2013年09月26日(木)18時59分
昨日、知念正真さんが逝かれた…
1903年の人類館事件を題材にした戯曲「人類館」の作者、知念正真氏が25日午後1時23分、肝臓がんのため死去。71歳。告別式は27日午後4時から、喪主は妻の祥子さんだと。
⇒琉球新報「知念正真さん死去」
gajumui
ええっ!
09-26 10:27知念正真さんに初めてお会いした日のこと。2009年2月3日、「おきなわおーでぃおぶっく」のオフィシャルブログの記事です。/ 『“人類館”の知念正真氏にお会いしました。』 http://t.co/0E9Qyg7BRb
09-26 10:54「おきなわおーでぃおぶっく」のオフィシャルブログには書かなかった裏話。http://t.co/3OCAF55wFj 時々お見せになったとても優しくかわいい笑顔が忘れられません。心から心からご冥福をお祈りします。 @gajumui 知念正真さん死去『人類館』で岸田戯曲賞 71歳
09-26 11:03RT @m_um_u: うわぁ。。濃いww 知念正真 作・津嘉山正種 朗読 CD「人類館」/快読ショップYomupara http://www.yomupara.com/jinruikan.php
09-26 12:21ほんとうは、厚かましくもひとつひとつの記事をそれぞれご紹介したいところなのだけれど。僕のブログの、「知念正真」のカテゴリ記事8個です。⇒ http://t.co/mPLCpOwoVZ
09-26 12:27M.A.P.が制作したオーディオブック『人類館』(知念正真・作、津嘉山正種・朗読)、そのオフィシャルサイトに、CD二枚目のウチナーグチ部分の対訳や、初期台本との比較などを掲載しています。 http://t.co/6Sb12sBtIM
09-26 12:58知念正真さんという沖縄の劇作家が亡くなられました。所属されていた劇団創造の制作の方から、先ほど電話で大腸癌だったと伺いました。僕も殆ど癌というポリープを入院して取って、それから2年に一度は検査が必要と言われているのに、ずいぶんとすっぽかしています。 @pokopen1514
09-26 16:08
ubukatamichi
RT @theokinawatimes: 知念正真さん死去 戯曲「人類館」の作者 http://t.co/AYitQblyc8
09-26 18:20RT @gajumui: 知念正真さんに初めてお会いした日のこと。2009年2月3日、「おきなわおーでぃおぶっく」のオフィシャルブログの記事です。/ 『“人類館”の知念正真氏にお会いしました。』 http://t.co/0E9Qyg7BRb
09-26 18:22RT @gajumui: 「おきなわおーでぃおぶっく」のオフィシャルブログには書かなかった裏話。http://t.co/3OCAF55wFj 時々お見せになったとても優しくかわいい笑顔が忘れられません。心から心からご冥福をお祈りします。 @gajumui 知念正真さん死去『人類…
09-26 18:23RT @gajumui: M.A.P.が制作したオーディオブック『人類館』(知念正真・作、津嘉山正種・朗読)、そのオフィシャルサイトに、CD二枚目のウチナーグチ部分の対訳や、初期台本との比較などを掲載しています。 http://t.co/6Sb12sBtIM
09-26 18:23新聞には肝臓がんだって書いてある。もうそろそろ御通夜も終わる頃です。とっても悲しい。ご冥福をお祈りします。 @gajumui 知念正真さんという沖縄の劇作家が亡くなられました。所属されていた劇団創造の制作の方から、先ほど電話で大腸癌だったと伺いました。 @pokopen1514
09-26 18:29
2010年07月21日(水)12時00分
“清ら海”の記憶
拝啓、國吉眞正先生。
この旅の始め、那覇空港には「美ら島沖縄総体2010」という横断幕が張られていました。その時にも少し書きましたが、もう沖縄で「ちゅら」という言葉に「清ら」という字を当てているのを見つけるのは、かなり難しいことになってしまったようです。沖縄県の広報誌でさえ「美ら島沖縄」というくらいなのですから。
このM.A.P.after5のブログもそうです。竹原さんの仙川のお店の名前は「美ら風」だし、オオシッタイの上山弘子さんの藍染は「美ら藍」です。どちらも「ちゅらかじ」「ちゅらえ」と、読み方にはこだわっているんですけどね。きっと國吉先生にすればおっしゃりたいことがたくさんおありでしょうね。
でも、僕はこうも思うのです。沖縄の「ちゅら」は「清ら」でなければならないと、ナイチャーの僕が語ってはいけないのではないか、それもナイチャーが都合の良いイメージを沖縄に押し付けることではないのか。
それならば、「ちゅら」を「美ら」として、それが日本に浸透していって、その結果、沖縄から大和を逆照射するように、大和の「美」の概念に「清い」という意味を、大和の「美しさ」が捨ててきた「清らかさ」を、再び取り戻すことになるのだとすれば、それはそれでありなのかもしれない……
名護から58号線を離れて海洋博公園に向かいます。進行方向左側に、東シナ海のきれいな海が拡がります。思わず車を停めて海を眺めることにしました。
確かに、美しいのです。きっと、あの頃よりも。
僕が初めてこの道を通ったのは、今から二十数年前、沖縄海洋博が開かれたのは1975年の7月から76年の1月ですから、すでにそれから10年は経っていたのだと思います。でもリゾートホテルや何やらの建設で、まだまだたくさんのダンプカーが土煙を上げて走っていました。海は、箇所箇所赤土で汚れていたように記憶しています。その時の海の記憶よりも、今日の海は美しい。
でも……
護岸工事が施された海。あの頃の沖縄に、こんな海はなかった。そしてこんなに晴れているのに、この海はどこかくすんでいます。
20数年前の沖縄の海は、リゾート開発が進む地域は別として、本島でさえとても美しかったのです。今でこそ那覇空港近くの海は赤茶けていますが、当時は空港へ着陸する寸前に飛行機の窓から見下ろす海も、やっぱりものすごくきれいでした。
この話を、津嘉山正種さんにしたことがあります。すると、津嘉山さんはこうおっしゃられました。
「そうですね、確かに20年前の沖縄の海は、今よりずっときれいだった。でも、僕の子どもの頃の海は、あなたが見た20年前の海の、何十倍も美しかったのですよ」
僕は、またしてもやってきた憂鬱を感じながら、ある評論を思い出していました。
2010年07月11日(日)23時15分
鈴木修さんが知念正真氏に会った話
初登場以来5回目の登場です。
それなのに、これまでも1回もちゃんと紹介していません。いかんいかん。ついにその日が来ました。
ちゃんとハナシをしたい時はついつい“ふくや”に足が向きます。
ある日、鈴木修さんなる人からメールが届きました。
「“人類館”を朗読劇にしたいので、知念正真さんの連絡先を教えてくれないか」
住所などは個人情報であるということもあり、どこのどなたかもわからないでお教えするわけにもゆかず、ともかくお会いしましょうということになったのです。その後、諸々途中経過であったことをいくつか簡単にまとめると、知念正真さんがウチナーグチがちゃんと喋れない役者にはやってもらいたくないということがあったり、それよりもなによりも、あんまり再演をよろしく思っていないことがあったり、だから会わなけでば埒があかないということになって鈴木修さんが会いたいと言っていますと知念さんにお伝えしたり、そうしたら「会っちゃったら、やっていいということになりそうだからなあ」と言って知念さんが言葉を濁らされたり……、もうこうなったらエイヤっと沖縄へ行っちゃうしかないということになって、そしてこの度、めでたく鈴木修さんは沖縄で知念さんに会うことができて帰ってこられたのでした。
なんとしても土産話が聞きたくて、ご無理を言って今日会う時間を作っていただいたのです。
結論から言うと、とっても有意義な話しができて、知念さんの思いもしっかりと聞いてこられたようで、しかしというか、だからというか、上演許可というところまでの話しにはたどり着かなかったようです。ともかく、ゆっくりとお付き合いを続けていって、その後どうなるか、成り行きですということでありました。良かったんじゃないかなと思います。いずれきっといい舞台ができる、そんな予感がします。
こちらも、昨日思いもかけず藤木勇人さんから伺った“人類館”にまつわるハナシをお伝えしました。
その他にも、劇団創造の又吉さんに紹介された芝居を観にいったり、あのトミヒサさんが座り込んでいる高江で泊まってきたりとなかなか忙しい旅だったようで、しかしそれらのハナシは又聞きでご報告するには正確さを失すると思われ、遠慮しておきましょう。
tag: 喜多見_居酒屋.ふくや 高江 鈴木修 知念正真 「人類館」
2010年07月10日(土)23時53分
「南島妄想見聞録」【打ち上げその2】《藤木勇人と“人類館”》

「後日執筆する。少々お待ちを」……と書いたきり、御報告したいことはなかなかブログで簡単に書けるようなことではなく、ずいぶんと間が空いてしまった。
実はこの記事、9月21日に書いている。もうこれ以上引っ張るワケにもいかず、ボチボチここらでツラツラと書いてみようか。
藤木勇人さんは「うちなー噺家」と名乗っている。立川志の輔さんを師と仰ぐ。談志御大にはなかなか受け入れてはもらえないらしいが、志の輔さんからは「オレの弟子だと名乗っていい」とお墨付きを貰ったらしい。
実は、藤木勇人さんがこの世界で生きていこうと思ったきっかけは、沖縄の高校在学中に観た劇団創造の“人類館”だったという。
藤木さんは“人類館”の作者である知念正真さんのことを深く敬愛している。しかしその敬愛の仕方はそう単純ではない。
僕が知念さんについて、「おっかない顔してるけど、話すととってもシャイで優しくて、普通の人ですよねえ」と言うと、藤木さんは次のように答えた。
「一番ダメな人間が一番すばらしいということを教えてくれたのが知念さんです。僕の最も好きな人」と。
この日伺ったふたりの交流のエピソードは、とても興味深いが、残念ながらブログでは書けないことばかりで困る。
藤木さんは“人類館”を一人芝居でやりたいと考えていた。ところが津嘉山正種さんが先に演ってしまったものだから、自分はもうやらんでもいいかなと思われている。驚いたことは、人類館の再演には決してあまりいい顔をしない知念さんだが、藤木さんには「お前、やらないか」とおっしゃったというのである。知念さんの藤木さんに対する信頼、それはなんなのだろう。
知念正真が書いた「人類館」は、結果的に大きな罪を犯してしまったと藤木勇人はいう。戯曲「人類館」が、それ以後の大和と沖縄の対立構造を作ってしまったのだというのだ。それについては異論もあろうが、しかし「知念正真の“人類館”考」としては実におもしろい。知念さんから聞いた「人類館」の創作意図、「自分にとって沖縄の日本復帰とはなんだったのか、それを整理したかっただけなのだ」という知念さんの思いとも符合する。しかし、そんな知念正真の私的な想念であったものが、伝説的な初演の幕が下りたその時から「社会的な事件」となってしまった。以来、戯曲“人類館”は、知念正真の手から離れていった。そして調教師という登場人物は(実は大和の兵隊は沖縄出身者であったのだが)、沖縄を差別する極悪非道の人物として固定化されることになったのである。
しかし“人類館”に登場する調教師が悪いのではない、本来、人間に悪者などいないのだ、そう藤木勇人さんは語った。
「だから、落語が好きなんです。落語には、ダメだけれど悪い人間はひとりも出てこない。登場するのはみんな愛すべき普通の人たちです。そんな芝居がしたいんです。」
僕は、藤木勇人さんが演じる人類館が観たいと思った。そしてその舞台を客席から観て、心から笑う知念正真さんの顔を見てみたいと思ったのである。
もうひとつ、前の記事で語り足りなかったことを書いておこうと思う。
ウチナーグチについて。
藤木さんと話していて、藤木さんはウチナーグチを相当勉強されたことがあるのだと確信した。最近、ウチナーグチを復活させようと沖縄ではだんだんと盛り上がってきているが、しかしそれがそんなに簡単なことではないということを、藤木さんは深く理解されていると思ったのである。
一口にウチナーグチといっても、地域地域によって大きく違う。ウチナーグチを残すというと、たいがい首里言葉の権威がちらつき始める。しかし、首里言葉を「正しく」復活させることは、同時に各地域の言葉を殺すことにもなるという現実。
そう藤木さんが言ったわけではないが、僕はそう理解した。
藤木さんに奄美の血が流れているということもあるのかも知れないと、僕は勝手に思っていた。
M.A.P.の沖縄語を話す会は、この藤木さんのような思いを、決して忘れないということを第一義にしなければならない。あらためてそれを確認しなければいけないと、僕は襟を正したのである。
この日、テレビマンユニオンの田中さんという方が、藤木さんの「落語」を絶賛していた。どういうふうに絶賛したか、残念ながらそれもブログでは書けないこと。
テレビマンユニオンといえば超有名な制作会社だが、予算が大きく減らされて、テレビ業界は大変らしい。
シーサー玉城さんちゃんと一緒に記念撮影。
シーサー顔みっつだってさ。
⇒この日の続きに続く……
2009年11月22日(日)16時12分
津嘉山正種ひとり語り“人類館”in おきなわ
本番前、津嘉山正種さんは屋外の喫煙所で、ひとり風に打たれていらっしゃいました。煙草を吸っていたのかどうか、それはわかりません。
色々ありましたが初めてこの沖縄で、聞かせていただきます。
「カミサンの実家の家族を招待したのです」
津嘉山さんはニッコリと笑われました。
ロビーへ。


拝啓、津嘉山正種様。
舞台、拝見させていただきました。この舞台を、CDとして残したことが間違いではなかったと、あらためて確信しました。そして、その仕事をさせてくださった津嘉山さんはじめ青年座関係の皆様に、重ねて感謝申し上げたい気持ちでいっぱいです。
招待した妻の家族が、今日の舞台にどんな感想を持ったのか、とても興味があるのですが、僕はきっと、それについて聞くことはしないでしょう。
僕は、妻の家族から、敢えて離れて座りました。それは、彼らが舞台を観て泣くにしても笑うにしても、僕はその傍にいてはならないという気がしたからなのです。僕を知らない人ならば、僕が隣に座っても、僕は見知らぬ路傍の石なので、その人は自由に笑うことも泣くこともできるでしょう。でも、妻の家族にとっては、もはや僕は路傍の石ではありえないのです。
やがて客席の明かりが落ちていきます。密かに僕は、この後この劇場が、津嘉山さんのウチナーグチで大きな笑いに包まれることを期待していました。30数年前の、あの伝説の舞台がそうであったように。
しかし、そうはなりませんでした。それが残念なことなのかどうか、僕にはよくわかりませんが、きっと今日のお客様は、70年代の沖縄の人々よりもはるかに冷静であり、幸福であり、そして、諦めに包まれているのかもしれないと思ったのです。そして、みんな静かに涙されていた。
とすると、僕が人類館をCDにしようと決意した個人的な一つの事件、家事をしていた僕の妻が、青年座にお借りした人類館の記録DVDから流れ出てくる言葉、僕には全く理解できない言葉を聞いてゲラゲラと笑っていたのは、妻が不幸だということなのでしょうか。まあ、たとえそうだとしても、妻はまだ諦めてはいないのだと納得しておきましょう。
昨日は、隣の大劇場で大城先生の新作組踊りがあって、僕はそちらを観るために来ていたのですが、一般のお客さんに混じって、ロビーの椅子でひとり小劇場の開場を待っている知念正真さんをお見かけしました。
「ちょっと早く来すぎてしまった」
僕は開場前の小劇場に潜り込んで、制作の紫雲さんに、知念先生が既に来ていらっしゃることを伝えました。紫雲さんはあわてて知念さんを呼びにいかれた。
「彼は人付き合いが下手でね」
そんな幸喜さんの言葉を思い出したのです。
今度、もう一度知念さんを訪ねて、たくさんのお話を聞かせて貰おう、今、なぜかとてもそう思っています。今日の舞台のことも、妻の家族には聞けないが、知念さんには是非とも聞いてみたいと思うのです。もし聞けたなら、またお手紙でご報告します。
これからも、津嘉山さんがこの舞台を持って全国を巡り、沖縄の心を伝え続けられますこと、心より願っております。
今日は、ほんとうにありがとうございました。
是非、下記記事をお読みください。
⇒知念正真さんにお会いした日のこと。爆笑に包まれた初演のこと。
⇒つかこうへいの芝居は泣けてしかたないといった加藤新吉氏のこと。
ロビーで、人類館以外のCDも売ってくださいました。
諸々清算。
ありがとうございました。
妻の実家へ戻ると、こんなCMをやっていた。
介護保険のご案内。
「だいわはうちゅ」とは全く違う、泥臭い沖縄の普通のおじさん。
そういえば、役所広司さん相手の映画監督役、変わりましたねえ。ところで、あのコマーシャルは沖縄でやってたのかなあ。
2009年07月25日(土)17時55分
神田古書店街
しかし、ここ数年、すっかり出力と入力のバランスが崩れていて、特に最近ブログなどを書かされて言葉を垂れ流すようになってからというもの、妙に神田が懐かしくなっていた。新刊本の活字ではダメなのだ。信用がおけない感じがしてスッと入ってこないのである。
今日の夜は銀座に用があって、その前にちょいと時間が出来たので、ほんとうに久しぶりに神田をぶらついてみることにした。
神田に通っていた頃にも、決して立ち寄らなかった店がある。それがこの、演劇映画関連の書籍を専門に扱う矢口書店だった。戯曲やシナリオなども揃っている。
当時芝居に嫌気がさしていて、演劇の理論書など、その背表紙が目に入ることさえ不愉快だったのである。だが、今はそんな屈折した思いはどこかに消えた。とはいえ、今日、特に意識なく最初に向かったのがこの矢口書店だったというのは、いったいどういうことだろう。
道に面した廉価本の書棚の中に見つけた一冊の演劇誌、ちねんせいしん作「人類館」が掲載された1977年の『テアトロ』2月号である。
「人類館」は、その後「沖縄文学選」というアンソロジー本で活字にされているのだが、それは当初の台本とは違って、かなりナイーブな部分が書きかえられている。沖縄の劇団創造が上演する現在の台本も、青年座の津嘉山正種さんの独り語りも、また我々が制作したCDも、全て書き換えられたものを定本にしているのだ。もはや伝説となった初演時の台本は入手困難、作者の知念正真さんの手元にもない代物、それがこのテアトロで読めるのだ。大枚200円なり。これが掘り出し物でなくてなんであろうか。
人類館については先日の沖縄語を話す会で、國吉眞正さんから頂いたお土産、我々のCD「人類館」のウチナーグチの部分を、國吉さんが正確な音で起こしてくださったテキスト、まったくありがたいことで、この資料と青年座の台本と、そして今日手に入れた「テアトロ」と、それらを比較検討するのは、きっとわくわくするほど楽しい作業だろう。その研究結果を、ブログやホームページなどで記事にすることを考えなければという条件付ではあるが。
今日はそのほか、沖縄語の資料など数冊購入して、総額1,000円にも満たない。鞄はすこし重くなったが、気分はすっかり軽くなった。
2009年02月15日(日)20時55分
うぶかたさんの沖縄通信その3の3
楽屋通路で皆さんと記念に。

この画像はOfficial Blogでも使用したのですが、撮影したのは金城君。
金城君「知念先生、笑ってください。」
知念先生「今、思いっきり笑ったんだけどなあ。」
左の方は、もちろん演出の幸喜良秀さん。そして右の方は今回制作を担当された「創造」の又吉さんです。
又吉さんは終演後の舞台挨拶で私たちのCDを宣伝してくださいました。
「人類館のCDをロビーで販売しています。定価2300円のところ、本日おいでの皆様には、特別に2300円で販売いたします。」
場内大爆笑!おかげでたくさんのお客さまにCDを買っていただきました。ありがとうございました。
この日、沖縄の劇場に来たお客様の感じは、東京とはずいぶん違いました。ウチナーグチは、東京では「違い」を際立たせる武器、でもここでは、「同じ」であること分かち合う温かい命の道具なのですから。
劇場を出ると、知念先生の奥様にお会いしました。
記念に一枚お願いします。カシャ!

これで、今回の沖縄からの報告は、全て終わり!
2009年02月15日(日)20時51分
うぶかたさんの沖縄通信その3の2
終演後のロビーでは、役者さんを交えて、たくさんの方々が和やかに歓談されていました。



花城清長さん(男)、上江洲朝男さん(調教師)、小嶺和佳子さん(女)です。




八木政男先生も、大城立裕先生もいらっしゃいました。
そのほかにも、きっとただならぬ方と思しき人々も。


さらに次の記事へ続く…
tag: 劇団創造 沖縄の旅_2009年2月 花城清長 上江洲朝男 小嶺和佳子 八木政男 大城立裕 知念正真 幸喜良秀 沖縄の人
2009年02月03日(火)18時47分
知念正真氏(沖縄3日目の午後その1)


知念正真氏と金城君の、穏やかな笑顔のスナップ。
人類館CD制作に関係する書類に、知念さんの判子を頂くということが第一の目的だったのですが、しかしそれは郵便のやり取りでも可能なこと、今回どうしても知念正真さんに直接お会いしたかったのには、特別な訳があったのです。でも、はたしてこちらのお願いを受け入れてくださるだろうか、とても自信がありませんでした。だから、知念さんの高校時代の恩師である儀間進さんに同行していただいて、あの飄々とした雰囲気で話をしやすくして頂こうなどと、よからぬことをたくらんでいたのですが、儀間先生は風邪でNG。こうなったら当って砕けろ。
その結果は、どうぞOfficial_Blogをお読みください。
ただ、お会いしてみて、今回に限っては、どんな繋がりにも頼らず、丸腰でお会いしたことが却ってよかったと思っているのです。
いや、もしかすると、金城君が同行してくれたのがよかったのかもしれないね。やっぱり、誰かに助けられているということなのかな。
Official_Siteではご紹介しなかった秘話。
戯曲「人類館」の登場人物は3名。それは何故か。何故って、3人だからこそ「人類館」の緊迫感があるわけで、その登場人物は3名以外に考えられないのですが、知念正真氏が「人類館」を書いた1976年当時、劇団創造は、その歴史の中で団員が一番減ってしまった時期で、役者も3人しかいなかったのだそうです。そういう逆境であったからこそ、「人類館」は生まれたのかもしれません。
「今は劇団員は何人くらいいらっしゃるのですか?」
「それがねえ、最初はきちんと規約も作って、参加費を募ってやっていたんだが、いい加減でねえ、やめたんだかどうだかわからないのがね…、だからよくわからん……」
そしてもうひとつ。
「今まで沖縄の人間は、本当に抵抗したことがないのではないかと思うのですよ」
ほんとうに穏やかな知念正真さんの、ぽつりと言われたこの言葉を、どうやら僕は、一生忘れることはないだろうと思うのです。
2009年01月26日(月)20時36分
“晴読雨読”「沖縄」に出会った一冊
さて、高山正樹の執筆記事は載ったかな……
あった。

おほ、五木寛之の「親鸞」の上だぜい!
原稿料は、まあ数時間で書いたから、マクドナルドのアルバイトよりはだいぶマシかな。でも、五木寛之先生の、ずーっと下ですね。
マクドナルドと言えば、しばらく、マックのハンバーガーは控えようかな。痩せなきゃいけないし、イスラエル支援企業だし。
しかしイスラエル支援企業ということならマイクロソフトも同じ、ということは、ブログやめなきゃいけないのでしょうか。WindowsからMacに切替えてみても、最近Macにもintel入ってるし……
マックとMac、ややこしいなあ。
しかし、マクドナルドにお勤めの方々もたくさんいらっしゃるわけで。不買運動というものは、どこかヒステリックで、ちょっと危ない感じもあります。風評被害とまでは言いませんが。
ともかく、自動車乗ってるから温暖化問題について語る資格はないのだというような、幼稚な論理に陥らないことは大切ですね。じゃないと、世の中変わらない。自分のことを棚に上げて主張すべきこともあるということです。
いけないいけない、最近少し太り過ぎ、じゃない、語り過ぎです。反省。
話を元に戻して。
琉球新報の「晴読雨読」、高山正樹が大城立裕「カクテル・パーティー」について書いた記事の全文を、Officialのブログに掲載しました。
⇒http://ameblo.jp/okinawaaudiobook…
いくら画像でご紹介しても、目の不自由な方にはお伝えできませんので、テキストデータで掲載すれば、音声変換ソフトで聞いていただけますから。
(そうだ、だから画像にきちんと名前つけることも重要なんだよね。記事を書く時のひと手間が面倒で、殆ど「null」になっていますこと、陳謝いたします。時間を見て、順次画像に名前をつけていく所存です。「弱者」の方々に対する想像力が足りない。それこそ反省しなければ。)
ところで、音声変換ソフトってWindowsとMacと、共通なのかな。
tag: 別ブログへ ユニバーサルデザイン 知念正真 イスラエル 人類館事件 大城立裕 琉球新報 カクテル・パーティー
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