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「フクギの雫」を観てきた(12/2~3のツイートまとめ)

【宇夫方路の呟き】

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宮森小米軍機墜落事件てご存知ですか。その事件を題材にした「フクギの雫」というお芝居が明日後楽園のシビックホールというところであるのですが、別の用事で見られなくなりました。でも縁があって、今日、和光小学校で生徒さんと一緒に見せていただける事になりました。
12-02 11:12

 ⇒630宮森小学校米軍ジェット機墜落事件のこと

和光小学校

【高山正樹の呟き】

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「フクギの雫」を観てきました。大隈講堂の「人類館」の時も思ったのだけれど、僕、一応芝居のプロなので、この手の芝居について何かモノを言うのが難しいのです。純粋に芝居の「出来」については、やはり棚上げして語るべきなのかなあ、と。
12-02 23:14

プロの芝居ではないし、大変好感が持てたので「出来」は棚上げします。宮森小米軍機墜落事件の知識があれば特に新しい事実を知ったと言うわけではないのですが、被害者としてだけではなく、沖縄の基地の加害性まで視野に入っていたことが胸に沁みました。(続く)
12-02 23:21

(続き)我々「ヤマト」は、沖縄の人々に加害性まで負わせてしまっている。我々は基地を沖縄に集中させることで、基地から飛び立つ戦闘機の行く先に対して加害者であるのだという認識から逃れ、無自覚に暮らす平安を得ている。「フクギの雫」にあらためてそのことを教えられました。 #沖縄
12-02 23:30

翻って、現在の「フクシマ」の「加害性」についても考えています。そこに「沖縄の基地の加害性」を照射させることで、何かが見えてきそうなのですが、今しばらく考えてみます。 #原発 #沖縄 #放射能
12-02 23:34

さらに「フクギの雫」について。やはり琉球舞踊(沖縄の踊りと言った方が適切か)と歌三線(若いから少しポップだったが)は不可欠なのですね。「沖縄問題」の関わるヤマトの市民運動家の多くが、このことを理解していない(僕がよく理解しているわけでもないのですが)と思うのです。
12-02 23:54

大震災から267日目になる……

御幣を怖れず。「フクシマの農家の加害性」を言う意見を強烈に批判する者は、「フクシマの農家」に寄り添うことによって、自らの中に存在する「原発問題の加害性」から心理的に逃れているのではないか。←僕の今後の思考の端緒です。 #原発
12-03 00:03

今年の流行語大賞が「なでしこジャパン」だとはねえ。それにしてもなでしこジャパンの、えーと、沢選手じゃなくて、今年なでしこリーグでMVPを獲得したあのかわいい選手は、お笑いのココロコの、えーと、田中じゃないほうの、ちょっといい男の彼に似ている。
12-03 00:48

tag: 宮森小事件 

キジムナーフェスタ2日目【うやまいくとぅば・ずいせん・武州丸・630】

キジムナーフェスタの本筋は山猫合奏団のOfficial_Siteの方でご覧頂くとして。
 ⇒http://lince.jp/lince/acorns_history/korinza.html
 ※デッドリンク(身勝手な音楽家のために)

こちらはM.A.P.after5的話題を。
昨日ウチナーグチで口上したということはご報告しましたが、本日分をyouTubeにアップしました。ちょっと聞きずらいですが、まあお聞きください。最後の余計な楽器紹介は聞かなくてよろし。

やっぱりほとんど聞き取れませんな。ましてやウチナーグチ、ナイチャーに分かるわけないね。
では、実況中継風に文字に起こしてみましょうかね。
ぐすーよー、はじみてぃやいびーん(皆様、始めまして)」
(お客さん笑:まずナイチャーがウチナーグチを使ったというサプライズと親近感。これで掴みはバッチリ)
わんねー、山猫……ええと、ヤマ…マヤー小(ぐぁー)、合奏団ぬ、高山正樹やいびーん。みーしっちょーてぃくみそーれ(私は山猫合奏団の高山正樹です。お見知りおきくださいませ)」(お客さん拍手)
とーちょーから、飛行機から、ちゃーびたん(東京から飛行機で来ました)」
(笑い:「〜から」も「〜で」も、ウチナーグチはどちらも「から」を使います。そのあたり、くすぐりもうまくいきました。)
ゆたさるぐとぅうにげーさびら(よろしくお願いいたします)」
(ちょっと笑い。ここで前列のきょとんとしている子供たちをいじくってウケてますが、実はそれで時間を稼いで次の言葉を思い出していたのです。)
「今日は雨の中、(本当は「ちゅーやあみぬなーか」と言わなければならなかったのですが出てきませんでした。)わじゃわじゃめんそーち、うたびみそーち、(わざわざおいでをたまわりまして:ここでお客さんの小さな笑いが起こります。これ沖縄の人でもなかなか使いこなせないような、首里あたりのお年寄りが昔使っていたような、立派な敬語なのです。きっとびっくりされたんだろうな)いっぺーにふぇーでーびる(ほんとうにありがとうございます)」(大爆笑)

こうなれば、後はたいがい何をやっても大丈夫。そういう幸運な時間は、そうそうやってくるものではないのです。役者にとって至福の時間といっても過言ではありません。急遽電話で教えてくださった、親富祖恵子先生に感謝感謝です。

この日の公演から。“きのこの楽隊”チェロ入りバージョン!


プリティー千恵ちゃんが観に来てくれました。
宮城巳知子さんのオーディオブックを、早く作らなければいけないと思いつつママなりません。もしプリティー千恵ちゃんが東京の近くに住んでいれば、ことはトントンと運ぶだろうに、でもそうはいかない。この困難の中で、なんとしてもやらなければならない仕事なのです。
誰もが知っている“ひめゆり部隊”。ほとんど知られていない“ずいせん部隊”。伝えなければいけないことがあるのです。

この日、千恵ちゃんが言ったこと。「武州丸って知ってましたか、わたし知らなかった」
対馬丸は、どうにか多くの人に知られるようになったけれど、武州丸を知っている人はほとんどいません。なぜ?犠牲者が少なかったから?奄美の徳之島だから?
そのうち、M.A.P.after5で、詳しくお伝えできればと思っています。

会場のコリンザ一階のホールでは、集まる子供たちに向けた特設絵本売り場があります。そこで千恵ちゃん、お友達とバッタリ。お友達のお名前は磯崎主佳さん。
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(左から千恵ちゃん、主佳さん、宇夫方路)
磯崎主佳さんは数多く絵本の挿絵を手がけていらっしゃいます。そのうちの一冊がこれです。
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6月の空。先日ご紹介したばかりの宮森小学校米軍ジェット機墜落事件を題材にした絵本です。

本当に、日本人が知らないことがいっぱいあるのです。
 ⇒関連記事「ひめゆり部隊とずいせん部隊のこと」

お昼です。迷いに迷って、結局会場内で売られていた秋刀魚弁当を食べました。尻尾がはみ出しているのに思わず引かれて。
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プリティー千恵ちゃんが食後のデザートを奢ってくれました。
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高山正樹は唐辛子入りのアイスクリームを食べたのですが……
「決して不味くはないけどさ、入れる意味がわかんない……」

実は主佳さんはキジムナーフェスタ事務局の大池さんの奥様。
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今回、山猫合奏団は大池さんに何かとお世話になりました。また大池さんご夫婦は、沖縄に移り住む前はM.A.P.の事務所と比較的近いところにお住まいで、沖縄の居酒屋をひとつ教えていただきました。今度行ってみよう。

さて、あと一回最後のステージ、気を引き締めていきましょう。

tag: 沖縄の旅_2010年7月  ずいせん学徒隊  沖縄の食物  宮森小事件  対馬丸  プリティちえちゃん  うちなーぐち  キジムナーフェスタ  親富祖恵子 

宮森小学校米軍ジェット機墜落事件《普天間基地の危険を想像してみる》

6月30日
宮森小学校米軍ジェット機墜落事件のあった日


今からおおよそ半世紀前の今日、1959年の6月30日、嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が旧石川市の宮森小学校に墜落、児童11名を含む17名が死亡、負傷者は212名に上った。
事故の原因や賠償の問題など、沖縄の米軍絡みの事故にいつもつきまとう話しが、この事件にも当然のようにある。

『沖縄大百科事典』によると、この事件が沖縄での反基地闘争の萌芽となり、復帰協結成へと進展していったという。当時、世界の航空史上稀な大惨事として内外に報道されたというが、生まれたばかりの僕にその記憶があるわけもなく、以来、一度も聞いたことがなかった。
僕はこの事件のことを、先日の文京区民センターで初めて知った。

1999年、琉球朝日放送が、宮森小学校米軍ジェット機墜落事件の原因は、当時発表された不可抗力などではなく、明らかな人為的ミスであったという米軍の事故報告書を公表する番組を制作した。しかし今現在まで、米軍は対外的には墜落原因を公表していない。

決して過去の話ではない。2004年の8月、米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した事件は記憶に新しい。

大江健三郎風に言えば、こうした事故に対する想像力を持っている者ならば、普天間基地と共存するなど考えられないであろう。ただ目先の利益のために、あえて想像力を働かせないことに慣れてしまった者たちだけが、沖縄の基地に依存して生きていることを言うのである。

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仮に今の普天間基地の現状を知りながら、その危険を感じることができないとしたら、刺激的な情報の氾濫する中で、等身大で正常な想像力を失ってしまっているのかもしれないと、一度自らを疑ってみることが必要なのかもしれない。

よく聞かれることだが、はじめは基地の周りには何もなかった。後から住民が移り住んできたのだという主張。それは元々どういうふうに住民が土地を奪われたのかとか、普天間基地返還の計画とか、沖縄の土地の少なさとか、諸々の事実を全く考慮しない薄っぺらな議論であるということはさておいても、正常な想像力が機能していれば、どういう理由で基地周辺に人々の生活圏が形成されたかという理由がどうであれ、異常さを感じる取る想像力の結果に変わりはないはずなのだ。自殺しようとしている男が、今にもビルの屋上から飛び降りようとしている光景の恐怖感は、その男の人となりとはなんの関係もない。

静岡空港は、滑走路の延長上に成長した木があってその開港が大幅に遅れた。それは間抜けな話しだと笑って済ませることもできるが、普天間基地の滑走路延長上には、もっと危険な建造物が建っていて、米軍機はそれを避けて離着陸をしているのである。当然、日本の法律でも空港のそばにあってもいい基準を其の建造物は全く満たしていない。しかし日本政府は、普天間は米軍施設であって日本の航空法を適用する飛行場ではないと嘯くのである。当然、米軍の基地建設の条件からもかけ離れているのである。(このことは、近日中に別記事で書く。)

ちなみに、宮森小学校米軍ジェット機墜落事件を忘れないための講演活動を続けていらっしゃるのは、1945年6月23日に摩文仁で自決したとされる牛島満中将の御息子、牛島貞満さんである。
その貞満さんはこう語った。
「軍隊は住民を助けることはない。父がそれを証明している」と。

tag: 牛島満  牛島貞満  宮森小事件  沖縄この日何の日  普天間  沖縄大百科事典 

《伊波洋一の講演》【普天間飛行場の危険】と【島尾伸三写真展】

日高さんの案内で、水道橋の文京区民センターへ。
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宮森小学校米軍ジェット機墜落事件51周年と銘打った伊波洋一宜野湾市長による普天間基地関連の講演。

会場の様子ですが……
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(前の席は仏教関係の方ですね。近頃、こうした集会によく参加されているようです。)
宇夫方女史がデジカメをサンディエゴに持っていったので、加えて携帯電話のカメラなんか滅多に使わないので、こんな写真しか撮れませんでした。

この会で配布された資料の中に、こんな記述がありました。
「サンディエゴ市のフェルナンデス上級政策補佐官は、『閉鎖される海外基地を多く受け入れたい』と語っており、普天間飛行場の受け入れ実現の可能性を示唆しました。」
このことについて、補足の説明が必要です。できれば、宇夫方女史がサンディエゴにいるうちに彼女に伝え、現地の人と話してきてもらいたいと思っていることなのですが、きっと間に合わないでしょう。
帳簿なんかと格闘していなければ、もっと準備ができたのにと、残念でなりません。

今日のことは、宇夫方女史が帰ってきたら、あちらの情報(たぶん不十分な情報)を一応聞き取り、それを合わせて整理して、日を改めてご報告したいと考えています。
※【追伸】(8月13日)
 未だ報告できません。⇒理由はこちら

その後、水道橋から千駄ヶ谷へ。智内さんに誘われて、島尾伸三氏の写真展にお邪魔しました。青山タンバリンギャラリー。
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(かりゆしウェアっぽい服を着ている後姿の方が島尾伸三氏です。)
今日が最終日ということで、到着した時には、もう皆さんビールを飲んでいらっしゃいました。
展示写真を片付け、近くの居酒屋へ。すっかりご馳走になってしまいました。

島尾氏からとても興味深いお話を伺ったのですが、果たしてどこまでブログに書いていいものか、ただ今思案中です。こちらはいずれ、本記事に追記したいと思います。お楽しみに。むふふ……

妻子に逃げられたらしい智内好文…w
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【思い切って書いちゃうことにしました】
以前、M.A.P.after5でご紹介した話。まずはそちらをお読みください。
 ⇒文藝家協会訪問記(島尾ミホと宮城まり子)
この話を、島尾伸三氏にしたのです。すると、伸三さんの反応は意外でした。
「へえ、あのふたりはものすごく仲が悪かったのだが。島尾敏雄と吉行淳之介の方は確かに仲がよかったけれど。きっと、あんたが行くなら私もって張り合ったのでしょう」
真偽は分かりません。僕が島尾ミホさんと宮城まり子さんにお会いした時には、すでに島尾敏雄氏も吉行淳之介氏もお亡くなりになっていたのですから、嫌いなのに連れ立って出かける必要など、もうなかったようにも思いますし。でも仲が悪いということが、息子である伸三さんにしか分からないような、ミホさんもまり子さんもそぶりさえ見せないような微妙な真実だったとすれば……、いずれにしろ、島尾一家の、他人にはうかがい知れない深い影を、あらためて感じたのでした。

「僕はミホさんの父親役をやったのです。」
「そうですか。島尾敏雄の家は東北の田舎もんですが、奄美のファミリーはねえ。祖父はね、薩摩の目を盗んで、奄美の木を切りまくってシベリア鉄道の枕木のために売り飛ばした男です」
「へえ、いや、僕は島一番の名士で、単にいい人みたいに演じちゃいました。なんとも薄っぺらだったなあ。」

もうひとつ。奄美にやってきた若き特攻隊の隊長と島のおひーさまの恋について。
「ロリコン男がまだ何も分からない島の少女をたぶらかしたってことですよ。僕は、両親から何ひとつ恩恵を受けていない」
読者の皆様、この話も、決してストレートに受け取ることのありませんように。

物事は、まったくもって単純ではなく、見方を変えれば、全く違う相貌が現れるのだということを、この日、伸三氏は、ユーモアを持って、語ってくださったのだと思うのです。

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tag: 宮森小事件  奄美  島尾伸三  智内好文  日高  普天間