2018年11月30日(金)12時33分
午前中のコザのパークアベニューで

朝飯を調達してコザに向かった。
10時到着。
約束の時間は11時半だから、まだ一時間半もある。キジムナーフェスタで来た時の懐かしい街。レンタカーを駐車場に突っ込んで、時間までパークアベニューあたりをブラブラしてみることにしたのだが、しかし殆どの店が閉まっている。もう少しすれば開くのか、いや、多くが空き店舗だ。
開いているのはこんな店。

買いに来るのは米兵か、暴走族か。
沖縄とアメリカ軍人という10月の旅のテーマは、まだ終わりそうもない。
ん、200円? 元々いくらだったのだろう。

それにしても
CAMP HENOKO って
まだ辺野古基地なんてないんだし
いやいや「まだ」という言い方もおかしいし

鳥居も、たっぱり何だか腹立たしい。
そして、こんな張り紙も見つけた。

こうなりゃオマケにこれだ!

もうひとつ。まちなか図書館の掲示板。
そう、今日はこれから、「米軍が最も恐れた男」上映中のシアタードーナツに行くのである。

でも、まだ少し早い。パークアベニューの突き当りまで歩いて、懐かしい“コリンザ”に行ってみることにした。
⇒続く
tag: 鈴木里美 沖縄の旅_2018年11月 コザ 泊漁港 パークアベニュー 辺野古 沖縄の基地 トリイステーション 名護 瀬長亀次郎
2013年02月01日(金)14時58分
西山正啓監督作品“沖縄・フクシマ~女たちのレジスタンス”上映会のご案内
西山正啓監督新作上映会のお知らせです。
昨年の9月25日に上映会した「主権在民 フクシマから東海村へ」の続編
主権在民2
“沖縄・フクシマ~女たちのレジスタンス”
唄や踊りが満載!抵抗はアートである!
~日時~
2月22日(金) 昼 14:00 夜 19:00
~会場~
M.A.P.喜多見事務所スペース
~会費~
1,000円
(※お茶菓子とお茶と踊り付き)
上映前に三線の生演奏で琉球舞踊
上映後は西山正啓監督のトーク&ゆんたく(お喋り)
※夜の部終了後には西山正啓監督を囲んでの懇親会
(懇親会費は別途1,000円です。)
※泡盛やビール、簡単な料理を御用意する都合上、ご予約を頂きたく存じます。
パーマカルチャーの話もしましょう。だから…
※可能な方は使い捨てではないMyコップ及びMy箸をご持参ください♪
突然のご来場も大歓迎ですが、できれば事前に御一報を。
~お問い合わせ~
(株式会社M.A.P. 03-3489-2246 担当:うぶかた FAX:03-3489-2279)
【M.A.P.のMap】小田急線喜多見駅徒歩4分

狛江市岩戸北4-10-7-2F(※島田歯科の2階です。)
(※↓クリックすると大きくなります!)

一昨年、経産省前テントひろばを拠点にした「原発いらない福島・全国の女たち」の果敢な抗議行動からスタートした記録の第一弾は福島原発告訴団と脱原発に向けて奮闘する東海村の動きを中心に作品化しましたが、今回はこの一年余の記録を、時間軸に沿って丁寧に辿りながら編集してみると「沖縄・フクシマ~女たちのレジスタンス」(96分)というタイトルに行き着きました。
3.11から一年を迎えて行われた郡山全国交流集会、郡山では初めて行われたという街頭デモの熱気、大飯原発再稼働阻止ハンスト宣言~16万人集会~首相官邸前デモ~そして沖縄へと続く、この国の二大差別政策をめぐる大衆行動の流れを追いながら、福島県須賀川市で自然食レストラン「銀河のほとり」を経営する有馬克子さんの地元に残って生き抜くことへの葛藤と決意、告訴団・子ども・被災者支援法で東奔西走する宇野さえこさんや避難者家族の思い、プロローグとラストは娘を連れ沖縄へ避難(移住)したミュージシャンciuco&ta-ke家族の生活と表現活動。
彼らが先頭を切って参加した「愛と怒りのサウンドパレード」、那覇市内でのライブ、宜野湾市に残された僅かな田芋(水いも)水田の手伝いをしながら、農的生活への決意を語るta-ke。夫婦は沖縄へ来て政府による理不尽な基地問題に正面から向き合い、基地封鎖行動にも参加するようになった。沖縄の風にふれて表現することの大切さを知り、再び音楽活動も始めた。~何もかもきっかけはあの原発事故、生き直すことを迫られたんですよ。全編、唄あり、三線あり、踊り(かんしょ踊り、さんさ踊り)あり。抵抗はアートである!
武藤類子さん。

2012年12月31日(月)23時59分
2012年最後の事務所の外の空間線量
ubukatamichi
RT @mapafter5: 四つ竹の稽古と厚木カルチャー http://t.co/hMXh1uNf #TIDABlog
12-31 09:10RT @mapafter5: 「渡久山英男・沖縄の伝統を謡う」新春ライブのお知らせです。是非のお越しを! http://t.co/Ep0bFjfj #TIDABlog
12-31 09:10RT @mapafter5: 楽天市場沖縄map新製品入荷しました。蛇皮ストラップ、三線ストラップ、三線キーホルダーの三点です。来年は蛇年だもんねえ。 http://t.co/myw3Gx0C
12-31 09:10さあ、大掃除!
12-31 09:11
16:55 2012年最後の事務所の外の空間線量
0.05μSv/h(DoseRAE2)

gajumui
ある人のネタ。沖縄と掛けて、元旦の鶴岡八幡宮と解く。その心は… 吉(基地)の中に凶(今日)もある。来たる年こそ、いい年であることを祈らせてください。僕は来年も、めんどくせえやつだなあと言われながら、生きていくつもりです。
12-31 22:02
もしかしたら鶴岡八幡宮じゃなかったかもしれないが、なんでも正月だけおみくじの大吉とか吉を増やして90%にするらしい。残りの10%が凶。吉の安売り。なんだか暮れから正月に掛けてのTV番組みたい。どこの神社でも同じなのかどうか。
facebookでは最後に「ここのところ沖縄ばかりではなく、パレスチナのこと『在日』のこと、色んなことを学んで、ますますそう思っています」と、そして最後に「おやすみなさい」と付け加えてみた。(22:49)
だが…
2012年04月04日(水)17時13分
西山正啓監督作品上映会のお知らせ
「京太郎の歌」なるサブカテゴリーを作り、一応記事も暫定ながら整理をいたしました。
→[subcate:京太郎の歌]
……と、その余韻に浸る間もなく、M.A.P.主催の催しが間近に迫ってきました。というわけで……
取り急ぎの 緊急告知!
西山正啓監督作品上映会のお知らせです。
“恨ハンを解いて、浄土を生きる”
(ドキュメンタりー・85分)
政権交代によって期待が高まった普天間基地の県外移設。しかし……
知花昌一と金城実が沖縄の尊厳を賭けて挑んだ闘い。
沖縄の感情が恨みに近い情念に変わってゆく時間の記録。

~日時~
4月13日(金) 昼 14:00 夜 19:00
~会場~
M.A.P.喜多見事務所スペース
(小田急線喜多見駅徒歩4分)
狛江市岩戸北4-10-7-2F(島田歯科2階)
~会費~
1,000円
上映後、西山監督のトーク、及び三線の生演奏で琉球舞踊を御披露いたします。
また、夜の部終了後には西山監督を囲んでの懇親会があります。
つまり、金城さんの沖縄料理を食べる会(第三回)です。
泡盛なども御用意する予定。時間無制限一本勝負!
(懇親会費は別途1,000円です。)
※料理やお席をご用意する都合上、ご予約を頂きたく存じます。
突然のご来場も大歓迎ですが、できれば事前に御一報を。
~お問い合わせ~
(株式会社M.A.P. 03-3489-2246 担当:うぶかた FAX:03-3489-2279)
一昨年に続いて3回目の上映会となります。M.A.P.は、ある党派のみを支持することはしません。ただ、沖縄の現実をまず知って、そして考えてみませんかという提案は常にしていきたいと思っています。
⇒第一回の上映会でのエピソード
でも、どんなことでも、たとえ戦いでも楽しく、それが金城実に教えられたモットー。だから、三線と踊りとお酒は欠かせないのです。でも住宅地、時間が遅くなったらお静かに……
【MAP】(※地図下辺にある島田歯科の2階が会場です。)
大きな地図で見る
【ツイッターでも告知!】
gajumui
西山正啓監督作品上映会のお知らせ http://t.co/FGifqMfo 上映後は西山監督のトーク、そして三線の生演奏と琉球舞踊、それで1000円、その後は金城さんの沖縄料理を食べる会、泡盛も飲めて別途1000円のみ。13日の金曜日ですが、皆様是非。小田急線喜多見駅徒歩4分。
04-04 17:57
2010年07月16日(金)12時16分
拝啓、智内好文さま【天空企画「ウチナー・パワー~沖縄 回帰と再生」】《3》
いよいよ「ウチナー・パワー〜沖縄 回帰と再生」が出版されましたね。おめでとうございます。早速お送りいただき、ありがとうございました。すぐにも読んで、宣伝をと意気込んだのですが、地味ながらその内容の重さに、しばしば立ち止まって沈思黙考、申し訳なく思っています。
今日から沖縄へ行ってきます。山猫合奏団の沖縄公演ツアーのためです。山猫合奏団の公演を沖縄で実現させる、それは、大げさに言えば僕の夢でした。山猫合奏団の仲間や、山猫合奏団を応援してくださる方々は、僕の最も大切にしなければならない人たちですが、そのみんなに、僕が30年間「沖縄」の何に拘ってきたのか、その一端を知ってもらえる機会がやっと訪れたのです。同時に、沖縄を通じて知り合った方々には、僕が沖縄とは関係の無いことにも一生懸命に関わっている人間だということを知ってもらえるのです。「沖縄問題」が全ての日本人にとっての課題であるならば、今回のような機会こそがとても大切なのだと、僕は思っているのです。M.A.P.after5なるブログは、このためにこそあったのかもしれません。
にもかかわらず、何故かとても憂鬱なのです。その原因を説明するのは、なかなか困難なのですが、僕は周期的に、沖縄に関わっていることがとても嫌になる、ちょうどその時期にあたってしまったようで、でもこんなことを言うと、沖縄に関する優れた仕事を継続的に続けてこられた智内さんから、きっと叱られるに違いありませんね。
沖縄へ向かう機内で、東京から持ってきた唯一の本「ウチナー・パワー」をツラツラと読んでいます。
沖縄が「沖縄」に「回帰」し、そして「再生」しようと声を上げれば上げるほど、どうやら僕の憂鬱は募っていくようなのです。
島尾伸三氏がプロローグを書いています。「夢幻琉球」という表題で。
「奄美大島で小・中学校を過ごした1950年代から60年代なかばまで、沖縄は輝いていました。沖縄にはアメリカの珍しいものや便利なものが何でもあって、道にあふれるほどいろんな自動車が走っていて、毎日たくさんの飛行機が町や村の上を飛んでいるというのです。(中略)その憧れは、1972年の沖縄への復帰後数年もしないうちに、奄美の人間にはすっかり色あせたものになってしまいました。その理由は(中略)アメリカ軍からの横流しや戦利品と呼ばれていた盗品を日本へ密輸して大儲けできる魅力が、失われたからです。」
なんという逆説でしょう。僕は、この島尾氏の文章に拮抗できる言葉を、たったひとつとして持ち合わせていないことに気づくのみです。
その代わりといっていいのかどうか、僕は、先日島尾伸三氏から聞いた話を、思い切って公開してしまおうと思ったのでした。
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog…
また、例えば新垣誠氏はこんなことを書いています。
「(前略)沖縄の独自性を訴え、ヤマトとの差異化を図った言説が一世を風靡してから久しい。(中略)近代国家に取り込まれて以来、沖縄は常に苦渋をなめてきた。国家の矛盾と日常をともにすればするほど、帰属意識は薄れ、独自のアイデンティティーを問い直す作業が始まることは自然なのかもしれない。」
「しかし、また、沖縄の独自性を構築する作業は、沖縄をエキゾチックな文化的他者として陳列・観察しようとする殖民者やオリエンタリストによって強奪・利用されてきた側面をもつ。」
「他者の理解とは、多くの矛盾と困難をはらんだプロセスだ。他者理解など、そもそも不可能なのかもしれない。唯一、底知れぬ忍耐と謙虚な姿勢が生み出す共感力のみが、他者へ近づく道なのかもしれない。ましてや、自己の世界観に他者を幽閉して展示物のように眺め、自己を定義する欲求によって他者を『理解』するプロセスは、暴力以外の何物でもない」
そんなこと、分かり過ぎるほど分かっていたはずなのです。それなのに、僕はあらためて自問しています。僕は、沖縄の何を理解し、何を伝えようとしているのだろうかと。そして再び沈思黙考するのです。
「ウチナー・パワー」をそっと閉じて機内誌を手に取りました。しかしそこにも観光客に向けた沖縄特集が。
沖縄は、逃れがたく僕のそばにあり、そしてどの記事にも、僕は「違う、違う」と呟いているのでした。
どんなに憂鬱でも、これから10日間、僕はいつもよりもずっと注意深く、沖縄を見てこようと思っています。もしかすると、今回の報告は、いつもにも増して、遅筆、かつ、時には重たいものになるかもしれません。でも、どうか山猫合奏団の記事がお目当ての皆様方にも、すこしばかり辛抱して、ぜひともお読みいただきたいと願っているのです。
智内好文さま。東京にもどったら、お会いしたいと思っています。どんな土産話ができるのか、定かではありませんが。
2010年07月13日(火)23時28分
山田智恵子さんから届いた一通のメール【物悲しい琉球の再生ガラス】

沖縄に駐留する米軍の家族の需要により、発展してきた沖縄のガラス。材料とてない占領時代、米軍から排出されるコーラやビールの空き瓶などを再利用して作られたガラスの器は厚くて重いものだったが、身体の大きいアメリカ人は気にしなかったそうである。
昨今土産物屋で「琉球ガラス」として売られているものは、色とりどりで鮮やかだ。それはそれできれいではあるが、なんだか北は遥か小樽の北一硝子を思い起こさせ、凍て付く空気の中、凛と佇むその独特の雰囲気には到底及ばす、私には二番煎じに感じられてならない。
もともと器は薄手で、きん、としているものが好きである。ぽってりとした琉球ガラスより、指先ではじけば音色を奏でそうなクリスタルガラス、ざらついてどっしりした陶器より、すべすべの磁器。
が、ある時再生ガラスのグラスを上から覗き込み、厚みのあるグラスの中に閉じ込められた沖縄の海の色と海の深さを見出し、目が眩むようだった。今でもそのグラスを覗き込むと沖縄の海の中にいるような気分になる。できればもう少し薄手の方が好みである、泡もないに越したことはない。なのにどこに惹かれるのか、息をするのを忘れるほどに、目を離す事ができなくなる。
縦に見れば波打った表面、昔の家々の窓ガラスはまだ技術が低く、こんな風に波打っていたものだ。いつの間にか遠くへ行ってしまった昭和の時代、幼い頃の記憶にある、まだ戦後復興期の熱気の残る時代、そういった時代への郷愁にかられ、この地との「戦後」の始まりのタイムラグに気づかされる。そんな再生ガラスはどこか物悲しい。
クリスタルガラスは光を鋭角に跳ね返すが、再生ガラスのぽってりとした厚みは光を溜め込む。閉じ込められた光は、メリーゴーランドのようにくるくる回っている。割れれば人間の身体などすっぱり切れる鋭さを持つクリスタルガラスに較べ、再生ガラスはそこまで傷つけることのない鈍さをもって砕け、なんだかほっとさせてくれる。
そんな再生ガラスに惹かれるまま、土産店以外にガラスを探した。
【奥原硝子製造所】
那覇にある琉球ガラスの草分け。シンプルでぽってりとした「再生ガラス」の代表のような作品が多い。後で知ったが、私の目を眩ませたのはここのグラスだった。私を虜にした淡いラムネ色よりもっと深い青のグラスがあった。ラムネ色のものが沖縄のリーフの明るい海なら、こちらは伊豆の黒潮を思わせる青である。泡盛の瓶を再生したものだそうだが、もう原料が手に入らないとの事。「この色はもうじき廃盤になっちゃうね」と製造所の方が残念そうに言われていた。
【宙吹きガラス工房“虹”】
工房は読谷の「やちむんの里」の入り口にある。読谷の赤い土を塗りつけたものなど独創的な作品で、ゴージャスだが華美ではない。作者の稲嶺盛吉さんは「現代の名工」で、1970年代奥原硝子工房に入り、その後牧港ガラス、ぎやまん館、琉球ガラス村で技術を磨き、1988年「宙吹きガラス工房 虹」を設立されたそうだ。
洗練されていてとてもきれいだが、でも私の想う「再生ガラス」とは趣が異なる作品である。(しかし御土産物屋さんで見た、ここのシンプルなグラスはまさに「再生ガラス」であった。お店の人が言うには「シンプルなものはあまり作られていない」との事)
【尋グラス工房】
沖縄市の住宅地の中に工房はある。ここは再生ガラスではなく原料ガラスの作品を作っている。作家はステンドガラスを作っていた人で、作品にもそれが現われている。
再生ガラスでないことを知りながらなぜ行ってみたかというと、あるお店で買ったグラスのせいである。透明で泡が閉じ込められ、歪んだ形をした大き目のグラス。これが350缶のビールが1本、泡を盛って丁度1本分きれいに入るのである。缶のままで飲むことが多いが、たまにグラスを使ってみたくなった時、1本きれいに入りきるグラスはなかなかない。上まで入らないのは寂しいし、缶にちょっと残るのも嫌だ。いくつも買ったがどれもよろしくない。やっと出会ったしっくりくるグラスだった。
【日月(ひづき】
工房は土日祝日は休みとの事で行ってみる事はできなかったが、読谷村共同販売センターで作品が売られていた。再生ガラスにしては薄手。あまりぽってり感がない分繊細な感じがする。作家は沖縄の方と結婚された京都の女性。作品は泡盛の瓶を使い、色の付かない透明なものばかり。太陽生命のCMに使われたことがあるそう。
【ガラス工房“清天”】
「やちむんの里」から残波岬へ向けて車を走らせている時に、土産店で見て「いいな」と思っていた工房の名前が目に入った。そこは道沿いにある屋根だけの売店で、不揃いの机の上に作品が並べられている。太陽の光の下で透かして見たガラスの先には緑の木々や空がある。ねじって模様を出した厚みのあるガラスの中で木や空が万華鏡のように踊っていて、とても綺麗だった。作品はBEAMSでも売られているそうだ。
ネットで再生ガラスの事を調べたら、材料の一つに板ガラスが挙げられていたが、ここのものは全部泡盛の廃瓶だそう。今は自分達で砕く事はせず、ペレットになったものを仕入れているとの事。コーティングをしてある瓶が混ざり込んだりすると綺麗に出来上がらない、板ガラスも綺麗にできないので使わない、と言われていた。
話はガラスから離れる。
1日屋根だけの屋外で一人ガラスと一緒にいるので人恋しいのか、“清天”のお兄さんとは長いゆんたくとなった。
仕事を聞かれ、理化学器械を扱う会社にいると答えると「かっこいいねぇ」と言う。何を指してそう言うのかと思ったら「何億もする商品なんでしょ。そんな金額のものを扱うなんてすごいねぇ」と言う。(単価が億を超える事はまずないが)売値が高いという事は通常それにかかる原価も高いし、競争も激しく、利益率が高いとは限らない。でも彼は単純に扱う金額の高さにしきりと感心していて、私は沖縄にはそういう産業がないであろう事に思い当たった。
話を始めてしばらくたった頃Yナンバーの車が来て、女性が2人降りてきた。気に入ったものがあったらしく、女性はお兄さんに「これで違う色のものはないですか?」とグラスを指差し、身振り手振りをまじえて英語で聞いた。お兄さんは「解らない」という素振りをするばかり。いくら英語がわからなくても2つのグラスを指差して「カラー」と繰り返し言うのを聞けば、言いたい事は想像できるだろう。
場所は先だっての米兵によるひき逃げ事件の現場近く。そこここに抗議の看板が立っていた。最初はアメリカ人を嫌っているのかとも思ってみた。でもその前に話してくれた、体験ガラス作りをしたアメリカ人とのやりとりの様子からはそんな感じは伺えない。そしてハタと気が付いた。彼は「color」という発音を聞き取れなかったのだ。彼女が言っている事をお兄さんに伝えると、彼はない事を申し訳なさそうに丁寧に日本語で話していた。
そして以前アラハビーチに行った時、向かいのショッピングセンターの駐車場で見た看板を思い出した。そこにはこう書かれていた。「BEACH USERS IS NO PARKING」 英語を学び始めた時、日本語をそのまま当てて、よくやってしまう間違いである。それが今この時代、日本語と英語のアナウンスが交互に流れるビーチの向かいにあるショッピングセンターの駐車場のきちんとした看板に堂々と書かれている。
それを見た時、沖縄は植民地ですらなく、「占領」されていたのだという事が実感を伴って私の中にストンと落ちてきた。(植民地なら言葉の教育がある)
面と向かって身振り手振りで「BEACH USERS IS NO PARKING!」と言えば、きっと通じる。そうやって沖縄の人達は生き抜いて来たのだ。
基地反対運動も、最初は腑に落ちない気持ちがあった。
根本的な解決を求めるには、日本が自分の軍を持つ事を考えるのを避ける事はできない。日本が軍を持てば、沖縄の人達も無関係ではいられない。でも、その覚悟を持った上での行動とは、どうしても思えなかったのだ。基地反対の叫びが心からのものに聞こえれば聞こえるほど、ますますわからなくなっていった。
基地反対が、ただひたすらの慰霊の思いの先にある、と気が付いた時のやるせなさ。
思いがかなって米軍が撤退したら、その後に自分達も参加しなければならない軍がやってくる、という事にもなりかねない構図の運動をしているとはよもや思ってもいないだろう。
そんな事がおこってはいけない。決していけない。
沖縄の人は「ヤマトは沖縄の気持ちをわからない」と言うが、沖縄も本土の事を知らない。相手を知らなくては、わからせる方法もわからない。(本土の人間がちょっと沖縄へ行ってみたところで、沖縄の事がわかるとは思えない。忍びない事だがきっと多分、沖縄からの発信がなければ、本土は本当のところを理解できないだろう。)
沖縄を知れば知るほど、本土は「違うところ」を見ていると感じる。“戦後”38年と65年、それだけでも同じステージで分かり合うことは、どちらからも難しい。50年代のコザを歌った歌を集めたオムニバスCDに付いていた沖縄市歴史年表の昭和20年の欄に「8月15日」の記述はない。
ただひたすらの反対では、進展は止められるかもしれないが、解決にはつながらない。のらりくらりとかわされるだけだ。
東京大空襲を保障できないのと同じ理由で沖縄の不発弾対策に国は補助ができないという。基地は簡単にはなくならないが、これは道はあるのではないかと思う。
どんな事でも小さな事が実現できなければ、大きな事はできない。
確信も希望もなく、可能性すら見えず、ただひたすら「できる事」を繋いで、はやぶさは帰ってきた。
私は私にできる何かの糸口を探している。
我々には琉球ガラスに対する見識が殆どないので、そこらあたりを補完していただく意味で貴重なご意見を伺ったと思っています。山田さん、ありがとうございました。
(※以下の文章は、10月21日にようやく追記したものです。)
実はこれ以前にも山田さんから一通のメールを頂いていました。そこには普天間基地の辺野古移転に断固反対を主張する民社党の福島党首に対して「具体案があるようには思えず見識不足と感じる」と書かれていました。
またその他にも……
「一国を預かる政府が有効な防衛手段を何も持たないというのは、是非は別として、無責任であり、あり得ない事でしょう」
「沖縄問題、基地問題は、突き詰めれば『日本は自らの軍を持つのか否か』という問題だと思います」
僕は、頂いたふたつのメールに、いったいどうお返事をしたらいいか、頭を悩ますことになりました。決して山田さんのご意見に対して異を唱えるつもりはありません。ひとつの見識であると尊重しています。しかし、もしも少し違った場所に立って同じ状況を眺めてみれば、違う何かが見えてくるのではないだろうか、そんなことを少しだけお伝えしたいと思いました。
山田さんは「根本的な解決を求めるには、日本が自分の軍を持つ事を考えるのを避ける事はできない」とおっしゃいます。しかし、僕はこう思うのです。沖縄から米軍基地をなくすことは、単に政治的なひとつの解決でしかなく、世界中から基地をなくすことが、唯一の根本的な解決なのだと、沖縄の多くの人々は思っているのではないでしょうか。その一里塚としての米軍基地反対。でも山田さんは、それを無責任で幼稚な見識だとおっしゃる。山田さんは確かに現実的な正しいご意見を持っておいでです。一方、「ただひたすらの慰霊の思い」という括りで、沖縄の人たちが「現実的に」考えられないことに一種の同情で無理もないことだとされているように思います。
「思いがかなって米軍が撤退したら、その後に自分達も参加しなければならない軍がやってくる、という事にもなりかねない構図の運動をしているとはよもや思ってもいないだろう」
しかし、この山田さんのお言葉は、沖縄に対して非礼であると敢えて申し上げたいと思うのです。沖縄の人々には本当に現実が見えていないのでしょうか。
沖縄で基地反対を主張する人たちは、投獄されても日本軍に参加することは拒否する、そういう現実感覚を持っているのだと僕は思うのです。もちろん、すべての沖縄の人がそうだとはいいません。本当にそうなれば、軍に参加せざるを得なくなる人々もたくさんいるでしょう。しかしたとえそうだとしてもなお、彼らの覚悟を、甘いと貶めてはならない。沖縄の「ただひたすらの反対」を、大和の革新政党のそれと同じものだとは、僕は決して言ってはならないと思っています。
全ての民族が、お互いのことを分かり合うのが理想、その意味では、沖縄の人々も大和を理解すべきでしょう。沖縄のことを理解してもらうために、情報発信することも必要でしょう。しかし、政治的な歴史を知った上で考えるのなら、大和は沖縄を知り理解すべきだが、沖縄が同じように大和を理解する必要はない、大和の沖縄に対する無理解の責任は、100%大和の側にあると僕は考えるのです。それが「歴史的な現実」です。
基地とは禍々しき存在であり、真に世界が平和になるということは、世界から全ての基地が消えることに他ならない、この単純な理念を共有した時にはじめて、沖縄も大和に向けて情報を発信すべきであり、沖縄も大和の文化を理解すべきなのだと、我々は沖縄の人々に対して主張できるのではないでしょうか。
僕は、山田さんの沖縄に対する真摯な姿勢と深い見識に心から敬意を表します。だからこそ、僕もまた、山田さんから頂いたメッセージに対して、一生懸命考えて何かお返ししたいと思いました。失礼、どうかお許しください。
そして、ここまでお返事が遅れてしまったことを、心からお詫びしたいと思っています。
(追伸)
琉球の再生ガラスに物悲しさを感じる山田さんの感性に、僕は深く同意します。でも、それも作り手に対して失礼なハナシなのかもしれないと、僕は今までの僕自身の見方を、少しく反省しているところです。
2010年04月11日(日)03時26分
バースデーのサプライズ【つつじヶ丘の“みやらび”】と【Aサインバー】
だが、おめでたいハナシをする前に。
ふと見上げると、そこには……
沖縄好きの若者は多いが、Aサインバーを知る者はほとんどいない。復帰前、バーだけではなく、アメリカ軍人が入店できる飲食店・風俗の店・ホテルを開くには許可が必要だった。米軍は、兵士が病気に感染することを恐れたのである。特に性病。
そして許可証を受けたものをAサイン業者といった。たとえばバーやキャバレーなら青い字のA、赤いAはレストランである。
子どもの頃、「オキナワ」は、僕にとっていかがわしく魅惑的な異国であった。「Aサイン」という言葉は、その記憶を呼び覚ます。
WELCOME MILITARY
今、沖縄は、基地に揺れている……
(本当は、今に限ったことではない。沖縄は、ずっと基地に揺れていたのだ。)
この日、オーナーの竹原学さんは酔っていた。聞けば今日10日が誕生日なのだという。お客さんたち開いてくれたPartyを開いてくれたのだという。
「飲まされちゃって」
「あたし、明日誕生日なのよ」
宇夫方路がそう言うと、俄然盛り上がった。
「そうなんですか。姉さんと一日違いですか」
その4月11日まで、あと数分。カウントダウンで日が変わった。
途端に電気が消え、ケーキが「姉さん」の前に。
サプライズ!
竹原さんが●●さんに目配せして、ケーキを買いに走らせていたのだ。
最近は仙川の“美ら風”には行かず、たいがいこちらにいると竹原さんは言った。どうしても、こっちのほうがお客さんと親しくなって、気楽なのだとか。
「でも、僕はあっちのベタベタしない感じも好きだよ」
「そうでしょ。そうなんですよ。あっちはあっちでいいんですよ」
事業拡大というばかりではなく、彼がもうひとつ別の店を開きたくなった気持ちが、少し分かるような気がした。
みんなで記念撮影。
学くんは、きっと幸せ者です。
誕生日おめでとう。そしてご馳走様でした。
その2はスナック“ぎま”
だって、“みやらび”と本部の間に“ぎま”があるんだもの。
あらら、今日はやけに混んでるねえ。
国立劇場にしろ、“みやらび”にしろ、“ぎま”にしろ、どこも人が一杯。当たり前のハナシなのだけれど、人それぞれが無関係に、それぞれの場所で「つるんでいる」ということが、なんだか不思議な感じがする。そしてこの僕は、どこからもはじかれていると感じている。なぜなのかな。きっと、基地のこと。
宇夫方路の誕生日だということがわかると、サプライズのワインが出てきた。
かなり酔っ払った知らないお客様も一緒に乾杯!
「ママ、ありがとう」
気がつけば、間もなく11日の午前3時。
2009年12月19日(土)23時41分
“どぅたっち”で上映会【沖縄読谷平和学】そして《知花昌一さんのこと》
今日の上映会の場所は、山手線駒込駅のソバにある“琉球センター・どぅたっち”
普段は沖縄の物産品を売っているお店。でも、ここで三線教室をやっていたり、色々なイベントを開催していたり。
10月には読売新聞で紹介されました。
⇒“琉球センター・どぅたっち”のブログ
上映中です。
たくさんのお客様がいらっしゃっていました。
那覇のBar“土”での上映会は11日間で80名、結構大きな新聞記事にもなっていたのに、ちょっと少ない。宇夫方路が観た時はたった一人だったらしい。
⇒映画の解説はこちら
上映会の後は西山監督のお話です。
「恨(ハン)之碑」があるということの意味。
学生達が映画の中で最後に語りあったこと。
「まるで外国に来たようだ」と日本の学生。
「自分の国に帰ってきたようだ」とベトナムの学生。
韓国の学生がベトナムの学生に、韓国がベトナムにしてきたことを涙を流して謝る。ベトナムの学生は「これから仲良くなればいい」と笑います。
男子学生の少ないことがちょっと残念。
西山監督は言います。
「読谷には沖縄の全ての問題が凝縮されている」
僕はきっと、本当の読谷を知らないのだろうと思います。
僕は、宮城文子さんのはなしを思い起こしました。文子さんは長くいた東京をこの12月16日に引き揚げて、沖縄で義理のお母様と暮らすことにしました。
文子さんの義母さんはずいせん学徒隊の語り部である宮城巳知子さんで、嘉手納にお住まいです。もちろん文子さんは、今までも何度も行っているし、お正月などは長く滞在することもあった。その時には特になんとも思わなかったのだけれど、これからずーっと暮らすと決めてお宅に入った時、米軍基地から飛び立つ戦闘機の音がものすごいことに気がついたというのです。そこで生活するのだと、地に足を着けた時にはじめて聞こえてくるもの、見えてくるものがあるのでしょう。
テレビで、元の防衛大臣が蛇のような目をして、「何度も沖縄に行った」と偉そうに語っていましたが、きっと何にも見えてはいないのだろうと思うのです。
そういえば初めて巳知子さんにお会いした時、「政治家は誰も基地の現状を見に来ない」と怒っていらっしゃいましたっけ。
今度、Bar“土”のオーナーごうさんに、是非とも読谷を案内してもらおうと、あらためて思ったのです。
昨日も今日も、西山監督は、僕におきなわおーでぃおぶっくのCDの宣伝をする時間をくださいました。その上“人類館”のCDをご購入くださいました。感謝です。
宴会開始です。
スクガラス。アイゴの稚魚(スク)を塩蔵発酵させた保存食です。昔は酒の肴の定番でしたが、最近はあんまり見かけない。やっぱりちょっと塩っ辛過ぎるのかな。それにしてもこいつは魚がでかいなあ。ほんとにスクなのかしらん。
そして、今日の影の主役です。西山監督の娘さん(左)とそのお友達(中)です。
お父さんの映画会に来たのは今日がはじめて。お父さんのことは、やっぱり好きじゃなかったらしい。お父さんが何をやっているのか、全く興味もなかった。でもお母さんから父親の仕事を聞かされて、もしかすると、お父さんはすごい人なんじゃないかと思ったんだって。
お母さんが話したのがきっかけじゃありません。娘さんが変わったんだよね。そのタイミングを、お母さんはきっちり見逃さなかった。父は、きっと信じて待っていた。すばらしい親子です。
しょうがないから父も仲間に入れてあげよう。
もうひとりの女の子。(女の子じゃあ失礼かな)
那覇で西山監督の映画の上映会が行われている時のある朝、パラダイス通りを歩いていた彼女は、「土」の看板を見つけた。こんなところにほんとにバーがあるのだろうか……
「すいません……」
って、声を掛けたって店の人はいない。ところがその日店では西山さんなんかが雑魚寝していた。それが縁で、今日の上映会にやってきたのです。
不思議な出会いだなあ……。でも、沖縄に関わっていればよくあることです。
そして、不思議なメンバーで二次会へ。
今日のところは、皆さんのお名前のご紹介は控えておきましょう。きっとまたどこかでお会いすることがあると信じています。その時こそ、ちゃんとご紹介します。
2009年06月15日(月)18時02分
“Bar土”と知花昌一さん(6月の沖縄18)【沖縄通信 No.4】
そうしたら、昨日の夜になって、ごうさんの方から電話がかかってきました。
※お昼の土は9月をもって終了しました。残念。(9/30追記)
「携帯のデータが飛んじゃってさ。今、沖縄にいるの?」
「明日帰るけど」
帰りの飛行機の時間は19:30。じゃあ4時頃なら会えるねということで、今日、特別に早い時間から店を開けてくれて、ごうさんが出てきて待っていてくれました。
特別に、食事も出してくれました。
ごうさんがM.A.P.after5に初登場した時、ごうさんは「のんさん」でした。「のんさん」が「のんさん」を辞めたという話は聞いていないので、きっとまだ「のんさん」でもあるのでしょうが、表の世界での通り名は「ごうさん」のようです。
ごうさんは、最近、読谷に引っ越しました。夜のお店の営業は大西君に任せて、しばらく自分はお昼だけ出てきていたようですが、それも今は人に任せてしまいました。
ごうさんはいろいろと考えているようです。読谷で土を耕すこと。また“Bar土”での企画も盛りだくさんで、そのたんびにごうさんはお店に出てきて遊んでいるようです(失礼)。
大西君によると、“Bar土”は、今、沖縄で何かと注目されているのだそうです。でも、いったいどういう種類の人たちに注目されているのかなあ……
どんな催しを企画しているのかは、“Bar土”のブログでも覗いてください。
例えば、あの「日の丸事件」の知花昌一さんが、島唄を歌っていたり……
⇒http://tsuchi2009.ti-da.net…
ちなみに、僕は知花昌一さんについて、ちょっとだけ書いたことがあります。
⇒http://lince.jp/mugon/okuba…
ごうさんが知花昌一さんと初めて会った時に、知花さんから聞いた話を、ごうさんは「mixiという場所」で書いています。mixiという閉じられたところだけじゃもったいないから、ここに転載させていただくことにしました。
(まあ、ここで紹介しても、どれほどの方に読んでいただけるものか、あやしい限りですが、少なくともここは署名入りで全世界に公開しているわけで、それが、理念としてmixiとは違うのだと言いたい訳です。あれ、でもそういえば、ごうさんのほんとうのなまえ、知らないや。)
【沖縄通信 No.4】(from ごうさん)
あれは、高校国体が始めて沖縄に呼べると喜び、沖縄中で盛り上がってたんですね。
開催県は全ての種目にエントリー出来るので、必ず総合優勝出来るんですよ。
沖縄を総合優勝させることによって、大和に対する劣等感を払しょくさせ、自信をつけせるチャンスだったんです。
読谷村もその会場の誘致に懸命で、やっとその夢が実現する運びになりました。
しかし、大きなネックになったのが、国旗掲揚でした。
読谷村では4カ所で集団自決しているんですね。
僕が調査した「チビチリガマ」では85人が死に、83人が集団自決です。
そのうち12歳以下の子供が47人を占めています。
とても自分で死ぬことはできないわけで、その子たちは、お母さんに殺されたのです。
調査していて「あなたたちにはわからないかも知れないけど、当時はそういう教育だったんだよ」という話をある生き残った母親から聞きました。
降伏するくらいなら自決せよという軍国主義教育が母性さえ奪ったんだと思います。
沖縄戦は実は戦争が終わった後の9月7日まで散発的戦闘が続きました。
“最後の一兵まで戦闘せよ”と指令されていたからです。沖縄は、米軍の本土上陸を長引かせるために、まさに捨て石にされたのです。
また、戦闘の最中の5月に出た日本軍指令で、沖縄語をしゃべった者はスパイとみなして処刑されました。
こうした日本軍による住民虐殺や集団自決の象徴となったのが日の丸・君が代です。
当時、読谷村は村長も日の丸掲揚に反対していたし、議会でも日の丸強制反対決議を採択していたんですね。
国体のソフトボールの会場でも当初は掲揚しないことになっていた。
しかし、日本ソフトボール協会の会長が「日の丸・君が代をやらないのなら国体を他府県に移す」と言って紛糾したんです。
話し合いを重ねて妥協案が決まりました。
普通、旗のポールは5本だけど、6本目のポールを作って、その端っこに日の丸を立てる。
その反対側の端っこには非核宣言の旗を立てる。
メーンポールには国体旗を立てるというのが妥協案で開会式前日までこれで決まっていました。
村としても、がんばったんだし、端っこなら僕は焼くことはしなかった。
日の丸反対の横断幕を掲げるだけのハズでした。
ところが、当日になって協会長が「慣例なんだからメーンポールに立てろ」と強行したんです。
僕は、とっさにスコアボードに上って国旗を降ろし、燃やしました。燃やせば、もう揚げられないと考えました。
ところが、国旗に火をつけても、すぐに消えるんですね。
もう一度火をつけ、燃やすために火をつけた国旗を振りました。
そのことが、後になって、自分の行為を誇示したと見られ、裁判ではより重い刑が科せられる一因にもなったのですが。
スタンドから拍手喝采が起こりました。みんな、読谷村では当然のことと思ってたんでしょう。
その後、ぼくは逃げるつもりはなかったのですが、仲間が車を乗りつけ、逃げるんだ、早く乗れ。
と言うんで、成り行きでその車で家まで送ってもらいました。
家に帰り、妻に事情を話し、改めて警察に出頭しました。
以来、僕は「国賊」だと言われたりしましたが、本当に僕が国賊なら、僕の店はつぶれているハズです。
僕は30年間スーパーマーケットをやってきました。
日の丸を焼いた翌々日から右翼に店を襲撃され冷蔵庫を壊されました。翌年まで営業妨害を受けました。
でも、地域に支持されたから店はつぶれませんでした。
8年間闘って、裁判には負けました(一審で懲役1年執行猶予3年、二審で控訴棄却)けど、大変満足しています。
日の丸が大変な旗だということを全国で話すことができました。
日本人は、戦争で日の丸が果したことについてケジメをつけないとダメですよ。
それで新たに国旗を制定して日の丸が国旗になるのなら構わない。
でも、国旗が国内向けに必要なのでしょうか。旗というのは識別表示の記号であり思想を明示するものです。
船舶に立てたり、在外の大使館に国旗を立てるのは記号として当然です。
しかし、それが国内で自国民に向けて振られる時というのは、国が外へ出て行く意思表示をしている時、すなわち戦争につながると思っています。
M.A.P.としては、知花昌一さんの考えを全面的に支持するものではありません。というか、いかなる立場も主張することはいたしません。
また、ご紹介した文章の事実関係等を検証したわけでもありません。
あくまでも、“Bar土”のオーナーである「ごうさん」が、実際に知花さんとお会いして、そしてごうさんの頭の中に記憶された知花さんの話を、ごうさんが誠実に書き綴った文章があって、それをここに転載させていただきたいと思ったということであります。
(快く許してくださった「ごうさん」に心から感謝いたします。)
ありがとう、そしてご馳走さまでした。
とまりんでレンタカーを返却して、空港へ向かいます。
インターネットにある膨大な情報、その有効性を疑うものではありません。でもその恐ろしさを、この旅では考えさせられました。
あることを検索した結果、上位100個の記事全てに同じようなことが書かれていたとしたら、それを正しい情報だと信じてしまうのもいたし方ないことかもしれません。そしてその情報を、また自分のブログに書いたりしてしまいます。ところが実は、100個の情報の出所はたったひとつで、異論は101個目に押しやられている、しかし本当はその意見のほうが真実に近いということもよくあるのです。
間違っているかもしれない情報を、正しいものとしてしまうことに加担しないよう、あらためて肝に銘じています。
我々の過去の記事の中にも、安易に書いてしまった文章があるかもしれません。もし気づいたことがおありになりましたならば、是非ともご指摘くださいませ。
tag: 日の丸 沖縄の旅_2009年6月 100シリーズ ごうさん 知花昌一 沖縄の呑食処.Bar土 沖縄の基地 チビチリガマ
2009年05月17日(日)14時39分
5月15日に一番近い日曜日
軍服を着て街を歩くと、市民から非難されるというような、大正デモクラシーがまだ辛うじて残っていた頃の話。これからあと、日本は急速に戦争へと突き進んでゆく。
日本は、第2次世界大戦に敗れ、沖縄は日本国から分離される。
そして。
5.15事件から数えてちょうど40年、1972年(昭和47年)の5月15日午前0時をもって、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還される。
「本土並み」の復帰を目指したが、実際に残った米軍施設の面積は沖縄県全域の12%であった。
今日は、その5月15日に一番近い日曜日。
喜多見にある沖縄県男子学生寮(南灯寮)の寮生たちは、沖縄復帰を記念して、エイサーを踊って喜多見の町を練り歩く。
あの大城君もいるのだ。

⇒去年の暮の大城源二君を見る。
豪徳寺にある女子寮(沖英寮)からも助っ人が来ている。

チョンダラー(※)だってちゃんといる。

※チョンダラーは「京太郎」と書く。その昔、京都からやってきた芸能者が沖縄にひろめた念仏踊りがエイサーの起源なんだとか。チョンダラーはエイサーを盛り上げる道化でありながら、実は隊列を制御する重要な役目を担っている。まさに聖と俗、トリックスター。しかし今日のチョンダラー君は、隊列を乱す張本人だった?
沖縄復帰は彼らが生まれるずっと前のこと。
「君たちはいったい何を祈って踊っているの」
この日、喜多見の町には、エイサーの太鼓の音が延々と響きわたっていたのです。
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