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630の講演会で

《7月2日(土)-1》
東日本大震災から113日目。

今日は大崎の沖縄語を話す会恒例の夏の宴の日。
 ⇒2009年7月4日の夏の宴
去年の夏の宴は知人の結婚式で出られず、今年は是非にと思っていたのだが、急遽思わぬオファーがあって、夏の宴の方を失礼することにした。

※後で聞いたことだが、今年の夏の宴には藤木勇人さんが来たとのこと。しょうがない。体はひとつしかないからね。しかし残念。

「630事件を忘れてはいけないという講演会で琉球舞踊を踊ってくれないか」
…と、オファーしてくれたのは“ゆんたくの会”の日高氏。
講師は去年と同じ、あの牛島満中将の御子息の牛島貞満さんとのことであった。
 ⇒去年の講演会の記事
 ⇒630宮森小学校米軍ジェット機墜落事件のこと
 ⇒「慰霊の日」と牛島満中将のこと

沖縄戦や沖縄の基地問題などの市民運動に参加する「内地」の方々は、総じて琉球舞踊のような今の現実の沖縄の文化にはあまり興味を持っていない。僕は常々、それでは沖縄の諸問題も、その表層しか見えないのではないかと思っていた。
(逆に、大崎の沖縄語を話す会は、ウチナーンチュが7割くらいだが、そこで基地問題が話されることは殆どない。例えば東京沖縄県人会では基地の話はタブーだとも聞いたことがある。)

いい機会である。どうせなら三線の演奏も、ということで参加させていただいた。
会場は明治大学のリバティーホールの教室。踊りの様子と三線演奏の様子はそれぞれの専用ブログにてご覧あれ。
 ⇒琉球舞踊の専用ブログ記事
 ⇒三線教室の専用ブログ記事

※各ブログ合体中。以下に、それぞれの記事を転載する。

琉球舞踊のブログから
明治大学リバティーホールで行われた講演会で踊りを踊りました。

宮森630を伝えるつどい
トモダチ作戦?それでも米軍基地はいらない
沖縄・宮森小学校 米軍ジェット機墜落事件から52年

52年前、沖縄県うるま市(旧石川市)の宮森小学校に、米軍のジェット戦闘機が墜落炎上した事件についての講演会です。

開会にあたりご挨拶をされたのが、明治大学現代史研究会の生方卓先生。
この先生、出身が岩手県盛岡なのだそうです。私が宇夫方という姓で盛岡出身と聞いて「親戚かもしれません」とおっしゃっていました。けど、名刺をいただいたら「生方」となっていました。
機会があったら、もう一度詳しく聞いてみたいと思います。

ご挨拶の後、「四ツ竹」を片野すゞ子さん、金城多美子さん、佐藤理恵さんが踊りました。黒田さんは残念ながら仕事になってしまって来られませんでした。
四つ竹踊り

その後、三線のメンバーの演奏、そして最後に私が「繁昌節」を踊りました。
繁盛節踊り

踊りの後、東京の小学校教員で平和活動をしていらっしゃる牛島貞満さんの講演でした。
三線のメンバーは聞けたようですが、踊りのメンバーは着替えがあるので残念ながらお話を伺うことはできませんでした。別の機会にちゃんと勉強したいと思います。
関りえ子琉舞研究所で一緒の佐藤美智子さんは宮森小学校出身。煙がすごかったという話しを聞いたことがあります。そういえば、今お休みしているけど、厚木教室の西里さんも宮森小学校出身だったはず。
同じ沖縄出身の人でも、那覇の方の小学校だった人は、この事件についてあまり覚えがないようです。
(宇夫方路)


三線教室のブログから
ゆんたくぬくゎいの日高さんからお声がかかって、7月2日、明治大学へ行きました。

52年前の6月30日、沖縄のうるま市(旧石川市)の宮森小学校に米軍のジェット戦闘機が墜落炎上し、死者17名、負傷者212名を出す大惨事がありました。墜落の原因が整備不良だったということが発表されたのは、事故から40年たってからでした。
この事件や「沖縄戦」をテーマに平和授業を実施してきた、東京の小学校教諭である牛島貞満さんが公開授業を行うということで、その公演の前に踊りと三線の演奏をお願いしたいというお話しでした。
トモダチチラシ

3月のつどいコンサートのようにみんなで弾いて踊りの人たちに踊って欲しいと思ったのですが、先生がどなたも来られないということで、無理はやめて、踊りはテープで踊り、三線は演奏だけということにしました。
今回の出演者は4名。
和情久美さん、上地直輝さん
三線演奏1
高山正樹さん、鈴木雄介さん
三線演奏2
「安波節」と「安里屋ゆんた」の2曲を演奏しました。だんだん上手になって行くのが楽しみです。

また、演奏前に高山さんが話された、何故ここで三線を弾くのか、という話しも興味深かったです。
(これ、誰が書いたのだろう。微妙に正確さに欠けるが…)


そのあと、牛島貞満さんの講演。
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1959年の6月30日の17名の命を奪った米軍ジェット戦闘機の宮森小学校墜落事件も、沖縄でさえ風化しつつあるという。しかし、と僕は思う。沖縄戦で命を落とした住人(軍人を含まない)は10数万人を越える。これがいかに異常な数であるか、沖縄という小さな県だけで、今度の震災での死亡者行方不明者3万人の数倍の人が、天災ではなく、人の手によって殺されたのだということを想像すれば、実に空恐ろしくなる。そして終戦後も、さらには日本に復帰した後も、次々と繰り返される基地がらみの事件。宮森小学校墜落事件がどんなに理不尽な事件であったとしても、それは沖縄で起こった数え切れない出来事のうちのひとつのエピソードにしか過ぎないのだ。630事件の真実を知れば知るほど、そんな悲惨な事件にもかかわらず、沖縄では単なるひとつのエピソードにしかならないということに愕然とする。それなのに、何故「内地」の日本人がこれほど沖縄問題に無頓着でいるのか、「それは絶対に許されることではない」と大声で叫びたくなるのだ。

原発の即時停止を主張する者たちを、非現実的でヒステリックな馬鹿だと見下す経済学者や政治家は、これまで数十年間、原発で命を削っていた最下層の労働者を見ようともせず、中央から離れた過疎の町に原発を押し付け、遠い未来の子孫に廃棄物の処理を丸投げしている。彼らは、階級と空間と、そして時間における辺境の者たちに対する想像力を完全に失っているとしか思えない。

「2番じゃいけないのですか」
それどころじゃない。3番だって10番だって50番だってかまわない。某政治家が、今のこの日本の豊かさを子孫に伝えたいと、良き爺さんのように語れば語るほど、世界中にどれほど貧しい人たちがいるのか、その数は、豊かな人々よりはるかに多いという事実をどう考えているのかと聞きたくなる。日本が良ければそれでいいのか。僕が貧しい国の親であったなら、きっと殺意すら覚えるに違いない。

そしてそれは、日本が沖縄に対してしてきたことと重なるのである。沖縄は辺境であり続けたのだ。だが、「沖縄」と「原発」の辺境は必ずしも重ならない。棄てられた者は棄て去っていた者でもあり、棄て去られてきた者が今度は棄て去る。そして僕は、いつも辺境から遠く、棄て去り続けていたのではないか……

そう思うと、琉球舞踊の静かな歩みと、三線の音の違和感が、ひどく身に染みるのである。

会の後、お誘いを受けた。牛島さんはじめ、皆さんと色々とお話をしたかったのだが、生憎この後約束があって失礼することにした。きっと毎年おやりになるのだろう。来年こそは、大崎の夏の宴と重なることがないことを期待して。

だけど、来年、いったいこの日本はどうなっているんだろうなあ。

(※7月18日に追記)
菅直人、国内で脱原発を言い、リトアニアやベトナムやトルコには原発輸出。本当なら許しがたい。日本から見ればリトアニアもベトナムもトルコも辺境。

tag: 牛島貞満  宇夫方路踊る  日高  別ブログへ  藤木勇人 

宮森小学校米軍ジェット機墜落事件《普天間基地の危険を想像してみる》

6月30日
宮森小学校米軍ジェット機墜落事件のあった日


今からおおよそ半世紀前の今日、1959年の6月30日、嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が旧石川市の宮森小学校に墜落、児童11名を含む17名が死亡、負傷者は212名に上った。
事故の原因や賠償の問題など、沖縄の米軍絡みの事故にいつもつきまとう話しが、この事件にも当然のようにある。

『沖縄大百科事典』によると、この事件が沖縄での反基地闘争の萌芽となり、復帰協結成へと進展していったという。当時、世界の航空史上稀な大惨事として内外に報道されたというが、生まれたばかりの僕にその記憶があるわけもなく、以来、一度も聞いたことがなかった。
僕はこの事件のことを、先日の文京区民センターで初めて知った。

1999年、琉球朝日放送が、宮森小学校米軍ジェット機墜落事件の原因は、当時発表された不可抗力などではなく、明らかな人為的ミスであったという米軍の事故報告書を公表する番組を制作した。しかし今現在まで、米軍は対外的には墜落原因を公表していない。

決して過去の話ではない。2004年の8月、米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した事件は記憶に新しい。

大江健三郎風に言えば、こうした事故に対する想像力を持っている者ならば、普天間基地と共存するなど考えられないであろう。ただ目先の利益のために、あえて想像力を働かせないことに慣れてしまった者たちだけが、沖縄の基地に依存して生きていることを言うのである。

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仮に今の普天間基地の現状を知りながら、その危険を感じることができないとしたら、刺激的な情報の氾濫する中で、等身大で正常な想像力を失ってしまっているのかもしれないと、一度自らを疑ってみることが必要なのかもしれない。

よく聞かれることだが、はじめは基地の周りには何もなかった。後から住民が移り住んできたのだという主張。それは元々どういうふうに住民が土地を奪われたのかとか、普天間基地返還の計画とか、沖縄の土地の少なさとか、諸々の事実を全く考慮しない薄っぺらな議論であるということはさておいても、正常な想像力が機能していれば、どういう理由で基地周辺に人々の生活圏が形成されたかという理由がどうであれ、異常さを感じる取る想像力の結果に変わりはないはずなのだ。自殺しようとしている男が、今にもビルの屋上から飛び降りようとしている光景の恐怖感は、その男の人となりとはなんの関係もない。

静岡空港は、滑走路の延長上に成長した木があってその開港が大幅に遅れた。それは間抜けな話しだと笑って済ませることもできるが、普天間基地の滑走路延長上には、もっと危険な建造物が建っていて、米軍機はそれを避けて離着陸をしているのである。当然、日本の法律でも空港のそばにあってもいい基準を其の建造物は全く満たしていない。しかし日本政府は、普天間は米軍施設であって日本の航空法を適用する飛行場ではないと嘯くのである。当然、米軍の基地建設の条件からもかけ離れているのである。(このことは、近日中に別記事で書く。)

ちなみに、宮森小学校米軍ジェット機墜落事件を忘れないための講演活動を続けていらっしゃるのは、1945年6月23日に摩文仁で自決したとされる牛島満中将の御息子、牛島貞満さんである。
その貞満さんはこう語った。
「軍隊は住民を助けることはない。父がそれを証明している」と。

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