2010年10月15日(金)23時21分
ハンサム・マーキーさんと“球屋”
勉強会の後、一緒にこのフライヤーを持ってつつじヶ丘の“みやらび”にでも行こうと思っていたのですが、すでに“みやらび”にはマーキーさんが届けていたのです。なんと“みやらび”のオーナー竹原くんは、マーキーさんの高校の後輩ということが判明しました。どこの高校かというと、沖縄の豊見城高校で、なんとなんとまあ高山正樹のカミサンの後輩。もうびっくり。竹原クンの携帯に電話をすると、いま法事で沖縄にいるんだって。
というわけで、久しぶりに“球屋”に行くことにしました。
一年ぶりです。一年1回のペース。ごめんなさい。でも、カテゴリはあるのです。
マーキーさんと飲みに行ってボトルを入れた時は、まずお酒の神様に供えるのです。
お店の中、暗いからなあ。
海ぶどうも、琉球ガラスのグラスも、紅型柄のクロスも、ちっとも綺麗に写らないんです。
さて、減塩対応居酒屋探検隊としての見解ですが、“球屋”さんの場合、ママが自分でも飲みたいせいか、特に遅い時間になるとママは既にちょっと酔っているので、出来上がっている肴を出してくれることが多いのです。また、お客さんも比較的若い方中心。
マーキーさん曰く、「おいしいね」
まあ、マーキーさんまだまだ若いからね。そりゃそうなんだけどね。マーキーさんも脳梗塞かなんかで倒れた経験があるんだからさ、血圧も高いっていうし、少し塩っ辛いもの控えた方がいいんだけどねえ。
ともかく、残念ながら減塩対応店三軒目ゲットとはなりませんでした。
ママとマーキーさんとみっちゃん。3M。
では問題です。年齢順に並べなさい。
まだ11時ちょっと過ぎ。もう一軒行こうか。
2010年07月13日(火)23時28分
山田智恵子さんから届いた一通のメール【物悲しい琉球の再生ガラス】
山田智恵子さんからメールが届きました。山田さんに許可を頂いて、まずは、ここにその全文を御紹介したいと思います。

沖縄に駐留する米軍の家族の需要により、発展してきた沖縄のガラス。材料とてない占領時代、米軍から排出されるコーラやビールの空き瓶などを再利用して作られたガラスの器は厚くて重いものだったが、身体の大きいアメリカ人は気にしなかったそうである。
昨今土産物屋で「琉球ガラス」として売られているものは、色とりどりで鮮やかだ。それはそれできれいではあるが、なんだか北は遥か小樽の北一硝子を思い起こさせ、凍て付く空気の中、凛と佇むその独特の雰囲気には到底及ばす、私には二番煎じに感じられてならない。
もともと器は薄手で、きん、としているものが好きである。ぽってりとした琉球ガラスより、指先ではじけば音色を奏でそうなクリスタルガラス、ざらついてどっしりした陶器より、すべすべの磁器。
が、ある時再生ガラスのグラスを上から覗き込み、厚みのあるグラスの中に閉じ込められた沖縄の海の色と海の深さを見出し、目が眩むようだった。今でもそのグラスを覗き込むと沖縄の海の中にいるような気分になる。できればもう少し薄手の方が好みである、泡もないに越したことはない。なのにどこに惹かれるのか、息をするのを忘れるほどに、目を離す事ができなくなる。
縦に見れば波打った表面、昔の家々の窓ガラスはまだ技術が低く、こんな風に波打っていたものだ。いつの間にか遠くへ行ってしまった昭和の時代、幼い頃の記憶にある、まだ戦後復興期の熱気の残る時代、そういった時代への郷愁にかられ、この地との「戦後」の始まりのタイムラグに気づかされる。そんな再生ガラスはどこか物悲しい。
クリスタルガラスは光を鋭角に跳ね返すが、再生ガラスのぽってりとした厚みは光を溜め込む。閉じ込められた光は、メリーゴーランドのようにくるくる回っている。割れれば人間の身体などすっぱり切れる鋭さを持つクリスタルガラスに較べ、再生ガラスはそこまで傷つけることのない鈍さをもって砕け、なんだかほっとさせてくれる。
そんな再生ガラスに惹かれるまま、土産店以外にガラスを探した。
【奥原硝子製造所】
那覇にある琉球ガラスの草分け。シンプルでぽってりとした「再生ガラス」の代表のような作品が多い。後で知ったが、私の目を眩ませたのはここのグラスだった。私を虜にした淡いラムネ色よりもっと深い青のグラスがあった。ラムネ色のものが沖縄のリーフの明るい海なら、こちらは伊豆の黒潮を思わせる青である。泡盛の瓶を再生したものだそうだが、もう原料が手に入らないとの事。「この色はもうじき廃盤になっちゃうね」と製造所の方が残念そうに言われていた。
【宙吹きガラス工房“虹”】
工房は読谷の「やちむんの里」の入り口にある。読谷の赤い土を塗りつけたものなど独創的な作品で、ゴージャスだが華美ではない。作者の稲嶺盛吉さんは「現代の名工」で、1970年代奥原硝子工房に入り、その後牧港ガラス、ぎやまん館、琉球ガラス村で技術を磨き、1988年「宙吹きガラス工房 虹」を設立されたそうだ。
洗練されていてとてもきれいだが、でも私の想う「再生ガラス」とは趣が異なる作品である。(しかし御土産物屋さんで見た、ここのシンプルなグラスはまさに「再生ガラス」であった。お店の人が言うには「シンプルなものはあまり作られていない」との事)
【尋グラス工房】
沖縄市の住宅地の中に工房はある。ここは再生ガラスではなく原料ガラスの作品を作っている。作家はステンドガラスを作っていた人で、作品にもそれが現われている。
再生ガラスでないことを知りながらなぜ行ってみたかというと、あるお店で買ったグラスのせいである。透明で泡が閉じ込められ、歪んだ形をした大き目のグラス。これが350缶のビールが1本、泡を盛って丁度1本分きれいに入るのである。缶のままで飲むことが多いが、たまにグラスを使ってみたくなった時、1本きれいに入りきるグラスはなかなかない。上まで入らないのは寂しいし、缶にちょっと残るのも嫌だ。いくつも買ったがどれもよろしくない。やっと出会ったしっくりくるグラスだった。
【日月(ひづき】
工房は土日祝日は休みとの事で行ってみる事はできなかったが、読谷村共同販売センターで作品が売られていた。再生ガラスにしては薄手。あまりぽってり感がない分繊細な感じがする。作家は沖縄の方と結婚された京都の女性。作品は泡盛の瓶を使い、色の付かない透明なものばかり。太陽生命のCMに使われたことがあるそう。
【ガラス工房“清天”】
「やちむんの里」から残波岬へ向けて車を走らせている時に、土産店で見て「いいな」と思っていた工房の名前が目に入った。そこは道沿いにある屋根だけの売店で、不揃いの机の上に作品が並べられている。太陽の光の下で透かして見たガラスの先には緑の木々や空がある。ねじって模様を出した厚みのあるガラスの中で木や空が万華鏡のように踊っていて、とても綺麗だった。作品はBEAMSでも売られているそうだ。
ネットで再生ガラスの事を調べたら、材料の一つに板ガラスが挙げられていたが、ここのものは全部泡盛の廃瓶だそう。今は自分達で砕く事はせず、ペレットになったものを仕入れているとの事。コーティングをしてある瓶が混ざり込んだりすると綺麗に出来上がらない、板ガラスも綺麗にできないので使わない、と言われていた。
話はガラスから離れる。
1日屋根だけの屋外で一人ガラスと一緒にいるので人恋しいのか、“清天”のお兄さんとは長いゆんたくとなった。
仕事を聞かれ、理化学器械を扱う会社にいると答えると「かっこいいねぇ」と言う。何を指してそう言うのかと思ったら「何億もする商品なんでしょ。そんな金額のものを扱うなんてすごいねぇ」と言う。(単価が億を超える事はまずないが)売値が高いという事は通常それにかかる原価も高いし、競争も激しく、利益率が高いとは限らない。でも彼は単純に扱う金額の高さにしきりと感心していて、私は沖縄にはそういう産業がないであろう事に思い当たった。
話を始めてしばらくたった頃Yナンバーの車が来て、女性が2人降りてきた。気に入ったものがあったらしく、女性はお兄さんに「これで違う色のものはないですか?」とグラスを指差し、身振り手振りをまじえて英語で聞いた。お兄さんは「解らない」という素振りをするばかり。いくら英語がわからなくても2つのグラスを指差して「カラー」と繰り返し言うのを聞けば、言いたい事は想像できるだろう。
場所は先だっての米兵によるひき逃げ事件の現場近く。そこここに抗議の看板が立っていた。最初はアメリカ人を嫌っているのかとも思ってみた。でもその前に話してくれた、体験ガラス作りをしたアメリカ人とのやりとりの様子からはそんな感じは伺えない。そしてハタと気が付いた。彼は「color」という発音を聞き取れなかったのだ。彼女が言っている事をお兄さんに伝えると、彼はない事を申し訳なさそうに丁寧に日本語で話していた。
そして以前アラハビーチに行った時、向かいのショッピングセンターの駐車場で見た看板を思い出した。そこにはこう書かれていた。「BEACH USERS IS NO PARKING」 英語を学び始めた時、日本語をそのまま当てて、よくやってしまう間違いである。それが今この時代、日本語と英語のアナウンスが交互に流れるビーチの向かいにあるショッピングセンターの駐車場のきちんとした看板に堂々と書かれている。
それを見た時、沖縄は植民地ですらなく、「占領」されていたのだという事が実感を伴って私の中にストンと落ちてきた。(植民地なら言葉の教育がある)
面と向かって身振り手振りで「BEACH USERS IS NO PARKING!」と言えば、きっと通じる。そうやって沖縄の人達は生き抜いて来たのだ。
基地反対運動も、最初は腑に落ちない気持ちがあった。
根本的な解決を求めるには、日本が自分の軍を持つ事を考えるのを避ける事はできない。日本が軍を持てば、沖縄の人達も無関係ではいられない。でも、その覚悟を持った上での行動とは、どうしても思えなかったのだ。基地反対の叫びが心からのものに聞こえれば聞こえるほど、ますますわからなくなっていった。
基地反対が、ただひたすらの慰霊の思いの先にある、と気が付いた時のやるせなさ。
思いがかなって米軍が撤退したら、その後に自分達も参加しなければならない軍がやってくる、という事にもなりかねない構図の運動をしているとはよもや思ってもいないだろう。
そんな事がおこってはいけない。決していけない。
沖縄の人は「ヤマトは沖縄の気持ちをわからない」と言うが、沖縄も本土の事を知らない。相手を知らなくては、わからせる方法もわからない。(本土の人間がちょっと沖縄へ行ってみたところで、沖縄の事がわかるとは思えない。忍びない事だがきっと多分、沖縄からの発信がなければ、本土は本当のところを理解できないだろう。)
沖縄を知れば知るほど、本土は「違うところ」を見ていると感じる。“戦後”38年と65年、それだけでも同じステージで分かり合うことは、どちらからも難しい。50年代のコザを歌った歌を集めたオムニバスCDに付いていた沖縄市歴史年表の昭和20年の欄に「8月15日」の記述はない。
ただひたすらの反対では、進展は止められるかもしれないが、解決にはつながらない。のらりくらりとかわされるだけだ。
東京大空襲を保障できないのと同じ理由で沖縄の不発弾対策に国は補助ができないという。基地は簡単にはなくならないが、これは道はあるのではないかと思う。
どんな事でも小さな事が実現できなければ、大きな事はできない。
確信も希望もなく、可能性すら見えず、ただひたすら「できる事」を繋いで、はやぶさは帰ってきた。
私は私にできる何かの糸口を探している。
我々には琉球ガラスに対する見識が殆どないので、そこらあたりを補完していただく意味で貴重なご意見を伺ったと思っています。山田さん、ありがとうございました。
(※以下の文章は、10月21日にようやく追記したものです。)
実はこれ以前にも山田さんから一通のメールを頂いていました。そこには普天間基地の辺野古移転に断固反対を主張する民社党の福島党首に対して「具体案があるようには思えず見識不足と感じる」と書かれていました。
またその他にも……
「一国を預かる政府が有効な防衛手段を何も持たないというのは、是非は別として、無責任であり、あり得ない事でしょう」
「沖縄問題、基地問題は、突き詰めれば『日本は自らの軍を持つのか否か』という問題だと思います」
僕は、頂いたふたつのメールに、いったいどうお返事をしたらいいか、頭を悩ますことになりました。決して山田さんのご意見に対して異を唱えるつもりはありません。ひとつの見識であると尊重しています。しかし、もしも少し違った場所に立って同じ状況を眺めてみれば、違う何かが見えてくるのではないだろうか、そんなことを少しだけお伝えしたいと思いました。
山田さんは「根本的な解決を求めるには、日本が自分の軍を持つ事を考えるのを避ける事はできない」とおっしゃいます。しかし、僕はこう思うのです。沖縄から米軍基地をなくすことは、単に政治的なひとつの解決でしかなく、世界中から基地をなくすことが、唯一の根本的な解決なのだと、沖縄の多くの人々は思っているのではないでしょうか。その一里塚としての米軍基地反対。でも山田さんは、それを無責任で幼稚な見識だとおっしゃる。山田さんは確かに現実的な正しいご意見を持っておいでです。一方、「ただひたすらの慰霊の思い」という括りで、沖縄の人たちが「現実的に」考えられないことに一種の同情で無理もないことだとされているように思います。
「思いがかなって米軍が撤退したら、その後に自分達も参加しなければならない軍がやってくる、という事にもなりかねない構図の運動をしているとはよもや思ってもいないだろう」
しかし、この山田さんのお言葉は、沖縄に対して非礼であると敢えて申し上げたいと思うのです。沖縄の人々には本当に現実が見えていないのでしょうか。
沖縄で基地反対を主張する人たちは、投獄されても日本軍に参加することは拒否する、そういう現実感覚を持っているのだと僕は思うのです。もちろん、すべての沖縄の人がそうだとはいいません。本当にそうなれば、軍に参加せざるを得なくなる人々もたくさんいるでしょう。しかしたとえそうだとしてもなお、彼らの覚悟を、甘いと貶めてはならない。沖縄の「ただひたすらの反対」を、大和の革新政党のそれと同じものだとは、僕は決して言ってはならないと思っています。
全ての民族が、お互いのことを分かり合うのが理想、その意味では、沖縄の人々も大和を理解すべきでしょう。沖縄のことを理解してもらうために、情報発信することも必要でしょう。しかし、政治的な歴史を知った上で考えるのなら、大和は沖縄を知り理解すべきだが、沖縄が同じように大和を理解する必要はない、大和の沖縄に対する無理解の責任は、100%大和の側にあると僕は考えるのです。それが「歴史的な現実」です。
基地とは禍々しき存在であり、真に世界が平和になるということは、世界から全ての基地が消えることに他ならない、この単純な理念を共有した時にはじめて、沖縄も大和に向けて情報を発信すべきであり、沖縄も大和の文化を理解すべきなのだと、我々は沖縄の人々に対して主張できるのではないでしょうか。
僕は、山田さんの沖縄に対する真摯な姿勢と深い見識に心から敬意を表します。だからこそ、僕もまた、山田さんから頂いたメッセージに対して、一生懸命考えて何かお返ししたいと思いました。失礼、どうかお許しください。
そして、ここまでお返事が遅れてしまったことを、心からお詫びしたいと思っています。
(追伸)
琉球の再生ガラスに物悲しさを感じる山田さんの感性に、僕は深く同意します。でも、それも作り手に対して失礼なハナシなのかもしれないと、僕は今までの僕自身の見方を、少しく反省しているところです。

沖縄に駐留する米軍の家族の需要により、発展してきた沖縄のガラス。材料とてない占領時代、米軍から排出されるコーラやビールの空き瓶などを再利用して作られたガラスの器は厚くて重いものだったが、身体の大きいアメリカ人は気にしなかったそうである。
昨今土産物屋で「琉球ガラス」として売られているものは、色とりどりで鮮やかだ。それはそれできれいではあるが、なんだか北は遥か小樽の北一硝子を思い起こさせ、凍て付く空気の中、凛と佇むその独特の雰囲気には到底及ばす、私には二番煎じに感じられてならない。
もともと器は薄手で、きん、としているものが好きである。ぽってりとした琉球ガラスより、指先ではじけば音色を奏でそうなクリスタルガラス、ざらついてどっしりした陶器より、すべすべの磁器。
が、ある時再生ガラスのグラスを上から覗き込み、厚みのあるグラスの中に閉じ込められた沖縄の海の色と海の深さを見出し、目が眩むようだった。今でもそのグラスを覗き込むと沖縄の海の中にいるような気分になる。できればもう少し薄手の方が好みである、泡もないに越したことはない。なのにどこに惹かれるのか、息をするのを忘れるほどに、目を離す事ができなくなる。
縦に見れば波打った表面、昔の家々の窓ガラスはまだ技術が低く、こんな風に波打っていたものだ。いつの間にか遠くへ行ってしまった昭和の時代、幼い頃の記憶にある、まだ戦後復興期の熱気の残る時代、そういった時代への郷愁にかられ、この地との「戦後」の始まりのタイムラグに気づかされる。そんな再生ガラスはどこか物悲しい。
クリスタルガラスは光を鋭角に跳ね返すが、再生ガラスのぽってりとした厚みは光を溜め込む。閉じ込められた光は、メリーゴーランドのようにくるくる回っている。割れれば人間の身体などすっぱり切れる鋭さを持つクリスタルガラスに較べ、再生ガラスはそこまで傷つけることのない鈍さをもって砕け、なんだかほっとさせてくれる。
そんな再生ガラスに惹かれるまま、土産店以外にガラスを探した。
【奥原硝子製造所】
那覇にある琉球ガラスの草分け。シンプルでぽってりとした「再生ガラス」の代表のような作品が多い。後で知ったが、私の目を眩ませたのはここのグラスだった。私を虜にした淡いラムネ色よりもっと深い青のグラスがあった。ラムネ色のものが沖縄のリーフの明るい海なら、こちらは伊豆の黒潮を思わせる青である。泡盛の瓶を再生したものだそうだが、もう原料が手に入らないとの事。「この色はもうじき廃盤になっちゃうね」と製造所の方が残念そうに言われていた。
【宙吹きガラス工房“虹”】
工房は読谷の「やちむんの里」の入り口にある。読谷の赤い土を塗りつけたものなど独創的な作品で、ゴージャスだが華美ではない。作者の稲嶺盛吉さんは「現代の名工」で、1970年代奥原硝子工房に入り、その後牧港ガラス、ぎやまん館、琉球ガラス村で技術を磨き、1988年「宙吹きガラス工房 虹」を設立されたそうだ。
洗練されていてとてもきれいだが、でも私の想う「再生ガラス」とは趣が異なる作品である。(しかし御土産物屋さんで見た、ここのシンプルなグラスはまさに「再生ガラス」であった。お店の人が言うには「シンプルなものはあまり作られていない」との事)
【尋グラス工房】
沖縄市の住宅地の中に工房はある。ここは再生ガラスではなく原料ガラスの作品を作っている。作家はステンドガラスを作っていた人で、作品にもそれが現われている。
再生ガラスでないことを知りながらなぜ行ってみたかというと、あるお店で買ったグラスのせいである。透明で泡が閉じ込められ、歪んだ形をした大き目のグラス。これが350缶のビールが1本、泡を盛って丁度1本分きれいに入るのである。缶のままで飲むことが多いが、たまにグラスを使ってみたくなった時、1本きれいに入りきるグラスはなかなかない。上まで入らないのは寂しいし、缶にちょっと残るのも嫌だ。いくつも買ったがどれもよろしくない。やっと出会ったしっくりくるグラスだった。
【日月(ひづき】
工房は土日祝日は休みとの事で行ってみる事はできなかったが、読谷村共同販売センターで作品が売られていた。再生ガラスにしては薄手。あまりぽってり感がない分繊細な感じがする。作家は沖縄の方と結婚された京都の女性。作品は泡盛の瓶を使い、色の付かない透明なものばかり。太陽生命のCMに使われたことがあるそう。
【ガラス工房“清天”】
「やちむんの里」から残波岬へ向けて車を走らせている時に、土産店で見て「いいな」と思っていた工房の名前が目に入った。そこは道沿いにある屋根だけの売店で、不揃いの机の上に作品が並べられている。太陽の光の下で透かして見たガラスの先には緑の木々や空がある。ねじって模様を出した厚みのあるガラスの中で木や空が万華鏡のように踊っていて、とても綺麗だった。作品はBEAMSでも売られているそうだ。
ネットで再生ガラスの事を調べたら、材料の一つに板ガラスが挙げられていたが、ここのものは全部泡盛の廃瓶だそう。今は自分達で砕く事はせず、ペレットになったものを仕入れているとの事。コーティングをしてある瓶が混ざり込んだりすると綺麗に出来上がらない、板ガラスも綺麗にできないので使わない、と言われていた。
話はガラスから離れる。
1日屋根だけの屋外で一人ガラスと一緒にいるので人恋しいのか、“清天”のお兄さんとは長いゆんたくとなった。
仕事を聞かれ、理化学器械を扱う会社にいると答えると「かっこいいねぇ」と言う。何を指してそう言うのかと思ったら「何億もする商品なんでしょ。そんな金額のものを扱うなんてすごいねぇ」と言う。(単価が億を超える事はまずないが)売値が高いという事は通常それにかかる原価も高いし、競争も激しく、利益率が高いとは限らない。でも彼は単純に扱う金額の高さにしきりと感心していて、私は沖縄にはそういう産業がないであろう事に思い当たった。
話を始めてしばらくたった頃Yナンバーの車が来て、女性が2人降りてきた。気に入ったものがあったらしく、女性はお兄さんに「これで違う色のものはないですか?」とグラスを指差し、身振り手振りをまじえて英語で聞いた。お兄さんは「解らない」という素振りをするばかり。いくら英語がわからなくても2つのグラスを指差して「カラー」と繰り返し言うのを聞けば、言いたい事は想像できるだろう。
場所は先だっての米兵によるひき逃げ事件の現場近く。そこここに抗議の看板が立っていた。最初はアメリカ人を嫌っているのかとも思ってみた。でもその前に話してくれた、体験ガラス作りをしたアメリカ人とのやりとりの様子からはそんな感じは伺えない。そしてハタと気が付いた。彼は「color」という発音を聞き取れなかったのだ。彼女が言っている事をお兄さんに伝えると、彼はない事を申し訳なさそうに丁寧に日本語で話していた。
そして以前アラハビーチに行った時、向かいのショッピングセンターの駐車場で見た看板を思い出した。そこにはこう書かれていた。「BEACH USERS IS NO PARKING」 英語を学び始めた時、日本語をそのまま当てて、よくやってしまう間違いである。それが今この時代、日本語と英語のアナウンスが交互に流れるビーチの向かいにあるショッピングセンターの駐車場のきちんとした看板に堂々と書かれている。
それを見た時、沖縄は植民地ですらなく、「占領」されていたのだという事が実感を伴って私の中にストンと落ちてきた。(植民地なら言葉の教育がある)
面と向かって身振り手振りで「BEACH USERS IS NO PARKING!」と言えば、きっと通じる。そうやって沖縄の人達は生き抜いて来たのだ。
基地反対運動も、最初は腑に落ちない気持ちがあった。
根本的な解決を求めるには、日本が自分の軍を持つ事を考えるのを避ける事はできない。日本が軍を持てば、沖縄の人達も無関係ではいられない。でも、その覚悟を持った上での行動とは、どうしても思えなかったのだ。基地反対の叫びが心からのものに聞こえれば聞こえるほど、ますますわからなくなっていった。
基地反対が、ただひたすらの慰霊の思いの先にある、と気が付いた時のやるせなさ。
思いがかなって米軍が撤退したら、その後に自分達も参加しなければならない軍がやってくる、という事にもなりかねない構図の運動をしているとはよもや思ってもいないだろう。
そんな事がおこってはいけない。決していけない。
沖縄の人は「ヤマトは沖縄の気持ちをわからない」と言うが、沖縄も本土の事を知らない。相手を知らなくては、わからせる方法もわからない。(本土の人間がちょっと沖縄へ行ってみたところで、沖縄の事がわかるとは思えない。忍びない事だがきっと多分、沖縄からの発信がなければ、本土は本当のところを理解できないだろう。)
沖縄を知れば知るほど、本土は「違うところ」を見ていると感じる。“戦後”38年と65年、それだけでも同じステージで分かり合うことは、どちらからも難しい。50年代のコザを歌った歌を集めたオムニバスCDに付いていた沖縄市歴史年表の昭和20年の欄に「8月15日」の記述はない。
ただひたすらの反対では、進展は止められるかもしれないが、解決にはつながらない。のらりくらりとかわされるだけだ。
東京大空襲を保障できないのと同じ理由で沖縄の不発弾対策に国は補助ができないという。基地は簡単にはなくならないが、これは道はあるのではないかと思う。
どんな事でも小さな事が実現できなければ、大きな事はできない。
確信も希望もなく、可能性すら見えず、ただひたすら「できる事」を繋いで、はやぶさは帰ってきた。
私は私にできる何かの糸口を探している。
我々には琉球ガラスに対する見識が殆どないので、そこらあたりを補完していただく意味で貴重なご意見を伺ったと思っています。山田さん、ありがとうございました。
(※以下の文章は、10月21日にようやく追記したものです。)
実はこれ以前にも山田さんから一通のメールを頂いていました。そこには普天間基地の辺野古移転に断固反対を主張する民社党の福島党首に対して「具体案があるようには思えず見識不足と感じる」と書かれていました。
またその他にも……
「一国を預かる政府が有効な防衛手段を何も持たないというのは、是非は別として、無責任であり、あり得ない事でしょう」
「沖縄問題、基地問題は、突き詰めれば『日本は自らの軍を持つのか否か』という問題だと思います」
僕は、頂いたふたつのメールに、いったいどうお返事をしたらいいか、頭を悩ますことになりました。決して山田さんのご意見に対して異を唱えるつもりはありません。ひとつの見識であると尊重しています。しかし、もしも少し違った場所に立って同じ状況を眺めてみれば、違う何かが見えてくるのではないだろうか、そんなことを少しだけお伝えしたいと思いました。
山田さんは「根本的な解決を求めるには、日本が自分の軍を持つ事を考えるのを避ける事はできない」とおっしゃいます。しかし、僕はこう思うのです。沖縄から米軍基地をなくすことは、単に政治的なひとつの解決でしかなく、世界中から基地をなくすことが、唯一の根本的な解決なのだと、沖縄の多くの人々は思っているのではないでしょうか。その一里塚としての米軍基地反対。でも山田さんは、それを無責任で幼稚な見識だとおっしゃる。山田さんは確かに現実的な正しいご意見を持っておいでです。一方、「ただひたすらの慰霊の思い」という括りで、沖縄の人たちが「現実的に」考えられないことに一種の同情で無理もないことだとされているように思います。
「思いがかなって米軍が撤退したら、その後に自分達も参加しなければならない軍がやってくる、という事にもなりかねない構図の運動をしているとはよもや思ってもいないだろう」
しかし、この山田さんのお言葉は、沖縄に対して非礼であると敢えて申し上げたいと思うのです。沖縄の人々には本当に現実が見えていないのでしょうか。
沖縄で基地反対を主張する人たちは、投獄されても日本軍に参加することは拒否する、そういう現実感覚を持っているのだと僕は思うのです。もちろん、すべての沖縄の人がそうだとはいいません。本当にそうなれば、軍に参加せざるを得なくなる人々もたくさんいるでしょう。しかしたとえそうだとしてもなお、彼らの覚悟を、甘いと貶めてはならない。沖縄の「ただひたすらの反対」を、大和の革新政党のそれと同じものだとは、僕は決して言ってはならないと思っています。
全ての民族が、お互いのことを分かり合うのが理想、その意味では、沖縄の人々も大和を理解すべきでしょう。沖縄のことを理解してもらうために、情報発信することも必要でしょう。しかし、政治的な歴史を知った上で考えるのなら、大和は沖縄を知り理解すべきだが、沖縄が同じように大和を理解する必要はない、大和の沖縄に対する無理解の責任は、100%大和の側にあると僕は考えるのです。それが「歴史的な現実」です。
基地とは禍々しき存在であり、真に世界が平和になるということは、世界から全ての基地が消えることに他ならない、この単純な理念を共有した時にはじめて、沖縄も大和に向けて情報を発信すべきであり、沖縄も大和の文化を理解すべきなのだと、我々は沖縄の人々に対して主張できるのではないでしょうか。
僕は、山田さんの沖縄に対する真摯な姿勢と深い見識に心から敬意を表します。だからこそ、僕もまた、山田さんから頂いたメッセージに対して、一生懸命考えて何かお返ししたいと思いました。失礼、どうかお許しください。
そして、ここまでお返事が遅れてしまったことを、心からお詫びしたいと思っています。
(追伸)
琉球の再生ガラスに物悲しさを感じる山田さんの感性に、僕は深く同意します。でも、それも作り手に対して失礼なハナシなのかもしれないと、僕は今までの僕自身の見方を、少しく反省しているところです。
(文責:高山正樹)
2010年03月17日(水)21時12分
いろいろな始まりの予感
本日の出来事です。
【お昼】
「金城さんの沖縄料理を食べる会」のため、PushPallのSpaceに設置されている水周りと料理器具の下見に金城さんと行きました。ついでにランチを食べました。

金城さんの沖縄料理を食べる会については、明日、ブログで告知する予定です。
【午後一】
いよいよMAP主催の三線教室がスタートです。新城亘先生傘下の教室ということで、ようやく始められることになりました。
以前ちょっと紹介した持田明美さんと大御所(?)新城亘さんです。

持田さんは本家の沖縄語を話す会で、ずいぶんとウチナーグチを勉強されたのだそうです。國吉眞正さんのことも知っていた。人前できちんと歌うためには、ウチナーグチの勉強は不可欠。M.A.P.の三線教室は「喜多見で沖縄語を話す会」と色々な交流をもってやっていこうと思っています。そのへんが他にはない私たちの「ウリ」ではないでしょうか。定期的に開催する予定(?)の「金城さんの沖縄料理を食べる会」も、そんな交流の一つだと思うのです。
三線教室に関しては、近々発表いたします。
【after_5】
事務所にお客様がいらっしゃいました。
20年くらい前、国際通りの久高民藝で買った琉球ガラスの鉢を、高山正樹が書斎の押入れの奥から探し出して持ってきました。

これって、再生ガラスなのかなあ。
今まで琉球ガラスにはあまり興味がなかったのだけれど、今日お客様とお話して、少し調べてみようかなと思い始めました。
さて、「琉球ガラス」というのサブカテゴリーをつくるまでいくのかどうか、今のところ生まれたばかりのミステリーで、先がまだよく見えません。
(お客様のYさんにも「金城さんの沖縄料理を食べる会」の御案内をしました。来てくだされば楽しいのになあ。)
【夜】
色々と決まったので、飲みたくなりました。お腹もすいたので今日は鳥研へ。
お通しとキャベツで始まって……


【深夜】
スナック“ぎま”に行きました。そして三線教室のこと、沖縄語を話す会のことなどをお知らせしました。
お店をやめたら、沖縄へ帰って暮らすんだというママ、本当はいろいろな会に出て行きたくて仕方がないのです。だけどお店があるからなかなかそれができない。でも、とりあえず無理をして、私たちの三線教室に顔を出してくださることになりそうです。
きっと、すぐにもスナック“ぎま”のサブカテゴリーを作らなければならなくなりそうですね。
常連のお客様を囲んでの記念撮影。

皆さん気のいい方々ばかりです。
【お昼】
「金城さんの沖縄料理を食べる会」のため、PushPallのSpaceに設置されている水周りと料理器具の下見に金城さんと行きました。ついでにランチを食べました。
金城さんの沖縄料理を食べる会については、明日、ブログで告知する予定です。
【午後一】
いよいよMAP主催の三線教室がスタートです。新城亘先生傘下の教室ということで、ようやく始められることになりました。
以前ちょっと紹介した持田明美さんと大御所(?)新城亘さんです。
持田さんは本家の沖縄語を話す会で、ずいぶんとウチナーグチを勉強されたのだそうです。國吉眞正さんのことも知っていた。人前できちんと歌うためには、ウチナーグチの勉強は不可欠。M.A.P.の三線教室は「喜多見で沖縄語を話す会」と色々な交流をもってやっていこうと思っています。そのへんが他にはない私たちの「ウリ」ではないでしょうか。定期的に開催する予定(?)の「金城さんの沖縄料理を食べる会」も、そんな交流の一つだと思うのです。
三線教室に関しては、近々発表いたします。
【after_5】
事務所にお客様がいらっしゃいました。
20年くらい前、国際通りの久高民藝で買った琉球ガラスの鉢を、高山正樹が書斎の押入れの奥から探し出して持ってきました。
これって、再生ガラスなのかなあ。
今まで琉球ガラスにはあまり興味がなかったのだけれど、今日お客様とお話して、少し調べてみようかなと思い始めました。
さて、「琉球ガラス」というのサブカテゴリーをつくるまでいくのかどうか、今のところ生まれたばかりのミステリーで、先がまだよく見えません。
(お客様のYさんにも「金城さんの沖縄料理を食べる会」の御案内をしました。来てくだされば楽しいのになあ。)
【夜】
色々と決まったので、飲みたくなりました。お腹もすいたので今日は鳥研へ。
お通しとキャベツで始まって……
たまごかけご飯で〆。
お店にチラシを貼ってもらいました。
【深夜】
スナック“ぎま”に行きました。そして三線教室のこと、沖縄語を話す会のことなどをお知らせしました。
お店をやめたら、沖縄へ帰って暮らすんだというママ、本当はいろいろな会に出て行きたくて仕方がないのです。だけどお店があるからなかなかそれができない。でも、とりあえず無理をして、私たちの三線教室に顔を出してくださることになりそうです。
きっと、すぐにもスナック“ぎま”のサブカテゴリーを作らなければならなくなりそうですね。
常連のお客様を囲んでの記念撮影。
皆さん気のいい方々ばかりです。
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2009年12月03日(木)02時04分
第3回 喜多見で沖縄語を話す会:うちなーぐち講座《7》【くまー喜多見やいびーん】
⇒“喜多見で沖縄語を話す会”第1回
⇒“喜多見で沖縄語を話す会”第2回
“喜多見で沖縄語を話す会”の第3回は7時から。その前の6時頃から、取材がありました。
朝日新聞姉妹紙のアサヒタウンズ。
さて、どんなふうに書いてくれるのかな。楽しみです。
現在「喜多見で沖縄語」皆勤賞の夏子さんが「mota」を連れて来た。「mota」ってどなた?

もたち(mota)さんは沖縄関連ブログ界ではちょっとした有名人らしい。
もたちさんの私物です。沖縄限定の…… 聞いたけど忘れちゃいました。

もたちさんの奥さんは植村順子さんというフルート奏者で……

こんなコンサートをやってます。

では、前回のお勉強「〜やん」の復習です。
「もたちさんやん」
これを日本語に訳すと、「もたちさんだ」。
さて、今日はもう少し丁寧に。
「もたちさんやいびーん」
「もたちさんです」ということですね。
でも、これではHe is Mr. Mota.にはまだ足りない。Heをつけないとね。
ウチナーグチで「この方」とか「こちら様」は、「くま」といいます。それから日本語の助詞「〜は」は、ウチナーグチでは「〜や」。だから「この方はもたちさんです」をウチナーグチで言うと、「くまやもたちさんやいびーん」となります。でも「くまや」はちょっと文語調で普通は使いません。はなしことばでは、「くまや」は「くまー」に変化して、「くまーもたちさんやいびーん」というのが普通ですね。
「くま」には、「この方」とか「こちら様」の他に、「ここ」という意味もあります。
「くまー喜多見やいびーん」(ここは喜多見です)
「くまー金城さんやいびーん」(こちらは金城さんです)
「くまー國吉さんやいびーん」(この方は國吉さんです)

「この方」とか「こちら様」は目上の人に使う言葉。では単に「この人」という場合はどういうのか、それについては次回ということにしましょう。なんせ今日も脱線だらけで、なかなか先に進まなかった。でもこれがいいんだな。
というわけで、脱線ばなしをふたつばかりしましょう。
ウチナーグチは敬語が大切。奥さんが旦那さんに「かめー(食え)」なんて言ったら大変です。「うさがみそーれー(お召し上がりください)」と言わなきゃね。
沖縄では夫婦喧嘩も敬語です。「うんじゅ(あなたさま)」と丁寧に呼びかけて、「にち、うさがみそーれー」。ご自分で煮てお召し上がりください。厨房に入ったこともない誇り高き首里の男性にとっては、この妻の言葉は餓死しろと同じですなあ。
もうひとつ。
腹筋が痛くなるほど大笑いしたとき、日本語では「腹を抱えて笑う」といいます。では、ウチナーグチでは何というのか。「腹を抱えて笑う」を直訳すると、「わたぬ むちゃげてぃ わらゆん」となります。おなかを持ち上げて笑う。でもこれは間違いなのです。こういう直訳によって沖縄語が乱れてきている。正しくウチナーグチで訳すと、「わたぬ くふぁるか わらゆん」。この文章を、逆に日本語に直訳すると、「おなかが硬くなるほど笑う」。
さて、皆さん、どちらのほうが現象を的確に捉えていると思われますか?
おっと、また遅くなっちゃった。本日はここまで。
もう遅いのに、國吉さんをお誘いして酒菜へ。

飲む酒は泡盛。肴はハタハタ。美味。


ウチナーグチ談義はまだまだ続きます。

それを尻目に、こちらはスーさんと琉球グラス談義。

琉球グラスについては、いずれお話したいと思っているのですが、ちょっとナイーブなんだよなあ。
今日ももうすぐ終ります。
あれ、駅にたくさんの人が……

壊れた「喜多見駅」の看板を直してるんですね。

でも、ただ立ち話して見上げているだけの人たちがたくさん。
なんでかなあ……
⇒“喜多見で沖縄語を話す会”第2回
“喜多見で沖縄語を話す会”の第3回は7時から。その前の6時頃から、取材がありました。
朝日新聞姉妹紙のアサヒタウンズ。
さて、どんなふうに書いてくれるのかな。楽しみです。
現在「喜多見で沖縄語」皆勤賞の夏子さんが「mota」を連れて来た。「mota」ってどなた?
もたち(mota)さんは沖縄関連ブログ界ではちょっとした有名人らしい。
もたちさんの私物です。沖縄限定の…… 聞いたけど忘れちゃいました。
もたちさんの奥さんは植村順子さんというフルート奏者で……
こんなコンサートをやってます。
では、前回のお勉強「〜やん」の復習です。
「もたちさんやん」
これを日本語に訳すと、「もたちさんだ」。
さて、今日はもう少し丁寧に。
「もたちさんやいびーん」
「もたちさんです」ということですね。
でも、これではHe is Mr. Mota.にはまだ足りない。Heをつけないとね。
ウチナーグチで「この方」とか「こちら様」は、「くま」といいます。それから日本語の助詞「〜は」は、ウチナーグチでは「〜や」。だから「この方はもたちさんです」をウチナーグチで言うと、「くまやもたちさんやいびーん」となります。でも「くまや」はちょっと文語調で普通は使いません。はなしことばでは、「くまや」は「くまー」に変化して、「くまーもたちさんやいびーん」というのが普通ですね。
「くま」には、「この方」とか「こちら様」の他に、「ここ」という意味もあります。
「くまー喜多見やいびーん」(ここは喜多見です)
「くまー金城さんやいびーん」(こちらは金城さんです)
「くまー國吉さんやいびーん」(この方は國吉さんです)
「この方」とか「こちら様」は目上の人に使う言葉。では単に「この人」という場合はどういうのか、それについては次回ということにしましょう。なんせ今日も脱線だらけで、なかなか先に進まなかった。でもこれがいいんだな。
というわけで、脱線ばなしをふたつばかりしましょう。
ウチナーグチは敬語が大切。奥さんが旦那さんに「かめー(食え)」なんて言ったら大変です。「うさがみそーれー(お召し上がりください)」と言わなきゃね。
沖縄では夫婦喧嘩も敬語です。「うんじゅ(あなたさま)」と丁寧に呼びかけて、「にち、うさがみそーれー」。ご自分で煮てお召し上がりください。厨房に入ったこともない誇り高き首里の男性にとっては、この妻の言葉は餓死しろと同じですなあ。
もうひとつ。
腹筋が痛くなるほど大笑いしたとき、日本語では「腹を抱えて笑う」といいます。では、ウチナーグチでは何というのか。「腹を抱えて笑う」を直訳すると、「わたぬ むちゃげてぃ わらゆん」となります。おなかを持ち上げて笑う。でもこれは間違いなのです。こういう直訳によって沖縄語が乱れてきている。正しくウチナーグチで訳すと、「わたぬ くふぁるか わらゆん」。この文章を、逆に日本語に直訳すると、「おなかが硬くなるほど笑う」。
さて、皆さん、どちらのほうが現象を的確に捉えていると思われますか?
おっと、また遅くなっちゃった。本日はここまで。
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