2018年10月28日(日)15時09分
首里城祭り①~公文書館
なんみんさんでひと仕事を終えて、僕は国際通りへ向かった。
途中、待機する琉球王朝の集団。

神宮会館での授与式が終わり、祝賀会(要するに食事会)が始まった頃だろうか、こちらではパレードが始まる。
今日は首里城祭り。その関連イベントである。
琉球王朝絵巻行列

ボクは大東そばで昼飯。

レンタカーで、波之上に宇夫方女史とまる子さんを迎えに行く。
千日屋でぜんざい。

それから一度行ってみたかった公文書館へ。


琉球王朝絵巻行列を見た後だから、なかなか興味深い資料であった。
途中、待機する琉球王朝の集団。

神宮会館での授与式が終わり、祝賀会(要するに食事会)が始まった頃だろうか、こちらではパレードが始まる。
今日は首里城祭り。その関連イベントである。
琉球王朝絵巻行列

覚書。
— 高山正樹 (@gajumui) 2018年10月29日
首里城祭。 pic.twitter.com/vIL1ABa0wY
ボクは大東そばで昼飯。

レンタカーで、波之上に宇夫方女史とまる子さんを迎えに行く。
千日屋でぜんざい。

それから一度行ってみたかった公文書館へ。


琉球王朝絵巻行列を見た後だから、なかなか興味深い資料であった。

2010年08月11日(水)18時32分
稽古の合間に……
※宇夫方路女史から過去の記事が届きました。
朝、大きな植木鉢が倒れていました。

どうやら台風だったらしい。
家元の稽古場へ向かいます。
稽古場の近くの並木の木の根。

別に特にどうということもないのですが、南国って感じがしませんか?
今月の28日の土曜日のことですが、横浜市金沢区にある金沢公会堂で、区民参加の「潮の音」というイベントがあって、そこで「仲里節」を躍らせていただくことになりました。男がぼたんの花を、女が花笠を持って踊るうち組踊りです。通常の笠だと大きすぎるので、ちょっと小ぶりの花笠を使います。でも、私はその花笠をまだ持っていません。
稽古場に着きました。ふとみると小さな花笠が置いてあります。もしかしてと思って手に取りました。
右手に持っている笠(左)がそれです

大きいほう(右)は伊野波節や四ツ竹で使う普通の花笠ですが、それに比べるとかなり小さいです。でも、これは少し小さ過ぎるようです。どうやらこれはただの飾りみたい。この2つの中間ぐらいの大きさが良いらしい。
夕方、家元の稽古場を出て新報ホールへ。
その前にある小道具屋さんに行って小さな花笠を探してみました。でも、そこでは扱っていないということでした。小道具を揃えていくのもなかなか大変です。
新報ホールでは今日のコンクールが終わった後、舞台で場所を確認するのですが、まだしばらくかかりそうだということを確認して、パラダイス通りに向かいました。
新報ホールから国際通りへ。交差点で信号に引っかかっていると県庁側にヤンバルクイナの植木を発見。

おきなわ屋の後ろには新しいホテルが建っていました。

国際通りの真ん中くらい、浮島通りの入口にローソンがあります。

この反対側(手前)がパラダイス通りの入口です。

ここから沖英通りまでがパラダイス通りですが、この先の右側にある「tituti」が目的地です。

「tituti」は長池朋子さん達が7月にオープンしたお店。この前お預かりしたパワーストーンつきのマース袋が、販売サイトや楽天市場沖縄mapにアップした途端、すぐに売れてしまったので、追加の入荷をするために伺ったのでした。
さあ入荷完了、新報ホールに戻ります。
朝、大きな植木鉢が倒れていました。

どうやら台風だったらしい。
家元の稽古場へ向かいます。
稽古場の近くの並木の木の根。

別に特にどうということもないのですが、南国って感じがしませんか?
今月の28日の土曜日のことですが、横浜市金沢区にある金沢公会堂で、区民参加の「潮の音」というイベントがあって、そこで「仲里節」を躍らせていただくことになりました。男がぼたんの花を、女が花笠を持って踊るうち組踊りです。通常の笠だと大きすぎるので、ちょっと小ぶりの花笠を使います。でも、私はその花笠をまだ持っていません。
稽古場に着きました。ふとみると小さな花笠が置いてあります。もしかしてと思って手に取りました。
右手に持っている笠(左)がそれです
大きいほう(右)は伊野波節や四ツ竹で使う普通の花笠ですが、それに比べるとかなり小さいです。でも、これは少し小さ過ぎるようです。どうやらこれはただの飾りみたい。この2つの中間ぐらいの大きさが良いらしい。
夕方、家元の稽古場を出て新報ホールへ。
その前にある小道具屋さんに行って小さな花笠を探してみました。でも、そこでは扱っていないということでした。小道具を揃えていくのもなかなか大変です。
新報ホールでは今日のコンクールが終わった後、舞台で場所を確認するのですが、まだしばらくかかりそうだということを確認して、パラダイス通りに向かいました。
新報ホールから国際通りへ。交差点で信号に引っかかっていると県庁側にヤンバルクイナの植木を発見。
おきなわ屋の後ろには新しいホテルが建っていました。
国際通りの真ん中くらい、浮島通りの入口にローソンがあります。
この反対側(手前)がパラダイス通りの入口です。
ここから沖英通りまでがパラダイス通りですが、この先の右側にある「tituti」が目的地です。
「tituti」は長池朋子さん達が7月にオープンしたお店。この前お預かりしたパワーストーンつきのマース袋が、販売サイトや楽天市場沖縄mapにアップした途端、すぐに売れてしまったので、追加の入荷をするために伺ったのでした。
さあ入荷完了、新報ホールに戻ります。
(宇夫方路)
tag: 沖縄の旅_2010年8月 沖縄芸能コンクール MAP扱い商品 楽天市場 織物工房“しよん” 国際通り 仲里節 パラダイス通り
2010年02月28日(日)23時23分
女3人のカクテル・パーティー
【OKINAWAN BAR 100】BOURBON CLUB
【第3報】
夜、西岡美幸さんから連絡が入りました。
Bar土の前で待ち合わせて、石川真生さんの展覧会を一緒に見て、ハーブティーを飲んで。
その後、恩納村から那覇まで車を飛ばして出てきてくれた演劇学校時代からの親友のルミと合流。安里にあるルミの知り合いの店でDinner。

そのあと、近くの“バーボンクラブ”へ。

ここは、那覇で一番カウンターが長いバー(15メートル)なのだそうです。

すごくたくさんの種類のお酒。その数600種以上。せっかくだからカクテルを、と思いましたが、何を頼んでよいのやらちっとも決められません。
それならと、マスターにイメージで選んでもらおうという西岡さんの提案。以前にも西岡さん、何人かの友達とバーに行って、やっぱりそれぞれのイメージで作ってもらったところ、他の人はみんなおしゃれで素敵なカクテルだったのに、西岡さんだけなぜかピンクでかわいい感じの飲み物がきてショックを受けたのだそうです。さて、今日はどんなカクテルが出来上がるのかなあ。
ルミは車なので、ジュースを頼んで静観です。
そして…

西岡さんはノンアルコールの「シンデレラ」、私はインアルコールで(なんで?)「グレープフルーツクーラー」。さっぱりしてとてもおいしい。西岡さんも今日は大満足。
国際通りのはずれにあるステキなバーで、女3人のカクテル・パーティーでした。
【第3報】
夜、西岡美幸さんから連絡が入りました。
Bar土の前で待ち合わせて、石川真生さんの展覧会を一緒に見て、ハーブティーを飲んで。
その後、恩納村から那覇まで車を飛ばして出てきてくれた演劇学校時代からの親友のルミと合流。安里にあるルミの知り合いの店でDinner。
そのあと、近くの“バーボンクラブ”へ。
ここは、那覇で一番カウンターが長いバー(15メートル)なのだそうです。
すごくたくさんの種類のお酒。その数600種以上。せっかくだからカクテルを、と思いましたが、何を頼んでよいのやらちっとも決められません。
それならと、マスターにイメージで選んでもらおうという西岡さんの提案。以前にも西岡さん、何人かの友達とバーに行って、やっぱりそれぞれのイメージで作ってもらったところ、他の人はみんなおしゃれで素敵なカクテルだったのに、西岡さんだけなぜかピンクでかわいい感じの飲み物がきてショックを受けたのだそうです。さて、今日はどんなカクテルが出来上がるのかなあ。
ルミは車なので、ジュースを頼んで静観です。
そして…
西岡さんはノンアルコールの「シンデレラ」、私はインアルコールで(なんで?)「グレープフルーツクーラー」。さっぱりしてとてもおいしい。西岡さんも今日は大満足。
国際通りのはずれにあるステキなバーで、女3人のカクテル・パーティーでした。
(宇夫方路)
⇒旅の続きへ
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2009年12月23日(水)19時33分
銀細工の伝統
国際通りもクリスマス。

アルバトロス・シルバー館。ふと、気になって中に入った。

六代目又吉誠睦は、戦後宝飾店で働き、米兵向けのアクセサリーを作っていた。
⇒http://lince.jp/hito/okinawamap/arumisede…
⇒http://lince.jp/hito/koubousaihou…
もしかすると、この店で聞けば、その頃の「クガニゼーク」ならぬ「カンゼーク」のことが分かるかもしれない……
店の男の子は、興味を持って僕の話しをじっくりと聞いてくれた。
最近、ちょくちょくお客さんから又吉健次郎さんのことを聞かれるのだという。
「でも、勉強不足で。」
彼は、男性用の銀のカミサシをずっと探していたらしい。
「それなら一本だけ、売っている店、知ってるよ。もうこれから出ないかもしれない。絶対お買い得だよ」
仲嶺舞踊小道具店のことである。
「もうあきらめて、髪切っちゃいました」
「ウチナーカンプーにしたくて髪を伸ばしてたんだ」
「そうなんです」
たくさんの銀製品が展示されている。すごい品揃え。
「これ、叩いて作ってるの」
「いえ、鋳型です。叩いて作っていたら、値段も高くなるし、お客さんのニーズに答えられませんから。」
彼は、30年仕事をしている職人さんにわざわざ電話をかけて、「カンゼーク」について聞いてくれた。
「簪(かんざし)を作るからカンゼークというのだと思うよとのことでした」
又吉健次郎さんが「カンゼーク」であることに、何の疑問もないようであった。やはり、切れた伝統の中で、ウチナーグチも右往左往しているのだ、と、僕はそう思った。
「ありがとうね」
「いえ、今日は勉強になりました。」
アルバトロス・シルバー館。ふと、気になって中に入った。
六代目又吉誠睦は、戦後宝飾店で働き、米兵向けのアクセサリーを作っていた。
⇒http://lince.jp/hito/okinawamap/arumisede…
⇒http://lince.jp/hito/koubousaihou…
もしかすると、この店で聞けば、その頃の「クガニゼーク」ならぬ「カンゼーク」のことが分かるかもしれない……
店の男の子は、興味を持って僕の話しをじっくりと聞いてくれた。
最近、ちょくちょくお客さんから又吉健次郎さんのことを聞かれるのだという。
「でも、勉強不足で。」
彼は、男性用の銀のカミサシをずっと探していたらしい。
「それなら一本だけ、売っている店、知ってるよ。もうこれから出ないかもしれない。絶対お買い得だよ」
仲嶺舞踊小道具店のことである。
「もうあきらめて、髪切っちゃいました」
「ウチナーカンプーにしたくて髪を伸ばしてたんだ」
「そうなんです」
たくさんの銀製品が展示されている。すごい品揃え。
「これ、叩いて作ってるの」
「いえ、鋳型です。叩いて作っていたら、値段も高くなるし、お客さんのニーズに答えられませんから。」
彼は、30年仕事をしている職人さんにわざわざ電話をかけて、「カンゼーク」について聞いてくれた。
「簪(かんざし)を作るからカンゼークというのだと思うよとのことでした」
又吉健次郎さんが「カンゼーク」であることに、何の疑問もないようであった。やはり、切れた伝統の中で、ウチナーグチも右往左往しているのだ、と、僕はそう思った。
「ありがとうね」
「いえ、今日は勉強になりました。」
tag: 国際通り 首里 「クガニゼーク」のこと 沖縄の旅_2009年12月 ジーファー うちなーぐち 房指輪
2009年11月23日(月)13時35分
沖縄の定番【那覇公設市場周辺】
那覇にもジュンク堂がある。かつて、ダイエー那覇店(旧ダイナハ)があったビルの1階から3階までがジュンク堂書店。
沖縄本コーナーの傍に貼ってあったポスター。七三刈り上げの津嘉山正種氏発見。

沖縄で瀬長亀次郎を知らない人はいません、なんて、ちょっと沖縄をかじったヤマトゥンチュにありがちな、ステレオタイプの思い込みでしょうか。
国際通りから平和通りに入ったところにある花笠食堂。

アイスティー飲み放題。
ライスは白飯と赤飯と玄米から選べる。昔はジュシーも選べたはず、とはカミサンの記憶だが、最近の彼女はテーゲーさが増してきているので、情報の正確性は疑わしい。

普通の沖縄の家庭料理。検索して出てくるブログなどでは、結構皆さんおいしいという評価。否定はしません。家庭料理が不味いわけない。でも、東京あたりで普通の家庭料理屋をやろうとしたら、相当美味しくなければ商売にはならないでしょう。沖縄は違う。むしろ普通の家庭料理のママがいい。このことは、東京の沖縄居酒屋でも同じことがいえる。それをどう考えるかは色々。
メニューによっては、モズクかぜんざいが選べる。

沖縄で「ぜんざい」といえば氷ぜんざいだろうと選んだが、やってきたのは違った。
考えてみれば氷がそんな昔からあるわけない。現代だって家庭で氷イチゴを食べるなんて、「家庭でたこ焼き」に匹敵する一大イベントだ。
テーゲーなカミサンによると、オバーたちはこれを甘菓子と言っていたらしい。ということは、ぜんざいといえばこの甘菓子のことだったのかと聞けば、あたしの子どもの頃はもう氷があったと睨まれた。なんで睨まれたのだろう。よくわからん。
ともかく、僕はこの「ぜんざい」は苦手です。
食べ過ぎました。おなか一杯。店を出て、デジタルカメラでもう1ショット。
(左の奥にお店があります。お客さんが続々と……)

でも、このアベックは、結局入りませんでした。
M.A.P.after5でも、一度くらいは有名な公設市場を紹介しておかないとねえ。
豚みっつ。

色鮮やかな南国のお魚たちは、次の機会に。
2階の食堂へ。

食べたわけではないですよ。トイレを借りました。
外へ出て。外といってもアーケード。

ゴーヤーを買ったりして……
これからちょっと行きたいところがあるのです。
沖縄本コーナーの傍に貼ってあったポスター。七三刈り上げの津嘉山正種氏発見。
沖縄で瀬長亀次郎を知らない人はいません、なんて、ちょっと沖縄をかじったヤマトゥンチュにありがちな、ステレオタイプの思い込みでしょうか。
国際通りから平和通りに入ったところにある花笠食堂。
アイスティー飲み放題。
ライスは白飯と赤飯と玄米から選べる。昔はジュシーも選べたはず、とはカミサンの記憶だが、最近の彼女はテーゲーさが増してきているので、情報の正確性は疑わしい。
普通の沖縄の家庭料理。検索して出てくるブログなどでは、結構皆さんおいしいという評価。否定はしません。家庭料理が不味いわけない。でも、東京あたりで普通の家庭料理屋をやろうとしたら、相当美味しくなければ商売にはならないでしょう。沖縄は違う。むしろ普通の家庭料理のママがいい。このことは、東京の沖縄居酒屋でも同じことがいえる。それをどう考えるかは色々。
メニューによっては、モズクかぜんざいが選べる。
沖縄で「ぜんざい」といえば氷ぜんざいだろうと選んだが、やってきたのは違った。
考えてみれば氷がそんな昔からあるわけない。現代だって家庭で氷イチゴを食べるなんて、「家庭でたこ焼き」に匹敵する一大イベントだ。
テーゲーなカミサンによると、オバーたちはこれを甘菓子と言っていたらしい。ということは、ぜんざいといえばこの甘菓子のことだったのかと聞けば、あたしの子どもの頃はもう氷があったと睨まれた。なんで睨まれたのだろう。よくわからん。
ともかく、僕はこの「ぜんざい」は苦手です。
食べ過ぎました。おなか一杯。店を出て、デジタルカメラでもう1ショット。
(左の奥にお店があります。お客さんが続々と……)
でも、このアベックは、結局入りませんでした。
M.A.P.after5でも、一度くらいは有名な公設市場を紹介しておかないとねえ。
豚みっつ。
色鮮やかな南国のお魚たちは、次の機会に。
2階の食堂へ。
食べたわけではないですよ。トイレを借りました。
外へ出て。外といってもアーケード。
ゴーヤーを買ったりして……
これからちょっと行きたいところがあるのです。
tag: ジュンク堂(那覇店) 沖縄の呑食処.花笠食堂 国際通り 沖縄そば 津嘉山正種 沖縄の旅_2009年11月 ぜんざい
2009年11月21日(土)15時00分
第16回沖縄工芸ふれあい広場
那覇市ぶんかテンブス館。国際通りのほぼ真ん中。

臍(へそ・ほぞ)をウチナーグチで「フス」といいます。
「テンブス」はでべそのこと。
おお……

島袋常栄先生のシーサーがお出迎えです。
今日と明日の2日間、“第16回沖縄工芸ふれあい広場”が開かれているのです。
私達は、先日お邪魔した“やまあい工房”の上山弘子さんの作品を是非とも拝見させていただこうと、やってきました。

何と申し上げればよいのか。下手な感想を言えばボロが出そうで。布を評して「ボロ」は頂けない。安物の表現力と安物のデジカメでは、この美しさをお伝えできないことが残念です。

かりゆしウェアーです。一着30,000から。

とてもお忙しいらしい。つまり、制作依頼に作業が追いつかない。自分の作品を発表して販売する場所を探している若いものづくりの人たちが聞けば、さぞやうらやましがることでしょう。でもそのかわり、簡単には真似の出来ない大変なご苦労がある。オオシッタイにある上山さんの工房が目に浮かびます。
まさかそんな方が、私達のサイトに商品を提供してくださるなんてありえないと思っていました。ところが、それが実現したのです。

実際の販売開始はもう少し先になると思いますが、またお一方、強い助っ人ができました。後は若い人たちに、是非とも私達のサイトを知って貰って、利用して貰いたいと思っています。この指とーまれ!
臍(へそ・ほぞ)をウチナーグチで「フス」といいます。
「テンブス」はでべそのこと。
おお……
島袋常栄先生のシーサーがお出迎えです。
今日と明日の2日間、“第16回沖縄工芸ふれあい広場”が開かれているのです。
私達は、先日お邪魔した“やまあい工房”の上山弘子さんの作品を是非とも拝見させていただこうと、やってきました。
何と申し上げればよいのか。下手な感想を言えばボロが出そうで。布を評して「ボロ」は頂けない。安物の表現力と安物のデジカメでは、この美しさをお伝えできないことが残念です。
かりゆしウェアーです。一着30,000から。
とてもお忙しいらしい。つまり、制作依頼に作業が追いつかない。自分の作品を発表して販売する場所を探している若いものづくりの人たちが聞けば、さぞやうらやましがることでしょう。でもそのかわり、簡単には真似の出来ない大変なご苦労がある。オオシッタイにある上山さんの工房が目に浮かびます。
まさかそんな方が、私達のサイトに商品を提供してくださるなんてありえないと思っていました。ところが、それが実現したのです。
実際の販売開始はもう少し先になると思いますが、またお一方、強い助っ人ができました。後は若い人たちに、是非とも私達のサイトを知って貰って、利用して貰いたいと思っています。この指とーまれ!
2009年11月19日(木)23時59分
クガニゼークは遊女の指輪を作ったのか、と【廃藩置県】のこと少し
Banちゃんに連れられて、Banちゃんの知っている店へと向かいます。
ななしん屋の前を通って。

「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。
国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。

お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。
ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」
そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……

芹沢?介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。
確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。
実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里〜那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。
僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。
少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。
この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。
話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)
首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAX?”と“MAX?”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。
とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。

左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。
それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。
明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。
《追伸》
MAX CASAの暖簾です。

中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
⇒MAXのSHOP MAP(※デッドリンク)
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
⇒http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると(※そのページはもうありません)…
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。(※売り切れ)
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!
(※ページがないのでもう飛びません)
【参考情報集】
2006年6月3日発売の「うるま」6月号。

特集「沖縄の装身具」より
「技の語り部 金細工またよし 又吉健次郎」
(その「金細工」という文字に小さく「かんぜーく」とルビが振られている。しかしそれ以外、本文には「クガニゼーク」も「カンゼーク」も一切カナは使われていない。)
それに一つの房指輪が紹介されている。

「(この結び指輪は)遊女が身につけていたと推測されるものをお父さんの時代に復元した作品だという。又吉さんは、それを確認するために、五年前に元遊女に会った。すると彼女は、『いー、うれーうぬ指輪あったよ。名前はむしびゆびがね』といったそうだ。その遊女の母親がしていた指輪とそっくりだと話してくれたという」
⇒他の房指輪を見る
2006年7月20日に発売された雑誌「沖縄ちゃんぷるー」

又吉健次郎さんが紹介されている。
「かつて琉球王朝が存在していたころ、王府内には、金細工奉行所(かんぜーくぶぎょうしょ)という部署が存在し、献上品の真鍮で作られた酒器や身分の高い人々がつける装飾品などをつくっていた。その金細工の職人たちは首里に工房をかまえて、現在7代目となる又吉健次郎さんの先祖も首里の一角で仕事をしてきたという。父である誠睦さんは、民藝運動を行って熱心に沖縄に通っていた濱田庄司から、『琉球人に帰ってくれ』と言われ、勤めていた宝飾店での仕事をやめ、伝統の結び指輪や房指輪の復元に取り組んだ人だ」
健次郎さんが神業だったという父6代目誠睦さんも、伝統的な飾職一筋ではなかったということである。
2008年7月13日テレビ東京「匠の肖像」
その番組HPでは次のように紹介されている。
「16世紀、琉球王朝のお抱え職人だった金細工師(かんぜーくし)たち。金や銀などを素材に、金づちで形を作り出してゆく。それは王族の装飾品を始め、宮廷の人々の日用品となりました。又吉健次郎さんは、この伝統を受け継ぐ数少ない金細工師の一人です。」
【その他】
2002年4月
南風原文化センター
「匠の技にふれる 黄金細工(くがにぜーく)と鍛冶屋(かんじゃーやー)展」
⇒関連記事を読む
2005年8月
「JALリゾートシーホーク沖縄サマーフェスタ2005」
そのコメント。
「琉球王府御用達だった《金細工またよし》」
「沖縄の銀細工の匠のことを、地元では金細工(かんぜーく)職人と呼びます。」
2007年5月8日〜20日
「琉球伝統工芸銀細工作家 又吉健次郎氏の作品展と特別イベント」
10日:又吉氏講演会&普久原スージさんのピアノ弾語り
”琉球金細工(かんぜーく)と人々との出会い”
2007年8月
浦添市美術館
「沖縄の金細工(クガニゼーク)〜失われようとするわざ・その輝き〜」
(又吉さんが提出した資料にはご自分の工房について「かんぜーくまたよし」とある。)
2008年7月
第2回「白洲賞」受賞
旧白洲邸武相荘のHP、牧山桂子さんの署名記事に第2回受賞者を
「琉球伝統工芸 『金細工(かんぜーく)またよし』 七代目 又吉健次郎氏」
と紹介している。
2009年9月1日発売の「うない」
(「金細工」に全て「くがにぜーく」のルビが振られている。)
⇒関連記事を読む
2009年
「生きる×2」テレビ朝日10月18日放送、他。
「又吉健次郎さんは、金細工(くがにぜーく)と呼ばれる。」
「琉球王朝時代から続く金工職人の七代目。」
「廃藩置県や2度の大戦で殆どの職人が廃業し、現在は又吉さんの工房だけ」
ななしん屋の前を通って。
「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。
国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。

お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。
ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」
そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……

芹沢?介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。
確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。
実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里〜那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。
僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。
少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。
この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。
話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)
首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAX?”と“MAX?”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。
とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。
左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。
それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。
明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。
《追伸》
MAX CASAの暖簾です。
中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
⇒MAXのSHOP MAP(※デッドリンク)
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
⇒http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると(※そのページはもうありません)…
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。(※売り切れ)
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!
(※ページがないのでもう飛びません)
【参考情報集】
2006年6月3日発売の「うるま」6月号。

特集「沖縄の装身具」より
「技の語り部 金細工またよし 又吉健次郎」
(その「金細工」という文字に小さく「かんぜーく」とルビが振られている。しかしそれ以外、本文には「クガニゼーク」も「カンゼーク」も一切カナは使われていない。)
それに一つの房指輪が紹介されている。
「(この結び指輪は)遊女が身につけていたと推測されるものをお父さんの時代に復元した作品だという。又吉さんは、それを確認するために、五年前に元遊女に会った。すると彼女は、『いー、うれーうぬ指輪あったよ。名前はむしびゆびがね』といったそうだ。その遊女の母親がしていた指輪とそっくりだと話してくれたという」
⇒他の房指輪を見る
又吉さんのページに先立って、戦後直後から続く宝飾店が紹介されている。

2006年7月20日に発売された雑誌「沖縄ちゃんぷるー」
又吉健次郎さんが紹介されている。
「かつて琉球王朝が存在していたころ、王府内には、金細工奉行所(かんぜーくぶぎょうしょ)という部署が存在し、献上品の真鍮で作られた酒器や身分の高い人々がつける装飾品などをつくっていた。その金細工の職人たちは首里に工房をかまえて、現在7代目となる又吉健次郎さんの先祖も首里の一角で仕事をしてきたという。父である誠睦さんは、民藝運動を行って熱心に沖縄に通っていた濱田庄司から、『琉球人に帰ってくれ』と言われ、勤めていた宝飾店での仕事をやめ、伝統の結び指輪や房指輪の復元に取り組んだ人だ」
健次郎さんが神業だったという父6代目誠睦さんも、伝統的な飾職一筋ではなかったということである。
2008年7月13日テレビ東京「匠の肖像」
その番組HPでは次のように紹介されている。
「16世紀、琉球王朝のお抱え職人だった金細工師(かんぜーくし)たち。金や銀などを素材に、金づちで形を作り出してゆく。それは王族の装飾品を始め、宮廷の人々の日用品となりました。又吉健次郎さんは、この伝統を受け継ぐ数少ない金細工師の一人です。」
【その他】
2002年4月
南風原文化センター
「匠の技にふれる 黄金細工(くがにぜーく)と鍛冶屋(かんじゃーやー)展」
⇒関連記事を読む
2005年8月
「JALリゾートシーホーク沖縄サマーフェスタ2005」
そのコメント。
「琉球王府御用達だった《金細工またよし》」
「沖縄の銀細工の匠のことを、地元では金細工(かんぜーく)職人と呼びます。」
2007年5月8日〜20日
「琉球伝統工芸銀細工作家 又吉健次郎氏の作品展と特別イベント」
10日:又吉氏講演会&普久原スージさんのピアノ弾語り
”琉球金細工(かんぜーく)と人々との出会い”
2007年8月
浦添市美術館
「沖縄の金細工(クガニゼーク)〜失われようとするわざ・その輝き〜」
(又吉さんが提出した資料にはご自分の工房について「かんぜーくまたよし」とある。)
2008年7月
第2回「白洲賞」受賞
旧白洲邸武相荘のHP、牧山桂子さんの署名記事に第2回受賞者を
「琉球伝統工芸 『金細工(かんぜーく)またよし』 七代目 又吉健次郎氏」
と紹介している。
2009年9月1日発売の「うない」
(「金細工」に全て「くがにぜーく」のルビが振られている。)
⇒関連記事を読む
2009年
「生きる×2」テレビ朝日10月18日放送、他。
「又吉健次郎さんは、金細工(くがにぜーく)と呼ばれる。」
「琉球王朝時代から続く金工職人の七代目。」
「廃藩置県や2度の大戦で殆どの職人が廃業し、現在は又吉さんの工房だけ」
tag: 「クガニゼーク」のこと 沖縄の遊郭 国際通り 沖縄の呑食処.カフーシ 首里 100店.BAR 沖縄の旅_2009年11月 房指輪 結び指輪 ジーファー
2009年06月13日(土)03時32分
12日の26時(6月の沖縄6)
国際通りを歩いていたら、本物と思われる島バナナに遭遇。

ずんぐりむっくり。これだ!
⇒偽物らしき島バナナの記事を読む。
黄色くなったのをバラ売りしてた。

隣にはサトウキビが。
へえ、最近はちゃんと袋に入って売ってるんだね。
島バナナを3本150円で購入。
今日はまだ食べちゃダメ。明日まで待つこと。
バナナをポケットに入れて、“生活の柄”に向かいます。

西岡美幸さん、玉城さん、金城君、乾杯!
2時間後、宇夫方路さんは稽古へ。入れ替わって、長池朋子さんが合流。

お開きは深夜25:00過ぎ。
宿まで長池さんに送ってもらって26:00。
今朝、起きてから、既に22時間が経過……
ずんぐりむっくり。これだ!
⇒偽物らしき島バナナの記事を読む。
黄色くなったのをバラ売りしてた。
隣にはサトウキビが。
へえ、最近はちゃんと袋に入って売ってるんだね。
島バナナを3本150円で購入。
今日はまだ食べちゃダメ。明日まで待つこと。
バナナをポケットに入れて、“生活の柄”に向かいます。
西岡美幸さん、玉城さん、金城君、乾杯!
2時間後、宇夫方路さんは稽古へ。入れ替わって、長池朋子さんが合流。
お開きは深夜25:00過ぎ。
宿まで長池さんに送ってもらって26:00。
今朝、起きてから、既に22時間が経過……
tag: 長池朋子 西岡美幸 玉城郁恵 沖縄の呑食処.生活の柄 島バナナ 沖縄の旅_2009年6月 金城史彦 国際通り
2009年06月12日(金)11時50分
かりゆしウェアー(6月の沖縄1)
書斎のドアを開けて、そうしたら見えた夜明けです。

羽田を7時前に出発する一便の飛行機に余裕を持って乗るために、息子に頼んで羽田まで車で送ってもらいました。
息子は免許を取ったばかりで、車を運転したくて仕方がありません。でも自分の車など持てる身分ではありません。だからこんな時、親父の無理な頼みにもすんなり応えてくれるわけですが、はたして、いつまで都合よく運転手として息子を使うことができるでしょうか。
ともかく、息子に専用の車をあてがってやるなどという親馬鹿は決してしないことが肝要ですね。
沖縄へついて、まずは“かりゆしウェアー”を買うことを思い立ち、そこで国際通りのキーストーンへ向かいました。

購入した“かりゆしウェアー”に、さっそく着替えました。
郷に入れば郷に従え? いや、沖縄の懐に飛び込んでのゲリラ戦に備えた迷彩服、気分は戦闘服なのです。
おっと、ここは沖縄、なんとも危ない言葉遣い、反省。
いろいろと複雑な思いが重なっているのだとご理解いただき、どうかご容赦を。
つまり、たくさんの気になることがあって、それで東京を離れ難かったのだけれど、それらを押しても沖縄へ行くことを選択したのだということなのです。
なんだか、よくわからないはなしで申し訳ありません。
「いざ、出陣!」
またまた、やめなさい、そういう言葉を使うのは……
再度、ご容赦を。
ほんとうはね、戦う相手は、自分自身なのです。きっと。
旅の続きへ
羽田を7時前に出発する一便の飛行機に余裕を持って乗るために、息子に頼んで羽田まで車で送ってもらいました。
息子は免許を取ったばかりで、車を運転したくて仕方がありません。でも自分の車など持てる身分ではありません。だからこんな時、親父の無理な頼みにもすんなり応えてくれるわけですが、はたして、いつまで都合よく運転手として息子を使うことができるでしょうか。
ともかく、息子に専用の車をあてがってやるなどという親馬鹿は決してしないことが肝要ですね。
沖縄へついて、まずは“かりゆしウェアー”を買うことを思い立ち、そこで国際通りのキーストーンへ向かいました。
購入した“かりゆしウェアー”に、さっそく着替えました。
郷に入れば郷に従え? いや、沖縄の懐に飛び込んでのゲリラ戦に備えた迷彩服、気分は戦闘服なのです。
おっと、ここは沖縄、なんとも危ない言葉遣い、反省。
いろいろと複雑な思いが重なっているのだとご理解いただき、どうかご容赦を。
つまり、たくさんの気になることがあって、それで東京を離れ難かったのだけれど、それらを押しても沖縄へ行くことを選択したのだということなのです。
なんだか、よくわからないはなしで申し訳ありません。
「いざ、出陣!」
またまた、やめなさい、そういう言葉を使うのは……
再度、ご容赦を。
ほんとうはね、戦う相手は、自分自身なのです。きっと。
(文責:高山正樹)
旅の続きへ
tag: 沖縄の旅_2009年6月 国際通り
2009年03月27日(金)23時20分
またもや宇夫方路の沖縄報告その13(最終日)
16:00、琉球新報。
7:00、沖縄タイムス。
そこで受付の山田早希さん(左から2番目)を囲んで記念撮影。

(山田さんの右から玉城さん、金城君、そして宇夫方隆士、父です。)
国際通りで買い物。

キーストーンというお店。金城君お勧め。
いってみればM.A.P.のライバル。でも私たちは正直に、いいものならばライバルだってなんだって紹介していきます。
だから、当ブログを、今後とも御贔屓に!
わたくし宇夫方路は、18:00より稽古。
これをもちまして、今回の「またもや宇夫方路の沖縄報告」は終了です。ご愛読、ありがとうございました。
⇒沖縄報告その1から読む
7:00、沖縄タイムス。
そこで受付の山田早希さん(左から2番目)を囲んで記念撮影。

(山田さんの右から玉城さん、金城君、そして宇夫方隆士、父です。)
国際通りで買い物。

キーストーンというお店。金城君お勧め。
いってみればM.A.P.のライバル。でも私たちは正直に、いいものならばライバルだってなんだって紹介していきます。
だから、当ブログを、今後とも御贔屓に!
わたくし宇夫方路は、18:00より稽古。
これをもちまして、今回の「またもや宇夫方路の沖縄報告」は終了です。ご愛読、ありがとうございました。
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tag: 琉球舞踊 キーストーン 琉球新報 沖縄の旅_2009年3月 国際通り 沖縄タイムス 山田早希 玉城郁恵 金城史彦 宇夫方隆士
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