういう人たちがいるのだということ、そして一番重要なことは、そういう人たちが、なぜそう思わざるえを得なくなってしまったのか、その背景にある歴史を、まず知って頂きたいと思うのです。その上で、あらためて日の丸のことについても考えてほしい。
至極もっともらしく、自分の国の国旗に敬意をはらうのは当たり前だという単純な「モラル」を振りかざして、日の丸を見るだけで震えがくるほどにも心に深い傷を負っている人々の感情を理解することを、その入り口で拒否するような「日本人の良心」に、僕は憤りを覚えるのです。
「自分の国の国旗に敬意をはらうのは当たり前」だというなら、その前に、自国民をこれほどまでに長きにわたって他国の影響下に置いておくような国が、「当たり前の国」といえるのかを問うて頂きたいと思うのです。
もうひとつ、映画の一場面。
ありし日の丸木位里さんです。
丸木位里・俊ご夫妻が“沖縄戦の図”(佐喜眞美術館 所収)を書かれた際、実際に沖縄戦を体験された方々にポーズをとってもらって描いたという話は、何かで読んで知っていました。まさにその場面が、この映画の中に納められています。
(文責:高山正樹)
2010年08月13日(金)23時02分
“チビチリガマから日本国を問う”in茅場町
7日に告知したことですが……
茅場町にある新川区民館の7号室にて。
西山監督の映画「チビチリガマから日本国を問う!」上映&トーク

上映会の後のトークショーは映画についての質疑応答みたいな形で始まりました。
⇒「チビチリガマから日本国を問う!」について
金城実さんが口火を切ります。
「今日の映画は、ちと長いなあ」
まあ、この件については、「西山正啓はしつこい」という愛情たっぷりの金城さんのまとめで終わりにしましょう。こうした映画について、適正な長さみたいなものを語ってみてもつまりません。
そういえば、M.A.P.でもこの映画の上映会を開いたのに、内容についての僕の意見を、僕は何ひとつブログに書いていなかったですね。ということでここで少しだけご披露を。
西山監督がM.A.P.の本部にお泊りになった日に、監督にはお伝えしたのですが、映画のラスト、読谷での集会の光景。そこに特定の政治集団の旗はなく、殆どが各市町村のものであったこと。カメラはゆっくりとそんな群集の姿をパンしながら捉えていく。あの4月25日の沖縄読谷の県民大会は、党派・立場を越えた市民たちが、個人個人の意思で参加したものであったということ、無言だが、映像は雄弁にそれを物語っていて感動的でした。そう僕が言うと、監督はそうなんだよと同意してくれました。
でも僕は、そのあとでこんな記事を書きました。
⇒集まったのは左寄りの人たちだけで、地元は云々というハナシもあり……
また、各市町村といっても、その旗を提供しているのは各役所で、役所の職員たちは、基地がなくなっても給料の下がらない生活の安定した人たちなのだ、そんなハナシも聞きました。他にもいろいろ言う人たちがいたようです。
しかし、なるだけたくさんの方たちに意見を聞いた上での僕の印象は、この映画のラストのイメージ、市民レベルでの静かな叫びというのが、やっぱり実態に一番近いということです。
そして、打ち上げにもお邪魔しました。

5月26日のM.A.P.で企画した西山監督の“ゆんたんざ沖縄”上映会に来て下さった高橋美香さんもいらっしゃいます。

今回、金城実さんは今月6日から来週21日土曜日まで、茅場町のGALLERY MAKIで開催されている作品展のために東京へいらしたのですが、それに合わせて、東京各地で西山監督の新作「チビチリガマから日本国を問う!」の上映会も開かれています。その各会場では、高橋美香さんが撮影した金城実作品の写真を展示しているのです。
(※僕たちが沖縄読谷にある金城さんのアトリエに伺ったのは、ちょうどこの作品展のための荷出しが終わって一息ついた時で、金城さんご自身も明日東京へ出発しなければならないというとってもラッキーなタイミングでした。)
打ち上げは自己紹介で始まったのですが、皆さんそれぞれ思いが深く、また様々な活動をされている方たちばかりで、自己紹介の時間は延びに延びて、結局終わりの方は、すでにラストオーダーの時間もとっくに過ぎて、一人3分という指示が司会者から出たのですが、それもママならず、最後はお店の人に水を頼んでも断られました。
(※僕は人類館のCDを制作して販売していますみたいことをじゃべりました。知ってる、買ったよ見たいな方もいらっしゃって、ありがたいことです。)
やっとお開き。川岸さんも一緒です。帰るまえに記念撮影を。

なんか視線が変じゃない?

金城さんが川岸さんに名刺を上げようかということになったのですが、そうしたら大変なことになってしまいました。

「どこやったかなあ」
そこらじゅう金城さんの着替えだらけ。
「金城さん、もういいです」
「あったあった」
最後の最後。

「あんたもさ、いい仕事してるんだからさ、がんばれよ」
ありがとうございます。また今度、酒持って読谷にお邪魔します。
※琉球舞踊教室
(花笠をかぶりました)
⇒http://mapryukyubuyou.ti-da.net/e3013135.html
茅場町にある新川区民館の7号室にて。
西山監督の映画「チビチリガマから日本国を問う!」上映&トーク
上映会の後のトークショーは映画についての質疑応答みたいな形で始まりました。
⇒「チビチリガマから日本国を問う!」について
金城実さんが口火を切ります。
「今日の映画は、ちと長いなあ」
まあ、この件については、「西山正啓はしつこい」という愛情たっぷりの金城さんのまとめで終わりにしましょう。こうした映画について、適正な長さみたいなものを語ってみてもつまりません。
そういえば、M.A.P.でもこの映画の上映会を開いたのに、内容についての僕の意見を、僕は何ひとつブログに書いていなかったですね。ということでここで少しだけご披露を。
西山監督がM.A.P.の本部にお泊りになった日に、監督にはお伝えしたのですが、映画のラスト、読谷での集会の光景。そこに特定の政治集団の旗はなく、殆どが各市町村のものであったこと。カメラはゆっくりとそんな群集の姿をパンしながら捉えていく。あの4月25日の沖縄読谷の県民大会は、党派・立場を越えた市民たちが、個人個人の意思で参加したものであったということ、無言だが、映像は雄弁にそれを物語っていて感動的でした。そう僕が言うと、監督はそうなんだよと同意してくれました。
でも僕は、そのあとでこんな記事を書きました。
⇒集まったのは左寄りの人たちだけで、地元は云々というハナシもあり……
また、各市町村といっても、その旗を提供しているのは各役所で、役所の職員たちは、基地がなくなっても給料の下がらない生活の安定した人たちなのだ、そんなハナシも聞きました。他にもいろいろ言う人たちがいたようです。
しかし、なるだけたくさんの方たちに意見を聞いた上での僕の印象は、この映画のラストのイメージ、市民レベルでの静かな叫びというのが、やっぱり実態に一番近いということです。
そして、打ち上げにもお邪魔しました。
5月26日のM.A.P.で企画した西山監督の“ゆんたんざ沖縄”上映会に来て下さった高橋美香さんもいらっしゃいます。
今回、金城実さんは今月6日から来週21日土曜日まで、茅場町のGALLERY MAKIで開催されている作品展のために東京へいらしたのですが、それに合わせて、東京各地で西山監督の新作「チビチリガマから日本国を問う!」の上映会も開かれています。その各会場では、高橋美香さんが撮影した金城実作品の写真を展示しているのです。
(※僕たちが沖縄読谷にある金城さんのアトリエに伺ったのは、ちょうどこの作品展のための荷出しが終わって一息ついた時で、金城さんご自身も明日東京へ出発しなければならないというとってもラッキーなタイミングでした。)
打ち上げは自己紹介で始まったのですが、皆さんそれぞれ思いが深く、また様々な活動をされている方たちばかりで、自己紹介の時間は延びに延びて、結局終わりの方は、すでにラストオーダーの時間もとっくに過ぎて、一人3分という指示が司会者から出たのですが、それもママならず、最後はお店の人に水を頼んでも断られました。
(※僕は人類館のCDを制作して販売していますみたいことをじゃべりました。知ってる、買ったよ見たいな方もいらっしゃって、ありがたいことです。)
やっとお開き。川岸さんも一緒です。帰るまえに記念撮影を。
なんか視線が変じゃない?
金城さんが川岸さんに名刺を上げようかということになったのですが、そうしたら大変なことになってしまいました。
「どこやったかなあ」
そこらじゅう金城さんの着替えだらけ。
「金城さん、もういいです」
「あったあった」
最後の最後。
「あんたもさ、いい仕事してるんだからさ、がんばれよ」
ありがとうございます。また今度、酒持って読谷にお邪魔します。
※琉球舞踊教室
(花笠をかぶりました)
⇒http://mapryukyubuyou.ti-da.net/e3013135.html
2010年07月22日(木)23時50分
読谷のチビチリガマを訪れる
沖縄タイムスの真久田さんと別れて、読谷(よみたん)に向かった。Bar“土”のごうさんが読谷に住んでいる。そのごうさんに、チビチリガマを案内してもらうのだ。
沖縄にはたくさんの鍾乳洞がある。その自然の洞窟を沖縄の人は「ガマ」と呼ぶ。「ガマ」は、あの沖縄戦で防空壕や避難壕になった。読谷にあるチビチリガマも、そうしたガマのひとつである。
⇒読谷村戦跡めぐりマップ
小さな駐車スペースに車を止めて、ごうさんの忠告で手足に虫除けスプレーを吹きかけて、ガマの前の広場へと降りて行く。

そこにはアメシガーラという細い川が流れていた。その流れは、ガマの中へ消えていくのだが、その先、どこに繋がっているのか、誰も知らない。

「チビ」は尻のこと。「チリ」は切るという意味。つまり「チビチリ」の名は、この「尻切れトンボ」の川に由来している。

ガマの入り口にはこんな立ち入り禁止の看板が立てられている。

「ここから先は、墓となっていますので……」
「私達、肉親の骨が多数残っています」
不思議な文言である。
1945年4月1日、アメリカ軍は読谷において上陸を開始、沖縄本島における地上戦が始まる。翌々日の4月3日に、このチビチリガマで悲劇が起きるのだが、以来この場所は近寄ってはならない場所となり、人々は口を閉ざした。
1983年に刊行された『沖縄大百科事典』に「チビチリガマ」の項目はない。
下嶋哲朗氏が、読谷から開拓者として八重山に渡った当山ウトさんと出会ったのは1978年のことだった。
戦後の八重山開拓移民のことも、日本人の多くが知らない。その歴史を知ってもなお、沖縄に基地を押し付けることを致し方なしと判断する日本人がいるとしたら、日本という国など消えてしまって構わないとさえ僕は思う。しかしそれはまた別の機会に話そう。
1983年の夏、下嶋哲朗氏が中心になって調査が始まる。そして、チビチリガマであった「集団自決」の真実が明らかにされていった。

読谷村では、「村史」のうち、第五巻の資料編4 『戦時記録』 上下巻を、Web上で公開している。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi…
村史には読谷村の「集団自決」について、12ページに亘って記述がある。ここで、僕がそれを要約することはしない。是非ご自分でお読みいただきたい。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm
チビチリガマの左手に大きな碑があって、次のような言葉が刻まれていた。
チビチリガマから世界へ平和の祈りを
1945年4月1日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米軍はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が「集団自決」をした。 尊い命を喪った。
あれから38年後、やっと真相が明らかになった。その結果、83名のうち約6割が18歳以下の子供達であった。その他、2名が米兵の手によって犠牲になった。
「集団自決」とは「国家のために命をささげよ」「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義による強制された死のことである。
遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から7ヶ月後、11月8日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。
全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから7年が経過し平和の像の再建が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄終戦50周年にあたり、再び国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、ここに碑を建立する。
再建された平和の像は、ガマの右にある。既に黄昏近く、安物のデジカメで写すには暗かった。はたして、坐像が見えるだろうか。

M.A.P.では、先に読谷にまつわる2本の映画の上映会を開いた。
⇒第一夜【ゆんたんざ沖縄(1987年)】
⇒第二夜【チビチリガマから日本国を問う!(2010年)】
しかし告知宣伝がママならず、残念ながら多くの方にご覧頂くことができなかった。こういう作品を声高に宣伝することに何故か躊躇してしまう役者の性癖。しかし、それはプロデューサーならあってはならぬこと、忸怩たる思いである。
平和の像を制作した金城実氏は、読谷にアトリエを構えている。ごうさんのお友達である。だから、アトリエへごうさんに連れて行って貰おうと思っている。しかし今日はもう遅い。あつかましくもごうさんのお宅に泊めていただくことになった。
太陽が読谷の海に沈んでいく。

沖縄の空には雲が多い。天辺の空に雲がないことはよくあることだが、水平線近くの空は、角度の所為で大気が厚い。だから、読谷の太陽が、雲に隠れずに海に沈むことは殆どないという。

この日も、太陽は海に到達する前に、灰色の雲の中に没していった。
スクで一杯。
塩漬けではないスクは、この時期しか、さらには水揚げされたタイミングでしか食べられない。

ごうさんと奥様に感謝。
沖縄にはたくさんの鍾乳洞がある。その自然の洞窟を沖縄の人は「ガマ」と呼ぶ。「ガマ」は、あの沖縄戦で防空壕や避難壕になった。読谷にあるチビチリガマも、そうしたガマのひとつである。
⇒読谷村戦跡めぐりマップ
小さな駐車スペースに車を止めて、ごうさんの忠告で手足に虫除けスプレーを吹きかけて、ガマの前の広場へと降りて行く。
そこにはアメシガーラという細い川が流れていた。その流れは、ガマの中へ消えていくのだが、その先、どこに繋がっているのか、誰も知らない。
「チビ」は尻のこと。「チリ」は切るという意味。つまり「チビチリ」の名は、この「尻切れトンボ」の川に由来している。
ガマの入り口にはこんな立ち入り禁止の看板が立てられている。

「ここから先は、墓となっていますので……」
「私達、肉親の骨が多数残っています」
不思議な文言である。
1945年4月1日、アメリカ軍は読谷において上陸を開始、沖縄本島における地上戦が始まる。翌々日の4月3日に、このチビチリガマで悲劇が起きるのだが、以来この場所は近寄ってはならない場所となり、人々は口を閉ざした。
1983年に刊行された『沖縄大百科事典』に「チビチリガマ」の項目はない。
下嶋哲朗氏が、読谷から開拓者として八重山に渡った当山ウトさんと出会ったのは1978年のことだった。
戦後の八重山開拓移民のことも、日本人の多くが知らない。その歴史を知ってもなお、沖縄に基地を押し付けることを致し方なしと判断する日本人がいるとしたら、日本という国など消えてしまって構わないとさえ僕は思う。しかしそれはまた別の機会に話そう。
1983年の夏、下嶋哲朗氏が中心になって調査が始まる。そして、チビチリガマであった「集団自決」の真実が明らかにされていった。
読谷村では、「村史」のうち、第五巻の資料編4 『戦時記録』 上下巻を、Web上で公開している。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi…
村史には読谷村の「集団自決」について、12ページに亘って記述がある。ここで、僕がそれを要約することはしない。是非ご自分でお読みいただきたい。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm
チビチリガマの左手に大きな碑があって、次のような言葉が刻まれていた。
チビチリガマから世界へ平和の祈りを
1945年4月1日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米軍はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が「集団自決」をした。 尊い命を喪った。
あれから38年後、やっと真相が明らかになった。その結果、83名のうち約6割が18歳以下の子供達であった。その他、2名が米兵の手によって犠牲になった。
「集団自決」とは「国家のために命をささげよ」「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義による強制された死のことである。
遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から7ヶ月後、11月8日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。
全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから7年が経過し平和の像の再建が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄終戦50周年にあたり、再び国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、ここに碑を建立する。
1995年4月2日
チビチリガマ遺族会
チビチリガマ遺族会
再建された平和の像は、ガマの右にある。既に黄昏近く、安物のデジカメで写すには暗かった。はたして、坐像が見えるだろうか。
M.A.P.では、先に読谷にまつわる2本の映画の上映会を開いた。
⇒第一夜【ゆんたんざ沖縄(1987年)】
⇒第二夜【チビチリガマから日本国を問う!(2010年)】
しかし告知宣伝がママならず、残念ながら多くの方にご覧頂くことができなかった。こういう作品を声高に宣伝することに何故か躊躇してしまう役者の性癖。しかし、それはプロデューサーならあってはならぬこと、忸怩たる思いである。
平和の像を制作した金城実氏は、読谷にアトリエを構えている。ごうさんのお友達である。だから、アトリエへごうさんに連れて行って貰おうと思っている。しかし今日はもう遅い。あつかましくもごうさんのお宅に泊めていただくことになった。
太陽が読谷の海に沈んでいく。
沖縄の空には雲が多い。天辺の空に雲がないことはよくあることだが、水平線近くの空は、角度の所為で大気が厚い。だから、読谷の太陽が、雲に隠れずに海に沈むことは殆どないという。
この日も、太陽は海に到達する前に、灰色の雲の中に没していった。
スクで一杯。
塩漬けではないスクは、この時期しか、さらには水揚げされたタイミングでしか食べられない。
ごうさんと奥様に感謝。
2010年05月28日(金)22時05分
西山正啓監督作品上映会第二夜【チビチリガマから日本国を問う!】
第一夜に続き……
狛江市中央公民館第4会議室。

第二夜が終わって総括するなどと言ったけれど、とても総括などできそうにありません。ただ、とても観客が少なかったということ。私たちの力が足りなくて、西山監督には申し訳ない気持ちで一杯です。
何度でも言います。私たちは特定の主義主張を支持するつもりはありません。ただ、知っていただきたいだけ。そのあと、あらためて考えていただければそれでいい。そんな思いでたくさんの方々とお会いしてきました。でも、私たちが一生懸命拡げようとしてきた輪とは、いったいどんなものなのでしょうか。
これからも、今のまま進めていっていいのかなあ……。
トボトボと、“中む食堂”まで歩いていきました。
今日も塩ソーキを食し……

イカ墨の塩辛の乗った豆腐をつつき……

きっといいんです。今日来てくださらなかった方々にも、みんなそれぞれ生活があり、もちろん事情もあり、そんな中、わざわざ足を運んでくださった方々にただただ感謝すべきなのです。
初登場の鈴木修さんです。

文学座の研究所にいらした方。共通の知り合いも結構いるみたいです。そんな彼とどうして知り合ったのか、それは追々お話する機会もあるでしょう。
(加藤新吉さんに、マージャンの負け5,000円、未払いなのを思い出した……)
今日の酒は菊乃露です。

何があろうとも、飲み且つ食えば、笑顔になるのが人間の性。

みんなで笑顔の写真を撮りました。ハンサム・マーキーさん、今日も来てくださいました。でもね……
「普天間の県外移設は初めから無理だよ」
笑ってはいるけれど、沖縄の人たちの思いは単純ではないのでした。
お隣で飲んでいた方々。

狛江で生地と型紙のお店をやっている皆さんです。笑顔だったのでイチャリバチョーデーの感覚で、写真撮っちゃったのでした。
狛江市中央公民館第4会議室。
西山正啓監督が撮った沖縄
〜その原点と今〜
【連続上映会】第二夜
《ゆんたんざ未来世シリーズ》
チビチリガマから日本国を問う!(2010年/106分)
〜その原点と今〜
【連続上映会】第二夜
《ゆんたんざ未来世シリーズ》
チビチリガマから日本国を問う!(2010年/106分)
第二夜が終わって総括するなどと言ったけれど、とても総括などできそうにありません。ただ、とても観客が少なかったということ。私たちの力が足りなくて、西山監督には申し訳ない気持ちで一杯です。
何度でも言います。私たちは特定の主義主張を支持するつもりはありません。ただ、知っていただきたいだけ。そのあと、あらためて考えていただければそれでいい。そんな思いでたくさんの方々とお会いしてきました。でも、私たちが一生懸命拡げようとしてきた輪とは、いったいどんなものなのでしょうか。
これからも、今のまま進めていっていいのかなあ……。
トボトボと、“中む食堂”まで歩いていきました。
今日も塩ソーキを食し……
イカ墨の塩辛の乗った豆腐をつつき……
きっといいんです。今日来てくださらなかった方々にも、みんなそれぞれ生活があり、もちろん事情もあり、そんな中、わざわざ足を運んでくださった方々にただただ感謝すべきなのです。
初登場の鈴木修さんです。
文学座の研究所にいらした方。共通の知り合いも結構いるみたいです。そんな彼とどうして知り合ったのか、それは追々お話する機会もあるでしょう。
(加藤新吉さんに、マージャンの負け5,000円、未払いなのを思い出した……)
今日の酒は菊乃露です。
何があろうとも、飲み且つ食えば、笑顔になるのが人間の性。
みんなで笑顔の写真を撮りました。ハンサム・マーキーさん、今日も来てくださいました。でもね……
「普天間の県外移設は初めから無理だよ」
笑ってはいるけれど、沖縄の人たちの思いは単純ではないのでした。
お隣で飲んでいた方々。
狛江で生地と型紙のお店をやっている皆さんです。笑顔だったのでイチャリバチョーデーの感覚で、写真撮っちゃったのでした。
tag: 狛江市中央公民館 チビチリガマ 鈴木修 沖縄の食物 泡盛.菊乃露 沖縄居酒屋.中む食堂 狛江_居酒屋.中む食堂 ハンサム・マーキー 西山正啓 普天間
2010年05月17日(月)23時24分
千歳烏山「らくだ」にて【チビチリガマから日本国を問う!】初上映会
千歳烏山にある「らくだ」というお店へ。

西山正啓監督の「チビチリガマから日本国を問う!」の本邦初上映会がここで開かれるのです。
実はこの“らくだ”では、2年に一度、やまあい工房の上山弘子さんの藍染展が開催されています。昨年の11月に突然そのご案内メールが届きました。そしてそれがきっかけで、やまあい工房の作品をM.A.P.で販売させていただけるまでに繋がっていったのです。
東京で沖縄のことを考えていると、必然的に同じようなところへたどり着くということなのかもしれませんが、それにしてもやっぱり不思議なご縁です。
開演前の監督の挨拶。

26日と28日のM.A.P.主催の上映会は、急遽決定したので、残念ながら西山監督は福岡にいらっしゃって、狛江の会場に来てお話していただくことが出来ません。その代わり、この日のご挨拶や質疑応答などを撮影したものを、26・28日に御紹介したいと考えています。
最終告知、間もなく……
初上映会を無事終えて。

(今のご時勢、お顔をお見せできない方を除く)
※左から2番目の方は大木晴子さん。大木さんのブログで、西山さんの撮影風景が見られます。
⇒http://seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic…
【2012年12月21日に追記】
この日の打ち上げには、当時の●●党衆議院議員●●氏秘書の●●さんも一緒でした。
(※考え抜いて、やっぱり●は外せない…)
西山正啓監督の「チビチリガマから日本国を問う!」の本邦初上映会がここで開かれるのです。
実はこの“らくだ”では、2年に一度、やまあい工房の上山弘子さんの藍染展が開催されています。昨年の11月に突然そのご案内メールが届きました。そしてそれがきっかけで、やまあい工房の作品をM.A.P.で販売させていただけるまでに繋がっていったのです。
東京で沖縄のことを考えていると、必然的に同じようなところへたどり着くということなのかもしれませんが、それにしてもやっぱり不思議なご縁です。
開演前の監督の挨拶。
26日と28日のM.A.P.主催の上映会は、急遽決定したので、残念ながら西山監督は福岡にいらっしゃって、狛江の会場に来てお話していただくことが出来ません。その代わり、この日のご挨拶や質疑応答などを撮影したものを、26・28日に御紹介したいと考えています。
最終告知、間もなく……
初上映会を無事終えて。
(今のご時勢、お顔をお見せできない方を除く)
※左から2番目の方は大木晴子さん。大木さんのブログで、西山さんの撮影風景が見られます。
⇒http://seiko-jiro.net/modules/newbb/viewtopic…
【2012年12月21日に追記】
この日の打ち上げには、当時の●●党衆議院議員●●氏秘書の●●さんも一緒でした。
(※考え抜いて、やっぱり●は外せない…)
2010年05月17日(月)20時07分
緊急告知!M.A.P.主催の上映会
すでにご紹介した西山正啓監督の最新作「チビチリガマから日本国を問う!」ですが、わがM.A.P.でも、5月28日の水曜日に上映会を主催することになりました。
さらにそれに先駆けて26日には「ゆんたんざ沖縄」の上映会も行います。
急遽作成したチラシです。

テキストによる詳細の告知記事は追ってアップする予定です。
さらにそれに先駆けて26日には「ゆんたんざ沖縄」の上映会も行います。
急遽作成したチラシです。

テキストによる詳細の告知記事は追ってアップする予定です。
2010年05月13日(木)20時07分
西山正啓監督の新作完成【チビチリガマから日本国を問う!】
去る5月14日に、西山正啓監督からこんなメールが届いていました。
4月6日〜9日、首相官邸前で金城実、知花昌一さんが座り込んで、緊急直訴行動したのはご存知でしたか。私は4月1日沖縄入り、チビチリガマの慰霊祭を取材後、彼らに同行して東京に行き密着取材となりました。そこでお願いしていた上映会の件ですが、今回の座り込みと25日読谷村で行われる県民大会までを撮影した緊急報告ドキュメントを見ていただきたいと思っています。
5月末までが正念場、マスコミがなかなか取材しないので、上映会を通して一人でも多くの人たちに現場の雰囲気を伝えたいと思っています。
西山正啓 拝
金城実さんと知花昌一さんの座り込みのことは、ある方から教えていただいていたので、知っておりました。
⇒怪しいメールが教えてくれたNEWS(4/9)
そして、その作品が出来上がったようです。

(西山さんから届いたチラシ)
また、完成したこの記録映画についての記事が、本日の東京新聞に掲載されました。

写真に写っているのは知花昌一さんと金城実さんです。
(新聞は前回の東京新聞同様、読谷出身の比嘉くんに頼んで新聞を入手。比嘉くん、いつもありがとう。)
少し遅くなってしまいましたが、M.A.P.after5でも、本作品の上映会のお知らせをいたします。
記録映画「ゆんたんざ未来世〜チビチリガマから日本国を問う!」
東京連続上映会日程(名古屋以外は上映終了後、西山監督のトークあり)
●5月17日(月)開場18時30分 上映19時〜
会場:世田谷千歳烏山「らくだとTUBO」
(京王線千歳烏山下車徒歩5分 TEL:03−5313−8151)
主催:今とこれからを考える一滴の会
●5月19日(水)上映19時〜
会場:駒込琉球センター「どうたっち」
(TEL・FAX:03−5974−1333)
●5月21日(金) 上映19時30分〜
会場:三鷹はちのこ保育園
(三鷹市野崎3−22−16 TEL:0422−32−3081)
●5月22日(土) 上映14時〜
会場:津田塾大学・小平キャンパス1112教室
(西武国分寺線・鷹の台下車徒歩8分)
主催:沖縄関係学研究会
共催:近現代東アジア研究会
問合せ:e-mail:tinsagu@vvfm.Mm-m.ne.jp
●5月29日(土) 上映14時〜
会場:名古屋YWCA403号
(地下鉄栄駅下車徒歩5分)
主催:不戦へのネットワーク(052−731-7517)
そしてM.A.P.でも
上映会を主催すべくただ今検討中
M.A.P.だからこそできる上映会を緊急模索中
…なのです。まもなく告知?
4月6日〜9日、首相官邸前で金城実、知花昌一さんが座り込んで、緊急直訴行動したのはご存知でしたか。私は4月1日沖縄入り、チビチリガマの慰霊祭を取材後、彼らに同行して東京に行き密着取材となりました。そこでお願いしていた上映会の件ですが、今回の座り込みと25日読谷村で行われる県民大会までを撮影した緊急報告ドキュメントを見ていただきたいと思っています。
5月末までが正念場、マスコミがなかなか取材しないので、上映会を通して一人でも多くの人たちに現場の雰囲気を伝えたいと思っています。
西山正啓 拝
金城実さんと知花昌一さんの座り込みのことは、ある方から教えていただいていたので、知っておりました。
⇒怪しいメールが教えてくれたNEWS(4/9)
そして、その作品が出来上がったようです。

(西山さんから届いたチラシ)
また、完成したこの記録映画についての記事が、本日の東京新聞に掲載されました。
写真に写っているのは知花昌一さんと金城実さんです。
(新聞は前回の東京新聞同様、読谷出身の比嘉くんに頼んで新聞を入手。比嘉くん、いつもありがとう。)
少し遅くなってしまいましたが、M.A.P.after5でも、本作品の上映会のお知らせをいたします。
記録映画「ゆんたんざ未来世〜チビチリガマから日本国を問う!」
東京連続上映会日程(名古屋以外は上映終了後、西山監督のトークあり)
●5月17日(月)開場18時30分 上映19時〜
会場:世田谷千歳烏山「らくだとTUBO」
(京王線千歳烏山下車徒歩5分 TEL:03−5313−8151)
主催:今とこれからを考える一滴の会
●5月19日(水)上映19時〜
会場:駒込琉球センター「どうたっち」
(TEL・FAX:03−5974−1333)
●5月21日(金) 上映19時30分〜
会場:三鷹はちのこ保育園
(三鷹市野崎3−22−16 TEL:0422−32−3081)
●5月22日(土) 上映14時〜
会場:津田塾大学・小平キャンパス1112教室
(西武国分寺線・鷹の台下車徒歩8分)
主催:沖縄関係学研究会
共催:近現代東アジア研究会
問合せ:e-mail:tinsagu@vvfm.Mm-m.ne.jp
●5月29日(土) 上映14時〜
会場:名古屋YWCA403号
(地下鉄栄駅下車徒歩5分)
主催:不戦へのネットワーク(052−731-7517)
そしてM.A.P.でも
上映会を主催すべくただ今検討中
M.A.P.だからこそできる上映会を緊急模索中
…なのです。まもなく告知?
2009年12月11日(金)22時41分
告知:「知花昌一・沖縄読谷平和学」上映会
知花昌一さんと、映画監督の西山正啓さんと、沖縄でお会いした日の記事を、今日の朝、アップした。
⇒知花昌一と西山正啓(11/20)
そして、御自宅の福岡に戻られた映画監督の西山正啓さんからお便りが届いた。
「1ヶ月も留守にしていると、こちらはもう冬なのだということを実感します」というご挨拶と、映画「知花昌一・沖縄読谷平和学」の東京初の試写上映会のお知らせ。
こちらのブログで、告知させてくださいとお願いしていたのである。
●12月18日(金)18時30分より
※上映98分と西山正啓監督のお話
三鷹市消費者活動センター(三鷹市下連雀3-22-7)
(中央線三鷹駅南口下車2分)
料金:カンパ
お問合せ:080-5255-7406(西山監督御本人)
●12月19日(土)18時より
※上映98分と西山正啓監督のお話
琉球センター・どうたっち(豊島区駒込2-14-7)
(山手線駒込駅1分)
東口改札を左、さつき通り商店街、居酒屋「駒露地」を左折した左側。
料金1,500円 (終了後 西山監督との交流会・参加費1,000円)
お問合せ:03-5974-1333(琉球センター・どうたっち)

西山正啓、新作ドキュメンタリー
「ゆんたんざ未来世〜恨(ハン)を解いて、浄土を生きる」シリーズ第一弾!
「知花昌一・沖縄読谷平和学」のプロフィール
【解説】
福岡教育大「共生社会論」講座の中から始まった、『沖縄スタディツアー“愉快なうちな〜んちゅ”と出会う旅』が今年で7回目を迎えた。亜熱帯の美しい海、ちゃんぷる〜異文化体験はもちろんのこと、沖縄に集中する米軍基地、新しい海上基地建設の反対闘争が粘り強くつづけられている名護市辺野古、沖縄戦で米軍が最初に上陸した読谷村、そこで女、子ども、老人による強制集団死が起きたチビチリガマ、投降することで九死に一生を得たシムクガマ。否応なくみえてくる沖縄の光と陰。そのさまざまな現場に立ち、そこで暮らす人々から話を聞く。スタディツアーの目的と、向き合う心がまえはいつも同じだ。今回は韓国、中国、ベトナム、オーストラリアの留学生が参加、平和の礎・辺野古、読谷村ではチビチリガマ、シムクガマに加え、強制連行され無念の死を遂げた朝鮮人軍夫の魂を、自戒を込めて慰霊する「恨(ハン)之碑」を見学した。水先案内人は読谷村議会議員でチビチリガマの語り部、知花昌一さん。旅の終わり日本とアジアの学生たちは、国家と個人、異文化を生きるお互いの友情について、アジアの平和について夜通し語りあった。西山正啓 監督・製作/98分/2009年作品。
【製作者より】
「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」建立を記録した映画「ゆんたんざ沖縄」の製作から22年、この映画に記録した彫刻家・金城 実さんと知花昌一さんは、沖縄海邦国体での「日の丸」焼きすて、右翼による平和の像破壊と再建に至る苦悩、米軍通信基地「象のオリ」奪還闘争、村議会議員への挑戦、沖縄靖国訴訟、「恨(ハン)之碑」建立、「戦争と人間」100mレリーフ製作など共に波乱万丈の人生を歩んできた。
2009年早々、私は読谷村で新たな映画記録を始めた。次世代への揺るぎない平和の継承作業と琉球独立も視野に入れた二人の大胆な思索と行動を記録しようとする試みだ。シリーズ「ゆんたんざ未来世〜恨を解いて、浄土を生きる」。シリーズ製作のための序章・第一弾は、チビチリガマの語り部として“戦争につながる動きを一切拒否する”を信念に行動してきた知花昌一さんの「沖縄読谷平和学」。競演は中国、韓国、ベトナム、オーストラリア、そして日本の大学生たち。22年の時間を経て、ふたたび世代はめぐり、未来を結ぶ。希望はそこにある。
美しさの中で泣いていた沖縄
沖縄は私に涙を見せてくれた。しかし沖縄はただひたすら悲しんでばかりではなかった。沖縄はその涙をぬぐおうと努力していた。米軍基地建設に反対して海を守った多くの人たち、戦争の傷跡を語り継ぎ、平和な世界を願う知花昌一さん、痛みを抱え、またその痛みを克服しようとする意志も持ち合わせた沖縄。私はこの沖縄研修旅行を決して忘れることができないだろう。
●知花昌一(ちばな しょういち)
1948年読谷村生まれ。1986年、彫刻家・金城実さんの指導による「チビチリガマ(集団自決)世代を結ぶ平和の像」建立委員会事務局長として尽力。翌年秋、沖縄海邦国体ソフトボール競技開始式で「日の丸」を焼却。95年楚辺通信所、通称“象のオリ”内にある軍用地の再契約を拒否。全国的な支援を受け基地奪還闘争の先頭に立った。以来10年に及ぶ粘り強い闘いを経て、施設撤去・全面返還をかちとる。98年読谷村議会議員に当選、三期目の今日に至る。著書に「焼きすてられた日の丸」(新泉社)「燃える沖縄・揺らぐ安保」(社会批評社)がある。
●西山正啓(にしやま まさひろ)
1948年山口県生まれ。86年から沖縄読谷村に滞在して「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」製作、強制集団死遺族の証言、読谷高校の卒業式で繰り広げられた「日の丸」強制に抵抗する高校生たちの行動を映画「ゆんたんざ沖縄」に記録した。2000年には「未来世を生きる〜沖縄戦とチビチリガマ」を発表。代表作に「しがらきから吹いてくる風」「梅香里」「ぬちどぅ魂の声」「朋の時間〜母たちの季節」「米軍再編・岩国の選択」「消えた鎮守の森」「貧者の一灯」シリーズ三部作など。現在、「ゆんたんざ未来世〜恨を解いて、浄土を生きる」シリーズを製作中。
勿論、なんとか時間を作って、どちらかにお邪魔しようと思っている。
⇒知花昌一と西山正啓(11/20)
そして、御自宅の福岡に戻られた映画監督の西山正啓さんからお便りが届いた。
「1ヶ月も留守にしていると、こちらはもう冬なのだということを実感します」というご挨拶と、映画「知花昌一・沖縄読谷平和学」の東京初の試写上映会のお知らせ。
こちらのブログで、告知させてくださいとお願いしていたのである。
●12月18日(金)18時30分より
※上映98分と西山正啓監督のお話
三鷹市消費者活動センター(三鷹市下連雀3-22-7)
(中央線三鷹駅南口下車2分)
料金:カンパ
お問合せ:080-5255-7406(西山監督御本人)
●12月19日(土)18時より
※上映98分と西山正啓監督のお話
琉球センター・どうたっち(豊島区駒込2-14-7)
(山手線駒込駅1分)
東口改札を左、さつき通り商店街、居酒屋「駒露地」を左折した左側。
料金1,500円 (終了後 西山監督との交流会・参加費1,000円)
お問合せ:03-5974-1333(琉球センター・どうたっち)

西山正啓、新作ドキュメンタリー
「ゆんたんざ未来世〜恨(ハン)を解いて、浄土を生きる」シリーズ第一弾!
「知花昌一・沖縄読谷平和学」のプロフィール
【解説】
福岡教育大「共生社会論」講座の中から始まった、『沖縄スタディツアー“愉快なうちな〜んちゅ”と出会う旅』が今年で7回目を迎えた。亜熱帯の美しい海、ちゃんぷる〜異文化体験はもちろんのこと、沖縄に集中する米軍基地、新しい海上基地建設の反対闘争が粘り強くつづけられている名護市辺野古、沖縄戦で米軍が最初に上陸した読谷村、そこで女、子ども、老人による強制集団死が起きたチビチリガマ、投降することで九死に一生を得たシムクガマ。否応なくみえてくる沖縄の光と陰。そのさまざまな現場に立ち、そこで暮らす人々から話を聞く。スタディツアーの目的と、向き合う心がまえはいつも同じだ。今回は韓国、中国、ベトナム、オーストラリアの留学生が参加、平和の礎・辺野古、読谷村ではチビチリガマ、シムクガマに加え、強制連行され無念の死を遂げた朝鮮人軍夫の魂を、自戒を込めて慰霊する「恨(ハン)之碑」を見学した。水先案内人は読谷村議会議員でチビチリガマの語り部、知花昌一さん。旅の終わり日本とアジアの学生たちは、国家と個人、異文化を生きるお互いの友情について、アジアの平和について夜通し語りあった。西山正啓 監督・製作/98分/2009年作品。
【製作者より】
「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」建立を記録した映画「ゆんたんざ沖縄」の製作から22年、この映画に記録した彫刻家・金城 実さんと知花昌一さんは、沖縄海邦国体での「日の丸」焼きすて、右翼による平和の像破壊と再建に至る苦悩、米軍通信基地「象のオリ」奪還闘争、村議会議員への挑戦、沖縄靖国訴訟、「恨(ハン)之碑」建立、「戦争と人間」100mレリーフ製作など共に波乱万丈の人生を歩んできた。
2009年早々、私は読谷村で新たな映画記録を始めた。次世代への揺るぎない平和の継承作業と琉球独立も視野に入れた二人の大胆な思索と行動を記録しようとする試みだ。シリーズ「ゆんたんざ未来世〜恨を解いて、浄土を生きる」。シリーズ製作のための序章・第一弾は、チビチリガマの語り部として“戦争につながる動きを一切拒否する”を信念に行動してきた知花昌一さんの「沖縄読谷平和学」。競演は中国、韓国、ベトナム、オーストラリア、そして日本の大学生たち。22年の時間を経て、ふたたび世代はめぐり、未来を結ぶ。希望はそこにある。
美しさの中で泣いていた沖縄
沖縄は私に涙を見せてくれた。しかし沖縄はただひたすら悲しんでばかりではなかった。沖縄はその涙をぬぐおうと努力していた。米軍基地建設に反対して海を守った多くの人たち、戦争の傷跡を語り継ぎ、平和な世界を願う知花昌一さん、痛みを抱え、またその痛みを克服しようとする意志も持ち合わせた沖縄。私はこの沖縄研修旅行を決して忘れることができないだろう。
(釜山教育大学校 リュ・ヒョンチェ)
●知花昌一(ちばな しょういち)
1948年読谷村生まれ。1986年、彫刻家・金城実さんの指導による「チビチリガマ(集団自決)世代を結ぶ平和の像」建立委員会事務局長として尽力。翌年秋、沖縄海邦国体ソフトボール競技開始式で「日の丸」を焼却。95年楚辺通信所、通称“象のオリ”内にある軍用地の再契約を拒否。全国的な支援を受け基地奪還闘争の先頭に立った。以来10年に及ぶ粘り強い闘いを経て、施設撤去・全面返還をかちとる。98年読谷村議会議員に当選、三期目の今日に至る。著書に「焼きすてられた日の丸」(新泉社)「燃える沖縄・揺らぐ安保」(社会批評社)がある。
●西山正啓(にしやま まさひろ)
1948年山口県生まれ。86年から沖縄読谷村に滞在して「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」製作、強制集団死遺族の証言、読谷高校の卒業式で繰り広げられた「日の丸」強制に抵抗する高校生たちの行動を映画「ゆんたんざ沖縄」に記録した。2000年には「未来世を生きる〜沖縄戦とチビチリガマ」を発表。代表作に「しがらきから吹いてくる風」「梅香里」「ぬちどぅ魂の声」「朋の時間〜母たちの季節」「米軍再編・岩国の選択」「消えた鎮守の森」「貧者の一灯」シリーズ三部作など。現在、「ゆんたんざ未来世〜恨を解いて、浄土を生きる」シリーズを製作中。
勿論、なんとか時間を作って、どちらかにお邪魔しようと思っている。
(高山正樹)
2009年06月15日(月)18時02分
“Bar土”と知花昌一さん(6月の沖縄18)【沖縄通信 No.4】
“Bar土”がランチを始めたことは知っていました。100店シリーズの「昼ごはん夜ごはん」にも掲載されました。となればなんとしても行かねばなるまい、というわけで、沖縄に着いた日にごうさんに電話をしましたが、その時は繋がりませんでした。
そうしたら、昨日の夜になって、ごうさんの方から電話がかかってきました。
※お昼の土は9月をもって終了しました。残念。(9/30追記)
「携帯のデータが飛んじゃってさ。今、沖縄にいるの?」
「明日帰るけど」
帰りの飛行機の時間は19:30。じゃあ4時頃なら会えるねということで、今日、特別に早い時間から店を開けてくれて、ごうさんが出てきて待っていてくれました。

特別に、食事も出してくれました。

ごうさんがM.A.P.after5に初登場した時、ごうさんは「のんさん」でした。「のんさん」が「のんさん」を辞めたという話は聞いていないので、きっとまだ「のんさん」でもあるのでしょうが、表の世界での通り名は「ごうさん」のようです。
ごうさんは、最近、読谷に引っ越しました。夜のお店の営業は大西君に任せて、しばらく自分はお昼だけ出てきていたようですが、それも今は人に任せてしまいました。
ごうさんはいろいろと考えているようです。読谷で土を耕すこと。また“Bar土”での企画も盛りだくさんで、そのたんびにごうさんはお店に出てきて遊んでいるようです(失礼)。
大西君によると、“Bar土”は、今、沖縄で何かと注目されているのだそうです。でも、いったいどういう種類の人たちに注目されているのかなあ……
どんな催しを企画しているのかは、“Bar土”のブログでも覗いてください。
例えば、あの「日の丸事件」の知花昌一さんが、島唄を歌っていたり……
⇒http://tsuchi2009.ti-da.net…
ちなみに、僕は知花昌一さんについて、ちょっとだけ書いたことがあります。
⇒http://lince.jp/mugon/okuba…
ごうさんが知花昌一さんと初めて会った時に、知花さんから聞いた話を、ごうさんは「mixiという場所」で書いています。mixiという閉じられたところだけじゃもったいないから、ここに転載させていただくことにしました。
(まあ、ここで紹介しても、どれほどの方に読んでいただけるものか、あやしい限りですが、少なくともここは署名入りで全世界に公開しているわけで、それが、理念としてmixiとは違うのだと言いたい訳です。あれ、でもそういえば、ごうさんのほんとうのなまえ、知らないや。)
【沖縄通信 No.4】(from ごうさん)
あれは、高校国体が始めて沖縄に呼べると喜び、沖縄中で盛り上がってたんですね。
開催県は全ての種目にエントリー出来るので、必ず総合優勝出来るんですよ。
沖縄を総合優勝させることによって、大和に対する劣等感を払しょくさせ、自信をつけせるチャンスだったんです。
読谷村もその会場の誘致に懸命で、やっとその夢が実現する運びになりました。
しかし、大きなネックになったのが、国旗掲揚でした。
読谷村では4カ所で集団自決しているんですね。
僕が調査した「チビチリガマ」では85人が死に、83人が集団自決です。
そのうち12歳以下の子供が47人を占めています。
とても自分で死ぬことはできないわけで、その子たちは、お母さんに殺されたのです。
調査していて「あなたたちにはわからないかも知れないけど、当時はそういう教育だったんだよ」という話をある生き残った母親から聞きました。
降伏するくらいなら自決せよという軍国主義教育が母性さえ奪ったんだと思います。
沖縄戦は実は戦争が終わった後の9月7日まで散発的戦闘が続きました。
“最後の一兵まで戦闘せよ”と指令されていたからです。沖縄は、米軍の本土上陸を長引かせるために、まさに捨て石にされたのです。
また、戦闘の最中の5月に出た日本軍指令で、沖縄語をしゃべった者はスパイとみなして処刑されました。
こうした日本軍による住民虐殺や集団自決の象徴となったのが日の丸・君が代です。
当時、読谷村は村長も日の丸掲揚に反対していたし、議会でも日の丸強制反対決議を採択していたんですね。
国体のソフトボールの会場でも当初は掲揚しないことになっていた。
しかし、日本ソフトボール協会の会長が「日の丸・君が代をやらないのなら国体を他府県に移す」と言って紛糾したんです。
話し合いを重ねて妥協案が決まりました。
普通、旗のポールは5本だけど、6本目のポールを作って、その端っこに日の丸を立てる。
その反対側の端っこには非核宣言の旗を立てる。
メーンポールには国体旗を立てるというのが妥協案で開会式前日までこれで決まっていました。
村としても、がんばったんだし、端っこなら僕は焼くことはしなかった。
日の丸反対の横断幕を掲げるだけのハズでした。
ところが、当日になって協会長が「慣例なんだからメーンポールに立てろ」と強行したんです。
僕は、とっさにスコアボードに上って国旗を降ろし、燃やしました。燃やせば、もう揚げられないと考えました。
ところが、国旗に火をつけても、すぐに消えるんですね。
もう一度火をつけ、燃やすために火をつけた国旗を振りました。
そのことが、後になって、自分の行為を誇示したと見られ、裁判ではより重い刑が科せられる一因にもなったのですが。
スタンドから拍手喝采が起こりました。みんな、読谷村では当然のことと思ってたんでしょう。
その後、ぼくは逃げるつもりはなかったのですが、仲間が車を乗りつけ、逃げるんだ、早く乗れ。
と言うんで、成り行きでその車で家まで送ってもらいました。
家に帰り、妻に事情を話し、改めて警察に出頭しました。
以来、僕は「国賊」だと言われたりしましたが、本当に僕が国賊なら、僕の店はつぶれているハズです。
僕は30年間スーパーマーケットをやってきました。
日の丸を焼いた翌々日から右翼に店を襲撃され冷蔵庫を壊されました。翌年まで営業妨害を受けました。
でも、地域に支持されたから店はつぶれませんでした。
8年間闘って、裁判には負けました(一審で懲役1年執行猶予3年、二審で控訴棄却)けど、大変満足しています。
日の丸が大変な旗だということを全国で話すことができました。
日本人は、戦争で日の丸が果したことについてケジメをつけないとダメですよ。
それで新たに国旗を制定して日の丸が国旗になるのなら構わない。
でも、国旗が国内向けに必要なのでしょうか。旗というのは識別表示の記号であり思想を明示するものです。
船舶に立てたり、在外の大使館に国旗を立てるのは記号として当然です。
しかし、それが国内で自国民に向けて振られる時というのは、国が外へ出て行く意思表示をしている時、すなわち戦争につながると思っています。
M.A.P.としては、知花昌一さんの考えを全面的に支持するものではありません。というか、いかなる立場も主張することはいたしません。
また、ご紹介した文章の事実関係等を検証したわけでもありません。
あくまでも、“Bar土”のオーナーである「ごうさん」が、実際に知花さんとお会いして、そしてごうさんの頭の中に記憶された知花さんの話を、ごうさんが誠実に書き綴った文章があって、それをここに転載させていただきたいと思ったということであります。
(快く許してくださった「ごうさん」に心から感謝いたします。)

ありがとう、そしてご馳走さまでした。
とまりんでレンタカーを返却して、空港へ向かいます。

インターネットにある膨大な情報、その有効性を疑うものではありません。でもその恐ろしさを、この旅では考えさせられました。
あることを検索した結果、上位100個の記事全てに同じようなことが書かれていたとしたら、それを正しい情報だと信じてしまうのもいたし方ないことかもしれません。そしてその情報を、また自分のブログに書いたりしてしまいます。ところが実は、100個の情報の出所はたったひとつで、異論は101個目に押しやられている、しかし本当はその意見のほうが真実に近いということもよくあるのです。
間違っているかもしれない情報を、正しいものとしてしまうことに加担しないよう、あらためて肝に銘じています。
我々の過去の記事の中にも、安易に書いてしまった文章があるかもしれません。もし気づいたことがおありになりましたならば、是非ともご指摘くださいませ。
そうしたら、昨日の夜になって、ごうさんの方から電話がかかってきました。
※お昼の土は9月をもって終了しました。残念。(9/30追記)
「携帯のデータが飛んじゃってさ。今、沖縄にいるの?」
「明日帰るけど」
帰りの飛行機の時間は19:30。じゃあ4時頃なら会えるねということで、今日、特別に早い時間から店を開けてくれて、ごうさんが出てきて待っていてくれました。
特別に、食事も出してくれました。
ごうさんがM.A.P.after5に初登場した時、ごうさんは「のんさん」でした。「のんさん」が「のんさん」を辞めたという話は聞いていないので、きっとまだ「のんさん」でもあるのでしょうが、表の世界での通り名は「ごうさん」のようです。
ごうさんは、最近、読谷に引っ越しました。夜のお店の営業は大西君に任せて、しばらく自分はお昼だけ出てきていたようですが、それも今は人に任せてしまいました。
ごうさんはいろいろと考えているようです。読谷で土を耕すこと。また“Bar土”での企画も盛りだくさんで、そのたんびにごうさんはお店に出てきて遊んでいるようです(失礼)。
大西君によると、“Bar土”は、今、沖縄で何かと注目されているのだそうです。でも、いったいどういう種類の人たちに注目されているのかなあ……
どんな催しを企画しているのかは、“Bar土”のブログでも覗いてください。
例えば、あの「日の丸事件」の知花昌一さんが、島唄を歌っていたり……
⇒http://tsuchi2009.ti-da.net…
ちなみに、僕は知花昌一さんについて、ちょっとだけ書いたことがあります。
⇒http://lince.jp/mugon/okuba…
ごうさんが知花昌一さんと初めて会った時に、知花さんから聞いた話を、ごうさんは「mixiという場所」で書いています。mixiという閉じられたところだけじゃもったいないから、ここに転載させていただくことにしました。
(まあ、ここで紹介しても、どれほどの方に読んでいただけるものか、あやしい限りですが、少なくともここは署名入りで全世界に公開しているわけで、それが、理念としてmixiとは違うのだと言いたい訳です。あれ、でもそういえば、ごうさんのほんとうのなまえ、知らないや。)
【沖縄通信 No.4】(from ごうさん)
あれは、高校国体が始めて沖縄に呼べると喜び、沖縄中で盛り上がってたんですね。
開催県は全ての種目にエントリー出来るので、必ず総合優勝出来るんですよ。
沖縄を総合優勝させることによって、大和に対する劣等感を払しょくさせ、自信をつけせるチャンスだったんです。
読谷村もその会場の誘致に懸命で、やっとその夢が実現する運びになりました。
しかし、大きなネックになったのが、国旗掲揚でした。
読谷村では4カ所で集団自決しているんですね。
僕が調査した「チビチリガマ」では85人が死に、83人が集団自決です。
そのうち12歳以下の子供が47人を占めています。
とても自分で死ぬことはできないわけで、その子たちは、お母さんに殺されたのです。
調査していて「あなたたちにはわからないかも知れないけど、当時はそういう教育だったんだよ」という話をある生き残った母親から聞きました。
降伏するくらいなら自決せよという軍国主義教育が母性さえ奪ったんだと思います。
沖縄戦は実は戦争が終わった後の9月7日まで散発的戦闘が続きました。
“最後の一兵まで戦闘せよ”と指令されていたからです。沖縄は、米軍の本土上陸を長引かせるために、まさに捨て石にされたのです。
また、戦闘の最中の5月に出た日本軍指令で、沖縄語をしゃべった者はスパイとみなして処刑されました。
こうした日本軍による住民虐殺や集団自決の象徴となったのが日の丸・君が代です。
当時、読谷村は村長も日の丸掲揚に反対していたし、議会でも日の丸強制反対決議を採択していたんですね。
国体のソフトボールの会場でも当初は掲揚しないことになっていた。
しかし、日本ソフトボール協会の会長が「日の丸・君が代をやらないのなら国体を他府県に移す」と言って紛糾したんです。
話し合いを重ねて妥協案が決まりました。
普通、旗のポールは5本だけど、6本目のポールを作って、その端っこに日の丸を立てる。
その反対側の端っこには非核宣言の旗を立てる。
メーンポールには国体旗を立てるというのが妥協案で開会式前日までこれで決まっていました。
村としても、がんばったんだし、端っこなら僕は焼くことはしなかった。
日の丸反対の横断幕を掲げるだけのハズでした。
ところが、当日になって協会長が「慣例なんだからメーンポールに立てろ」と強行したんです。
僕は、とっさにスコアボードに上って国旗を降ろし、燃やしました。燃やせば、もう揚げられないと考えました。
ところが、国旗に火をつけても、すぐに消えるんですね。
もう一度火をつけ、燃やすために火をつけた国旗を振りました。
そのことが、後になって、自分の行為を誇示したと見られ、裁判ではより重い刑が科せられる一因にもなったのですが。
スタンドから拍手喝采が起こりました。みんな、読谷村では当然のことと思ってたんでしょう。
その後、ぼくは逃げるつもりはなかったのですが、仲間が車を乗りつけ、逃げるんだ、早く乗れ。
と言うんで、成り行きでその車で家まで送ってもらいました。
家に帰り、妻に事情を話し、改めて警察に出頭しました。
以来、僕は「国賊」だと言われたりしましたが、本当に僕が国賊なら、僕の店はつぶれているハズです。
僕は30年間スーパーマーケットをやってきました。
日の丸を焼いた翌々日から右翼に店を襲撃され冷蔵庫を壊されました。翌年まで営業妨害を受けました。
でも、地域に支持されたから店はつぶれませんでした。
8年間闘って、裁判には負けました(一審で懲役1年執行猶予3年、二審で控訴棄却)けど、大変満足しています。
日の丸が大変な旗だということを全国で話すことができました。
日本人は、戦争で日の丸が果したことについてケジメをつけないとダメですよ。
それで新たに国旗を制定して日の丸が国旗になるのなら構わない。
でも、国旗が国内向けに必要なのでしょうか。旗というのは識別表示の記号であり思想を明示するものです。
船舶に立てたり、在外の大使館に国旗を立てるのは記号として当然です。
しかし、それが国内で自国民に向けて振られる時というのは、国が外へ出て行く意思表示をしている時、すなわち戦争につながると思っています。
M.A.P.としては、知花昌一さんの考えを全面的に支持するものではありません。というか、いかなる立場も主張することはいたしません。
また、ご紹介した文章の事実関係等を検証したわけでもありません。
あくまでも、“Bar土”のオーナーである「ごうさん」が、実際に知花さんとお会いして、そしてごうさんの頭の中に記憶された知花さんの話を、ごうさんが誠実に書き綴った文章があって、それをここに転載させていただきたいと思ったということであります。
(快く許してくださった「ごうさん」に心から感謝いたします。)
ありがとう、そしてご馳走さまでした。
とまりんでレンタカーを返却して、空港へ向かいます。
インターネットにある膨大な情報、その有効性を疑うものではありません。でもその恐ろしさを、この旅では考えさせられました。
あることを検索した結果、上位100個の記事全てに同じようなことが書かれていたとしたら、それを正しい情報だと信じてしまうのもいたし方ないことかもしれません。そしてその情報を、また自分のブログに書いたりしてしまいます。ところが実は、100個の情報の出所はたったひとつで、異論は101個目に押しやられている、しかし本当はその意見のほうが真実に近いということもよくあるのです。
間違っているかもしれない情報を、正しいものとしてしまうことに加担しないよう、あらためて肝に銘じています。
我々の過去の記事の中にも、安易に書いてしまった文章があるかもしれません。もし気づいたことがおありになりましたならば、是非ともご指摘くださいませ。
tag: 日の丸 沖縄の旅_2009年6月 100シリーズ ごうさん 知花昌一 沖縄の呑食処.Bar土 沖縄の基地 チビチリガマ
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