シンポジウムでの舞台再現のための稽古(中川和恵さんと)

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結局昨夜は寝てしまった。早起きして上映会会場の設営。その後、小川先生を車で迎えに行って、10時から事務所でシンポジウムのための稽古。女優の中川和恵さんのお相手。本役ではないが、シンポジウムだけ渡嘉敷守良を演じ三線も弾く。「かぎやで風」、中川さんは渡嘉敷流。ふーん、ずいぶんと違う。
02-22 12:38

「大いなる家族」のシンポジウムのための稽古
かぎやで風(渡嘉敷流)

小川信夫先生と中川和恵さん

当日、髪の毛どうしましょうか、みたいな話。
中川和恵さん

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懇親会にて

《4月24日(日)-2》
一方、高山正樹は日曜日なので昼から市民劇の稽古。

少し早めに切り上げて、最後の追い込みを前にして稽古場にて懇親会。本当は稽古がハネたらすぐに山猫合奏団の合わせにいく予定だったのですが、それを変更して懇親会に参加したのにはワケがありました。でも、そのことは後日書きます。

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さて役名紹介ですが、こんな引きの画像じゃ無理ですね。
でも、この日熱弁を振るわれた劇団民藝の今野鶏三さんの画像ならあります。34人目のNewFaceです。でも今野さんのことは4月11日の記事でご紹介する予定、本日は役名のみ。
今度の芝居で極悪人扱いされている北条時政を演じる今野鶏三さんです。
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人相だけで言えば右下にお顔だけ写っている今回の「枡形城・落日の舞い」の作者、小川信夫先生の方がずっと悪人面ですな。
 ⇒小川信夫先生を紹介した記事を読む
でもM.A.P.after5のスタッフ・キャスト紹介カウント的にはNewFace、これで35人。

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この方式でもうおひとかたの小川さんを紹介しましょ。

今野さんの脇の下から半分お顔が覗いているのが、小川がこうさん。がこうさんについては、すでに御紹介済み、NewFaceではありません。
 ⇒小川がこうさんを紹介した記事を読む
でも役の御紹介がまだ。がこうさんは主人公重成を父、小山田有重を演じます。

これで役名+スタッフ紹介は25+3名です。

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いっそがしいんだもん

《4月9日(土)~10(日)》
東日本大震災から29日目(神奈川)

朝。京王線稲田堤駅と南武線の稲田堤駅の真ん中くらいにある菅会館。
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そこで市民劇のシンポジウムがあった。
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話をするのは作者の小川信夫先生と演出のふじたあさや氏。僕はというと、クソ忙しいのである。だからいくら自宅から近い場所とはいえ、わざわざ来る予定ではなかった。ところが、小川先生に琵琶の演奏を披露してくれと頼まれてしまった。お年寄りは大切にしなければならないのである。だから、僕は琵琶を担いでやってきて、芝居の冒頭部分で僕が琵琶を奏でるシーンを御披露した。
さて、これでお客さんが何人増えたか、あるいは減ったか…

その後、山猫合奏団の試演会。


夜は市民劇の稽古。

後日執筆します。

だっていっそがしいんだもんさあ……

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「東国」のアクセントに拘ってみる

年明け最初の稽古です。
場所は、川崎区にある京浜協同劇団の稽古場。
京浜協同劇団の看板
「全日本リアリズム演劇会議」か、歴史を感じますねえ。

null僕の名前が抜けていたチラシですが、それも修正してくださいました。
しかし「順不同」ってなんなのでしょう。決してデジタルでランダムな処理をしたわけでもなさそうですし、後から付け加えた僕の名前が最後というのが、ランダムでない証拠。まあ「順不同」というのは、並べた順に特段の意味はありませんから気にしないでくださいという意味なのでしょうからいいんですけれど、これだけの人数の最後に並べられると、いくら「順不同」と但書があっても、なんとなくこそばゆい感じがするのです。真ん中あたりにそっと紛れ込まして頂ければ心穏やかだったのに、なんて。

新しいチラシでは最後なのですが、実際の舞台ではどうやら最初に声を発することになるらしい。役名は「旅僧(たびそう)」。いわば能におけるワキ。ストーリーテラーに話すきっかけを与え、それから始まる物語では聞き手という役どころです。

芝居は旅僧の名乗りから始まります。そして主人公稲毛三郎重成の妻である綾子の化身の蝶に誘われ広福寺にたどり着く。そこで、ひとりの老女に出会います。その老女は、かつて重成の侍女頭であった八重。この八重がこの芝居のストーリーテラーで、目の前の旅僧に昔を語って聞かせるという形で舞台の前半は進んでいくのです。
つまり、本筋だけなら旅僧なんていなくても十分成立するのですが、しかしそのスパイスみたいな存在によって、芝居は二重三重の構造となって深さが増すというわけ。古の平安を現代に繋ぐ役割といっては言い過ぎでしょうか。しかし、スパイスは好みの別れるところ、なんとも責任重大であります。


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さて、配役が100%決まっての初稽古、まずは頭から読み方や発音、アクセント(日本語の場合はイントネーションと言ったほうが適切かもしれませんが)などのチェックです。「鼻濁音が乱れていますねえ」という演出ふじたあさや氏の指摘。軽いジャブですな。

しかし、沖縄の言葉やその歴史を学び初めてから、僕は鼻濁音についての印象がすっかり変わってしまいました。特に最近、唄三線で古典を習うようになって、意識しないと出てしまう鼻濁音を、逆に封印する練習ばかりしているのです。鼻濁音を一切使わないというのもなかなか難しいのです。

でも、今回は平安の時代劇をやろうとしているわけですから、鼻濁音を「正しく」使うことは、必要なことなのでしょう。ただ、あたかも役者はいつでも「正しい鼻濁音」を使わなければならないと言い切ってしまうような表現は、それは違うのではないかと思うようになりました。

今までもM.A.P.after5や「社長とは呼ばないで」などで、鼻濁音について色々と書いてきました。そのいくつかをどうかお読みください。
 ⇒沖縄語の音韻講座、プロローグ(1)
 ⇒日本語の二大美点?
こんなことを言うから僕はまた敵を作るわけなのですが、性分なので仕方がありません。

仕方ないついでにもうひとつ言っちゃうことにします。

旅僧の「名乗り」は次のような台詞です。
「これは、諸国一見の僧です。このほど鎌倉に参り、寺社をめぐり、いくさの跡を尋ねての帰り道、足を伸ばして、東国の、鎌倉殿ゆかりの寺々に参ろうと思いまする。」

僕はこの中の「東国(とうごく)」のアクセントを( ̄___)と読んだのです。しかしこれに対して、ある超有名劇団のベテラン俳優さんからこんな御指摘を頂きました。「東国」を( ̄___)と読んでは「唐の国」に聞こえる。(_ ̄ ̄ ̄)が正しいのではないか。
ありがたき御教授、まず僕は、素直に受け入れて読み直することにしました。しかし何故かしっくりこない。
僕が「東国」を( ̄___)と読んだのには、それなりのワケがあって、僕の固い脳みそが、その「ワケ」をリセットできずにいるらしいのです。
「東国」を( ̄___)と読んで「唐の国」に聞こえるか否かはともかくとして、「東国」という言葉を実生活で使うことがあったとしたら、確かにおっしゃられる通り、僕も間違いなく(_ ̄ ̄ ̄)と発音します。にもかかわらず、この芝居において「東国」を( ̄___)と読みたいと思ったのは何故なのか。

その大きな要因として、この芝居の冒頭の「名乗り」を、「様式的」にしなければならないということがありました。
といって、能や狂言そのままに演ずるわけでもない。いったいどのように「様式的であること」を表現すればいいのか、まだまだ決めることはできません。そこでまず僕は、一音一音を浄瑠璃のように粒立てて語ってみること、そしてそれに加えて、「東国」を( ̄___)と読んでみることで、古典的な様式の「感じ」を付加することが出来るのではないかと思ったのです。
そう思ったのは感覚でしかありません。しかしその感覚は、僕のいくつかの知識やこれまでの経験によって、僕自身にはそれなりに根拠がありました。

日本語のアクセント(イントネーション※以後アクセントに統一)は、大雑把に言えば東と西の系統に大別され、いわゆる「標準語」はもちろん関東系、特段の地域性を芝居に持たせないのならば、たいがいそれ準じます。まして今回の芝居は東京に近い川崎の郷土劇なのですから、「標準語」のルールに従うのは当然でしょう。

しかし、古くは日本において関西のアクセントしかなかったという説を聞いたことがあります。少なくとも、古典的な芸能の多くは、京都あたりで成立したようです。「東国」を( ̄___)と発音するのが関西系のアクセントであるかどうか、その正確な知識は持ち合わせていないのですが、古典芸能のアクセントが、いわゆる標準語のアクセントとちょくちょくこれに類した差異を示すという感覚が僕にはあります。
そこで、(_ ̄ ̄ ̄)と発音するのが現代ではしっくりくる言葉を、あえて( ̄___)と発音することによって、一種の古典的な雰囲気が表現できるかもしれない、これが、僕がこのアクセントを選択した「ワケ」です。

そうした「理屈」が独り善がりなものであれば、勿論とっとと捨て去るべきですが、さて。

今から30年以上前のこと、「宗論」を演じたことがあります。しかしそれは狂言でも落語でもなく、台詞つきの日舞でした。
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指導してくださったのは名古屋の花柳流の重鎮、花柳芳五三郎師の御曹司である花柳伊三郎さんです。その冒頭にこんな台詞がありました。
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「まかりいでたる者は、都、東国の僧でござる。この度、思いたって……」

これが伝統的な台詞、文言であるのかどうかは不案内なのですが、少なくとも狂言の名乗りではありません。狂言の名乗りなら「このあたりの者でござる」というだけ、名乗らないのが狂言の名乗りで、こんな風に素性を明かしてしまう名乗りは狂言にはありません。
もしかすると、伊三郎さんの実験的創作であったのかもしれませんが。

この時、この「東国」を( ̄___)と伊三郎さんの口伝で語った微かな記憶が僕にはあるのです。とはいえ、名古屋出身の伊三郎さんですから、それだけの原因で( ̄___)と発音されたのかもしれません。だとすれば、これもいつまでもこだわるような話しではありませんが、確かにその時の経験によって、ひとつの感覚が植えつけられたということも事実のようです。

それから数年後こと、ひょんなことから、僕は講釈師の小金井芦州の弟子となり、今はなき本牧亭で前座を務めるような短い一時期がありました。
 ⇒28年の時を隔てて【小金井芦州のこと】
僕は芦州からよく「訛ってやがるなあ」と言われました。子供の頃3年ほど京都に住んでいましたが、これでも山の手生まれの山の手育ちです。訛っている自覚は全くないのですが、どうやら標準語と江戸弁の講談とでは、その発音もアクセントも似て非なるものだったようです。

講談には台本があります。しかし、修行はもちろん全て口伝です。
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最後の講釈師と言われた名人との一対一の稽古、それは貴重な時間でした。そしてこの経験においても、「東国」を( ̄___)と発音する「感覚」は、むしろ補強されたというふうに、今思い起こしてみると感じるのです。

最近、落語を演ずる機会がありました。三笑亭夢丸さんの新江戸噺のひとつ、「紅い手」という怪談噺を朗読するという企画です。
その「紅い手」の中に、「中仙道」という言葉が出てきました。普通に語れば「なかせんどう」は(_ ̄ ̄___)です。それが山の手で育った僕の感覚です。しかし、夢丸さんからお借りしたテープでは、師匠は( ̄_____)と語っていらっしゃいました。落語は個々自由な芸ではありますが、言葉の発音やアクセントなどの基本は口伝です。何度かその通りになぞっているうちに、なるほどこの方が、落語にはしっくりくると感じられ始めたのです。終演後、文芸評論家の大友浩さんとお話をさせて頂きました。その際、大友さんも中仙道をやはり( ̄_____)とおっしゃられたのを聞いて、なるほどとあらためて納得したのでした。

後で調べて分かったことなのですが、中仙道を( ̄_____)というアクセントは、少し古い言い方であるらしいのです。東海道もやはり古くは( ̄_____)といっていたらしい。そういえば小金井芦州の「芦州(ろしゅう)」も、若い人たちは(_ ̄ ̄先生)と言っていましたが、年配の方々は( ̄__さん)と呼んでいらっしゃいました。

因みに、僕の手元にあるNHK編の『アクセント事典』(昭和41年発行)には、「中仙道」も「東海道」も、そして「東国」も、ふたつのアクセントが併記されているということを付け加えておきましょう。しかし全て二字目上がりのほうが先の表示ではありますが。
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さてここで、ご存知の方も多いでしょうが、山田耕筰氏が作曲した「赤とんぼ」の歌詞の「あかとんぼ」のイントネーションについてお話しようと思いました。しかし、先にご紹介した大友浩さんが、それについて僕などよりはるかに深い薀蓄を書いていらっしゃるサイトを見つけたので、そのリンクを貼り付けておくことにします。是非お読みください。
 ⇒http://www.honza.jp/author/5/otomo_hiroshi…
(※但し『アクセント事典』では「あかとんぼ」は(_ ̄ ̄__)の記述しかなく、落語では常識という( ̄____)の記載はありません。)

さて、では「東国」をどうするか、いまだ結論は出ていないのです。しかしです。僕は始めに「『東国』を( ̄___)と読んで『唐の国』に聞こえるか否かはともかくとして」と書きました。しかし、舞台の上でお客様に言葉を伝えるのが仕事の役者たるもの、発した言葉が正確な意味で伝わるかどうかは、「ともかくとして」しまうようなことではないはずです。その意味では、僕のアクセントについて御指摘くださった大先輩のお言葉には、しっかりと耳を傾けなければならないのだろうと思います。
(文責:?山正樹)


ということで(というか、にも関わらず、というか)、色々な方に聞いてみることにしたのです。そしてまずは身近な方々に聞いてみることにしました。それから、今後も引き続き聞いてみようと思っているのです。粘着気質の役者の試み。それらは《続き》でご覧あれ……

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tag: 京都  方言  小川信夫  ふじたあさや  「枡形城落日の舞い」  朗読 

小川信夫先生のお宅へお年始に

昨夜は本部に泊まり。
そして朝。

12月4日の富士山
12月4日の富士山

そして今日の富士山。
今日の富士山
富士山の手前に見える山並みは丹沢にしては少し近過ぎる。もう少し近距離の神奈川の山地であろうか。富士山は11月の半ばからもう真っ白で、以降どの日の画像の富士山も同じ様子だが、手前の立ち木の葉の繁り方が違う。

ここは8階である。狛江市の町並み、その先に多摩川が流れ、その向こう岸が川崎市多摩区、よみうりランドの高台も見える。
「桝形城・落日の舞い」に、こんな稲毛三郎重成の台詞がある。
「多摩川沿いに多摩の横山に並んだ稲毛一族の山城は、すべて鎌倉の北の守りだ。」
その「多摩の横山」あたりまで見渡せているはずだ。山といっても100mもない丘である。標高83.9mの桝形山は左の方、さらに低いところにある小沢城址は、画像中央から少し右といったところだろうか。

その横山の麓あたりでは、今でも“のらぼう(野良坊と書くとか)”という野菜が作られているらしい。僕は今度の台本で初めてそんな名産のあることを知った。家の連中にも教えてやろうと話してみたのだが、「知ってるよ」と、あっさりした無感動の返答が帰ってきた。年中ではないが、“のらぼう”は近くのスーパーでも売られているという。子供が通っていた小学校の給食には、ちょくちょく食材として使われていたらしい。なんのことはない、“のらぼう”を知らなかったのは、子供の運動会に一度も顔を出したことのない父親だけであった。

その小学校の校歌を作詞されたのが、「桝形城・落日の舞い」の作者である小川信夫先生。子供たちは、例えば沖縄で初めて芥川賞を受賞した沖縄文学界の第一人者、大城立裕先生と親父が仕事をしていても、「ふーん」てなもんだが、自分の小学校の校歌を作詞した先生に会ったと言ったら「すごい」ときた。

昨年暮れ、その小川先生からお誘いを受けていた。そこで今日、お年賀に伺った。「桝形城・落日の舞い」の制作を担当されている関昭三さんもいらっしゃった。関さんは川崎市民劇場の代表、その前身は、かの京浜労演で、関さんはその創設から携わっていらっしゃる。

1967年の山本安英の会「夕鶴」から始まる川崎の市民演劇鑑賞会のおおよそ300回の上演記録を眺めれば、日本の新劇の歴史そのものを見るようだ。

……文化座「炎の人」、劇団東演「どん底」、文学座「女の一生」、俳優座「人形の家」、東京芸術座「蟹工船」、三十人会「日本の教育1960」、東京演劇アンサンブル「ガリレオガリレイの生涯」、劇団仲間「森は生きている」、民藝「奏山木の木の下で」、テアトル・エコー「11ぴきのねこ」、青年座「からゆきさん」、劇団四季「エクウス」、文化座「サンダカン八番娼館」、前進座「さんしょう太夫」、五月舎「薮原検校」、フォーリーズ「おれたちは天使じゃない」、自由劇場「上海バンスキング」、文化座「おりき」、こまつ座「國語元年」、青年座「ブンナよ木からおりてこい」、知人会「薮原検校」、劇団昴「アルジャーノンに花束を」……

しかし、それよりも前、京浜工業地帯の労働者に演劇という文化の種を蒔こうとした時代の話が興味深かった。だいたい「労演」にしても「労音」にしても、政党的な匂いをどうしても拭い去ることができない。振り返れば、それが演劇にとって「正しいあり方」であったのかどうか、決していい印象ばかりではない。とはいえ、演劇に刺激を受けた労働者によって日本を変えるという野望が、大きなエネルギーを持っていたことだけは確かだ。だが、関昭三さんが半世紀もの間、演劇鑑賞会の仕事を続けてこられたのは、そんな大層な理由とは少し違うところにあったようだ。演劇に携わる人たちが、実に楽しそうに生き生きとしていた。その魅力が、きっと関さんをこの世界に繋ぎとめた。そうだからこそ、回りの人たちも関さんを信頼して支えてこられたのかもしれない。そんなお人柄が今の関さんからにじみ出ている。

「川崎の労働者」と聞けば、僕はどうしても「沖縄」を思い起さずにはいられない。京浜労演はその立ち上げの頃、沖縄から出稼ぎに来ていた労働者の人々との関わりもあったのかどうか、でも、この日はそこまでお聞きすることはできなかった。いずれお伺いする機会があればとも思っているのだが。

左から、関昭三さん、岩崎明さん(小川先生の古いお知り合い)、そして小川信夫先生ご夫妻である。
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その後、僕と関さんが交代して記念撮影。
只今撮影中。
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小川先生、今日はご馳走様でした。
[subcate.枡形城・落日の舞い]
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2011年の最初の稽古へ

tag: 「大いなる家族」  沖縄  川崎  富士山  「枡形城落日の舞い」  小川信夫   

枡形城の勉強会と見学会【旧陸軍登戸研究所のこと】

《10月31日その4》
今日はこんなことをやっているのである。

「枡形城」現地見学会のチラシ

枡形城は、秩父党の末裔、稲毛三郎重成が建てたと伝わる。
で、いったい何でこのところ唐突にこんな話ばかりを書き始めたのか。
実は自分でも、もうひとつはっきりとしていないのだ。
ともかく、ふじたあさや氏が川崎の市民劇の演出をすることになった。その市民劇は鎌倉時代の、ここ多摩区の丘陵あたりが舞台であり、稲毛三郎重成がその芝居の中心的な登場人物であるらしい。本番は来年の5月。ずいぶんと先のことなのだが、それがもう動き出したということなのだ。で、それが高山正樹とどんな関係があるのかなのだが、はて、それがどうもモヤモヤしている。まあそれについては、今しばらくお待ちいただきたい。もう少し見極めたいことがある。

ともかくだ。本日午前中の小沢城址&菅の薬師堂ツアーは、市民劇関係者が参加しての催しだったようだが、午後からは一般の市民の方々を交えての稲毛三郎重成についての勉強会と枡形城の見学会である。

薬師堂の本堂を閉めにいらした奥様にお礼を申し上げて、登戸にある専修大学まで歩いていくことにした。これも健康ゲームである。

ここから先は、我が家からかなり離れたことでもあるし、もう詳しいご説明はやめよう。

配られた資料

ただ、秩父一族の中の河越氏が、島津氏の祖だというちょっとした話が、M.A.P.的には妙に気になったのではあるが。

専修大学での地元の研究家の方による講義を終えると、本日の御一行は、枡形城址と重成の縁の広福寺を巡った。
薄くなったあさやさんの頭 稲毛館跡の碑
広福寺は重成の屋敷跡であったとも伝えられている。

夕方、現地解散とあいなった。

そして、小生は新しく「川崎市」というカテゴリを作成したのである。

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