(事務所線量)

大震災から255日目……
今日の富士山、遠景とアップ。サムネイル、つまりクリックするとでかくなる。
富士山遠景 富士山アップ

10:53、事務所外の線量……
0.07μSv/h(DoseRAE2,RADEXは参考)
11/21事務所線量


【この日呟いたこと】
gajumui

和装と琉装の着付けを比較して、美意識がずいぶん違うと思った。踊りの場合だけど、琉装はお尻を大きく見せるらしい。日本人て、美意識の違う人間とのコミュニケーション下手だよなあ。ん?日本人だけじゃないか。なんだ、面白いと思ったんだけど、結局つまらない話になった。
11-21 11:45

M.A.P.三線教室開設にあたって、最初にご相談したのが西江喜春氏先生でした。 @ryukyushimpo http://t.co/r4xybE6G 「至芸」観客を魅了 西江喜春氏人間国宝認定公演
11-21 11:50

例えば色んな名人上手が“かぎやで風”をやるけど、みんな全然違う。僕が“かぎやで風”をやると芸能に見識のある沖縄の人たちはみんなして「なんか違う」って言う。色々説明してくれるんだけどみんな違うことを言う。一冊の本が書けそう。#三線
11-21 11:57

20年も三線やってて最高賞まで取って師範免許も持ってて、首都圏で行われる大きな琉球舞踊公演の地謡をこなすヤマトの人の歌三線を、琉球舞踊の新人賞に何年も落ちているような沖縄のおばさんたちが「なんか違うさあねえ」ってみんなでゆんたくしてる。 #三線 #琉球舞踊
11-21 12:14

原発のこと考えてたら、沖縄の三線のこと、呟きたくなったのです。分かりにくい話。早川由紀夫さんに叱られそうだなあ。
11-21 12:18

お笑いの物まねと朗読って似てるところがある。物まねが面白いのは、真似する芸人と真似される人との距離に内包されている要素。朗読も同じ。読んでいるものにベッタリ寄り添っている朗読なんて気持ち悪くて聞けたもんじゃない。
11-21 16:55

津嘉山正種さんは朗読ばやりの昨今、時々朗読会なるものに案内されて仕方なく行くこともあるが、気持ち悪くなって帰るという。久米明さんも、そこまではっきりとではないが近いことを言われた。おふたりとも“おきなわおーでぃおぶっく”で朗読をお願いした名優。
11-21 16:59

(前ふたつのツイートから続く)僕は三線の古典を学びながら、どうやら三線(沖縄)とのなかなか埋まらない距離感を楽しんでいるらしい。その距離が埋まった時、初めて沖縄の人に認められるのかもしれない。それは弁証法道程か、あるいは弁証法に逆行する退行なのか、見極めかねている。 #三線
11-21 17:05

30年近く前、新宿の沖縄居酒屋でのこと。ある沖縄の方が、首里城の復元について、しきりに喜び「ニライカナイの心だ」とおっしゃっていた。青二才の僕はつい「首里城はオボツカグラではないですか」と言った。見る見る沖縄の方の機嫌が悪くなり「お前は何もわかってない」と言われた。(続く)
11-21 17:12

(続き)以来ヤマトンチュである僕は、琉球王朝に対する批判を口にしないと決めた。そういえば20数年前に死んだ義理の父は共産党好きのウチナンチュであったが、戦前の首里城は森に囲まれ、それはそれは桃源郷のように美しかったと言っていたっけ。(続く)
11-21 17:21

(続き)でも僕は、30年前の戒めをボチボチ破ろうかなと思い始めた。八重山と奄美の音楽が妙にいいという実感がそれを後押ししている。やってみたいなあ。それでも来年、安冨祖流の古典で三線の新人賞を受けようとは思ってるんですけどね。(さらに続く) #三線
11-21 17:30

(続き)僕は役者です。根無し草の河原者だと思っている。言ってみればチョンダラーです。だから親近感を覚えるのは「シュインチュ」でも「ナーファンチュ」でもなく「さまよえる沖縄人」なのかもしれないなあ、なんて。(まだ続く)
11-21 17:38

(続き)この文脈で「フクシマ」を考えるとね、移住できるのならその方がいいと思えてくるのです。語弊を怖れず言えば、3.11以前の「フクシマ」は「美しき伝説」になってもいいのではないかと。こんなことを言うと、「オキナワ」でも福島でも、たくさんの友達を失いそうです。(続く)
11-21 17:52

(続き)今日の僕の話は、自分でも本心なのかどうか分からないのです。だからどうか一旦忘れてください。あさって、下北沢のタウンホールで、ある企画に朗読で参加します。台本はかなり直してもらいました。おかげで本番はブッツケです。でも朗読ってむしろその方がいいと思う。河原者の呟き。
11-21 17:58



18:22、事務所内の線量……
0.06μSv/h(DoseRAE2,RADEXは参考)
11/21事務所内の線量

tag: 朗読  津嘉山正種  久米明  喜多見_MAP事務所の線量  #富士山 

《物語りたいことを物語る》【古屋和子“ストーリーテリングの力”】

事務所で仕事をしていると、あさやさんから電話が入った。
「今日の2時から4時まで、体、空かないか」
新百合ヶ丘の昭和音大で古屋和子さんとあさやさんのトークショーがあるらしい。なんでも古屋さんが琵琶を持ってきているとのこと。
北校舎の5階。
へえ、こんなホールがあったんだ。ラ・サーラ・スカラというコンサートホール。
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連続講座の第4回。
「心より心に伝うる~ストーリーテリングの力」
今回の語る人(ゲスト)は古屋和子さん。武順子さんの師匠で、チラシにはこんなふうに紹介されていた。
1947年京都市生まれ。ストーリーテラー。早稲田小劇場を経て、観世栄夫氏に師事。水上勉氏の「越前竹人形の会」「横浜ボートシアター」等で活躍した。その後は近松作品、説経節、泉鏡花作品などのひとり語りを行い、ここ20年ほどは、北米先住民など世界のストーリーテラーたち交流をふかめ、優れた語りや民俗音楽、絵本などの紹介につとめる。
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聞く人はふじたあさや氏。トークショーの前に古屋さんの語りを聞く。

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まずは近松門左衛門の「曽根崎心中」道行の場面。その後も「平家」などいくつか。予定の時間を大幅に超えて殆ど古屋和子独演会の様相、トークに残された時間は30分くらいになってしまった。

さて、ストーリーテラーとは何なのか。物語る人ということだが、いったいどう説明したらよいのだろう。朗読と物語ることとは何が違うのか。どうやら古屋さんは、ストーリーテラーとは、語るべきものを抱えて物語る表現者だといいたげである。

しかし、ならば「語るべきもの」とは何なのか。

古屋さんは言う。日本人は出自を聞かれても、たいがい親の出身地ぐらいしか答えられない。しかし例えばアメリカインディアンなどは、そういう時、自分のルーツを何代も遡って語り始めるのだと。
つまり「語るべきもの」とは、祖先の長い歴史の中で培われてきた自らも属する文化の記憶の総体と、それに対する祈りとでもいうべきものなのだろうか。

かつて古屋さんは、師である観世栄夫氏から、「上手くなったが悪くなった」と言われたという。その意味が古屋さんにはずっと理解できなかった。ざくっとハナシを端折ってしまうが、その壁を、古谷さんは「意味」でもなく「情緒」でもなく、「息」で克服しようとしてきた。

自分の話になるが、僕は学生の頃、歌舞伎研究で著名な今尾哲也氏から、「がっぽう」という芝居を通じて、台詞を息によってコントロールすることの重要性を教わった。呼吸は生理である。だから役者は無意識のうちに楽をして気がつかない。「止める」「吸う」「吐く」、呼吸を意識して操ることは極めて面倒な作業だが、それをしなければ碌な台詞など喋れない。
以来、古典を演ずる者にとって、息とは、古の言霊を復活させるために必要な、黄泉の国から吹いてくる風のようなものだという感覚が、ずっと僕にはあった。

「日本人は語るべきものを持っていない。沖縄とアイヌにはそれがあるけれど……」
ふじたあさや氏は、そう古屋さんに問いかけた。さすがふじたあさや氏、核心を突いた問いだと思った。さて、古屋さんは何と答えるか。
「そんなことないですよ。例えばおじいさんなら子供の頃の話をすればいいんです。みんなそれぞれ伝えたいことがあるでしょう、それを語ればいいんです。この本を読んで聞かせたい、それだけでもストーリーテラーなんですよ」
あさやさん、してやられたな。もう予定の時間。これ以上突っ込んだら終わらなくなる。
「なるほど、そういうことね。誰もがストーリーテラーになれる。大いに日本人も語れということだね」
「そうですよ」
僕としてはだいぶ残念な結末であったが致し方ない。
「しかし、昔はあなたのことを、ちょっと朗読の上手い役者がいるくらいに見ていたが、でもその頃のあなたの朗読は、どうだ!っていうような朗読だったねえ。それがずいぶん変わった」
「少しはよくなりましたか」
「うん、よくなった。変わるもんですねえ」
「そうですか、よかった、少しは私も成長したんですね」
「今日はたくさんの刺激的な話、ありがとうございました」

つまり、ただ語りたいという理由だけで「平家物語」が語れるわけはないということなのだ。自分が本当に語りたいものとして「平家物語」を語ることの困難さを、僕は思っていたのである。

世の朗読好きの方々、古屋和子さんのポジティブな結論に騙されてはいけません、ということかな。

それにしても、僕の琵琶の件はどうなっているのだろう。

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tag: 川崎市民劇.「枡形城落日の舞い」  アイヌ  朗読  ふじたあさや 

「東国」のアクセントに拘ってみる

年明け最初の稽古です。
場所は、川崎区にある京浜協同劇団の稽古場。
京浜協同劇団の看板
「全日本リアリズム演劇会議」か、歴史を感じますねえ。

null僕の名前が抜けていたチラシですが、それも修正してくださいました。
しかし「順不同」ってなんなのでしょう。決してデジタルでランダムな処理をしたわけでもなさそうですし、後から付け加えた僕の名前が最後というのが、ランダムでない証拠。まあ「順不同」というのは、並べた順に特段の意味はありませんから気にしないでくださいという意味なのでしょうからいいんですけれど、これだけの人数の最後に並べられると、いくら「順不同」と但書があっても、なんとなくこそばゆい感じがするのです。真ん中あたりにそっと紛れ込まして頂ければ心穏やかだったのに、なんて。

新しいチラシでは最後なのですが、実際の舞台ではどうやら最初に声を発することになるらしい。役名は「旅僧(たびそう)」。いわば能におけるワキ。ストーリーテラーに話すきっかけを与え、それから始まる物語では聞き手という役どころです。

芝居は旅僧の名乗りから始まります。そして主人公稲毛三郎重成の妻である綾子の化身の蝶に誘われ広福寺にたどり着く。そこで、ひとりの老女に出会います。その老女は、かつて重成の侍女頭であった八重。この八重がこの芝居のストーリーテラーで、目の前の旅僧に昔を語って聞かせるという形で舞台の前半は進んでいくのです。
つまり、本筋だけなら旅僧なんていなくても十分成立するのですが、しかしそのスパイスみたいな存在によって、芝居は二重三重の構造となって深さが増すというわけ。古の平安を現代に繋ぐ役割といっては言い過ぎでしょうか。しかし、スパイスは好みの別れるところ、なんとも責任重大であります。


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さて、配役が100%決まっての初稽古、まずは頭から読み方や発音、アクセント(日本語の場合はイントネーションと言ったほうが適切かもしれませんが)などのチェックです。「鼻濁音が乱れていますねえ」という演出ふじたあさや氏の指摘。軽いジャブですな。

しかし、沖縄の言葉やその歴史を学び初めてから、僕は鼻濁音についての印象がすっかり変わってしまいました。特に最近、唄三線で古典を習うようになって、意識しないと出てしまう鼻濁音を、逆に封印する練習ばかりしているのです。鼻濁音を一切使わないというのもなかなか難しいのです。

でも、今回は平安の時代劇をやろうとしているわけですから、鼻濁音を「正しく」使うことは、必要なことなのでしょう。ただ、あたかも役者はいつでも「正しい鼻濁音」を使わなければならないと言い切ってしまうような表現は、それは違うのではないかと思うようになりました。

今までもM.A.P.after5や「社長とは呼ばないで」などで、鼻濁音について色々と書いてきました。そのいくつかをどうかお読みください。
 ⇒沖縄語の音韻講座、プロローグ(1)
 ⇒日本語の二大美点?
こんなことを言うから僕はまた敵を作るわけなのですが、性分なので仕方がありません。

仕方ないついでにもうひとつ言っちゃうことにします。

旅僧の「名乗り」は次のような台詞です。
「これは、諸国一見の僧です。このほど鎌倉に参り、寺社をめぐり、いくさの跡を尋ねての帰り道、足を伸ばして、東国の、鎌倉殿ゆかりの寺々に参ろうと思いまする。」

僕はこの中の「東国(とうごく)」のアクセントを( ̄___)と読んだのです。しかしこれに対して、ある超有名劇団のベテラン俳優さんからこんな御指摘を頂きました。「東国」を( ̄___)と読んでは「唐の国」に聞こえる。(_ ̄ ̄ ̄)が正しいのではないか。
ありがたき御教授、まず僕は、素直に受け入れて読み直することにしました。しかし何故かしっくりこない。
僕が「東国」を( ̄___)と読んだのには、それなりのワケがあって、僕の固い脳みそが、その「ワケ」をリセットできずにいるらしいのです。
「東国」を( ̄___)と読んで「唐の国」に聞こえるか否かはともかくとして、「東国」という言葉を実生活で使うことがあったとしたら、確かにおっしゃられる通り、僕も間違いなく(_ ̄ ̄ ̄)と発音します。にもかかわらず、この芝居において「東国」を( ̄___)と読みたいと思ったのは何故なのか。

その大きな要因として、この芝居の冒頭の「名乗り」を、「様式的」にしなければならないということがありました。
といって、能や狂言そのままに演ずるわけでもない。いったいどのように「様式的であること」を表現すればいいのか、まだまだ決めることはできません。そこでまず僕は、一音一音を浄瑠璃のように粒立てて語ってみること、そしてそれに加えて、「東国」を( ̄___)と読んでみることで、古典的な様式の「感じ」を付加することが出来るのではないかと思ったのです。
そう思ったのは感覚でしかありません。しかしその感覚は、僕のいくつかの知識やこれまでの経験によって、僕自身にはそれなりに根拠がありました。

日本語のアクセント(イントネーション※以後アクセントに統一)は、大雑把に言えば東と西の系統に大別され、いわゆる「標準語」はもちろん関東系、特段の地域性を芝居に持たせないのならば、たいがいそれ準じます。まして今回の芝居は東京に近い川崎の郷土劇なのですから、「標準語」のルールに従うのは当然でしょう。

しかし、古くは日本において関西のアクセントしかなかったという説を聞いたことがあります。少なくとも、古典的な芸能の多くは、京都あたりで成立したようです。「東国」を( ̄___)と発音するのが関西系のアクセントであるかどうか、その正確な知識は持ち合わせていないのですが、古典芸能のアクセントが、いわゆる標準語のアクセントとちょくちょくこれに類した差異を示すという感覚が僕にはあります。
そこで、(_ ̄ ̄ ̄)と発音するのが現代ではしっくりくる言葉を、あえて( ̄___)と発音することによって、一種の古典的な雰囲気が表現できるかもしれない、これが、僕がこのアクセントを選択した「ワケ」です。

そうした「理屈」が独り善がりなものであれば、勿論とっとと捨て去るべきですが、さて。

今から30年以上前のこと、「宗論」を演じたことがあります。しかしそれは狂言でも落語でもなく、台詞つきの日舞でした。
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指導してくださったのは名古屋の花柳流の重鎮、花柳芳五三郎師の御曹司である花柳伊三郎さんです。その冒頭にこんな台詞がありました。
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「まかりいでたる者は、都、東国の僧でござる。この度、思いたって……」

これが伝統的な台詞、文言であるのかどうかは不案内なのですが、少なくとも狂言の名乗りではありません。狂言の名乗りなら「このあたりの者でござる」というだけ、名乗らないのが狂言の名乗りで、こんな風に素性を明かしてしまう名乗りは狂言にはありません。
もしかすると、伊三郎さんの実験的創作であったのかもしれませんが。

この時、この「東国」を( ̄___)と伊三郎さんの口伝で語った微かな記憶が僕にはあるのです。とはいえ、名古屋出身の伊三郎さんですから、それだけの原因で( ̄___)と発音されたのかもしれません。だとすれば、これもいつまでもこだわるような話しではありませんが、確かにその時の経験によって、ひとつの感覚が植えつけられたということも事実のようです。

それから数年後こと、ひょんなことから、僕は講釈師の小金井芦州の弟子となり、今はなき本牧亭で前座を務めるような短い一時期がありました。
 ⇒28年の時を隔てて【小金井芦州のこと】
僕は芦州からよく「訛ってやがるなあ」と言われました。子供の頃3年ほど京都に住んでいましたが、これでも山の手生まれの山の手育ちです。訛っている自覚は全くないのですが、どうやら標準語と江戸弁の講談とでは、その発音もアクセントも似て非なるものだったようです。

講談には台本があります。しかし、修行はもちろん全て口伝です。
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最後の講釈師と言われた名人との一対一の稽古、それは貴重な時間でした。そしてこの経験においても、「東国」を( ̄___)と発音する「感覚」は、むしろ補強されたというふうに、今思い起こしてみると感じるのです。

最近、落語を演ずる機会がありました。三笑亭夢丸さんの新江戸噺のひとつ、「紅い手」という怪談噺を朗読するという企画です。
その「紅い手」の中に、「中仙道」という言葉が出てきました。普通に語れば「なかせんどう」は(_ ̄ ̄___)です。それが山の手で育った僕の感覚です。しかし、夢丸さんからお借りしたテープでは、師匠は( ̄_____)と語っていらっしゃいました。落語は個々自由な芸ではありますが、言葉の発音やアクセントなどの基本は口伝です。何度かその通りになぞっているうちに、なるほどこの方が、落語にはしっくりくると感じられ始めたのです。終演後、文芸評論家の大友浩さんとお話をさせて頂きました。その際、大友さんも中仙道をやはり( ̄_____)とおっしゃられたのを聞いて、なるほどとあらためて納得したのでした。

後で調べて分かったことなのですが、中仙道を( ̄_____)というアクセントは、少し古い言い方であるらしいのです。東海道もやはり古くは( ̄_____)といっていたらしい。そういえば小金井芦州の「芦州(ろしゅう)」も、若い人たちは(_ ̄ ̄先生)と言っていましたが、年配の方々は( ̄__さん)と呼んでいらっしゃいました。

因みに、僕の手元にあるNHK編の『アクセント事典』(昭和41年発行)には、「中仙道」も「東海道」も、そして「東国」も、ふたつのアクセントが併記されているということを付け加えておきましょう。しかし全て二字目上がりのほうが先の表示ではありますが。
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さてここで、ご存知の方も多いでしょうが、山田耕筰氏が作曲した「赤とんぼ」の歌詞の「あかとんぼ」のイントネーションについてお話しようと思いました。しかし、先にご紹介した大友浩さんが、それについて僕などよりはるかに深い薀蓄を書いていらっしゃるサイトを見つけたので、そのリンクを貼り付けておくことにします。是非お読みください。
 ⇒http://www.honza.jp/author/5/otomo_hiroshi…
(※但し『アクセント事典』では「あかとんぼ」は(_ ̄ ̄__)の記述しかなく、落語では常識という( ̄____)の記載はありません。)

さて、では「東国」をどうするか、いまだ結論は出ていないのです。しかしです。僕は始めに「『東国』を( ̄___)と読んで『唐の国』に聞こえるか否かはともかくとして」と書きました。しかし、舞台の上でお客様に言葉を伝えるのが仕事の役者たるもの、発した言葉が正確な意味で伝わるかどうかは、「ともかくとして」しまうようなことではないはずです。その意味では、僕のアクセントについて御指摘くださった大先輩のお言葉には、しっかりと耳を傾けなければならないのだろうと思います。
(文責:?山正樹)


ということで(というか、にも関わらず、というか)、色々な方に聞いてみることにしたのです。そしてまずは身近な方々に聞いてみることにしました。それから、今後も引き続き聞いてみようと思っているのです。粘着気質の役者の試み。それらは《続き》でご覧あれ……

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tag: 京都  「方言」  小川信夫  ふじたあさや  川崎市民劇.「枡形城落日の舞い」  朗読 

都民教会で久米明さんに会いました

一昨日御案内した久米明さんの朗読会に、鈴木雄介夫妻と行ってきました。会場は下北沢の教会です。
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【Yusuke氏の世界配信】
 ⇒http://www.bcphotoshare.com/photos/…

チョウゲンボウという鳥と小学生のとうすけ少年との物語。本番前、久米さんに御挨拶をしました。去年の3月、「ノロエステ鉄道」を録音した日以来です。この日お会いした久米さんは、少し足腰が弱られたのかなという印象を受けました。しかし、本番で語り始められたそのお声は、以前と全く変わらずに力強く、そして深い艶も同じで安心しました。

久米明氏と鈴木雄介の父上とは、東京商科大学(現一橋大学)の演劇サークルでの大親友。こちらは昨年1月14日以来の再会ということで、昼の部の終演後、教会の玄関前で記念撮影をしました。
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今日の僕の仕事はCD販売。まだ夜の部があります。
僕のお隣では久米明さんの娘さんが久米さんの書かれた本「朗読は楽しからずや」の販売をされていらっしゃいました。
僕がこの日購入した「朗読は楽しからずや」
久米明さんの娘さんは舞台芸術家の久米ナナ子さんです。そんなナナ子さんが、この日わざわざ僕と同じように本を売るためだけにいらっしゃったワケはありません。久米明さんは昨年倒れられました。以来こうしてお父様のお仕事に付き添われていらっしゃるとのことでした。

僕は、前々からなんとか久米明さんによる「ノロエステ鉄道」の朗読会を、それもできれば沖縄で出来ないだろうかと考えていました。大城立裕先生にもお引き合わせしたい、そんなお話をナナ子さんにお伝えしました。しかし、無理はなかなかさせられない、特に飛行機はNGというお医者様のご意見らしい。
そのあと、久米さんご本人にもちょっとお話ししました。すると「是非やりたいですねえ、きっと大丈夫でしょう」というお返事が返ってきたのですが、「でも娘が心配してねえ」とも付け加えられたのでした。

夜の部が終わって、教会内でのちょっとした打ち上げに参加させて頂きました。
下北沢で僕の仕事が終わるのを待っていてくれた鈴木夫妻を携帯で呼びました。雄介氏は打ち上げの場で、親友久米明についてオヤジさんが語った話を紹介しました。
「一番芝居のへたくそな奴が役者になった」
久米さんは実に愉快そうにお笑いになっていらっしゃいました。
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立食のパーティーです。
久米さんはいくら椅子を薦められても、最初はお断りになっていらっしゃいましたが、最後はナナ子さんに従って、素直にお座りになったのでした。

やはり、沖縄での朗読会の実現は困難なのかもしれない。しかし、それなら東京ででもいい、なんとか可能性を探ってみたい、僕はそう思ったのでした。

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tag: 久米ナナ子  久米明  朗読  京都  旧友 

6と8と10と17

今日は本部の近くで稽古。

去年の第5期に続いて、あさやさんの朗読クラブ第6期のチラシ。
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あら、若いこと。
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ゴーヤーたち。大きくなってるのかなあ。よく分からないので寸法を測ることにした。
豆太、8cm。
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豆助、10cm。
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明日のゴーヤーへ
最初のゴーヤーから見る

夜の第17回喜多見で沖縄語を話す会については、別ブログにそのうち宇夫方路女史が書く予定。

大切なのはコツコツ積み重ねていくこと。

tag: ふじたあさや  朗読  ゴーヤー栽培記.2010年  六千人の命のビザ 

来年のこと(「未決定稿」と「新規情報」について)

昭和音大はもうクリスマス。
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来年のはなしです。
1月9日
新宿の芸能花伝舎にて
“日本演出者協会・近代戯曲リーディング第一回公演”
……が行われます。
演目は……
木下杢太郎「和泉屋染物店」(ふじたあさや演出)
久保田万太郎「釣堀にて」(中村たかお演出)
……の2本。

そして、高山正樹と宇夫方路が、ふじた組に参加することになりました。
開演は15:00。
共演は流山児祥・瓜生正美・小竹伊津子・中西和久その他、怱々たるメンバーです。
台本は只今制作中ですって。
料金はどうなっているんだろう。詳細が分かったら、追ってお知らせいたします。
そして、来年の、こんなカレンダーの販売を開始しました。
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楽天市場“沖縄map”の手漉き和紙暦のページ

大判の吊るすタイプのものは、明日あたり販売開始かな。
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でも、来年のことよりも、このところの記事がなかなかアップできずにいます。
(※以下は旧ブログ時代のこと。新ブログにはないシステムです。)
それがずいぶんとたまってしまったので、“未決定稿”というカテゴリーを作りました。
未決定稿の記事が完成したり、記事の情報を変更したりすると“新規情報”のカテゴリーへ。
記事の日付ではなく、実際に書き終わった日時の新しいものから順に10件の記事を“新規情報”のカテゴリーにしています。

tag: 和泉屋染物店  楽天市場  沖縄_MAP販売商品.  紙漉き工房“紙芳”  ふじたあさや  朗読  宇夫方路出演情報 

ドラマ・リーディング『魚人』

早稲田大隈講堂にて。

“感劇・環境”
その第2部、ドラマ・リーディング『魚人』を観に行きました。演出は流山児祥氏。
出演者などについては、過去の記事をお読みください。
http://lince.jp/hito/kangeki…

TOYOTAがF1から撤退しました。ファンは大変残念がっている。
まさか太公望の静かな釣りが、環境を壊すなど主張する人はいないでしょう。でも、釣りの醍醐味を味わうために、湖にブラックバスを放つようなところまでいくと問題になる。マグロは保護されるべきなのでしょうか。マグロがいなくなることは、環境が破壊されることなのでしょうか……
てなことを、考えさせられるようなドラマであったかというと、そうではありませんでした。

魚を釣れば魚がいなくなる。水は魚がいるからそこにある。だから、魚が消えれば水は引く。水がなくなれば人は生きられない。
伝説の釣り師と湖の主である巨大な神魚との戦い。
その寓話は大変おもしろかったのですが、温暖化というような切羽詰った現実を考えるには、空想的に過ぎました。芸術は現実とどう関われるのかという、なんとも古臭い問題を、あらためて考えたのです。

リーディングと銘打っていたので、出演者みんな椅子に座って、スマートに本を読むのだろうと思っていたのですが、全く違いました。全員、台本を持ってそれに目を落としてはいるのですが、ほとんど芝居仕立てで、ただ台詞を憶えていないというだけ。しかし、決して中途半端という感じはしない。その人物になりきって演じたいのだが、台詞を読まなければならない。自分の語る言葉が台本に支配されているという微妙なイライラが不思議な緊迫感を生み出しているのです。完成された舞台では決して見えてこない、演じるということのあり方が、にじみ出てくるような舞台でした。
だから、ますます環境などというテーマは霞んでいったのです。
演劇とは、テーマを伝えるための手段なのか、それとも、テーマなどというものは、寓話という神話的構造に後付された薄っぺらな批評でしかないのか。
(文責:高山正樹)

終演後、楽屋へお邪魔しようとロビー下手の扉を開けると……
大隈講堂下手側通路
あ、外だ。
きょろきょろしていると、御大が出ていらっしゃいました。
通路から早稲田の杜を眺めるふじたあさや氏と宇夫方路

大隈重信像があったりして…
大隈重信像

反対側、つまりロビーへ通じる扉へ向かってもう一枚。
大隈重信像を眺めるふじたあさや氏と宇夫方路

表へ出て、外からこの通路を撮影しようと思ったのですが、銀杏を踏むと強烈に臭くて撮影ポイントまで近づけませんでした。
ぎんなん 大隈講堂と大銀杏

帰りがけの道に並ぶ古本屋を散策。僕は、神田よりずっと好きです。見つけた本について、お話したいこともいくつかあるのですが、それは日をあらためます。

tag: 観劇記録  ふじたあさや  朗読 

文藝家協会訪問記

麹町の文芸春秋社ビルの中に、日本文藝家協会の事務所があります。御無沙汰なので、大城立裕先生の「ノロエステ鉄道」CD完成のご報告がてら、お邪魔しました。
前回伺ったときのことをちょっこと書いた記事

前回も感じたことなのですが、ここにお邪魔すると、なんだかうれしくなるのです。
ここで働いている方々が、みなさん心底文学が好きで、そして作家の方々をとても尊重していらっしゃるという感じがひしひしと伝わってくるのです。まあ、となりの芝生は青かったという類の話なのかもしれませんが、役者の世界とはちょっと違うなあなどと、ひがんでみたくなるのです。

というわけで、ここにいると気分が緩んで、ついついいらぬ話をしてしまうことになります。

なにを喋ったのか、バラしちゃおう。
まずは去年来た時しゃべっちゃったこと。

私、高山正樹は、島尾敏雄氏の小説「出発は遂に訪れず」を、ふじたあさや氏が脚色した芝居に出演したことがあるのですが、その打ち上げの時のエピソードです。



島尾敏雄氏の奥様でエッセーイストの島尾ミホさんが、宮城まり子さんとご一緒にお芝居を観に来てくださいました。なぜ宮城まり子さんも御一緒だったのかというと、島尾敏雄氏と吉行淳之介氏が親友で、そんな関係でお二人も仲がおよろしかったようです。そして打ち上げの乾杯の際に、ミホさんが御挨拶をしてくださることになりました。
島尾敏雄氏は、終戦間近に奄美大島に配備された人間魚雷部隊の隊長でした。その時に、島の「おひーさま」であったミホさんと出会い、そして恋に落ちます。特攻隊としての出発命令がいつ来るのか、今日か明日かという極限状況の中で、二人の逢瀬は繰り返されます。ちなみに、僕はミホさんの父親、島で一番の名士という役どころでした。
このお芝居が上演された時には、もう敏雄氏も淳之介氏も亡くなられていましたが、お二人の、ミホさん宮城まり子さんそれぞれとの関係には、どことなく似通った感じがあるといえば、文壇に詳しい方ならご理解いただけると思います。
ミホさんは、御挨拶の最期に、御自分の肩にそっと手をやって、「ここに島尾がいて喜んでおります」とおっしゃいました。すると、並んで立っていらっしゃった宮城まり子さんが、やはり御自分の肩に手をやって、「ここに、吉行もおります」。お二人とも真顔なので、僕らは笑うことなどできず、みんな同様に、なんとなく背筋に冷たいものが走ったのでした。


てな話を面白おかしくしてみたら、パソコンを前に仕事をしていらっしゃった10人くらいの協会の皆様にも大受け、あれれ、皆さん、僕のはなし、仕事しながら耳をそばだてて聞いていらしたわけですな。登場人物4人のことをよくご存じであればあるほどおかしみのあるはなし、それがスウっと伝わっていく感じが、このエピソードをご披露する方とすれば、何とも気持ちがよかったのであります。

そして今日です。
いくつか興味深いお話を伺いました。
わりと大きな出版社でも、その売り上げにおいて、amazonでのそれが店頭販売の数を抜いてしまったというはなし。書店をぶらぶらして、これはと思うものを手にとって買ってみるということを、読者はしなくなった。みんなamazonにアクセスして、買うと決まっている本だけを買う、これでは新しいものが育たない、どんどん価値観が一元化している。こんなことでいいのでしょうか。

オーディオブックも大変厳しい、そんなことをお伝えしたら、いろいろと考えてくださいました。
老人介護の世界に、朗読サービスというものがあるのですが、今予算削減のあおりを受けて、御老人のために朗読サービスを頼みたくても、そこにまでお金を掛けられなくなってきたという状況なのだそうです。そこらあたりにビジネスチャンスがあるのかもしれない、しかし介護を受けるような方々は、音声だけではなかなか集中できないので、やはり視覚に訴えるものが加わる必要があるらしい。ということは、いよいよDVDかなとも思うのです。

僕は、「社長とは呼ばないで」で連載中の「朗読の形而上学」の中で、視覚障碍者がテキストを音声データにしたものを聞くということについてこんな話しをご紹介しています。
「朗読の形而上学」連載第1回
要するに、感情を込めた表現は聞き手の想像力を却って阻害するのではないかということなのですが、今日は、ちょっと面白いことを伺いました。
「障がいのある方は、感情を込めた朗読を聞くと、意味が分からないのだそうですね」
僕は思わず聞き返しました。
「え? それは聴覚障がい者ではなくて視覚障がい者のことですか?」
「そうです。視覚に障がいのない方は感情が入っている方がいいらしい」
僕はうなりました。ここらあたり、なんだか研究しなければいけないことがたくさんありそうです。

それにしても、介護の必要な方だとか視覚障がい者の方々ばかりではなく、一般の方々に、どうしたらオーディオブックを売っていけばよいのか、なかなか多難であります。
協会の方は同情してくださいました。しかし同情されて嬉しがっている場合ではありません。

酔っ払って裸になってニュースになって、それでCD売れるんなら、逮捕されたってなんだって、いくらでも裸になりますよ。なんでしたら今ここで裸になって、消化器でも振り回してみましょうかねえ……
それだけは勘弁してくださいと頼まれました。
酔っ払ったら裸になる人、大概の会社にひとりや二人いませんか、といったら、うちにはいませんと笑われました。そうかなあと、事務所内を見回したら、皆さん各自御自分のPCのモニターに目をやったまま、クスクス笑いながら首を横に振っていらっしゃいました。あれ、また皆さん、僕の話に耳をそばだてていたわけね。

文藝家協会の皆様、大変お騒がせいたしました。
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「豚」の「わー」は声門破裂音です!【うちなーぐち講座“プロローグ”】

まずは鼻濁音のはなし。
去年の12月、アナウンス講座なるものを見学した際に、僕はこんなことを書きました。まずはお読みください。
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.com…

3ヶ月前は、ずいぶんと講座の先生に気を使って書いているようですが、あらためて僕は、「鼻濁音が日本語の美点というのはおかしい」と、大きな声で叫びたい気持ちになってきました。
沖縄には鼻濁音はありません。それは、なにも沖縄に限ったことではないのです。日本のかなり多くの地域で、鼻濁音などないのですから。

八木政男さんとお会いした時にも、この話題が上りました。
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.com…
ウチナーグチに「はなむにー」という言葉があります。まあこれは、風邪なんか引いたときの「鼻声」みたいな状態を指す言葉ですが、沖縄では鼻濁音も同様に笑われる対象、風邪ひきの優男(やさおとこ)がもてるのは、江戸という街だけということなのかもしれません。
役者の場合、経験上、標準語なら鼻濁音であることが正しい場合でも、時に確信犯的に鼻濁音を採用しないことがあります。そういう経験談を、去年もアナウンス講座の先生にお話ししてみたのですが、黙って無視されました。
また鼻濁音には強弱があって、時に鼻にかかる度合いが強くて、鼻濁音としては実にすばらしいのですが、しかしなんとも気持ちが悪いという場合もあるのです。
おきなわおーでぃおぶっくのCDのはなしですが、津嘉山正種氏の「人類館」のこと、ウチナーグチの部分は当然ですが、地の文でも、本来は鼻濁音でなくてはならない箇所の多くを、津嘉山さんは鼻濁音で語ってはいません。この「人類館」という作品にとっては、それが正解であり、「美しい」と思うのです。
そして昨日、あの、久米明さんの「ノロエステ鉄道」の朗読でさえ同じだったのです。伺ったところによると、久米さんは「沖縄を読む」ということで、鼻濁音をどうするか、かなりお考え下さったようです。結果、大城立裕先生がおっしゃった「鼻濁音の気持ち悪さ」は完全に払拭され、逆に「清い」美しさが加味されたと思います。

沖縄という風土の中で、鼻濁音に出会うと、とても違和感を感じます、そんなお話を、今日もしたのでした。鼻濁音は美しいものだ、それが正しい日本語なのだということが、まことしやかに語られるのはいかがなものでしょうかと。

もうひとつ。「わー」のはなし。
「私」も「豚」も、ウチナーグチではどちらも「わー」だというはなしです。
FM世田谷の“せたがやじーん”に出演した時もこの話をしました。
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.com…
儀間進さんとの雑談をご紹介した時も、「わー」のしゃべり方について触れました。
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.com…

つまり、「私」も「豚」も「わー」であるという言い方は、実は正しくありません。「私」も「豚」も、ひらがなで表記するならどちらも「わー」と書くしかないということなのです。
言語学的に言うと、豚の方の「わ」は声門破裂音(Glottal_stop)という子音です。声門(声帯)を閉じた状態から、発声と同時に声門を開いて声を出す破裂音なのです。国際音声記号では、クエスチョンマーク(?)から下の点を外したような記号が使われます。PCではこんな記号はありませんから、ここでは便宜上「?」で代用しますが、「私」の「わー」の「わ」は「wa」で「豚」の「わー」の「わ」は「?wa」です。
これをむりやりひらがなを使って表記しようとすると、「ぅわ」というのが一番近いのかもしれません。しかしやっぱり近いだけで「ぅわ」ではないということが問題なのです。ウチナーグチに触れたことのない大和の人たちには、この「わ」の前の「ぅ」は聞き取れません。というより、「ぅ」ではないのです。日本語の感覚で「ぅわ」を読んでしまうと、それはやっぱり「うわ」であって、これは声門破裂音ではありません。

母音と「わ行」と「や行」と、それらの関係については、そのうちきちんと体系的にまとめてご説明したいと思います。
また、ウチナーグチの表記についても、いろいろな考え方があるようで、もう少しきちんと調べて、その勉強結果をご報告したいと思っています。少々お待ちくださいませ。

その他、「口蓋化」や「高舌化」など、なんだかちょっとおもしろくなってきました。ウチナーグチを考えることで、日本語を再発見することにもなりそうです。
(文責:高山正樹)

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朗読会の第2夜は…

第一夜の記事

朗読会

本日は少し抑えめ(?)の伊達裕子さん
伊達裕子さん 河崎卓也さん
紙切りしながら口上を語った河崎卓也さん

今日は、何も語りません。
その代わり、「社長とは呼ばないで」に「朗読」というサブカテゴリーを作りました。さらにそのまたサブのカテゴリーを作って、「朗読の形而上学」という連載を始めてみました。すべてはそちらに託します。
「おきなわおーでぃおぶっく」にとっても、「山猫合奏団」にとっても、「朗読」を丸裸にして考えてみることは、きっと必要であるに違いないと思い始めているのです。

 ⇒朗読の形而上学

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