2010年03月05日(金)21時24分
珊瑚の日・二十日正月・尾類馬【第7回 喜多見で沖縄語を話す会】
【朝一番の記事】
3月5日、珊瑚の日
⇒《損傷サンゴ捏造事件》のこと
旧暦1月20日、二十日正月(ハチカソーグァチ)
正月気分を一掃する日。
辻の二十日正月は尾類馬(ジュリンマ)。その起源は不明。
⇒じゅり馬の出番を待つ菅原千絵さんと神谷枝里子さん
『沖縄大百科事典』によると……
「ジュリ馬」は「辻遊郭の豊年祈願と商売繁盛の祈願祭」なんだとか。「遊郭の豊年祈願は的はずれという人もいる」けれど、豊かなら世の男たちもみんな遊郭に遊びに来てくれるはずってことなんだね。納得。
【お昼】
今日から三日間、駅前で三陸市やってます。駅前ってどこのこったって? そりゃそうですよね。じゅり馬のハナシとは全く関係ないですものね。東京の小田急線の喜多見という駅のことです。
焼きほたて、買いました。

牡蠣。カキです。

お試し価格、一個百円!大きい!でも、買いませんでした。
【そして夜】
第7回 喜多見で沖縄語を話す会
ぼちぼち、会話なんかもしてみたいですなあ。
ということで……
初みてぃやいびーん(初めてです)
わんねー、高山正樹やいびーん(私は高山正樹です)
見ー知っちょーてぃくみそーれー(お見知りおきくださいませ)
その他にも、「〜しが(〜だけれども)」みたいな言葉も習ったのですが、なにしろ音韻講座が進んでいないので、なかなか説明しがたいのです。
ああ、「音韻講座」を書く時間が欲しいなあ。
第7回の授業報告は、これでおしまいにしましょ。
金城さんがこんな本を持って来て見せてれました。

金城さんのふるさと、伊江島のことばの本です。

ひえー! 沖縄本島の那覇あたりの言葉の音韻だけでも難しいのに、伊江島はもっとやっかいだ!
ともかく、やっぱり早く「音韻講座」だね。でもなあ。時間がいっぱい欲しいのです。
その後、皆さんと“中む食堂”へ。高山正樹はようやく中むの沖縄そばにありつけました。

宇夫方路は、昨日に続いて2日連続でありました。
3月5日、珊瑚の日
⇒《損傷サンゴ捏造事件》のこと
旧暦1月20日、二十日正月(ハチカソーグァチ)
正月気分を一掃する日。
辻の二十日正月は尾類馬(ジュリンマ)。その起源は不明。
⇒じゅり馬の出番を待つ菅原千絵さんと神谷枝里子さん
『沖縄大百科事典』によると……
「ジュリ馬」は「辻遊郭の豊年祈願と商売繁盛の祈願祭」なんだとか。「遊郭の豊年祈願は的はずれという人もいる」けれど、豊かなら世の男たちもみんな遊郭に遊びに来てくれるはずってことなんだね。納得。
【お昼】
今日から三日間、駅前で三陸市やってます。駅前ってどこのこったって? そりゃそうですよね。じゅり馬のハナシとは全く関係ないですものね。東京の小田急線の喜多見という駅のことです。
焼きほたて、買いました。

牡蠣。カキです。

お試し価格、一個百円!大きい!でも、買いませんでした。
【そして夜】
第7回 喜多見で沖縄語を話す会
ぼちぼち、会話なんかもしてみたいですなあ。
ということで……
初みてぃやいびーん(初めてです)
わんねー、高山正樹やいびーん(私は高山正樹です)
見ー知っちょーてぃくみそーれー(お見知りおきくださいませ)
その他にも、「〜しが(〜だけれども)」みたいな言葉も習ったのですが、なにしろ音韻講座が進んでいないので、なかなか説明しがたいのです。
ああ、「音韻講座」を書く時間が欲しいなあ。
第7回の授業報告は、これでおしまいにしましょ。
金城さんがこんな本を持って来て見せてれました。
金城さんのふるさと、伊江島のことばの本です。
ひえー! 沖縄本島の那覇あたりの言葉の音韻だけでも難しいのに、伊江島はもっとやっかいだ!
ともかく、やっぱり早く「音韻講座」だね。でもなあ。時間がいっぱい欲しいのです。
その後、皆さんと“中む食堂”へ。高山正樹はようやく中むの沖縄そばにありつけました。
宇夫方路は、昨日に続いて2日連続でありました。
tag: 沖縄大百科事典 喜多見 狛江_居酒屋.中む食堂 沖縄居酒屋.中む食堂 うちなーぐち ゆんたくの会 沖縄この日何の日 しまくとぅば 沖縄の遊郭
2010年01月23日(土)19時15分
“杜の賑い 沖縄”初日
【沖縄からの第8報】
宣野湾市にある沖縄コンベンションセンターの展示棟にいます。
今日と明日、『第115回 杜の賑い 沖縄』に出演しています。
13時から1回目がありました。今は17時からの2回目の本番の真っ最中です。
私は四つ竹と新四季口説を踊るのですが、今日の私の出番は終わりました。お役御免です。
今回私は、家元から出ませんかと声をかけられて参加したのですが、いったいどうゆう公演なのか、よくわかっていませんでした。やっと今日少し分かったのですが、どうやらJTB主催で、日本各地で伝統芸能団体を集めた公演を観光客向けにやる企画のようです。沖縄だけは毎年開催。今回も、すずめ踊り、花笠踊り、佐渡おけさなども出演しています。
「チャンプルー文化が根付く沖縄ならではの企画」というのが今回の売り文句みたい。
じゅり馬の出番を待つ2人。左は21日に御紹介した菅原千絵さん、右は神谷枝里子さんです。

昔は、お正月に花街の女性たちが顔見せのため町を練り歩きました。じゅり馬はそれを表現した踊りです。
お二人とも、がんばってね。
私も明日もう一日、がんばらなくっちゃ!
宣野湾市にある沖縄コンベンションセンターの展示棟にいます。
今日と明日、『第115回 杜の賑い 沖縄』に出演しています。
13時から1回目がありました。今は17時からの2回目の本番の真っ最中です。
私は四つ竹と新四季口説を踊るのですが、今日の私の出番は終わりました。お役御免です。
今回私は、家元から出ませんかと声をかけられて参加したのですが、いったいどうゆう公演なのか、よくわかっていませんでした。やっと今日少し分かったのですが、どうやらJTB主催で、日本各地で伝統芸能団体を集めた公演を観光客向けにやる企画のようです。沖縄だけは毎年開催。今回も、すずめ踊り、花笠踊り、佐渡おけさなども出演しています。
「チャンプルー文化が根付く沖縄ならではの企画」というのが今回の売り文句みたい。
じゅり馬の出番を待つ2人。左は21日に御紹介した菅原千絵さん、右は神谷枝里子さんです。

昔は、お正月に花街の女性たちが顔見せのため町を練り歩きました。じゅり馬はそれを表現した踊りです。
お二人とも、がんばってね。
私も明日もう一日、がんばらなくっちゃ!
(宇夫方路)
⇒旅の続きへ
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tag: 沖縄の旅_2010年1月 沖縄の遊郭 宇夫方路踊る 琉球舞踊
2009年12月25日(金)23時55分
金城さんの沖縄料理を食べる会(その2)
たっぷり美味しい金城さんのお料理を頂いたあと、なおも続く金城さんのカメーカメー攻撃。
山盛りのサーターアンダギー。これも金城さんの手作り。

旨いものは、人を幸せにしますなあ。
今日、初めてお会いした方々も多く、皆さんに自己紹介をしていただきました。

(※どぅたっちでお会いした日高さんの自己紹介。ASAのジャケット着ている方は比嘉くん。若そうに見えますが、奥様とお子様を沖縄に残して、東京の新聞販売所で働いていらっしゃいます。今日は夕刊の配達を終えて駆けつけてくれました。比嘉さんのお母様は読谷で織物をしていらっしゃるのだそうです。こんど詳しいことを聞いてみよう。)
TOMIHUSAさんは今の沖縄が抱える現実をお話くださいました。

やんばるの高江。間近を轟音をあげて飛びヘリ。これが島の実態です。
(※画像提供TOMIHUSAさん)
そして、船津好明さんが、こんな琉歌を詠んでくださいました。




沖縄は遠いが、沖縄語を習いながら、喜多見で歌と踊りを楽しみましょう。
船津先生御自身が考案された新沖縄文字が使われています。
例えば「うちなー」など、本来なら伸ばす単語を、琉歌のサンパチロク(八八八六というリズム)を崩さないために、「うちな」と詠んでいらっしゃいます。そうか、一音一文字の沖縄文字は、この沖縄特有の調子を理解するためにも、大変有効なのだということが分かりました。これは沖縄の古典芸能に関わっている方々に対して、大きな「売り」だということにあらためて気がついた。また一つ、先生に教わりました。感謝です。
さあ、新生沖縄語を話す会の第一歩を祝って、「歌とぅうどぅい」の宴の始まりです。
始まりはやっぱり「かぎやで風」から。

「かぎやで風」と書いて「かじゃでぃふう」と読む・・・、これについて、興味深い新聞記事を見つけました。次回の沖縄語を話す会で、ご披露したいと思います。少々お待ちを。
大崎の忘年会でも歌ってくれた西武門(にしんじょう)もみ子さんが、今日も大活躍です。

先日の沖縄の旅で、通りがかったバス停、もみ子さんを思い出してちょっと写してきました。

注:「西武門」について、本記事の後ろをお読みくださいませ。
最後に残った若者(?)で記念撮影。

次回は来年1月の18日です。皆様、お待ちしてまーす。
そして、金城さん! ほんとうにご馳走様でした!!
山盛りのサーターアンダギー。これも金城さんの手作り。
旨いものは、人を幸せにしますなあ。
今日、初めてお会いした方々も多く、皆さんに自己紹介をしていただきました。
(※どぅたっちでお会いした日高さんの自己紹介。ASAのジャケット着ている方は比嘉くん。若そうに見えますが、奥様とお子様を沖縄に残して、東京の新聞販売所で働いていらっしゃいます。今日は夕刊の配達を終えて駆けつけてくれました。比嘉さんのお母様は読谷で織物をしていらっしゃるのだそうです。こんど詳しいことを聞いてみよう。)
TOMIHUSAさんは今の沖縄が抱える現実をお話くださいました。
やんばるの高江。間近を轟音をあげて飛びヘリ。これが島の実態です。
(※画像提供TOMIHUSAさん)
そして、船津好明さんが、こんな琉歌を詠んでくださいました。
沖縄は遠いが、沖縄語を習いながら、喜多見で歌と踊りを楽しみましょう。
船津先生御自身が考案された新沖縄文字が使われています。
例えば「うちなー」など、本来なら伸ばす単語を、琉歌のサンパチロク(八八八六というリズム)を崩さないために、「うちな」と詠んでいらっしゃいます。そうか、一音一文字の沖縄文字は、この沖縄特有の調子を理解するためにも、大変有効なのだということが分かりました。これは沖縄の古典芸能に関わっている方々に対して、大きな「売り」だということにあらためて気がついた。また一つ、先生に教わりました。感謝です。
さあ、新生沖縄語を話す会の第一歩を祝って、「歌とぅうどぅい」の宴の始まりです。
始まりはやっぱり「かぎやで風」から。
「かぎやで風」と書いて「かじゃでぃふう」と読む・・・、これについて、興味深い新聞記事を見つけました。次回の沖縄語を話す会で、ご披露したいと思います。少々お待ちを。
大崎の忘年会でも歌ってくれた西武門(にしんじょう)もみ子さんが、今日も大活躍です。
先日の沖縄の旅で、通りがかったバス停、もみ子さんを思い出してちょっと写してきました。
注:「西武門」について、本記事の後ろをお読みくださいませ。
最後に残った若者(?)で記念撮影。
次回は来年1月の18日です。皆様、お待ちしてまーす。
そして、金城さん! ほんとうにご馳走様でした!!
2009年11月23日(月)14時45分
仲嶺舞踊小道具店のジーファー
きのう閉まっていたお店へ、諦めきれずに再訪しました。
それは仲嶺舞踊小道具店。

踊りで使うジーファーは、ここで売っているものがいいという噂を聞いたのです。ジーファーを作っている「クガニゼーク」は、もう又吉健次郎さんしかいない。ならば、ここで売られている踊り用のジーファーを作っているのは、いったい誰なのだろう。もしかすると、「カンゼーク」の謎を解く手掛かりがあるかもしれない……
しかし、残念ながら今日も人の気配はありません。仕方が無い、あきらめて帰ろうとしたその時でした。
向かいのお店のお兄さんが、近くで遊んでいた子どもに声を掛けた。
「お客さんが来ているよ」
すると、その子どもがこちらに向かって
「ちょっと待ってください。今おじいちゃんを呼んできます」
そう言って、お隣のお家に消えたのです。
「ありがとうございました。」と、向かいのお店にお礼を言って待つこと数分。
「お待たせしました」と、お店を開けてくださったのがこの方です。

どことなく垢抜けして、キリリとしたお顔立ち。後で名刺を頂いて分かったことなのですが、劇団眞永座の座長、仲嶺眞永さんでいらっしゃいました。納得であります。
昭和10年のお生まれ。昭和28年に沖縄芝居の役者になったが、昭和46年、生活のために小道具製作に専念することにした。でも、やはり舞台への想いが強く、2年前、眞永座を旗揚げた。その舞台には、八木政男さんも、北村三郎さんも出演された。
「カンゼークについてお伺いしたいのですが」
「カンゼークというのは鋳掛屋ですよ。壊れた鍋やヤカンを直す職人です。ナービナクークーサビラー、鍋の修理をいたしましょうと掛け声をかけながら旅をした。数年前までこのあたりにも来ていましたよ」
数年前というのは、果たしていつごろなのだろう……
「鍛冶屋の仲間ですよ」
「カンジャーヤーとはどう違うのですか?」
「カンジャーヤーは仕事場を持っていて、もっと大きなものも作ったが、カンゼークは小さな道具箱を持って小さなものを直す仕事。カンジャーヤーより下に見られていた。」
これが、僕の探していた答えなのでしょうか。よくわからない。だが、まだ繋がらないものがある。辻の遊女が踊っていた踊り。その頭に挿していたジーファー。それはいったい誰が作っていたのか。そのジーファーは又吉健次郎さんが受け継ぐ「クガニゼーク」の作るジーファーと何がどう違うのだろう。
仮に、雑踊の「金細工(カンゼーク)」のように、遊女のジーファーを直していたのが「カンゼーク」であったとしたら、僕が持ち込んだジーファーを直してくださる健次郎さんは、それこそ「カンゼーク」の仕事をしているということなのではないか……。
お店で売っているジーファーを見せていただきました。
ジーファーとカミサシ(男性用のかんざし)、どちらも3,000円とのこと。カミサシの方は他に耳かきのような押差(オシザシ)がついて2本セットです。

軽い。
「アルミです。」
「流し込み(鋳型)ですか」
「いえ、叩いて作っていますよ」
「そうなんですか」
僕には、道具を見る目はありません。でも、どうしても眞永さんの言葉を信じることができない。眞永さんは、何か勘違いをされているのではないだろうか。いくらアルミとはいえ、叩いて3,000円はあり得ない。
(※ちなみに「津波三味線店」という那覇のお店では、踊り用の合金メッキのジーファーが4,500円で売っています。また、健次郎さんのおっしゃっていた那覇の又吉さんが、アルミのジーファーも、ちゃんと叩いて作っていたという話を聞いたことがあるのですが、まさか3,000円ということはなかったと思うのです。)
⇒那覇の又吉さんについて書いてある記事
「又吉健次郎さんがジーファーを作っていますよね」
「ああ、コンクールとかに出るようなときは、いいものを挿すでしょうが、普段はもっとね。でも、それを作る人がいなくなってしまって」
「その方は、那覇の又吉さんでは」
「いや、なくすわけにはいかないのでね。頼んで作ってもらっています。」
何だか頭の中がシクシクしてきました。「クガニゼーク」を継承する又吉さんたちではなく、僕の全く知らない別の「金細工」の世界が、どこかにあるのでしょうか。
「その人のところへご案内しましょうか」
「え、それはうれしい。ありがとうございます。」
「今日はこれから出かけなければならないので、明日か……」
「明日、東京に戻らなければならないのです。今度来た時に是非とも」
僕は、ジーファーとカミサシのセットを購入して、お店を後にしたのです。
⇒上原直彦氏が書いた仲嶺真永さんのこと
それは仲嶺舞踊小道具店。
踊りで使うジーファーは、ここで売っているものがいいという噂を聞いたのです。ジーファーを作っている「クガニゼーク」は、もう又吉健次郎さんしかいない。ならば、ここで売られている踊り用のジーファーを作っているのは、いったい誰なのだろう。もしかすると、「カンゼーク」の謎を解く手掛かりがあるかもしれない……
しかし、残念ながら今日も人の気配はありません。仕方が無い、あきらめて帰ろうとしたその時でした。
向かいのお店のお兄さんが、近くで遊んでいた子どもに声を掛けた。
「お客さんが来ているよ」
すると、その子どもがこちらに向かって
「ちょっと待ってください。今おじいちゃんを呼んできます」
そう言って、お隣のお家に消えたのです。
「ありがとうございました。」と、向かいのお店にお礼を言って待つこと数分。
「お待たせしました」と、お店を開けてくださったのがこの方です。
どことなく垢抜けして、キリリとしたお顔立ち。後で名刺を頂いて分かったことなのですが、劇団眞永座の座長、仲嶺眞永さんでいらっしゃいました。納得であります。
昭和10年のお生まれ。昭和28年に沖縄芝居の役者になったが、昭和46年、生活のために小道具製作に専念することにした。でも、やはり舞台への想いが強く、2年前、眞永座を旗揚げた。その舞台には、八木政男さんも、北村三郎さんも出演された。
「カンゼークについてお伺いしたいのですが」
「カンゼークというのは鋳掛屋ですよ。壊れた鍋やヤカンを直す職人です。ナービナクークーサビラー、鍋の修理をいたしましょうと掛け声をかけながら旅をした。数年前までこのあたりにも来ていましたよ」
数年前というのは、果たしていつごろなのだろう……
「鍛冶屋の仲間ですよ」
「カンジャーヤーとはどう違うのですか?」
「カンジャーヤーは仕事場を持っていて、もっと大きなものも作ったが、カンゼークは小さな道具箱を持って小さなものを直す仕事。カンジャーヤーより下に見られていた。」
これが、僕の探していた答えなのでしょうか。よくわからない。だが、まだ繋がらないものがある。辻の遊女が踊っていた踊り。その頭に挿していたジーファー。それはいったい誰が作っていたのか。そのジーファーは又吉健次郎さんが受け継ぐ「クガニゼーク」の作るジーファーと何がどう違うのだろう。
仮に、雑踊の「金細工(カンゼーク)」のように、遊女のジーファーを直していたのが「カンゼーク」であったとしたら、僕が持ち込んだジーファーを直してくださる健次郎さんは、それこそ「カンゼーク」の仕事をしているということなのではないか……。
お店で売っているジーファーを見せていただきました。
ジーファーとカミサシ(男性用のかんざし)、どちらも3,000円とのこと。カミサシの方は他に耳かきのような押差(オシザシ)がついて2本セットです。
軽い。
「アルミです。」
「流し込み(鋳型)ですか」
「いえ、叩いて作っていますよ」
「そうなんですか」
僕には、道具を見る目はありません。でも、どうしても眞永さんの言葉を信じることができない。眞永さんは、何か勘違いをされているのではないだろうか。いくらアルミとはいえ、叩いて3,000円はあり得ない。
(※ちなみに「津波三味線店」という那覇のお店では、踊り用の合金メッキのジーファーが4,500円で売っています。また、健次郎さんのおっしゃっていた那覇の又吉さんが、アルミのジーファーも、ちゃんと叩いて作っていたという話を聞いたことがあるのですが、まさか3,000円ということはなかったと思うのです。)
⇒那覇の又吉さんについて書いてある記事
「又吉健次郎さんがジーファーを作っていますよね」
「ああ、コンクールとかに出るようなときは、いいものを挿すでしょうが、普段はもっとね。でも、それを作る人がいなくなってしまって」
「その方は、那覇の又吉さんでは」
「いや、なくすわけにはいかないのでね。頼んで作ってもらっています。」
何だか頭の中がシクシクしてきました。「クガニゼーク」を継承する又吉さんたちではなく、僕の全く知らない別の「金細工」の世界が、どこかにあるのでしょうか。
「その人のところへご案内しましょうか」
「え、それはうれしい。ありがとうございます。」
「今日はこれから出かけなければならないので、明日か……」
「明日、東京に戻らなければならないのです。今度来た時に是非とも」
僕は、ジーファーとカミサシのセットを購入して、お店を後にしたのです。
⇒上原直彦氏が書いた仲嶺真永さんのこと
tag: 沖縄大百科事典 「クガニゼーク」のこと 琉球舞踊 うちなーぐち 沖縄の遊郭 沖縄の旅_2009年11月 ジーファー 仲嶺眞永
2009年11月20日(金)22時42分
恒例、大城立裕先生宅訪問
夏からずっと楽しみにしていた「さかさま執心鐘入」、いよいよ明日ですね。
特に何か用事があったわけではないのですが、ちょいとご挨拶に伺いました。
お馴染みの大城立裕先生宅です。

最近、親子みたいです。用が無くたって教えて頂きたいことがたくさんあります。
まずは「クガニゼーク」と「カンゼーク」のこと。「クガニゼーク」のことは、はっきりしてきました。それは「クガニゼーク」が首里王朝に関わっていて、少なからず資料が残っているからです。でも今の僕が知りたいのは「カンゼーク」のことです。残念ながら大城立裕先生でも、はっきりしたことはお分かりにはなりませんでした。
立裕先生は書斎からこんな本を持って来られました。
「琉球舞踊歌劇地謡全集」です。(画像はM.A.P.所蔵本)

この地謡全集の40ページに、懸案の雑踊り「金細工(かんぜーく)」の歌詞が載っているのです。

(※雑踊り「金細工(かんぜーくー)」については、過去記事に説明がありますので、どうぞそちらをお読みください。⇒http://lince.jp/hito/okinawa/kogane…)
雑踊り「金細工」は明治18年に創作されたものです。
(※沖縄の廃藩置県、いわゆる「琉球処分」が明治12年ですから、首里城が明け渡されて6年後の作。「琉球処分」について⇒http://lince.jp/hito/arumise…)
その地謡には、「金細工」と「鍛冶屋」(「かんじやえ」とルビが振られている)と、両方の言葉が出てきます。このことは、立裕先生も認識してはいらっしゃらなかったようです。
「伊波の金細工の加那阿兄」と「上泊鍛冶屋」。
沖縄県の運営する情報サイト「Wonder沖縄」では、それぞれ「美里村伊波の鍛冶屋の加那兄」と「上泊の鍛冶屋」と訳しています。人を指す場合と、仕事場を指す場合と、そんな区別がされているような感じです。
加那兄は、親譲りの「鞴(ふうち)」と「金具(かなぐ)」を売って辻遊廓の遊女の揚げ代を工面しようとします。「鞴」は「ふいご(吹子)」で、溶けて真っ赤になった鉄に風を送り続けて、その温度を1400℃以上に保つために必要な道具です。また「金具」のほうは、前出の「Wonder沖縄」では、「かなとこ」と訳されています。「かなとこ」を漢字で書くと「金床」で、すなわち鍛冶や金属加工を行う際に用いる作業台のことです。
果たして、遊女の真牛(モーシー)は、遊郭でジーファーを挿し、房指輪をつけて踊っていたのかどうか、加那兄は真牛に結び指輪を作ってやったことがあるのかどうか。
ところで、そもそも琉球舞踊ってなんなんだろう。琉球舞踊の現状についてはちょっと書いたことがあるし、岡本太郎の能書きも知ってはいます。でも基本的な成り立ちと変遷については、よく知らなかったなあと反省。そこで、まずはそれを調べてみよう。ということで、「カンゼーク」については、本日ココまでということに。(※琉球舞踊についての勉強成果は本記事の後ろに追加してあります。)
今日は、もうひとつ大城立裕先生に聞きたいことがありました。
船津好明さんが考案した新沖縄文字のこと。船津さんは大城立裕氏について、いつもこうおっしゃっていました。
「大城さんはウチナーグチはなくなってもいいという考えで、僕のやっていることには批判的だと思う」
しかし僕は決してそんなことは無いと思うのです。大城立裕という文学者は、その文学活動の当初から、沖縄の言葉に対して深い思いを持っていたのだと思う。ただ時代が、大城立裕の内面の襞を見なかったのです。船津さんも、大城立裕の一面だけを見て判断していらっしゃるのではないだろうか。たとえ大城さんが、ウチナーグチはなくなっていいと船津さんに言われたのだとしても、本意はそう単純なことではなかったはずだと、大城立裕の仕事を知れば知るほど、僕はそう思うのです。
でも、新沖縄文字についてはどうだろう。立裕先生は「おもろ」などの古典的表記にも造詣が深い。そういう方にとって、船津さんの新しい文字はどういうふうに受け止められるのだろうか。
そこで僕は、思い切って、この旅の始めに西岡敏先生に語ったのと同じことを、ウチナーグチを殆ど分からない者が学ぶのに、新沖縄文字が如何に有効なアイテムであるかということを、大城先生に説明してみたのです。
⇒沖縄国際大学の西岡ゼミの研究室に伺った時の記事
すると、大城立裕先生は即座にこう答えられました。
「なるほど、そういうふうには考えたことはなかったなあ」
この反応には驚きました。こんな若造の言うことを、とてもニュートラルに受け入れてくださった。その柔軟さに、大城立裕という文学者の、物事を極めて多面的に捉えるあり方の根本を見たような気がしたのでした。
「大城立裕」は、その一面だけしか見ない多くの論者たちから、ずっと誤解されているのかもしれません。
大城立裕先生。今日はありがとうございました。
また明日、浦添の劇場でお会いしたいと思います。
《追伸》
2001年8月に出版された『琉球楽劇集真珠道』の「口上」で、大城立裕氏は次のように書いています。
(画像再掲:関連記事⇒http://lince.jp/hito/sinsaku…)

「書く動機になったのは、琉球語(うちなーぐち)のネイティヴ・スピーカー(日本とのバイリンガル)として、組踊りの書けるおよそ最後の世代ではないか、という自覚によるもので、ほとんど責任感に発しています。」
「古典を読みなおしてみたら、あらためて自分の語彙の貧しさを嘆いています。」
また「凡例」では
「歴史的仮名遣いは『沖縄語辞典』『沖縄古語大辞典』『琉歌古語辞典』に多くを負ったが、拗音、音便などについては、現代仮名遣いに拠ったり、さらにたとえば『召しおわれ』を『召しょうれ』とするなど、若年読者のための配慮である。」とあり、さらにローマ字表記についての説明では、沖縄的音韻にも、正確を期す配慮がなされていることがわかります。(※表記についての興味深いあとがきについては、少し長いので、後日あらためて。)
特に何か用事があったわけではないのですが、ちょいとご挨拶に伺いました。
お馴染みの大城立裕先生宅です。
最近、親子みたいです。用が無くたって教えて頂きたいことがたくさんあります。
まずは「クガニゼーク」と「カンゼーク」のこと。「クガニゼーク」のことは、はっきりしてきました。それは「クガニゼーク」が首里王朝に関わっていて、少なからず資料が残っているからです。でも今の僕が知りたいのは「カンゼーク」のことです。残念ながら大城立裕先生でも、はっきりしたことはお分かりにはなりませんでした。
立裕先生は書斎からこんな本を持って来られました。
「琉球舞踊歌劇地謡全集」です。(画像はM.A.P.所蔵本)
この本には、こんな写真も掲載されています。

昨夜も一緒だった関りえ子さん。
「黒島口説(くるしまくどき)」というコメント付き。
昨夜も一緒だった関りえ子さん。
「黒島口説(くるしまくどき)」というコメント付き。
この地謡全集の40ページに、懸案の雑踊り「金細工(かんぜーく)」の歌詞が載っているのです。
(※雑踊り「金細工(かんぜーくー)」については、過去記事に説明がありますので、どうぞそちらをお読みください。⇒http://lince.jp/hito/okinawa/kogane…)
雑踊り「金細工」は明治18年に創作されたものです。
(※沖縄の廃藩置県、いわゆる「琉球処分」が明治12年ですから、首里城が明け渡されて6年後の作。「琉球処分」について⇒http://lince.jp/hito/arumise…)
その地謡には、「金細工」と「鍛冶屋」(「かんじやえ」とルビが振られている)と、両方の言葉が出てきます。このことは、立裕先生も認識してはいらっしゃらなかったようです。
「伊波の金細工の加那阿兄」と「上泊鍛冶屋」。
沖縄県の運営する情報サイト「Wonder沖縄」では、それぞれ「美里村伊波の鍛冶屋の加那兄」と「上泊の鍛冶屋」と訳しています。人を指す場合と、仕事場を指す場合と、そんな区別がされているような感じです。
加那兄は、親譲りの「鞴(ふうち)」と「金具(かなぐ)」を売って辻遊廓の遊女の揚げ代を工面しようとします。「鞴」は「ふいご(吹子)」で、溶けて真っ赤になった鉄に風を送り続けて、その温度を1400℃以上に保つために必要な道具です。また「金具」のほうは、前出の「Wonder沖縄」では、「かなとこ」と訳されています。「かなとこ」を漢字で書くと「金床」で、すなわち鍛冶や金属加工を行う際に用いる作業台のことです。
果たして、遊女の真牛(モーシー)は、遊郭でジーファーを挿し、房指輪をつけて踊っていたのかどうか、加那兄は真牛に結び指輪を作ってやったことがあるのかどうか。
ところで、そもそも琉球舞踊ってなんなんだろう。琉球舞踊の現状についてはちょっと書いたことがあるし、岡本太郎の能書きも知ってはいます。でも基本的な成り立ちと変遷については、よく知らなかったなあと反省。そこで、まずはそれを調べてみよう。ということで、「カンゼーク」については、本日ココまでということに。(※琉球舞踊についての勉強成果は本記事の後ろに追加してあります。)
今日は、もうひとつ大城立裕先生に聞きたいことがありました。
船津好明さんが考案した新沖縄文字のこと。船津さんは大城立裕氏について、いつもこうおっしゃっていました。
「大城さんはウチナーグチはなくなってもいいという考えで、僕のやっていることには批判的だと思う」
しかし僕は決してそんなことは無いと思うのです。大城立裕という文学者は、その文学活動の当初から、沖縄の言葉に対して深い思いを持っていたのだと思う。ただ時代が、大城立裕の内面の襞を見なかったのです。船津さんも、大城立裕の一面だけを見て判断していらっしゃるのではないだろうか。たとえ大城さんが、ウチナーグチはなくなっていいと船津さんに言われたのだとしても、本意はそう単純なことではなかったはずだと、大城立裕の仕事を知れば知るほど、僕はそう思うのです。
でも、新沖縄文字についてはどうだろう。立裕先生は「おもろ」などの古典的表記にも造詣が深い。そういう方にとって、船津さんの新しい文字はどういうふうに受け止められるのだろうか。
そこで僕は、思い切って、この旅の始めに西岡敏先生に語ったのと同じことを、ウチナーグチを殆ど分からない者が学ぶのに、新沖縄文字が如何に有効なアイテムであるかということを、大城先生に説明してみたのです。
⇒沖縄国際大学の西岡ゼミの研究室に伺った時の記事
すると、大城立裕先生は即座にこう答えられました。
「なるほど、そういうふうには考えたことはなかったなあ」
この反応には驚きました。こんな若造の言うことを、とてもニュートラルに受け入れてくださった。その柔軟さに、大城立裕という文学者の、物事を極めて多面的に捉えるあり方の根本を見たような気がしたのでした。
「大城立裕」は、その一面だけしか見ない多くの論者たちから、ずっと誤解されているのかもしれません。
大城立裕先生。今日はありがとうございました。
また明日、浦添の劇場でお会いしたいと思います。
《追伸》
2001年8月に出版された『琉球楽劇集真珠道』の「口上」で、大城立裕氏は次のように書いています。
(画像再掲:関連記事⇒http://lince.jp/hito/sinsaku…)
「書く動機になったのは、琉球語(うちなーぐち)のネイティヴ・スピーカー(日本とのバイリンガル)として、組踊りの書けるおよそ最後の世代ではないか、という自覚によるもので、ほとんど責任感に発しています。」
「古典を読みなおしてみたら、あらためて自分の語彙の貧しさを嘆いています。」
また「凡例」では
「歴史的仮名遣いは『沖縄語辞典』『沖縄古語大辞典』『琉歌古語辞典』に多くを負ったが、拗音、音便などについては、現代仮名遣いに拠ったり、さらにたとえば『召しおわれ』を『召しょうれ』とするなど、若年読者のための配慮である。」とあり、さらにローマ字表記についての説明では、沖縄的音韻にも、正確を期す配慮がなされていることがわかります。(※表記についての興味深いあとがきについては、少し長いので、後日あらためて。)
tag: 沖縄大百科事典 新沖縄文字 金細工 金細工(舞踊) 新作組踊 沖縄の旅_2009年11月 大城立裕 沖縄の遊郭
2009年11月19日(木)23時59分
クガニゼークは遊女の指輪を作ったのか、と【廃藩置県】のこと少し
Banちゃんに連れられて、Banちゃんの知っている店へと向かいます。
ななしん屋の前を通って。

「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。
国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。

お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。
ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」
そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……

芹沢?介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。
確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。
実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里〜那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。
僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。
少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。
この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。
話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)
首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAX?”と“MAX?”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。
とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。

左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。
それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。
明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。
《追伸》
MAX CASAの暖簾です。

中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
⇒MAXのSHOP MAP(※デッドリンク)
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
⇒http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると(※そのページはもうありません)…
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。(※売り切れ)
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!
(※ページがないのでもう飛びません)
【参考情報集】
2006年6月3日発売の「うるま」6月号。

特集「沖縄の装身具」より
「技の語り部 金細工またよし 又吉健次郎」
(その「金細工」という文字に小さく「かんぜーく」とルビが振られている。しかしそれ以外、本文には「クガニゼーク」も「カンゼーク」も一切カナは使われていない。)
それに一つの房指輪が紹介されている。

「(この結び指輪は)遊女が身につけていたと推測されるものをお父さんの時代に復元した作品だという。又吉さんは、それを確認するために、五年前に元遊女に会った。すると彼女は、『いー、うれーうぬ指輪あったよ。名前はむしびゆびがね』といったそうだ。その遊女の母親がしていた指輪とそっくりだと話してくれたという」
⇒他の房指輪を見る
2006年7月20日に発売された雑誌「沖縄ちゃんぷるー」

又吉健次郎さんが紹介されている。
「かつて琉球王朝が存在していたころ、王府内には、金細工奉行所(かんぜーくぶぎょうしょ)という部署が存在し、献上品の真鍮で作られた酒器や身分の高い人々がつける装飾品などをつくっていた。その金細工の職人たちは首里に工房をかまえて、現在7代目となる又吉健次郎さんの先祖も首里の一角で仕事をしてきたという。父である誠睦さんは、民藝運動を行って熱心に沖縄に通っていた濱田庄司から、『琉球人に帰ってくれ』と言われ、勤めていた宝飾店での仕事をやめ、伝統の結び指輪や房指輪の復元に取り組んだ人だ」
健次郎さんが神業だったという父6代目誠睦さんも、伝統的な飾職一筋ではなかったということである。
2008年7月13日テレビ東京「匠の肖像」
その番組HPでは次のように紹介されている。
「16世紀、琉球王朝のお抱え職人だった金細工師(かんぜーくし)たち。金や銀などを素材に、金づちで形を作り出してゆく。それは王族の装飾品を始め、宮廷の人々の日用品となりました。又吉健次郎さんは、この伝統を受け継ぐ数少ない金細工師の一人です。」
【その他】
2002年4月
南風原文化センター
「匠の技にふれる 黄金細工(くがにぜーく)と鍛冶屋(かんじゃーやー)展」
⇒関連記事を読む
2005年8月
「JALリゾートシーホーク沖縄サマーフェスタ2005」
そのコメント。
「琉球王府御用達だった《金細工またよし》」
「沖縄の銀細工の匠のことを、地元では金細工(かんぜーく)職人と呼びます。」
2007年5月8日〜20日
「琉球伝統工芸銀細工作家 又吉健次郎氏の作品展と特別イベント」
10日:又吉氏講演会&普久原スージさんのピアノ弾語り
”琉球金細工(かんぜーく)と人々との出会い”
2007年8月
浦添市美術館
「沖縄の金細工(クガニゼーク)〜失われようとするわざ・その輝き〜」
(又吉さんが提出した資料にはご自分の工房について「かんぜーくまたよし」とある。)
2008年7月
第2回「白洲賞」受賞
旧白洲邸武相荘のHP、牧山桂子さんの署名記事に第2回受賞者を
「琉球伝統工芸 『金細工(かんぜーく)またよし』 七代目 又吉健次郎氏」
と紹介している。
2009年9月1日発売の「うない」
(「金細工」に全て「くがにぜーく」のルビが振られている。)
⇒関連記事を読む
2009年
「生きる×2」テレビ朝日10月18日放送、他。
「又吉健次郎さんは、金細工(くがにぜーく)と呼ばれる。」
「琉球王朝時代から続く金工職人の七代目。」
「廃藩置県や2度の大戦で殆どの職人が廃業し、現在は又吉さんの工房だけ」
ななしん屋の前を通って。
「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。
国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。

お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。
ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」
そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……

芹沢?介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。
確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。
実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里〜那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。
僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。
少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。
この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。
話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)
首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAX?”と“MAX?”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。
とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。
左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。
それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。
明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。
《追伸》
MAX CASAの暖簾です。
中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
⇒MAXのSHOP MAP(※デッドリンク)
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
⇒http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると(※そのページはもうありません)…
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。(※売り切れ)
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!
(※ページがないのでもう飛びません)
【参考情報集】
2006年6月3日発売の「うるま」6月号。

特集「沖縄の装身具」より
「技の語り部 金細工またよし 又吉健次郎」
(その「金細工」という文字に小さく「かんぜーく」とルビが振られている。しかしそれ以外、本文には「クガニゼーク」も「カンゼーク」も一切カナは使われていない。)
それに一つの房指輪が紹介されている。
「(この結び指輪は)遊女が身につけていたと推測されるものをお父さんの時代に復元した作品だという。又吉さんは、それを確認するために、五年前に元遊女に会った。すると彼女は、『いー、うれーうぬ指輪あったよ。名前はむしびゆびがね』といったそうだ。その遊女の母親がしていた指輪とそっくりだと話してくれたという」
⇒他の房指輪を見る
又吉さんのページに先立って、戦後直後から続く宝飾店が紹介されている。

2006年7月20日に発売された雑誌「沖縄ちゃんぷるー」
又吉健次郎さんが紹介されている。
「かつて琉球王朝が存在していたころ、王府内には、金細工奉行所(かんぜーくぶぎょうしょ)という部署が存在し、献上品の真鍮で作られた酒器や身分の高い人々がつける装飾品などをつくっていた。その金細工の職人たちは首里に工房をかまえて、現在7代目となる又吉健次郎さんの先祖も首里の一角で仕事をしてきたという。父である誠睦さんは、民藝運動を行って熱心に沖縄に通っていた濱田庄司から、『琉球人に帰ってくれ』と言われ、勤めていた宝飾店での仕事をやめ、伝統の結び指輪や房指輪の復元に取り組んだ人だ」
健次郎さんが神業だったという父6代目誠睦さんも、伝統的な飾職一筋ではなかったということである。
2008年7月13日テレビ東京「匠の肖像」
その番組HPでは次のように紹介されている。
「16世紀、琉球王朝のお抱え職人だった金細工師(かんぜーくし)たち。金や銀などを素材に、金づちで形を作り出してゆく。それは王族の装飾品を始め、宮廷の人々の日用品となりました。又吉健次郎さんは、この伝統を受け継ぐ数少ない金細工師の一人です。」
【その他】
2002年4月
南風原文化センター
「匠の技にふれる 黄金細工(くがにぜーく)と鍛冶屋(かんじゃーやー)展」
⇒関連記事を読む
2005年8月
「JALリゾートシーホーク沖縄サマーフェスタ2005」
そのコメント。
「琉球王府御用達だった《金細工またよし》」
「沖縄の銀細工の匠のことを、地元では金細工(かんぜーく)職人と呼びます。」
2007年5月8日〜20日
「琉球伝統工芸銀細工作家 又吉健次郎氏の作品展と特別イベント」
10日:又吉氏講演会&普久原スージさんのピアノ弾語り
”琉球金細工(かんぜーく)と人々との出会い”
2007年8月
浦添市美術館
「沖縄の金細工(クガニゼーク)〜失われようとするわざ・その輝き〜」
(又吉さんが提出した資料にはご自分の工房について「かんぜーくまたよし」とある。)
2008年7月
第2回「白洲賞」受賞
旧白洲邸武相荘のHP、牧山桂子さんの署名記事に第2回受賞者を
「琉球伝統工芸 『金細工(かんぜーく)またよし』 七代目 又吉健次郎氏」
と紹介している。
2009年9月1日発売の「うない」
(「金細工」に全て「くがにぜーく」のルビが振られている。)
⇒関連記事を読む
2009年
「生きる×2」テレビ朝日10月18日放送、他。
「又吉健次郎さんは、金細工(くがにぜーく)と呼ばれる。」
「琉球王朝時代から続く金工職人の七代目。」
「廃藩置県や2度の大戦で殆どの職人が廃業し、現在は又吉さんの工房だけ」
tag: 「クガニゼーク」のこと 沖縄の遊郭 国際通り 沖縄の呑食処.カフーシ 首里 100店.BAR 沖縄の旅_2009年11月 房指輪 結び指輪 ジーファー
2009年11月14日(土)16時55分
又吉健次郎の「黄金細工」とは
ことの発端はmixiとやらなのです。まず、下記記事をお読みください。
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog1233…
この後、コメントが付いた。どうして「くがにぜーく」が正しいなどと簡単に言えるのかというような主旨。
確かに、健次郎さんから頂いた名刺も、工房の看板も、「金細工」には「かんぜーく」のルビが振ってあった。健次郎さんの愛犬“カン吉”は、「かんぜーく」の「カン」と又吉の「吉」をとって健次郎さんが名づけたというくらいですから、「かんぜーく」が間違いだなんて、他人が簡単にとやかく言うことではない、それはその通りでしょう。
しかし、少しでも調べて素直に考えれば、やっぱり健次郎さんがやられている今現在の仕事は、「くがにぜーく」としかいいようのないものです。健次郎さん御自身も、そう認識されたということなのだと思います。健次郎さんはやはり「くがにぜーく」である、現時点で僕の知っている資料からは、そう結論するしかありません。
しかし、一方で「かんぜーく」と名乗った人たち、そう呼ばれた人たちの存在を否定するものでもありません。むしろそういう人たちがいたのならば、とっても知りたくなってきたのです。
さて、どうやって調べたらいいのだろう。
インターネットあたりで又吉健次郎さんを「かんぜーく」と呼ぶ人たちにそれを聞いても、わかるはずもありません。
そこで……
2002年に、南風原文化センターで「匠の技にふれる 黄金細工と鍛冶屋展」という企画展が開かれました。その「黄金細工」と「鍛冶屋」には、それぞれ「くがにぜーく」と「かんじゃーやー」とルビが振られてありました。しかし、僕の知る限り、「くがにぜーく」は「金細工」という表記でいいはずです。それを「黄金細工」としたことについて是非知りたいと思いました。
そしてこういうことに詳しい方がいれば、「かんぜーく」についてもはっきり説明してもらえるかもしれません。なぜ、又吉健次郎は「かんぜーく」ではなく「くがにぜーく」なのか。
話しをちょっと戻します。沖縄の言葉において、漢字とルビの関係は、とても難しいものがあります。元々ある言葉に漢字を当てたのか、最初に漢字があってその読み方を仮名で表記しているのか、それを見極めないと、関連する歴史そのものを間違えてしまうこともあるのです。
南風原の企画展において、なぜ「くがにぜーく」という言葉に「黄金細工」という文字を当てたのか、元々「黄金細工」という文字が何かの資料にあるのだろうか。
昨日の11月13日、東京から直接南風原役場に電話をして伺いました。

対応してくださった平良さんという文化担当の女性の方は、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てた理由について、次のように答えくださいました。
1:「かんぜーく」とはっきり区別するため。
2:2002年当時、くがにぜーくに携わっていらっしゃる方は、もう又吉健次郎さんのお一人しかいらっしゃらなくなっていた。その貴重であるということを表現するために、色々みんなで相談して「黄金」という字をあてたと記憶している。
3:また南風原町には有名な黄金森(くがにむい)があり、住んでいる方々は「こがね=くがに」といえば、自然に「黄金」という字を想い起こすという事情があった。
要するに、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てたのだが、それには、何か歴史的学問的な事例に基づいた理由があったというわけではなさそうです。
さて、聞きたいのはここから先です。又吉さんのような飾り職人を、「かんぜーく」と呼んでいた歴史的な事実はないか、例えば健次郎さんの先代のころはどうだったのかろうか、僕はしつこく聞きました。平良さんは、それにも大変丁寧に答えてくださいました。
「多分、飾り職人のご本人は、ご自分のことを『くがにぜーく』とおっしゃることはないと思うのです。また周りの人たちは、飾り職人の方々を『かんぜーく』とは呼ばないでしょう。尊敬を込めて『くがにぜーく』と呼んでいたのだと思います。」
健次郎さんに電話をしました。
健次郎さんは、お父様が「くがにぜーく」とも「かんぜーく」とも口にされたことを聞いたことがないそうです。ただ王府に「くがにぜーく奉行」というものがあって、首里にはその職人町があった。その流れであることには間違いはないとおっしゃいました。
最近、県の金工部門の人にも「くがにぜーく」にしなさいと強く言われたそうです。
今、県内に「くがにぜーく」と書かれた史跡はひとつも残っていない。このままだと、50年たったら「くがにぜーく」という言葉は無くなってしまう。「くがにぜーく」を受け継ぐ者として、それでいいのか、なんとかしなければいけないという思いが強くなったのだと健次郎さん。
又吉健次郎さんは、受け継ぐ者が自分ひとりになった時、皮肉にもそれがひとりだけのものではないということに気が付いたということなのでしょう。なんとかしなければいけない、その決意には、謙虚な気持ちで自分のことを「クガニゼーク」とは呼ばずに「カンゼーク」と名乗る、などというような、ナイーブな個人的な心情の入り込む余地は、最早ないのではないかと、僕には感じられたのです。
平良さんは、金細工を研究している詳しい方がいらっしゃるので、聞いてくださるとのこと、来週から沖縄へ行くので、是非ともお伺いしようと心に決めたのでした。
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog1233…
この後、コメントが付いた。どうして「くがにぜーく」が正しいなどと簡単に言えるのかというような主旨。
確かに、健次郎さんから頂いた名刺も、工房の看板も、「金細工」には「かんぜーく」のルビが振ってあった。健次郎さんの愛犬“カン吉”は、「かんぜーく」の「カン」と又吉の「吉」をとって健次郎さんが名づけたというくらいですから、「かんぜーく」が間違いだなんて、他人が簡単にとやかく言うことではない、それはその通りでしょう。
しかし、少しでも調べて素直に考えれば、やっぱり健次郎さんがやられている今現在の仕事は、「くがにぜーく」としかいいようのないものです。健次郎さん御自身も、そう認識されたということなのだと思います。健次郎さんはやはり「くがにぜーく」である、現時点で僕の知っている資料からは、そう結論するしかありません。
しかし、一方で「かんぜーく」と名乗った人たち、そう呼ばれた人たちの存在を否定するものでもありません。むしろそういう人たちがいたのならば、とっても知りたくなってきたのです。
さて、どうやって調べたらいいのだろう。
インターネットあたりで又吉健次郎さんを「かんぜーく」と呼ぶ人たちにそれを聞いても、わかるはずもありません。
そこで……
2002年に、南風原文化センターで「匠の技にふれる 黄金細工と鍛冶屋展」という企画展が開かれました。その「黄金細工」と「鍛冶屋」には、それぞれ「くがにぜーく」と「かんじゃーやー」とルビが振られてありました。しかし、僕の知る限り、「くがにぜーく」は「金細工」という表記でいいはずです。それを「黄金細工」としたことについて是非知りたいと思いました。
そしてこういうことに詳しい方がいれば、「かんぜーく」についてもはっきり説明してもらえるかもしれません。なぜ、又吉健次郎は「かんぜーく」ではなく「くがにぜーく」なのか。
話しをちょっと戻します。沖縄の言葉において、漢字とルビの関係は、とても難しいものがあります。元々ある言葉に漢字を当てたのか、最初に漢字があってその読み方を仮名で表記しているのか、それを見極めないと、関連する歴史そのものを間違えてしまうこともあるのです。
南風原の企画展において、なぜ「くがにぜーく」という言葉に「黄金細工」という文字を当てたのか、元々「黄金細工」という文字が何かの資料にあるのだろうか。
昨日の11月13日、東京から直接南風原役場に電話をして伺いました。
対応してくださった平良さんという文化担当の女性の方は、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てた理由について、次のように答えくださいました。
1:「かんぜーく」とはっきり区別するため。
2:2002年当時、くがにぜーくに携わっていらっしゃる方は、もう又吉健次郎さんのお一人しかいらっしゃらなくなっていた。その貴重であるということを表現するために、色々みんなで相談して「黄金」という字をあてたと記憶している。
3:また南風原町には有名な黄金森(くがにむい)があり、住んでいる方々は「こがね=くがに」といえば、自然に「黄金」という字を想い起こすという事情があった。
要するに、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てたのだが、それには、何か歴史的学問的な事例に基づいた理由があったというわけではなさそうです。
さて、聞きたいのはここから先です。又吉さんのような飾り職人を、「かんぜーく」と呼んでいた歴史的な事実はないか、例えば健次郎さんの先代のころはどうだったのかろうか、僕はしつこく聞きました。平良さんは、それにも大変丁寧に答えてくださいました。
「多分、飾り職人のご本人は、ご自分のことを『くがにぜーく』とおっしゃることはないと思うのです。また周りの人たちは、飾り職人の方々を『かんぜーく』とは呼ばないでしょう。尊敬を込めて『くがにぜーく』と呼んでいたのだと思います。」
健次郎さんに電話をしました。
健次郎さんは、お父様が「くがにぜーく」とも「かんぜーく」とも口にされたことを聞いたことがないそうです。ただ王府に「くがにぜーく奉行」というものがあって、首里にはその職人町があった。その流れであることには間違いはないとおっしゃいました。
最近、県の金工部門の人にも「くがにぜーく」にしなさいと強く言われたそうです。
今、県内に「くがにぜーく」と書かれた史跡はひとつも残っていない。このままだと、50年たったら「くがにぜーく」という言葉は無くなってしまう。「くがにぜーく」を受け継ぐ者として、それでいいのか、なんとかしなければいけないという思いが強くなったのだと健次郎さん。
又吉健次郎さんは、受け継ぐ者が自分ひとりになった時、皮肉にもそれがひとりだけのものではないということに気が付いたということなのでしょう。なんとかしなければいけない、その決意には、謙虚な気持ちで自分のことを「クガニゼーク」とは呼ばずに「カンゼーク」と名乗る、などというような、ナイーブな個人的な心情の入り込む余地は、最早ないのではないかと、僕には感じられたのです。
平良さんは、金細工を研究している詳しい方がいらっしゃるので、聞いてくださるとのこと、来週から沖縄へ行くので、是非ともお伺いしようと心に決めたのでした。
(文責:高山正樹)
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