FC2ブログ

愛楽園を出て

ひとつ前の記事から続く。

どのくらいの方が、交流館を見学にいらっしゃるのか、受付にいらした方に伺ってみた。
2015年6月に開館してから3年、来場者は3万人ほどだという。一日30人といったところか。それが多いのか少ないのか。
「小中学校の団体なども含めてですからねえ」
「なるほど」
辻さんにはあらためてご連絡することをお約束して、愛楽園を出た。

門を出ると、そこには戦時中の弾痕が残る壁が、そのままにされてあった。
弾痕

愛楽園のある屋我地島の北に古宇利島がある。そこに渡る古宇利大橋は、今や人気の観光スポットである。
この日、少し早く着き過ぎたので、評判の古宇利大橋まで行ってみることにした。といってもすぐのところ、愛楽園から西へ1kmにも満たない距離である。まだ9時前、いくら人気スポットでも、まだ誰もいない。
古宇利大橋1 古宇利大橋2

愛楽園を出たのは11時半。曇っていた空が、今はすっかり晴れている。ならば時間にも余裕があるし、もう一度古宇利大橋に寄ってみることにした。
朝と、同じ方向から撮影してみた。
古宇利大橋1
海の色が全く違う。
※なぜ海は海の色が美しい時に見ることが大切なのかについて
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-4605.html
朝は誰もいなかった浜にも、たくさんの観光客が降りている。
古宇利大橋2
こうした観光客たちを、もし愛楽園に導くことができったなら、いや、古宇利大橋を訪れる旅人は、必ず愛楽園に寄るべきだと、僕は強く思った。

※この日お会いした自治会会長、金城雅春氏が、交流会館が開館して半年たった時のインタビュー記事を見つけた。
 ⇒ハンセン病制圧活動サイト
氏はその中でこう語っている。
「ここは観光スポットの古宇利大橋から見える場所なので、グランドオープンに合わせて橋のたもとにも案内看板を立てたんですね。そのせいもあってか、観光客の方々がレンタカーで園内に入ってきてくれるようになりました。沖縄は戦争に関する博物館や平和祈念館などを見て回る観光客も多いですから。(中略)交流会館も愛楽園も地域の人たちにどんどん出入りしてもらいたい。これからもハンセン病のことをまったく知らない人たちをできるかぎり呼び込んでいきたいと思っています。人が集まるということがやっぱり大事なんですよ」


しかし、人間とはいい加減なものである。「古宇利大橋を訪れる旅人は必ず愛楽園に寄るべきだ」などと偉そうに言っているが、今から7年前にここに訪れた時、愛楽園のことなど何も知らなかったのだから。そりゃ交流会館が出来る前の事ではあるが、でももしもその時に交流会館がすでに出来ていたとして、はたして僕はそこへ行こうと思っただろうか? 極めて怪しいのである。

古宇利島を一周してみることにした。
すると、鳥居のある御拝所を見つけた。
鳥居のある御拝所 鳥居のある御拝所
※これについては、波上宮の記事を仕上げたら追記する。

え?動物愛護でやらなくなったショー。やってるの?
ハブ対マングース1
もうすぐかな?
ハブ対マングース2

古宇利島から見た古宇利大橋の海はくすんでいる。北から撮影、つまり逆光なのである。
古宇利島から見た古宇利大橋
美しいエメラルドグリーンの海を見るためには、天気と太陽の方向が重要なのだ。

結局、ハブとマングースのショーをやっているところは見つからなかった。
そのかわり、こんなでっかい施設に、しかし何だかよく分からない施設に、観光客がいっぱいだったのである。
古宇利島から見た古宇利大橋
小さな施設が、大きな資本の施設に潰されたのか、ボクはそんなことを想像していた。小さな映画祭が、大きな力に圧殺されていく、他人事ではない、切実な問題なのである。大きな力とは、何も権力側のことばかりではない。敢えて言えば、打ち上げ花火のような革新系イベントもまた、我々にとっては同じような「力」でしかないのである。

※数日後、少しでも愛楽園を知ってもらいたくて、インスタグラムにも投稿してみたのだが…
View this post on Instagram

#沖縄 #愛楽園 #壁 #沖縄戦 #弾痕 #傷跡

Masaki Takayamaさん(@gajumui)がシェアした投稿 -

tag: 沖縄の旅_2018年10月  愛楽園  古宇利島 

国立療養所沖縄愛楽園



名護から奥武島へ渡りそこから屋我地大橋で愛楽園のある屋我地島へ、という南からのルートを選ぶ。
大橋のたもとの小さなパーキングで見つけた“のがれじまの碑”
のがれじまの碑

ジャルマ島とは、奥武島の西約500mに位置する小さな無人島。
ハンセン病患者でもあったキリスト教伝道師、愛楽園の創設につくした青木恵哉の苦難の歴史については、また勉強して報告したいと思うが、各地を追われた青木恵哉が、1935年(昭和10年)に逃れたどり着いた島がジャルマ島で、そこは風葬に使われていた水のない無人島だった。人の住める平地は約300平方メートルで、子供3人を含む40人ほどが暮らしたが、その後、ようやく屋我地島を安住の地とし、1938年(昭和13年)に愛楽園が生まれたのである。

国立療養所沖縄愛楽園は、屋我地島の北の端にある。
愛楽園入口

なぜ、沖縄にはキリスト教徒が多いのか、それだけでもきっと十分大きな研究課題になる。
カトリック聖ザベリオ教会

この愛楽園で、金城実さんの彫刻と森口豁さんの写真のコラボ「沖縄の傷痕~アメリカ世の記憶」展が開催されたのは一昨年のこと。主催は愛楽園の自治会。昨日金城さんのアトリエで会った知花さんに自治会のことを少し伺っていた。
今日、ココに訪れたのは、去年の沖縄映画祭「沖縄愛楽園から伝えたいこと」を上映させていただいたことのお礼と、そして次回の映画祭「忘れてほしゅうない」という強制不妊手術の映画を上映することになったので、その上映会の時に、トークの資料になるようなものがないか、そんなこともご相談したかったのである。
※愛楽園での強制不妊手術のことが、新聞報道されたのは、今年の5月のことだった。
 ⇒断種「おまえの番だ」 愛楽園強制不妊 もがく男性羽交い締め 屈辱の手術
しかし…
※浮かんできた微妙な気持ちを、ともかく沖縄を発つ前に吐露しておきたくて、この日の夜、那覇空港で呟いた。

このことについては、もう少し考えて、モヤモヤした思いをどうにか形にした上で追記したいと思う。
少し先を急ぐ。

貸し出せる資料などについては交流会館の学芸員、辻さんが詳しい。ということで交流会館の方に伺った。
愛楽園交流会館
しかしこの日、辻さんはお休みだった。
さらには、交流会館の展示を見て回るうちに、映画祭のために何かお借りするのは難しいかもしれないとも思い始めていた。そこで、展示されている資料の中から、上映後のトークの時に御紹介できるエピソードの類いをメモして、これでヨシとした。それをここに、アップさせて頂こうと思う。

「奪われる命」というコーナー、案内パネルにはこう書かれていた。
「社会から排除された入所者の中には、生きる希望を失い自ら命を絶つ者が多かった。療養所には開園当初から解剖室があり、患者は死後、解剖された。また、療養所では子どもを生むことは禁じられており、医師や看護婦などの手によって強制的に断種、避妊中絶が行われた。生まれて間もない命さえ絶たれた。逃げ出した夫婦の中には、親や親戚の下で生んだ例もあったが、それを断られて療養所に戻り、処置を受けた例もあった。我が子を抱きしめることのできない親たちがいる。」

アメリカーに見られた断種手術
僕は戦後第1号の断種だよ。知念看護婦は見つけてすぐに引っ張って行った。だからあれが来たらみんな逃げよったんだよ。承諾書なんてないよ。強制なんだから。
青空で手術。僕ともう一人、一緒に手術したよ。戦前からあった手術台はコンクリートで残ったから、それに乗せられて。周りをアメリカーがぐるっと取り囲んで、見られたよ。あの頃は麻酔も消毒もないだから、病棟に入ることもない。痛いとも何とも言えない。手術を受けたことは知られたくないから、すぐ帰って来てなるべく普通にしておったよ。人に分からんように。みんなそうだったよ。

堕胎された夫婦
<妻>
このお腹に打つ針は本当に大きかったよ。ちょうどおへそのあたりに、ばんっと打つ。胎児堕胎するときでも病棟の普通のベッドの上でだよ。ちゃんとしたところでじゃない。医者でもない、看護婦たちだよ。呼んで寝かして、お腹広げておって、ヨーチンみたいの塗って、針もってきてばすっと。中にいる赤ちゃんに当てて殺すつもり、本当の殺人。お腹に注射打ったのは誰かわからんよ。マスクで顔隠れているから。注射打ってね。もうお腹張ってね。中で動かんでしょう。どうしても出てこないでしょう。「いつなったら出るね」と言ってもね、分からない。
<夫>
注射打ったまま、そのまま看護婦はほったらかしだよ。いつ出てくるか分からないから側に付き添っていて。一週間くらいかな。(妻は生んだの)覚えていないよ。無意識のうちに産んでいるから。あれは夜だったね。「出てきているから」って看護婦にお願いしてから、初めて看護婦も来ていた。看護婦よばなかったらこないわけよ。看護婦は注射打ってそれだけさ。そしたら、そのまま子どもをベッドの下に、箱に入れて置いてあるわけさ。後片付けは自分でやれって言わんばかりに。赤ちゃんはタコみたいだった。薬で真っ黒くしてだらーっとして・・・。



そして、『ボク』という詩

瓶ノ中
ホルマリンニ浸ッテ
モウ ドノクライ経ッタノダロウ

手ノヒラハ ツイニヒラカズ
ヘソノ緒ヲ浮カシ
ウツラウツラネムリ呆ケテ
四十年
「モー イイカイ?」
「マー ダダヨ!」

未来永劫
育タナイ ボク
ラッキョウミタイナ
オチンチン

ボクノ
オトッツァンョ
オッカサンョ
ライハ
イッタイ
イツ終ルノデスカ!?


なんだか、重くなった。
続きは、記事をあらためることにする。

tag: 沖縄の旅_2018年10月  愛楽園 

平沢保治さんを囲んで“排除される命を問う”

《お知らせ》
予定していた平沢保治さんの講演は、諸般の事情により、儀同政一さん(ハンセン病資料館の社会啓発課長)の講演「ハンセン病と人権~ハンセン病問題から学ぶこと~」に変更させていただくことになりました。平沢さんの講演を楽しみにご予定されていらっしゃった皆様には、大変ご迷惑をお掛けします。申し訳ございません。

平沢保治さんを囲んで
シンポジウム“排除される命を問う”


集団の価値を、個人よりも優先する世の中で、真っ先に、いなかったことにされていく命があります。
そうした世の中では、誰もが「明日は我が身」と不安を抱えながらも、それを認めようとはせず、集団の価値をみずからと同一化させ、より弱い人々をいじめることにやっきになります。
その矛盾した状況から起こったこととしか思えない事件が起こりました。昨年7月の「津久井やまゆり園」での大量殺人事件です。「社会に役立たないものは殺してもいい」という容疑者の言葉は、まさに排除を具現化したものでした。
今、我が国の近代史に一つの汚点として残るであろうハンセン病患者隔離の歴史、そしてその変革を求める運動の歴史を振り返ることは、排除された命の声に、静かに耳を傾けることであり、それは同時に、あなたの中にある不安にも耳を傾ける作業になることでしょう。ハンセン病運動に学びつつ、弱い私たちがそれでも尊厳を持って生きていける世の中に向けて、いったい何ができるのかを、ご一緒に考えることができたらと思います。

日時:4月12日(水)12時スタート(開場11時30分)
会場:国立ハンセン病資料館映像ホール
    (東京都東村山市青葉町4-1-13)
アクセス
・西武池袋線清瀬駅
 南口からバス久米川駅北口行き約10分「ハンセン病資料館」下車
・西武新宿線久米川駅
 北口からバス清瀬駅南口行き約20分「ハンセン病資料館」下車
・JR武蔵野線新秋津駅から徒歩約20分
 またはバス久米川駅北口行きで約10分「全生園前」下車徒歩10分

入場無料
主催:平沢保治さん講演会実行委員会


【タイムスケジュール】
※司会:高山正樹
11:30 開場
12:00 趣旨説明(上田要&熊谷晋一郎)
12:20 「沖縄愛楽園から伝えたいこと」書き起こし字幕付き上映
13:00 平沢保治さんの講演 “いのち生きる歓び”
    儀同政一さんの講演
   “ハンセン病と人権~ハンセン病問題から学ぶこと~”

14:00 上田要&熊谷晋一郎トーク「相模原事件が問うもの」
     続けてお客様を交えてのフリートーク
 ※以上、手話通訳・要約筆記あり
 ※15:30~雨ではなく花も散っていなければ
お花見

お問い合せ:
TEL:03-3489-2246(M.A.P.内 担当:たかやま)
FAX:03-3489-2279
Mail:mpro@mbh.nifty.com

平沢保治さんのプロフィール
 ※平沢保治さんは登壇されなくなりました。
平沢保治さん1927年3月17日茨城県に生まれる。
14歳の時、国立療養所多磨全生園に入所。
長年療養所の生活改善に努め、1969年には入所者自治会を再建。以後何度も自治会長を務める。
一方、国内外の障害者運動にも力を入れ、東村山市身体障害者患者連絡協議会結成に携わる。
現在、入所者自治会長・国立ハンセン病資料館運営委員・同語り部として、地域の小中学校や看護学校における人権教育に尽力している。
出身地茨城県から「いばらき大使」にも任命されている。
英国ウエスレー・ベイリー賞、吉川英治文化賞、東弁人権賞、東村山市・茨城県特別功労賞を受賞。
【著書】
『人生に絶望はない』(かもがわ出版)
『世界ハンセン病紀行』(同)
『母ちゃん、ありがとう』(同)
『ぼくのおじさんはハンセン病』(共著、全障研茨城支部)
『苦しみは歓びをつくる』平沢保治対話集(かもがわ出版)

《話題提供者の御紹介》
上田要(うえだ もとむ)

上田さんその21948年8月4日広島県江田島市で生まれる。生後1週後高熱を発し以後現在まで脳性麻痺者となる。
25歳の時、中国地方で初の療護施設に入所するも、あまりにも非人間的な扱いに絶望し、7か月で退所する。母がリウマチを発症、姉を頼り世田谷に移住し、社会における障害者の差別構造を、障害者自らが打破していく活動を始める。
1986年から91年まで、健常者仲間と(みんなの広場)という無農薬の八百屋を運営。92年に東急バスに乗車拒否を受けてバスの改善運動に着手、ノンステップバスの道を開く。特別活動法人「ケアズ世田谷」理事。

熊谷晋一郎(くまがや しんいちろう)
熊谷さんその1山口県新南陽市生まれ。新生児仮死の後遺症で脳性麻痺になり、車椅子から離れられない生活を送っている。
小中高と普通学校で統合教育を経験した。山口県立徳山高等学校を経て東京大学医学部卒業後、病院勤務等を経て、2015年より、東京大学先端科学技術研究センター准教授。
2010年、『リハビリの夜』(医学書院)で第9回新潮ドキュメント賞受賞。
パートナーはアスペルガー症候群の当事者である綾屋紗月で、二人で障害者の立場からの当事者研究を行っている。

続きを読む

tag: 上田要  熊谷晋一郎  平沢保治  愛楽園 

第3回 沖縄映画祭②「沖縄愛楽園から伝えたいこと」+α

第3回 喜多見と狛江で小さな沖縄映画祭+α 上映作品2
「沖縄愛楽園から伝えたいこと」
(ドキュメンタリー 35分/2002年)
製作:国立療養所,沖縄愛楽園自治会

沖縄愛楽園

「らい予防法」に対しての
腹の底から湧き上がってくる怒りというものがあります

「らい予防法」があって
私たちハンセン病療養所に隔離されたものが
どういう思いで
どういう状況で生きてきたかということを
まずは話したいんです


本作品は字幕付きで上映することに決定しました。
文字起こしをして、画面のすぐ近くに映す予定です。また両日とも、上映後のトークには手話通訳がつきます。


① 日時:1月27日(金)13:00~
会場:M.A.P.
② 日時:1月31日(火)18:30~
会場:狛江中央公民館 講座室


①1/27の+αは、上映後、宇夫方路が琉球古典舞踊女踊りの最高峰といわれる伊野波節を踊ります。伊野波節には他の琉歌と同様、様々ないわれがありますが、そのひとつに、伊野波村の坂道を登った所に、かつてハンセン病の隔離場所があり、移住を命じられた夫と妻の道行、「この坂を上り切ってしまえばもう一生夫とは会えない、いつまでもこの坂が続いてくれればいいのに」という、妻の深い悲しみを詠んだのだという解釈があります。そんな歌意を思って、20分の踊りを、じっくりとご堪能下さい。
※年明け1月17日に追記
地謡を日高桃子さんにお願いすることが決定しました。※プロフィールは記事の後ろに

②1/31の+αは、12月9日の“さようならCP”上映会に続く企画として、今回も上田要さんをゲストにお迎えし、上映後には上田さんやいらしたお客様の皆さんと、「障がい者の施設について」など、語り合う時間をたっぷりともうけたいと思います。
※上田要さんの半生記は、この記事の後ろに掲載

【チケット料金】
 前売り 1,000円(当日1,200円)
 学生及び75歳以上 前売り 500円(当日700円)

  ※受付で学生証・保険証等を提示してください。
  ※ご予約を頂けば、前売り扱いにて、チケットを受付にお取り置きいたします。
 11枚綴り 10,000円(1000円券×11枚)
  ※ご家族やお友達と分けてのご使用が可能です。

 ※介助の方と御同伴の場合は、お二人で一人分の料金、またはチケット1枚
  (なおM.A.P.会場は車椅子の対応が出来ていません。お問合せください。)


 ⇒オフィシャルサイトのチケット購入ページ
  ⇒CoRich 直通(PC用)
  ⇒CoRich 直通(携帯用)

ご予約・お問合せ:
TEL:03-3489-2246(M.A.P.担当うぶかた)
FAX:03-3489-2279
Mail:mpro@mbh.nifty.com
 総合案内記事へ

1907年(明治40年) 「法律第11号」(「癩予防に関する件」)施行
 (患者施設隔離のはじまり)
1931年(昭和6年) 「癩予防法」成立
 (らい病根絶の方針、全患者施設隔離)
※1943年(昭和18年) 特効薬プロミンが開発される
1953年(昭和28年) 「らい予防法」施行
 (「癩予防法」の精神を受け継ぎ、強制隔離、外出禁止などの人権侵害)
1996年(平成8年) 「らい予防法」廃止

沖縄では1961年(昭和36年)、琉球政府によって「ハンセン氏病予防法」が制定されていた。治癒した入所者の退所や在宅治療も認める画期的な(しかし当たり前の)法律であった。 しかし復帰によって、「らい予防法」へと後戻りすることになる…

youTubeで、こんな動画を見つけました…


単独チラシを作りました。
愛楽園単独チラシ

続きを読む

tag: 上田要  愛楽園  日高桃子