2017年12月24日(日)15時00分
仏教と映画祭とふいご祝いとクリスマス
だから眠い。
— 高山正樹 (@gajumui) 2017年12月24日
しかし、狛江泉龍寺の読経会。
次回は31日の大晦日。
それまでに、読経会用の映画祭案内を準備しようと思っている。 pic.twitter.com/npmBeBAWX3
4作目を共同で制作するからと支援を募っている。一作目に上映会を開き、2作目のために10万円寄付したのに、完成の報告も、試写会の案内もなかったことに、みんな怒っているということ、はたして知っておられるのかどうか。多くの「友達」の、「試写会で見た」という投稿をFBで読まされる腹立たしさ。
— 高山正樹 (@gajumui) 2017年12月24日
今日はクリスマスイブ? 知らん!なんてことは、泉龍寺の東堂さんは仰らない。
だから今日は旧暦の11月7日、沖縄ではふいご祝いの日だから、その話をしよう。
ウチナーグチではフーチェーとかフーチヌユエーとかいうらしい。
(お経の会でも、この話をすればよかったな…)
沖縄大百科事典の「フーチヌユーエー」の項には「鞴(ふいご)の祝い。鍛冶屋が一年中の安全息災を祈る行事」とある。全国的に分布している行事で、沖縄でも全域にあり、工具への感謝の祈願を行ったりと、地域によって祝い方は様々なようだが、城辺砂川のちょっと面白いお祭りが事典で紹介されてるので、それを転載してみる。
「鍛冶屋の製作した農具で殺生された地中の虫、草の霊が祟らないようにと、鍛冶屋の子孫と部落の代表が、鍛冶屋跡地で拝む。そのとき、豚の頭が供えられ、夜中に松明をともして村はずれのイビシ(拝所)までそれを捨てに行く。その行列の火を見ると祟られるといわれ、見た者はむこう3年間、11月8日にフーツキヨーカの祈願をしなければならない」
農業や漁業のお祭りは山ほどあるが、いわば工業のお祭りはこのふいご祝いだけ、かつては他のお祭りに較べてかなり重要な地位のお祭りだったらしい。鍛冶屋の仕事が神聖視されていた証なのかもしれない。
考えてみると、クガニゼーク(金細工)よりカンゼーク―(鍛冶屋)の方が庶民にはずっと馴染みのある言葉だったに違いないし、だからこそ明治になって、シバイシー(役者)が雑踊りの金細工に「カンゼーク―」という読み方を当ててしまった(というか、カンゼーク―という鍛冶屋の踊りに「金細工」という華やかな文字を当ててしまった)という混乱も、なんだか頷けるのである。
そういえば健次郎さんにずっと会っていない。「クガニゼーク」のことも、最後の詰めをしていない。
唐突だが、三上知恵監督の映画もやっていない。どちらもこのままテーゲーにしておいていいのだろうか。
無神論の僕にとって、どうやら今日は、なんでもない日なのだが、事務所では今日、子供たちを集めて琉球舞踊を踊らせて、そしてクリスマスをお祝いするのである。
なんともテーゲーである。
ほらね…


節操のない一日。
tag: 泉龍寺 沖縄この日何の日 三上知恵 「クガニゼーク」のこと 金細工 沖縄大百科事典 MAP琉球舞踊教室 事務所の光景
2010年12月14日(火)23時35分
溝の口と濱田庄司
川崎の市民劇「枡形城・落日の舞い」は、毎週火曜日、溝の口にある大山街道ふるさと館という施設で稽古をやっています。いや、違うな。稽古なんかやっていません。なにしろまだ配役が決まっていないんですから。ホントは前回決まるはずだったんですけどね、なんだか人が足りないらしい。
ここに来るのは今日でもう5回目だというのに、ふるさと館の隣の喫茶店の前にある案内板を、全然読んでいませんでした。

おや、浜田庄司って、あの濱田庄司なの?

ということは、この“YAMATO”というCOFFEEショップが、濱田庄司のお母さんの実家ってことか。
ここ川崎で生まれた濱田庄司は、京都の陶芸試験場で上薬の研究をしました。30歳からは沖縄の壷屋でも学んでいます。
もちろん、東京の大学を出て、イギリスにも渡り、益子で焼き物を作り始めるのですから、いくら川崎と京都と沖縄がこのM.A.P.after5のカテゴリにあるからと言って、それだけをことさら取り立てて不思議がることもないのだけれど、もしも濱田庄司という陶芸家がいなければ、今の又吉健次郎さんはなかったのだろうし、また健次郎さんに濱田庄司に対する尊敬の念がなければ、僕が健次郎さんの工房に通うことにもならなかったに違いないのだから、やっぱりこの看板をここで見つけて、僕はちょっとワクワクしたのです。
⇒濱田庄司さんと6代目の又吉誠睦さんのこと
さて、「枡形城・落日の舞い」ですが、今日も配役の発表はありませんでした。しかし、どうやらもう最後までいきそうなので、「川崎市」のサブカテゴリに「枡形城・落日の舞い」を作ることにしました。
そして、今日はこんな感じ。

4回目。新しい方2名で累計13名。
お名前の方は、配役が決まってから追々ご紹介ということに。役がなければ役者は何者でもないのですから。何者でもないまま4週間は、ちと長い。
ここに来るのは今日でもう5回目だというのに、ふるさと館の隣の喫茶店の前にある案内板を、全然読んでいませんでした。
おや、浜田庄司って、あの濱田庄司なの?
ということは、この“YAMATO”というCOFFEEショップが、濱田庄司のお母さんの実家ってことか。
ここ川崎で生まれた濱田庄司は、京都の陶芸試験場で上薬の研究をしました。30歳からは沖縄の壷屋でも学んでいます。
もちろん、東京の大学を出て、イギリスにも渡り、益子で焼き物を作り始めるのですから、いくら川崎と京都と沖縄がこのM.A.P.after5のカテゴリにあるからと言って、それだけをことさら取り立てて不思議がることもないのだけれど、もしも濱田庄司という陶芸家がいなければ、今の又吉健次郎さんはなかったのだろうし、また健次郎さんに濱田庄司に対する尊敬の念がなければ、僕が健次郎さんの工房に通うことにもならなかったに違いないのだから、やっぱりこの看板をここで見つけて、僕はちょっとワクワクしたのです。
⇒濱田庄司さんと6代目の又吉誠睦さんのこと
さて、「枡形城・落日の舞い」ですが、今日も配役の発表はありませんでした。しかし、どうやらもう最後までいきそうなので、「川崎市」のサブカテゴリに「枡形城・落日の舞い」を作ることにしました。
そして、今日はこんな感じ。
4回目。新しい方2名で累計13名。
お名前の方は、配役が決まってから追々ご紹介ということに。役がなければ役者は何者でもないのですから。何者でもないまま4週間は、ちと長い。
tag: 丸尾聡 「クガニゼーク」のこと 金細工 「枡形城落日の舞い」 川崎 京都 又吉健次郎
2010年02月12日(金)17時01分
バタバタ・ズルズル・モヤモヤ・ゴチャゴチャ【2月6日の又吉健次郎さんの記事】
なんとも落ち着かない感じ。
バタバタしている、といえばそれまでなのだが、度を越している。
ちょっと落ち着いて、ここ一週間くらいのことを思い返してみたりして。
今更なのだが、この前の7日の日曜日って、オイラはカメラで遊んでいたけれど、何かあったんじゃなかったっけかな。
そういえば、“韓国と八重山の踊り”とか。
それからもたち氏の奥さんのコンサートとか。
終ってからじゃあねえ。
なんのためにサイドバーに告知欄作ったんだろう。
申し訳ありません。
あ、もうひとつ思い出した。6日の沖縄タイムスにこんな記事が掲載され、その新聞が沖縄から届いていたのだが、どう報告しようかと思案している間に、ズルズルと時間が経ってしまった。
“金細工の妙技 映像化で伝承”
後継者難 制作に危機
3年がかりで工程撮影 又吉健次郎さん
⇒http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-02-06…
…という記事で、制作風景の映像化に取り組んでいることを紹介している。例の、井上真喜ちゃんの仕事である。
⇒http://lince.jp/hito/okinawamap/tibi…
⇒http://lince.jp/hito/tintao…
一昨年、舞踊家向けにジーファーを作っていた親せきが亡くなった。
「琉球金細工」の指定無形文化財を申請していた那覇市教育委員会から「指定は困難」と回答された。
「自分が死んだらどうなるのか。50年後にはこの映像だけが金細工を伝えられるのかもしれない」
県外や伝統的でない作り方で制作されたジーファーや房指輪が舞台で使われていることを耳にするたび、危機感を抱く。
「小道具に至るまで、ちゃんとウチナーンチュの手仕事でやるべきだ」
M.A.P.after5で、ずっと報告してきたことですな。
しかし、こいつはそう簡単なハナシではない。この件に関しては、ちょいと補足したいとも思うのだが、頭が冴えない。できれば、M.A.P.after5の、過去の記事をお読みいただきたいと思う。さらに、もう少し探ってみたいこともあるし。
⇒クガニゼークーのこと
昨年9月、琉球舞踊とともに重要無形文化財に指定された「組踊道具・衣裳製作修理技術保存会」が取り扱うのは花笠や扇、杯などだ。同会の上原淳子さんは「(金細工の)技術を知る会員がいない。又吉さんから学ぶしかない」と現状を話す。
沖縄の工芸に詳しい宮城篤正県立芸大学長は「沖縄の金細工はほとんど知られてこなかった。今となっては又吉さんは貴重な存在で、県や市が技術を認定するべきではないか」と指摘した。
この件に関しても、以前、健次郎さんから伺っていたことだ。でも、その時の、ちょっとしたニュアンスが重要。でも、あらためて健次郎さんに聞いてみて、それでご報告したい。
【12月に追伸】
なかなか又吉さんにお会いする時間が取れずに、それから10ヶ月を過ぎてしまいました。間もなく来年になってしまうので、新しい情報もあることなので、だいぶ古い話ですが、関連記事をいくつかアップしようと思います。以下、コメントを参照してください。
さて、他にも何か抜けてないかなあ、なんて、さっきから考えているのだが、どうもモヤモヤして、よろしくない。
明日も、なんかあったんじゃなかったっけかなあ……
ますますゴチャゴチャしてきた。
バタバタしている、といえばそれまでなのだが、度を越している。
ちょっと落ち着いて、ここ一週間くらいのことを思い返してみたりして。
今更なのだが、この前の7日の日曜日って、オイラはカメラで遊んでいたけれど、何かあったんじゃなかったっけかな。
そういえば、“韓国と八重山の踊り”とか。
それからもたち氏の奥さんのコンサートとか。
終ってからじゃあねえ。
なんのためにサイドバーに告知欄作ったんだろう。
申し訳ありません。
あ、もうひとつ思い出した。6日の沖縄タイムスにこんな記事が掲載され、その新聞が沖縄から届いていたのだが、どう報告しようかと思案している間に、ズルズルと時間が経ってしまった。
“金細工の妙技 映像化で伝承”
後継者難 制作に危機
3年がかりで工程撮影 又吉健次郎さん
⇒http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-02-06…
…という記事で、制作風景の映像化に取り組んでいることを紹介している。例の、井上真喜ちゃんの仕事である。
⇒http://lince.jp/hito/okinawamap/tibi…
⇒http://lince.jp/hito/tintao…
一昨年、舞踊家向けにジーファーを作っていた親せきが亡くなった。
「琉球金細工」の指定無形文化財を申請していた那覇市教育委員会から「指定は困難」と回答された。
「自分が死んだらどうなるのか。50年後にはこの映像だけが金細工を伝えられるのかもしれない」
県外や伝統的でない作り方で制作されたジーファーや房指輪が舞台で使われていることを耳にするたび、危機感を抱く。
「小道具に至るまで、ちゃんとウチナーンチュの手仕事でやるべきだ」
M.A.P.after5で、ずっと報告してきたことですな。
しかし、こいつはそう簡単なハナシではない。この件に関しては、ちょいと補足したいとも思うのだが、頭が冴えない。できれば、M.A.P.after5の、過去の記事をお読みいただきたいと思う。さらに、もう少し探ってみたいこともあるし。
⇒クガニゼークーのこと
昨年9月、琉球舞踊とともに重要無形文化財に指定された「組踊道具・衣裳製作修理技術保存会」が取り扱うのは花笠や扇、杯などだ。同会の上原淳子さんは「(金細工の)技術を知る会員がいない。又吉さんから学ぶしかない」と現状を話す。
沖縄の工芸に詳しい宮城篤正県立芸大学長は「沖縄の金細工はほとんど知られてこなかった。今となっては又吉さんは貴重な存在で、県や市が技術を認定するべきではないか」と指摘した。
この件に関しても、以前、健次郎さんから伺っていたことだ。でも、その時の、ちょっとしたニュアンスが重要。でも、あらためて健次郎さんに聞いてみて、それでご報告したい。
【12月に追伸】
なかなか又吉さんにお会いする時間が取れずに、それから10ヶ月を過ぎてしまいました。間もなく来年になってしまうので、新しい情報もあることなので、だいぶ古い話ですが、関連記事をいくつかアップしようと思います。以下、コメントを参照してください。
さて、他にも何か抜けてないかなあ、なんて、さっきから考えているのだが、どうもモヤモヤして、よろしくない。
明日も、なんかあったんじゃなかったっけかなあ……
ますますゴチャゴチャしてきた。
2009年11月23日(月)18時32分
浦添美術館訪問
2007年の8月31日から9月9日まで、「沖縄の金細工〜うしわれようとするわざ・その輝き〜」という展覧会が、浦添市美術館で開催されました。
(余談ですが、実はこの時、又吉健次郎氏が宇夫方隆士氏に、ぜったい詩画集の展覧会をやったほうがいいと、乗り気ではない隆士氏に代わって、浦添美術館の空いている日を押さえてしまったのです。それがきっかけで、隆士氏は沖縄タイムスの新聞小説の挿絵を描くことになり、我々M.A.P.は隆士氏を通じて、沖縄タイムスの文芸部長さんから大城立裕氏を紹介いただきました。なんだか不思議。)
8月28日付けの「沖縄タイムス」に、この展覧会を紹介する記事が掲載され、そこには次のような一文がありました。
「琉球では、金銀を扱う金細工(クガニゼーク)、錫・銅を扱う錫細工(シルカニゼーク)の金工職人がいた」
もしかすると、浦添市美術館に行けば、何かわかるかもしれない、そう思って訪ねてみました。

その時のチラシをコピーしてくださいました。


他にも、又吉健次郎さんの工房の案内や名刺などもファイリングされていましたが、それらには「カンゼーク」と書かれてありました。
「なぜカンゼークではなく、クガニゼークとしたのですか」
「この時の展覧会は、又吉さんだけではなく、クガニゼーク全体を紹介する企画だったので」
僕の問いの立て方がまずかったのかもしれませんが、なんとなく意外なお答えでした。それまで、漠然として、「カンゼーク」という大きなくくりのなかの一分野が「クガニゼーク」なのかもしれないと思い始めていたのに、お答えの印象はその逆です。でも、それは要するに、カンゼークについての見解が定まっていない、というか、「カンゼーク」の言葉にこだわることに大した意味はないという感じなのです。
今回の旅で、「カンゼーク」の本質にどうしてもたどりつけないもどかしさがどんどん増大してきています。しかし、もしかすると、僕の求める明確な答えなどハナから無かったのではないか、ここに至って、そんな風に思えてきました。「カンゼーク」の原点を求めても、そんなものは初めから存在しない。「カンゼーク」という言葉は、廃藩置県以後の大きな変化の中で生まれてきた、比較的新しい言葉なのではないか。「金細工」と書いて「カンゼーク」と読むのは、元来のウチナーグチでは考えにくいけれど、大和の感覚を通すと、「クガニゼーク」より、一見自然で、かつ沖縄風に聞こえてきます。
さて、この僕の推測は正しいのかどうか、まだ調べる本もある、聞ける人もいます。
もう少し、「カンゼーク」の影を、追ってみようと思っています。
(余談ですが、実はこの時、又吉健次郎氏が宇夫方隆士氏に、ぜったい詩画集の展覧会をやったほうがいいと、乗り気ではない隆士氏に代わって、浦添美術館の空いている日を押さえてしまったのです。それがきっかけで、隆士氏は沖縄タイムスの新聞小説の挿絵を描くことになり、我々M.A.P.は隆士氏を通じて、沖縄タイムスの文芸部長さんから大城立裕氏を紹介いただきました。なんだか不思議。)
8月28日付けの「沖縄タイムス」に、この展覧会を紹介する記事が掲載され、そこには次のような一文がありました。
「琉球では、金銀を扱う金細工(クガニゼーク)、錫・銅を扱う錫細工(シルカニゼーク)の金工職人がいた」
もしかすると、浦添市美術館に行けば、何かわかるかもしれない、そう思って訪ねてみました。
その時のチラシをコピーしてくださいました。


他にも、又吉健次郎さんの工房の案内や名刺などもファイリングされていましたが、それらには「カンゼーク」と書かれてありました。
「なぜカンゼークではなく、クガニゼークとしたのですか」
「この時の展覧会は、又吉さんだけではなく、クガニゼーク全体を紹介する企画だったので」
僕の問いの立て方がまずかったのかもしれませんが、なんとなく意外なお答えでした。それまで、漠然として、「カンゼーク」という大きなくくりのなかの一分野が「クガニゼーク」なのかもしれないと思い始めていたのに、お答えの印象はその逆です。でも、それは要するに、カンゼークについての見解が定まっていない、というか、「カンゼーク」の言葉にこだわることに大した意味はないという感じなのです。
今回の旅で、「カンゼーク」の本質にどうしてもたどりつけないもどかしさがどんどん増大してきています。しかし、もしかすると、僕の求める明確な答えなどハナから無かったのではないか、ここに至って、そんな風に思えてきました。「カンゼーク」の原点を求めても、そんなものは初めから存在しない。「カンゼーク」という言葉は、廃藩置県以後の大きな変化の中で生まれてきた、比較的新しい言葉なのではないか。「金細工」と書いて「カンゼーク」と読むのは、元来のウチナーグチでは考えにくいけれど、大和の感覚を通すと、「クガニゼーク」より、一見自然で、かつ沖縄風に聞こえてきます。
さて、この僕の推測は正しいのかどうか、まだ調べる本もある、聞ける人もいます。
もう少し、「カンゼーク」の影を、追ってみようと思っています。
tag: 金細工 「クガニゼーク」のこと 沖縄の旅_2009年11月
2009年11月20日(金)22時42分
恒例、大城立裕先生宅訪問
夏からずっと楽しみにしていた「さかさま執心鐘入」、いよいよ明日ですね。
特に何か用事があったわけではないのですが、ちょいとご挨拶に伺いました。
お馴染みの大城立裕先生宅です。

最近、親子みたいです。用が無くたって教えて頂きたいことがたくさんあります。
まずは「クガニゼーク」と「カンゼーク」のこと。「クガニゼーク」のことは、はっきりしてきました。それは「クガニゼーク」が首里王朝に関わっていて、少なからず資料が残っているからです。でも今の僕が知りたいのは「カンゼーク」のことです。残念ながら大城立裕先生でも、はっきりしたことはお分かりにはなりませんでした。
立裕先生は書斎からこんな本を持って来られました。
「琉球舞踊歌劇地謡全集」です。(画像はM.A.P.所蔵本)

この地謡全集の40ページに、懸案の雑踊り「金細工(かんぜーく)」の歌詞が載っているのです。

(※雑踊り「金細工(かんぜーくー)」については、過去記事に説明がありますので、どうぞそちらをお読みください。⇒http://lince.jp/hito/okinawa/kogane…)
雑踊り「金細工」は明治18年に創作されたものです。
(※沖縄の廃藩置県、いわゆる「琉球処分」が明治12年ですから、首里城が明け渡されて6年後の作。「琉球処分」について⇒http://lince.jp/hito/arumise…)
その地謡には、「金細工」と「鍛冶屋」(「かんじやえ」とルビが振られている)と、両方の言葉が出てきます。このことは、立裕先生も認識してはいらっしゃらなかったようです。
「伊波の金細工の加那阿兄」と「上泊鍛冶屋」。
沖縄県の運営する情報サイト「Wonder沖縄」では、それぞれ「美里村伊波の鍛冶屋の加那兄」と「上泊の鍛冶屋」と訳しています。人を指す場合と、仕事場を指す場合と、そんな区別がされているような感じです。
加那兄は、親譲りの「鞴(ふうち)」と「金具(かなぐ)」を売って辻遊廓の遊女の揚げ代を工面しようとします。「鞴」は「ふいご(吹子)」で、溶けて真っ赤になった鉄に風を送り続けて、その温度を1400℃以上に保つために必要な道具です。また「金具」のほうは、前出の「Wonder沖縄」では、「かなとこ」と訳されています。「かなとこ」を漢字で書くと「金床」で、すなわち鍛冶や金属加工を行う際に用いる作業台のことです。
果たして、遊女の真牛(モーシー)は、遊郭でジーファーを挿し、房指輪をつけて踊っていたのかどうか、加那兄は真牛に結び指輪を作ってやったことがあるのかどうか。
ところで、そもそも琉球舞踊ってなんなんだろう。琉球舞踊の現状についてはちょっと書いたことがあるし、岡本太郎の能書きも知ってはいます。でも基本的な成り立ちと変遷については、よく知らなかったなあと反省。そこで、まずはそれを調べてみよう。ということで、「カンゼーク」については、本日ココまでということに。(※琉球舞踊についての勉強成果は本記事の後ろに追加してあります。)
今日は、もうひとつ大城立裕先生に聞きたいことがありました。
船津好明さんが考案した新沖縄文字のこと。船津さんは大城立裕氏について、いつもこうおっしゃっていました。
「大城さんはウチナーグチはなくなってもいいという考えで、僕のやっていることには批判的だと思う」
しかし僕は決してそんなことは無いと思うのです。大城立裕という文学者は、その文学活動の当初から、沖縄の言葉に対して深い思いを持っていたのだと思う。ただ時代が、大城立裕の内面の襞を見なかったのです。船津さんも、大城立裕の一面だけを見て判断していらっしゃるのではないだろうか。たとえ大城さんが、ウチナーグチはなくなっていいと船津さんに言われたのだとしても、本意はそう単純なことではなかったはずだと、大城立裕の仕事を知れば知るほど、僕はそう思うのです。
でも、新沖縄文字についてはどうだろう。立裕先生は「おもろ」などの古典的表記にも造詣が深い。そういう方にとって、船津さんの新しい文字はどういうふうに受け止められるのだろうか。
そこで僕は、思い切って、この旅の始めに西岡敏先生に語ったのと同じことを、ウチナーグチを殆ど分からない者が学ぶのに、新沖縄文字が如何に有効なアイテムであるかということを、大城先生に説明してみたのです。
⇒沖縄国際大学の西岡ゼミの研究室に伺った時の記事
すると、大城立裕先生は即座にこう答えられました。
「なるほど、そういうふうには考えたことはなかったなあ」
この反応には驚きました。こんな若造の言うことを、とてもニュートラルに受け入れてくださった。その柔軟さに、大城立裕という文学者の、物事を極めて多面的に捉えるあり方の根本を見たような気がしたのでした。
「大城立裕」は、その一面だけしか見ない多くの論者たちから、ずっと誤解されているのかもしれません。
大城立裕先生。今日はありがとうございました。
また明日、浦添の劇場でお会いしたいと思います。
《追伸》
2001年8月に出版された『琉球楽劇集真珠道』の「口上」で、大城立裕氏は次のように書いています。
(画像再掲:関連記事⇒http://lince.jp/hito/sinsaku…)

「書く動機になったのは、琉球語(うちなーぐち)のネイティヴ・スピーカー(日本とのバイリンガル)として、組踊りの書けるおよそ最後の世代ではないか、という自覚によるもので、ほとんど責任感に発しています。」
「古典を読みなおしてみたら、あらためて自分の語彙の貧しさを嘆いています。」
また「凡例」では
「歴史的仮名遣いは『沖縄語辞典』『沖縄古語大辞典』『琉歌古語辞典』に多くを負ったが、拗音、音便などについては、現代仮名遣いに拠ったり、さらにたとえば『召しおわれ』を『召しょうれ』とするなど、若年読者のための配慮である。」とあり、さらにローマ字表記についての説明では、沖縄的音韻にも、正確を期す配慮がなされていることがわかります。(※表記についての興味深いあとがきについては、少し長いので、後日あらためて。)
特に何か用事があったわけではないのですが、ちょいとご挨拶に伺いました。
お馴染みの大城立裕先生宅です。
最近、親子みたいです。用が無くたって教えて頂きたいことがたくさんあります。
まずは「クガニゼーク」と「カンゼーク」のこと。「クガニゼーク」のことは、はっきりしてきました。それは「クガニゼーク」が首里王朝に関わっていて、少なからず資料が残っているからです。でも今の僕が知りたいのは「カンゼーク」のことです。残念ながら大城立裕先生でも、はっきりしたことはお分かりにはなりませんでした。
立裕先生は書斎からこんな本を持って来られました。
「琉球舞踊歌劇地謡全集」です。(画像はM.A.P.所蔵本)
この本には、こんな写真も掲載されています。

昨夜も一緒だった関りえ子さん。
「黒島口説(くるしまくどき)」というコメント付き。
昨夜も一緒だった関りえ子さん。
「黒島口説(くるしまくどき)」というコメント付き。
この地謡全集の40ページに、懸案の雑踊り「金細工(かんぜーく)」の歌詞が載っているのです。
(※雑踊り「金細工(かんぜーくー)」については、過去記事に説明がありますので、どうぞそちらをお読みください。⇒http://lince.jp/hito/okinawa/kogane…)
雑踊り「金細工」は明治18年に創作されたものです。
(※沖縄の廃藩置県、いわゆる「琉球処分」が明治12年ですから、首里城が明け渡されて6年後の作。「琉球処分」について⇒http://lince.jp/hito/arumise…)
その地謡には、「金細工」と「鍛冶屋」(「かんじやえ」とルビが振られている)と、両方の言葉が出てきます。このことは、立裕先生も認識してはいらっしゃらなかったようです。
「伊波の金細工の加那阿兄」と「上泊鍛冶屋」。
沖縄県の運営する情報サイト「Wonder沖縄」では、それぞれ「美里村伊波の鍛冶屋の加那兄」と「上泊の鍛冶屋」と訳しています。人を指す場合と、仕事場を指す場合と、そんな区別がされているような感じです。
加那兄は、親譲りの「鞴(ふうち)」と「金具(かなぐ)」を売って辻遊廓の遊女の揚げ代を工面しようとします。「鞴」は「ふいご(吹子)」で、溶けて真っ赤になった鉄に風を送り続けて、その温度を1400℃以上に保つために必要な道具です。また「金具」のほうは、前出の「Wonder沖縄」では、「かなとこ」と訳されています。「かなとこ」を漢字で書くと「金床」で、すなわち鍛冶や金属加工を行う際に用いる作業台のことです。
果たして、遊女の真牛(モーシー)は、遊郭でジーファーを挿し、房指輪をつけて踊っていたのかどうか、加那兄は真牛に結び指輪を作ってやったことがあるのかどうか。
ところで、そもそも琉球舞踊ってなんなんだろう。琉球舞踊の現状についてはちょっと書いたことがあるし、岡本太郎の能書きも知ってはいます。でも基本的な成り立ちと変遷については、よく知らなかったなあと反省。そこで、まずはそれを調べてみよう。ということで、「カンゼーク」については、本日ココまでということに。(※琉球舞踊についての勉強成果は本記事の後ろに追加してあります。)
今日は、もうひとつ大城立裕先生に聞きたいことがありました。
船津好明さんが考案した新沖縄文字のこと。船津さんは大城立裕氏について、いつもこうおっしゃっていました。
「大城さんはウチナーグチはなくなってもいいという考えで、僕のやっていることには批判的だと思う」
しかし僕は決してそんなことは無いと思うのです。大城立裕という文学者は、その文学活動の当初から、沖縄の言葉に対して深い思いを持っていたのだと思う。ただ時代が、大城立裕の内面の襞を見なかったのです。船津さんも、大城立裕の一面だけを見て判断していらっしゃるのではないだろうか。たとえ大城さんが、ウチナーグチはなくなっていいと船津さんに言われたのだとしても、本意はそう単純なことではなかったはずだと、大城立裕の仕事を知れば知るほど、僕はそう思うのです。
でも、新沖縄文字についてはどうだろう。立裕先生は「おもろ」などの古典的表記にも造詣が深い。そういう方にとって、船津さんの新しい文字はどういうふうに受け止められるのだろうか。
そこで僕は、思い切って、この旅の始めに西岡敏先生に語ったのと同じことを、ウチナーグチを殆ど分からない者が学ぶのに、新沖縄文字が如何に有効なアイテムであるかということを、大城先生に説明してみたのです。
⇒沖縄国際大学の西岡ゼミの研究室に伺った時の記事
すると、大城立裕先生は即座にこう答えられました。
「なるほど、そういうふうには考えたことはなかったなあ」
この反応には驚きました。こんな若造の言うことを、とてもニュートラルに受け入れてくださった。その柔軟さに、大城立裕という文学者の、物事を極めて多面的に捉えるあり方の根本を見たような気がしたのでした。
「大城立裕」は、その一面だけしか見ない多くの論者たちから、ずっと誤解されているのかもしれません。
大城立裕先生。今日はありがとうございました。
また明日、浦添の劇場でお会いしたいと思います。
《追伸》
2001年8月に出版された『琉球楽劇集真珠道』の「口上」で、大城立裕氏は次のように書いています。
(画像再掲:関連記事⇒http://lince.jp/hito/sinsaku…)
「書く動機になったのは、琉球語(うちなーぐち)のネイティヴ・スピーカー(日本とのバイリンガル)として、組踊りの書けるおよそ最後の世代ではないか、という自覚によるもので、ほとんど責任感に発しています。」
「古典を読みなおしてみたら、あらためて自分の語彙の貧しさを嘆いています。」
また「凡例」では
「歴史的仮名遣いは『沖縄語辞典』『沖縄古語大辞典』『琉歌古語辞典』に多くを負ったが、拗音、音便などについては、現代仮名遣いに拠ったり、さらにたとえば『召しおわれ』を『召しょうれ』とするなど、若年読者のための配慮である。」とあり、さらにローマ字表記についての説明では、沖縄的音韻にも、正確を期す配慮がなされていることがわかります。(※表記についての興味深いあとがきについては、少し長いので、後日あらためて。)
tag: 沖縄大百科事典 新沖縄文字 金細工 金細工(舞踊) 新作組踊 沖縄の旅_2009年11月 大城立裕 沖縄の遊郭
2009年11月19日(木)15時00分
南風原文化センターを見下ろす黄金森
「クガニゼーク」と「カンゼーク」のことを伺おうと、文化担当の平良さんという女性にお会いするために南風原町役場を訪ねたのは、一昨日の17日のことでした。
その日は組踊りの稽古を見学させていただいていたのですが、途中ちょっと抜けて、そこから500mほどのところにある役場まで歩いていきました。
案内所で伺うと平良さんは南風原文化センターにいらっしゃるとのこと。その文化センターは役場の隣にあったのですが、最近さらに500mほど先に移転したらしい。
「歩いて行かれるのですか」
もちろん歩きますとも。どうぞご心配なく。沖縄の人はほんとに歩かない。
新しい文化センターは旧陸軍病院壕跡のすぐそばにありました。

大きな地図で見る
東京で電話した時、親切に対応してくださった学芸員の平良次子さんに、あらためてお話しを伺う事ができました。
⇒まず電話で聞いた話の内容(11/14日の記事)を読む
残念ながら特に新しいお話しは出てこなかったのですが、それだけに電話でも精一杯の対応をしてくださったのだということがよくわかったのです。
さらに平良さんはその電話の後、金細工について詳しい方にわざわざ聞いてもくださったようで、ただ「カンゼーク」についてはやはりよくわからない、また「クガニゼーク」に「黄金細工」という文字をあてたのは、南風原文化センターで開催された「黄金細工と鍛冶屋展」以外にはないということを教えてくださいました。
今回の旅のテーマのひとつである「クガニゼーク」について、南風原文化センターで聞くことはもうありません。それなのに今日再度訪れたのには、ふたつのわけがあったのです。
そのひとつは、一昨日は時間がなくて見ることができなかった常設展を、どうしても見学したいと思ったからです。
「御真影」と「教育勅語」を保管する奉安殿のこと。
「慰安所」で「慰安婦」にされたのは、辻の女性(今回の旅の隠されたテーマ)であったということ。
「沖縄語を以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」の命令。新垣弓太郎が妻の墓に刻んだ「妻タガ子 日兵逆殺」という文字のこと。
南風原の、ある地域のこと。
一人でも戦死者が出た家79.9%
一家全滅した家17.6%
思った通り、細やかでじっくり練られたたいへん見ごたえのある展示でした。沖縄へ来て、とりあえず「ひめゆり」だけは押さえて、ついでにお土産屋さんをウロウロするというのもいいけれど、是非ともこの南風原文化センターと、裏の黄金森(クガニムイ)にある旧陸軍病院壕跡へ行くというコースを検討してみることをお勧めしたいと思います。
南風原町史第3巻「南風原が語る沖縄戦」

1,000円は破格に安い。
「行政のやることですから利益を出してはいけません。印刷代を回収しようとも思っていません。皆さんに知って戴くことが重要なのですから」
「黄金森」です。

あのナゲーラ壕も、ここ南風原と那覇の間にあるのです。

あの宮城巳知子さんの、ずいせん学徒隊の辿った道なのです。
⇒ナゲーラ壕に行った時の記事
そして、南風原文化センターを訪れたもうひとつの理由。それはここ南風原が、“琉球絣のふるさと”だということ。でもこれは、今日のところはミステリーということにしておきたいと思います。
平良次子さんと記念撮影。

(撮影:高山正樹)
病院壕跡への入口。

黄金森は、実に穏やかに佇んでいたのです。
その日は組踊りの稽古を見学させていただいていたのですが、途中ちょっと抜けて、そこから500mほどのところにある役場まで歩いていきました。
案内所で伺うと平良さんは南風原文化センターにいらっしゃるとのこと。その文化センターは役場の隣にあったのですが、最近さらに500mほど先に移転したらしい。
「歩いて行かれるのですか」
もちろん歩きますとも。どうぞご心配なく。沖縄の人はほんとに歩かない。
新しい文化センターは旧陸軍病院壕跡のすぐそばにありました。

大きな地図で見る
東京で電話した時、親切に対応してくださった学芸員の平良次子さんに、あらためてお話しを伺う事ができました。
⇒まず電話で聞いた話の内容(11/14日の記事)を読む
残念ながら特に新しいお話しは出てこなかったのですが、それだけに電話でも精一杯の対応をしてくださったのだということがよくわかったのです。
さらに平良さんはその電話の後、金細工について詳しい方にわざわざ聞いてもくださったようで、ただ「カンゼーク」についてはやはりよくわからない、また「クガニゼーク」に「黄金細工」という文字をあてたのは、南風原文化センターで開催された「黄金細工と鍛冶屋展」以外にはないということを教えてくださいました。
今回の旅のテーマのひとつである「クガニゼーク」について、南風原文化センターで聞くことはもうありません。それなのに今日再度訪れたのには、ふたつのわけがあったのです。
そのひとつは、一昨日は時間がなくて見ることができなかった常設展を、どうしても見学したいと思ったからです。
「御真影」と「教育勅語」を保管する奉安殿のこと。
「慰安所」で「慰安婦」にされたのは、辻の女性(今回の旅の隠されたテーマ)であったということ。
「沖縄語を以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」の命令。新垣弓太郎が妻の墓に刻んだ「妻タガ子 日兵逆殺」という文字のこと。
南風原の、ある地域のこと。
一人でも戦死者が出た家79.9%
一家全滅した家17.6%
思った通り、細やかでじっくり練られたたいへん見ごたえのある展示でした。沖縄へ来て、とりあえず「ひめゆり」だけは押さえて、ついでにお土産屋さんをウロウロするというのもいいけれど、是非ともこの南風原文化センターと、裏の黄金森(クガニムイ)にある旧陸軍病院壕跡へ行くというコースを検討してみることをお勧めしたいと思います。
南風原町史第3巻「南風原が語る沖縄戦」
1,000円は破格に安い。
「行政のやることですから利益を出してはいけません。印刷代を回収しようとも思っていません。皆さんに知って戴くことが重要なのですから」
「黄金森」です。
あのナゲーラ壕も、ここ南風原と那覇の間にあるのです。
あの宮城巳知子さんの、ずいせん学徒隊の辿った道なのです。
⇒ナゲーラ壕に行った時の記事
そして、南風原文化センターを訪れたもうひとつの理由。それはここ南風原が、“琉球絣のふるさと”だということ。でもこれは、今日のところはミステリーということにしておきたいと思います。
平良次子さんと記念撮影。
(撮影:高山正樹)
病院壕跡への入口。
黄金森は、実に穏やかに佇んでいたのです。
tag: 「クガニゼーク」のこと 金細工 宮城巳知子 沖縄の旅_2009年11月 沖縄戦
2009年11月16日(月)22時14分
沖縄国際大学西岡敏ゼミ研究室【沖縄語の音韻講座、プロローグ(3)】
《高山正樹》
那覇空港到着(16:00)。新城亘さん國吉眞正さんと、ホテルのロビーで待ち合わせて、沖縄国際大学、西岡ゼミの研究室へ(18:30)。
亘さんが西岡敏准教授に繋いでくださったのです。

「ウチナーグチを守ろう」
最近の沖縄で、よく聞かれるスローガンです。
行政も動き始めているようです。あの悪名高き方言札の時代を思うと、隔世の感があります。しかし、いったいどうしたらウチナーグチをきちんと残していけるのか、なかなか困難なのです。
そのひとつに、表記の問題があります。このことについては、M.A.P.after5でも幾度か書いてきました。
⇒沖縄語を巡るフリートーク
⇒キリスト教学院の図書館へ【親富祖恵子さんのこと】
今、何人かの言語学者の方々が、それぞれの表記法を唱えていらっしゃいます。しかし、どれがいいのかの評価は定まっておらず(というより大方の人は表記問題には無頓着です)、また言語学とは関係のない人たちは、自分の喋る音を、カナを駆使してその都度書き表わしているというのが現状なのです。
例えば儀間進氏のエッセイでさえ、同じ「どぅ」という表記でも、[doo]と読むべき場合があったり、[du]だったり、[duu]だったりするのです。ウチナーグチをある程度理解している方々なら問題なく読み分けてくださるでしょう。しかし、ウチナーグチのわからないものにとっては、これは大変に困ったことです。「どぅ」という表記を自然に読むとどうなるか、漫画で自由な擬音に慣れている若者と、明治の頃の小説をたくさん読んでいらしたご年配の方とは違っているかもしれません。そういう中で、間違った発音のウチナーグチが氾濫していくという事態が起こっています。
この日、國吉眞正さんは、船津好明さんの考案された新沖縄文字が、いかに優れているかについて、精力的に語られました。このお歳で、これほど情熱を持っていらっしゃる國吉さんに、あらためて頭の下がる思いがしたのです。
M.A.P.after5でも、新沖縄文字について、ちょっとだけご報告したことがあります。
⇒うちなーぐち講座《5》【形容詞の否定】【新沖縄文字】
しかし、今までのところ、まだきちんと詳しくご紹介はしていません。それは、M.A.P.として、様々な表記法を比較検討するまでに到っていないからです。
しかしながら今日は、船津さんの考案した新沖縄文字について、率直に思っていることを語ってみたくなりました。
「僕も当初、この新しい文字に、ちょっとした違和感を感じたのです。どの音にどの表記を当てるかは単なるルールに過ぎないのだから、どんな記号を使おうとかまわないはずだ。ならば今ある仮名文字を使って、この音のときはこう書くという決まりを作ればいいだけのことではないか、その方が一般にも受け入れてもらいやすいのではないかと。でも、実際に新沖縄文字を使って教えてもらうと、仮名文字を使うよりもはるかにわかりやすいのです。それは何故なのかと考えてみました。それは、新沖縄文字は、ここでこの発音をしなさいというわかりやすい指示となっているからなのです。いつも使っている仮名文字での表現ではそうはいきません。ややもすると、沖縄特有の音韻ということが、たいへんにぼやけてしまう。
また、現状、既存の仮名文字を使ってたくさんのウチナーグチの文章が書かれていますが、それらはいったいどのルールで書かれているのか、そもそも一定の決められたルールに拠っているのか、さっぱりわからない場合が多いのです。
その点、この新沖縄文字を使うと、この音で発音せよという明確な指示を伝えることができるのです。その意味で、新沖縄文字は、ウチナーグチを学ぼうとする初心者にとっては、たいへん有効な指針となるのです。」
僕のこの素人の意見に、若き言語学者の西岡敏先生は、ありがたいことに理解を示してくださいました。
ふと見ると、研究室の壁に、M.A.P.でも販売している50音表が貼られてありました。
調子に乗って、恐れを知らぬ素人は、なおも発言を続けます。
「沖縄の音韻を理解するためには、まず日本語の50音表のいい加減さを理解することが有効だと思うんです。」
さて、ここで……
前回のウチナーグチ講座で、次回は「半母音について」と予告しましたが、せっかくなので、半母音のことをお話する前に、この際「日本語の50音表」について、ちょっと考察してみたいと思います。
というわけで……
【急遽開催!沖縄語の音韻講座、プロローグ(3)】
⇒沖縄語の音韻講座を始めから読む
仮名は、基本的には表音文字です。例えば「た」という文字は[ta]という音で読まれなければなりません。仮名1個が1個の音に、一対一で対応しています。
日本語には母音が5つあり、それぞれがすべての子音と完全に対応しているため、50音表は日本語の仮名を理解するためにはとっても便利なアイテムです……、ということになっています。

はたして、ほんとういそうなのでしょうか。正しくは、「日本語の5つの母音は、子音と完全に対応していた」と、過去形でいうべきなのです。
わたしたち日本人は、たとえば「た」と「ち」は、それぞれ同じ子音[t]に母音の[a]と[i]がくっついていると思っています。しかし実はそうではありません。「た」は[ta]ですが、「ち」は[ti]ではありません。[ti]なら、それは「てぃ」と読まれなければならないのです。現代人は「ち」を[ci]と発音している。つまり「ち」の子音は[t]ではなく[c」なのです。
しかし、古代の大和では、「ち」は「てぃ([ti])」と発音していたらしい。同様の例はたとえば「さ行」にも「は行」にも、それ以外にもたくさんあります。つまり、その頃は、今よりもずっと、50音表の整合が取れていたのだといわれているのです。しかし、その後の音韻変化によって、その音自体は変わっていったのですが、50音表は旧来の並びのまま使われ続け、結果日本語の50音表の音韻的整合性は失われていきました。
ところが、沖縄語には、この日本語では失われた音韻が、昔のまま残っているのです。「てぃ」とか「どぅ」とかがそれです。さて、そうした音を、既存の日本語の50音表に入れ込もうとしたら、どうすればいいのでしょうか。沖縄語特有の音韻のために、新しい行を付け加えればいいのでしょうか。いえいえそうではありません。まずは現行の50音表を、現在の発音(子音)の通りに並び替えてみればいいのです。そうすると、新たな50音表の中に、沖縄語特有の音韻の、納まるべき指定席のあることがわかるはずです。

※例えば、●赤丸のところには「てぃ(ti)」が入ります。
※また、このほかに、声門破裂音がらみと、j・wといった半母音がらみの新しい行が必要となります。
この新しい50音表に新沖縄文字を当てはめていけば、沖縄特有の音を、容易に理解することができるのです。
各行の詳しい説明は、後日“沖縄語の音韻講座”でお伝えしていく予定です。
⇒沖縄語の音韻講座、プロローグ(4)へ
さて、西岡ゼミの研究室に戻りましょう。
表音文字の「かな文字」について、「仮名1個が1個の音に対応している」と述べましたが、しかしこれはあくまでも基本です。例えば、「〜へ」という助詞は、[he]ではなく[e]と読まれています。というより「え」ではなく「へ」と書かなければならないというほうが正確でしょうか。また、かつては「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」と読ませたとか、「けふ」は「きょう」だった、などなど。
⇒「はべる」と「てふてふ」うちなーぐち講座《2》の2
こうしたことは、実は沖縄語にもあるのです。特に古典的な文章にそれが多い。これが沖縄語の表記の問題を、さらにややこしくしています。
また、拗音(「ちゃ」とか「ぎゅ」とか)は、1モーラ(※)でありながら大文字1個に小文字をくっつけて2文字で表わしています。(※モーラ:一定の時間的長さをもった音の分節単位。)
新沖縄文字は一音(1モーラ)につき一文字を基本としていて、「てぃ」は「て」と「ぃ」をくっつけた新しい図案の一文字で表しています。
西岡先生は、「こういう文字のことを言語学では合字というんですよ」と、世界の他の合字の例を上げて教えてくださいました。
「でも、拗音はそのまま使うんですね」
これは学者の視点だと、密かに感じたのでした。「一音一文字」ということの統一性を確保しなくてよいのか、新沖縄文字の考案者で数学者でもある船津好明さんは、これについてなんとおっしゃるのか、今度聞いてみたいなあ。
「パソコンで使える文字にするということも重要ですが、検索ということを考えた時、文字の順番も重要です。」
「パソコンの検索ですか?」
「いえ、辞書に掲載する文字の順番です。辞典などを引く時にはどうしても必要なことです。元来50音表はサンスクリットの音韻学がその起源だといわれています。その並びにも意味があるのです。新しい50音表は、是非そのあたりを考慮して作るのがいいと思いますよ」
なるほど、こういう話を聞くと腕が鳴ります。あ、これは船津先生にお任せすることですね。素人がでしゃばってはいけません。
そして、もうひとつ、忘れてはならない重要なことを西岡先生はおっしゃいました。
「首里や那覇あたりなら、この新沖縄文字で十分ですね」
西岡先生も、数年前に沖縄語の表記法を試案として考えられたことがあり、それをネットで公開していらっしゃいます。それは奄美から波照間島の音韻にまで及んでいて、並べられたその多様な音韻をあらためて眺めていると、目がクラクラしてくるのです。
⇒http://www8.ocn.ne.jp/~nisj/
結論として、言語学的に沖縄語の音韻を網羅するのならば、新沖縄文字もまだまだ改良する必要があるのかも知れないが、ウチナーグチを勉強するためのアイテムとしての有効性は、西岡先生も十分に認めてくださったようです。
実は西岡先生は、船津さんの「美しい沖縄の方言」を大切に持っていらっしゃいました。
⇒「美しい沖縄の方言」
この「美しい沖縄の方言」は、西岡先生が沖縄語の勉強を始められた時の、最初の教科書だったのだそうです。
最後に、西岡先生は、もし新沖縄語を使った書籍を出版するようなことがあれば、推薦文を書いてくださるということを快くお約束してくださいました。
「この本には思い入れがありますから」

新しい50音表が出来上がったら、またお伺いさせていただきたいと思います。
西岡先生どの。本日は、本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお願いいたします。
那覇空港到着(16:00)。新城亘さん國吉眞正さんと、ホテルのロビーで待ち合わせて、沖縄国際大学、西岡ゼミの研究室へ(18:30)。
亘さんが西岡敏准教授に繋いでくださったのです。
「ウチナーグチを守ろう」
最近の沖縄で、よく聞かれるスローガンです。
行政も動き始めているようです。あの悪名高き方言札の時代を思うと、隔世の感があります。しかし、いったいどうしたらウチナーグチをきちんと残していけるのか、なかなか困難なのです。
そのひとつに、表記の問題があります。このことについては、M.A.P.after5でも幾度か書いてきました。
⇒沖縄語を巡るフリートーク
⇒キリスト教学院の図書館へ【親富祖恵子さんのこと】
今、何人かの言語学者の方々が、それぞれの表記法を唱えていらっしゃいます。しかし、どれがいいのかの評価は定まっておらず(というより大方の人は表記問題には無頓着です)、また言語学とは関係のない人たちは、自分の喋る音を、カナを駆使してその都度書き表わしているというのが現状なのです。
例えば儀間進氏のエッセイでさえ、同じ「どぅ」という表記でも、[doo]と読むべき場合があったり、[du]だったり、[duu]だったりするのです。ウチナーグチをある程度理解している方々なら問題なく読み分けてくださるでしょう。しかし、ウチナーグチのわからないものにとっては、これは大変に困ったことです。「どぅ」という表記を自然に読むとどうなるか、漫画で自由な擬音に慣れている若者と、明治の頃の小説をたくさん読んでいらしたご年配の方とは違っているかもしれません。そういう中で、間違った発音のウチナーグチが氾濫していくという事態が起こっています。
この日、國吉眞正さんは、船津好明さんの考案された新沖縄文字が、いかに優れているかについて、精力的に語られました。このお歳で、これほど情熱を持っていらっしゃる國吉さんに、あらためて頭の下がる思いがしたのです。
M.A.P.after5でも、新沖縄文字について、ちょっとだけご報告したことがあります。
⇒うちなーぐち講座《5》【形容詞の否定】【新沖縄文字】
しかし、今までのところ、まだきちんと詳しくご紹介はしていません。それは、M.A.P.として、様々な表記法を比較検討するまでに到っていないからです。
しかしながら今日は、船津さんの考案した新沖縄文字について、率直に思っていることを語ってみたくなりました。
「僕も当初、この新しい文字に、ちょっとした違和感を感じたのです。どの音にどの表記を当てるかは単なるルールに過ぎないのだから、どんな記号を使おうとかまわないはずだ。ならば今ある仮名文字を使って、この音のときはこう書くという決まりを作ればいいだけのことではないか、その方が一般にも受け入れてもらいやすいのではないかと。でも、実際に新沖縄文字を使って教えてもらうと、仮名文字を使うよりもはるかにわかりやすいのです。それは何故なのかと考えてみました。それは、新沖縄文字は、ここでこの発音をしなさいというわかりやすい指示となっているからなのです。いつも使っている仮名文字での表現ではそうはいきません。ややもすると、沖縄特有の音韻ということが、たいへんにぼやけてしまう。
また、現状、既存の仮名文字を使ってたくさんのウチナーグチの文章が書かれていますが、それらはいったいどのルールで書かれているのか、そもそも一定の決められたルールに拠っているのか、さっぱりわからない場合が多いのです。
その点、この新沖縄文字を使うと、この音で発音せよという明確な指示を伝えることができるのです。その意味で、新沖縄文字は、ウチナーグチを学ぼうとする初心者にとっては、たいへん有効な指針となるのです。」
僕のこの素人の意見に、若き言語学者の西岡敏先生は、ありがたいことに理解を示してくださいました。
ふと見ると、研究室の壁に、M.A.P.でも販売している50音表が貼られてありました。
調子に乗って、恐れを知らぬ素人は、なおも発言を続けます。
「沖縄の音韻を理解するためには、まず日本語の50音表のいい加減さを理解することが有効だと思うんです。」
さて、ここで……
前回のウチナーグチ講座で、次回は「半母音について」と予告しましたが、せっかくなので、半母音のことをお話する前に、この際「日本語の50音表」について、ちょっと考察してみたいと思います。
というわけで……
【急遽開催!沖縄語の音韻講座、プロローグ(3)】
⇒沖縄語の音韻講座を始めから読む
仮名は、基本的には表音文字です。例えば「た」という文字は[ta]という音で読まれなければなりません。仮名1個が1個の音に、一対一で対応しています。
日本語には母音が5つあり、それぞれがすべての子音と完全に対応しているため、50音表は日本語の仮名を理解するためにはとっても便利なアイテムです……、ということになっています。

はたして、ほんとういそうなのでしょうか。正しくは、「日本語の5つの母音は、子音と完全に対応していた」と、過去形でいうべきなのです。
わたしたち日本人は、たとえば「た」と「ち」は、それぞれ同じ子音[t]に母音の[a]と[i]がくっついていると思っています。しかし実はそうではありません。「た」は[ta]ですが、「ち」は[ti]ではありません。[ti]なら、それは「てぃ」と読まれなければならないのです。現代人は「ち」を[ci]と発音している。つまり「ち」の子音は[t]ではなく[c」なのです。
しかし、古代の大和では、「ち」は「てぃ([ti])」と発音していたらしい。同様の例はたとえば「さ行」にも「は行」にも、それ以外にもたくさんあります。つまり、その頃は、今よりもずっと、50音表の整合が取れていたのだといわれているのです。しかし、その後の音韻変化によって、その音自体は変わっていったのですが、50音表は旧来の並びのまま使われ続け、結果日本語の50音表の音韻的整合性は失われていきました。
ところが、沖縄語には、この日本語では失われた音韻が、昔のまま残っているのです。「てぃ」とか「どぅ」とかがそれです。さて、そうした音を、既存の日本語の50音表に入れ込もうとしたら、どうすればいいのでしょうか。沖縄語特有の音韻のために、新しい行を付け加えればいいのでしょうか。いえいえそうではありません。まずは現行の50音表を、現在の発音(子音)の通りに並び替えてみればいいのです。そうすると、新たな50音表の中に、沖縄語特有の音韻の、納まるべき指定席のあることがわかるはずです。

※例えば、●赤丸のところには「てぃ(ti)」が入ります。
※また、このほかに、声門破裂音がらみと、j・wといった半母音がらみの新しい行が必要となります。
この新しい50音表に新沖縄文字を当てはめていけば、沖縄特有の音を、容易に理解することができるのです。
各行の詳しい説明は、後日“沖縄語の音韻講座”でお伝えしていく予定です。
⇒沖縄語の音韻講座、プロローグ(4)へ
さて、西岡ゼミの研究室に戻りましょう。
表音文字の「かな文字」について、「仮名1個が1個の音に対応している」と述べましたが、しかしこれはあくまでも基本です。例えば、「〜へ」という助詞は、[he]ではなく[e]と読まれています。というより「え」ではなく「へ」と書かなければならないというほうが正確でしょうか。また、かつては「てふてふ」と書いて「ちょうちょう」と読ませたとか、「けふ」は「きょう」だった、などなど。
⇒「はべる」と「てふてふ」うちなーぐち講座《2》の2
こうしたことは、実は沖縄語にもあるのです。特に古典的な文章にそれが多い。これが沖縄語の表記の問題を、さらにややこしくしています。
また、拗音(「ちゃ」とか「ぎゅ」とか)は、1モーラ(※)でありながら大文字1個に小文字をくっつけて2文字で表わしています。(※モーラ:一定の時間的長さをもった音の分節単位。)
新沖縄文字は一音(1モーラ)につき一文字を基本としていて、「てぃ」は「て」と「ぃ」をくっつけた新しい図案の一文字で表しています。
「でも、拗音はそのまま使うんですね」
これは学者の視点だと、密かに感じたのでした。「一音一文字」ということの統一性を確保しなくてよいのか、新沖縄文字の考案者で数学者でもある船津好明さんは、これについてなんとおっしゃるのか、今度聞いてみたいなあ。
「パソコンで使える文字にするということも重要ですが、検索ということを考えた時、文字の順番も重要です。」
「パソコンの検索ですか?」
「いえ、辞書に掲載する文字の順番です。辞典などを引く時にはどうしても必要なことです。元来50音表はサンスクリットの音韻学がその起源だといわれています。その並びにも意味があるのです。新しい50音表は、是非そのあたりを考慮して作るのがいいと思いますよ」
なるほど、こういう話を聞くと腕が鳴ります。あ、これは船津先生にお任せすることですね。素人がでしゃばってはいけません。
そして、もうひとつ、忘れてはならない重要なことを西岡先生はおっしゃいました。
「首里や那覇あたりなら、この新沖縄文字で十分ですね」
西岡先生も、数年前に沖縄語の表記法を試案として考えられたことがあり、それをネットで公開していらっしゃいます。それは奄美から波照間島の音韻にまで及んでいて、並べられたその多様な音韻をあらためて眺めていると、目がクラクラしてくるのです。
⇒http://www8.ocn.ne.jp/~nisj/
結論として、言語学的に沖縄語の音韻を網羅するのならば、新沖縄文字もまだまだ改良する必要があるのかも知れないが、ウチナーグチを勉強するためのアイテムとしての有効性は、西岡先生も十分に認めてくださったようです。
実は西岡先生は、船津さんの「美しい沖縄の方言」を大切に持っていらっしゃいました。
⇒「美しい沖縄の方言」
この「美しい沖縄の方言」は、西岡先生が沖縄語の勉強を始められた時の、最初の教科書だったのだそうです。
最後に、西岡先生は、もし新沖縄語を使った書籍を出版するようなことがあれば、推薦文を書いてくださるということを快くお約束してくださいました。
「この本には思い入れがありますから」
新しい50音表が出来上がったら、またお伺いさせていただきたいと思います。
西岡先生どの。本日は、本当にありがとうございました。今後とも、よろしくお願いいたします。
(文責:高山正樹)
2009年11月14日(土)16時55分
又吉健次郎の「黄金細工」とは
ことの発端はmixiとやらなのです。まず、下記記事をお読みください。
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog1233…
この後、コメントが付いた。どうして「くがにぜーく」が正しいなどと簡単に言えるのかというような主旨。
確かに、健次郎さんから頂いた名刺も、工房の看板も、「金細工」には「かんぜーく」のルビが振ってあった。健次郎さんの愛犬“カン吉”は、「かんぜーく」の「カン」と又吉の「吉」をとって健次郎さんが名づけたというくらいですから、「かんぜーく」が間違いだなんて、他人が簡単にとやかく言うことではない、それはその通りでしょう。
しかし、少しでも調べて素直に考えれば、やっぱり健次郎さんがやられている今現在の仕事は、「くがにぜーく」としかいいようのないものです。健次郎さん御自身も、そう認識されたということなのだと思います。健次郎さんはやはり「くがにぜーく」である、現時点で僕の知っている資料からは、そう結論するしかありません。
しかし、一方で「かんぜーく」と名乗った人たち、そう呼ばれた人たちの存在を否定するものでもありません。むしろそういう人たちがいたのならば、とっても知りたくなってきたのです。
さて、どうやって調べたらいいのだろう。
インターネットあたりで又吉健次郎さんを「かんぜーく」と呼ぶ人たちにそれを聞いても、わかるはずもありません。
そこで……
2002年に、南風原文化センターで「匠の技にふれる 黄金細工と鍛冶屋展」という企画展が開かれました。その「黄金細工」と「鍛冶屋」には、それぞれ「くがにぜーく」と「かんじゃーやー」とルビが振られてありました。しかし、僕の知る限り、「くがにぜーく」は「金細工」という表記でいいはずです。それを「黄金細工」としたことについて是非知りたいと思いました。
そしてこういうことに詳しい方がいれば、「かんぜーく」についてもはっきり説明してもらえるかもしれません。なぜ、又吉健次郎は「かんぜーく」ではなく「くがにぜーく」なのか。
話しをちょっと戻します。沖縄の言葉において、漢字とルビの関係は、とても難しいものがあります。元々ある言葉に漢字を当てたのか、最初に漢字があってその読み方を仮名で表記しているのか、それを見極めないと、関連する歴史そのものを間違えてしまうこともあるのです。
南風原の企画展において、なぜ「くがにぜーく」という言葉に「黄金細工」という文字を当てたのか、元々「黄金細工」という文字が何かの資料にあるのだろうか。
昨日の11月13日、東京から直接南風原役場に電話をして伺いました。

対応してくださった平良さんという文化担当の女性の方は、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てた理由について、次のように答えくださいました。
1:「かんぜーく」とはっきり区別するため。
2:2002年当時、くがにぜーくに携わっていらっしゃる方は、もう又吉健次郎さんのお一人しかいらっしゃらなくなっていた。その貴重であるということを表現するために、色々みんなで相談して「黄金」という字をあてたと記憶している。
3:また南風原町には有名な黄金森(くがにむい)があり、住んでいる方々は「こがね=くがに」といえば、自然に「黄金」という字を想い起こすという事情があった。
要するに、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てたのだが、それには、何か歴史的学問的な事例に基づいた理由があったというわけではなさそうです。
さて、聞きたいのはここから先です。又吉さんのような飾り職人を、「かんぜーく」と呼んでいた歴史的な事実はないか、例えば健次郎さんの先代のころはどうだったのかろうか、僕はしつこく聞きました。平良さんは、それにも大変丁寧に答えてくださいました。
「多分、飾り職人のご本人は、ご自分のことを『くがにぜーく』とおっしゃることはないと思うのです。また周りの人たちは、飾り職人の方々を『かんぜーく』とは呼ばないでしょう。尊敬を込めて『くがにぜーく』と呼んでいたのだと思います。」
健次郎さんに電話をしました。
健次郎さんは、お父様が「くがにぜーく」とも「かんぜーく」とも口にされたことを聞いたことがないそうです。ただ王府に「くがにぜーく奉行」というものがあって、首里にはその職人町があった。その流れであることには間違いはないとおっしゃいました。
最近、県の金工部門の人にも「くがにぜーく」にしなさいと強く言われたそうです。
今、県内に「くがにぜーく」と書かれた史跡はひとつも残っていない。このままだと、50年たったら「くがにぜーく」という言葉は無くなってしまう。「くがにぜーく」を受け継ぐ者として、それでいいのか、なんとかしなければいけないという思いが強くなったのだと健次郎さん。
又吉健次郎さんは、受け継ぐ者が自分ひとりになった時、皮肉にもそれがひとりだけのものではないということに気が付いたということなのでしょう。なんとかしなければいけない、その決意には、謙虚な気持ちで自分のことを「クガニゼーク」とは呼ばずに「カンゼーク」と名乗る、などというような、ナイーブな個人的な心情の入り込む余地は、最早ないのではないかと、僕には感じられたのです。
平良さんは、金細工を研究している詳しい方がいらっしゃるので、聞いてくださるとのこと、来週から沖縄へ行くので、是非ともお伺いしようと心に決めたのでした。
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog1233…
この後、コメントが付いた。どうして「くがにぜーく」が正しいなどと簡単に言えるのかというような主旨。
確かに、健次郎さんから頂いた名刺も、工房の看板も、「金細工」には「かんぜーく」のルビが振ってあった。健次郎さんの愛犬“カン吉”は、「かんぜーく」の「カン」と又吉の「吉」をとって健次郎さんが名づけたというくらいですから、「かんぜーく」が間違いだなんて、他人が簡単にとやかく言うことではない、それはその通りでしょう。
しかし、少しでも調べて素直に考えれば、やっぱり健次郎さんがやられている今現在の仕事は、「くがにぜーく」としかいいようのないものです。健次郎さん御自身も、そう認識されたということなのだと思います。健次郎さんはやはり「くがにぜーく」である、現時点で僕の知っている資料からは、そう結論するしかありません。
しかし、一方で「かんぜーく」と名乗った人たち、そう呼ばれた人たちの存在を否定するものでもありません。むしろそういう人たちがいたのならば、とっても知りたくなってきたのです。
さて、どうやって調べたらいいのだろう。
インターネットあたりで又吉健次郎さんを「かんぜーく」と呼ぶ人たちにそれを聞いても、わかるはずもありません。
そこで……
2002年に、南風原文化センターで「匠の技にふれる 黄金細工と鍛冶屋展」という企画展が開かれました。その「黄金細工」と「鍛冶屋」には、それぞれ「くがにぜーく」と「かんじゃーやー」とルビが振られてありました。しかし、僕の知る限り、「くがにぜーく」は「金細工」という表記でいいはずです。それを「黄金細工」としたことについて是非知りたいと思いました。
そしてこういうことに詳しい方がいれば、「かんぜーく」についてもはっきり説明してもらえるかもしれません。なぜ、又吉健次郎は「かんぜーく」ではなく「くがにぜーく」なのか。
話しをちょっと戻します。沖縄の言葉において、漢字とルビの関係は、とても難しいものがあります。元々ある言葉に漢字を当てたのか、最初に漢字があってその読み方を仮名で表記しているのか、それを見極めないと、関連する歴史そのものを間違えてしまうこともあるのです。
南風原の企画展において、なぜ「くがにぜーく」という言葉に「黄金細工」という文字を当てたのか、元々「黄金細工」という文字が何かの資料にあるのだろうか。
昨日の11月13日、東京から直接南風原役場に電話をして伺いました。
対応してくださった平良さんという文化担当の女性の方は、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てた理由について、次のように答えくださいました。
1:「かんぜーく」とはっきり区別するため。
2:2002年当時、くがにぜーくに携わっていらっしゃる方は、もう又吉健次郎さんのお一人しかいらっしゃらなくなっていた。その貴重であるということを表現するために、色々みんなで相談して「黄金」という字をあてたと記憶している。
3:また南風原町には有名な黄金森(くがにむい)があり、住んでいる方々は「こがね=くがに」といえば、自然に「黄金」という字を想い起こすという事情があった。
要するに、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てたのだが、それには、何か歴史的学問的な事例に基づいた理由があったというわけではなさそうです。
さて、聞きたいのはここから先です。又吉さんのような飾り職人を、「かんぜーく」と呼んでいた歴史的な事実はないか、例えば健次郎さんの先代のころはどうだったのかろうか、僕はしつこく聞きました。平良さんは、それにも大変丁寧に答えてくださいました。
「多分、飾り職人のご本人は、ご自分のことを『くがにぜーく』とおっしゃることはないと思うのです。また周りの人たちは、飾り職人の方々を『かんぜーく』とは呼ばないでしょう。尊敬を込めて『くがにぜーく』と呼んでいたのだと思います。」
健次郎さんに電話をしました。
健次郎さんは、お父様が「くがにぜーく」とも「かんぜーく」とも口にされたことを聞いたことがないそうです。ただ王府に「くがにぜーく奉行」というものがあって、首里にはその職人町があった。その流れであることには間違いはないとおっしゃいました。
最近、県の金工部門の人にも「くがにぜーく」にしなさいと強く言われたそうです。
今、県内に「くがにぜーく」と書かれた史跡はひとつも残っていない。このままだと、50年たったら「くがにぜーく」という言葉は無くなってしまう。「くがにぜーく」を受け継ぐ者として、それでいいのか、なんとかしなければいけないという思いが強くなったのだと健次郎さん。
又吉健次郎さんは、受け継ぐ者が自分ひとりになった時、皮肉にもそれがひとりだけのものではないということに気が付いたということなのでしょう。なんとかしなければいけない、その決意には、謙虚な気持ちで自分のことを「クガニゼーク」とは呼ばずに「カンゼーク」と名乗る、などというような、ナイーブな個人的な心情の入り込む余地は、最早ないのではないかと、僕には感じられたのです。
平良さんは、金細工を研究している詳しい方がいらっしゃるので、聞いてくださるとのこと、来週から沖縄へ行くので、是非ともお伺いしようと心に決めたのでした。
(文責:高山正樹)
2009年09月11日(金)23時18分
やっとアップしました《出発前に告知したかった記事》
本日最後の合わせ。

明日朝早く、津山へ発ちます。
その前に諸々いくつか告知しておきたいことがいくつか、でも時間がなくて間に合いませんでした。
後日追記します。
行ってきます。
【告知追記その1(9/14)】
延期になっていた東放学園の実習公演“無伴奏デクノボー奏鳴曲”ですが、新しい期日が決定しました。10月20日(火)と21日(水)です。正式な開演時間は未定ですが、ソワレです。
場所も変わらず、京王線府中駅前のグリーンプラザ府中けやきホールです。
当然、お芝居の内容に変更はありません。
最初の告知記事をご参考に。
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-1121.html
時間等、最終決定しましたら、あらためてご案内します。
【告知追記その2(9/15)】
森山さんの石鹸について、こんなことをお知らせしていましたが…
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-1124.html
新しい石鹸開発中なのです。

色々と試行錯誤しながら、一歩一歩さらに良いものを目指しています。つきましては現在販売中の石鹸を皆様に使っていただき、その御感想などを参考にして、新商品開発に役立てたいと考えています。
そこで楽天市場の沖縄mapでモニターを募集しました。
⇒沖縄mapの「石鹸」のページ※販売終了
ところがここでの告知が遅れて、もうモニター募集が締め切りになっちゃいました。ごめんなさい。なんと1000名という方から申し込みがあり、25名が当選となりました。楽天市場恐るべしです。第2次もあるらしい。担当は上原です。
【告知追記その3(9/16)】
沖縄から、こんな雑誌が届きました。

琉球新報社が出している情報誌「うない」の9・10月号です。
その中の記事を、いくつかご紹介したいと思います。
まず、9・10月号のメインの特集は又吉健次郎さんなのです。
特集:沖縄の伝統工芸「琉球王朝時代の金細工を未来へつなぐ」

先日、又吉健次郎さんの房指輪の謎解きをしましたが、この記事でも「金細工」にはきちんと「くがにぜーく」とルビが振ってありました。
そればかりではありません。この雑誌では房指輪の説明もされているのですが、そこには次のように書かれてあります。
「又吉さんによると、灯明は石榴(ざくろ)、鳩は桃という説もあるとか。石榴は子孫繁栄を意味する縁起物ですし、桃は、中国では古くから長寿の象徴でもあるそうです」

なんともうれしい限りではありませんか。高山正樹のちょっとした疑問が、こういう形で結実したのですから。ちょっと、大げさかなあ。
⇒ことの発端
⇒又吉健次郎さんの房指輪の謎解き
それから加藤登紀子さんの記事を見つけました。加藤登紀子さんは高山正樹の高校の先輩なのですが、へえ、おときさんの娘さん、沖縄に住んでいらっしゃるんですねえ。
ついでに、おときさんの沖縄関連イベントがあるようで、そのちょっとしたご案内です。
Peace Music Festa!’09 from 宜野湾 わったー地球(しま)はわったーが守る
日時:2009年 9月 21日(月曜・祝日)開演 12:00/終演 21:00
⇒http://peacemusic.ti-da.net…
そして三つ目は本の紹介記事です。

平田大一「シマとの対話【琉球メッセージ】」
この平田大一さんは沖縄ではちょっと名の知れた詩人・演出家ですが、宇夫方隆士さんのお友達で、隆士氏が自作の詩を朗読した映像作品、「一瞬のコーヒー」で、笛を吹いてくださっているのです。
⇒「一瞬のコーヒー」のページへ
そして平田大一さんは、今こんなことをやっています。
現代版組踊「翔べ!尚巴志」
⇒http://showthestage.ti-da…
こちらもインフルエンザで延期になったらしいです。
それから、高山正樹の書斎の本棚にこんな本がありました。

他にもまだ告知したいことがあったのですが、今日のところはこの辺で。
明日朝早く、津山へ発ちます。
その前に諸々いくつか告知しておきたいことがいくつか、でも時間がなくて間に合いませんでした。
後日追記します。
行ってきます。
【告知追記その1(9/14)】
延期になっていた東放学園の実習公演“無伴奏デクノボー奏鳴曲”ですが、新しい期日が決定しました。10月20日(火)と21日(水)です。正式な開演時間は未定ですが、ソワレです。
場所も変わらず、京王線府中駅前のグリーンプラザ府中けやきホールです。
当然、お芝居の内容に変更はありません。
最初の告知記事をご参考に。
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-1121.html
時間等、最終決定しましたら、あらためてご案内します。
【告知追記その2(9/15)】
森山さんの石鹸について、こんなことをお知らせしていましたが…
⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-1124.html
新しい石鹸開発中なのです。
色々と試行錯誤しながら、一歩一歩さらに良いものを目指しています。つきましては現在販売中の石鹸を皆様に使っていただき、その御感想などを参考にして、新商品開発に役立てたいと考えています。
そこで楽天市場の沖縄mapでモニターを募集しました。
⇒沖縄mapの「石鹸」のページ※販売終了
ところがここでの告知が遅れて、もうモニター募集が締め切りになっちゃいました。ごめんなさい。なんと1000名という方から申し込みがあり、25名が当選となりました。楽天市場恐るべしです。第2次もあるらしい。担当は上原です。
【告知追記その3(9/16)】
沖縄から、こんな雑誌が届きました。
琉球新報社が出している情報誌「うない」の9・10月号です。
その中の記事を、いくつかご紹介したいと思います。
まず、9・10月号のメインの特集は又吉健次郎さんなのです。
特集:沖縄の伝統工芸「琉球王朝時代の金細工を未来へつなぐ」
先日、又吉健次郎さんの房指輪の謎解きをしましたが、この記事でも「金細工」にはきちんと「くがにぜーく」とルビが振ってありました。
そればかりではありません。この雑誌では房指輪の説明もされているのですが、そこには次のように書かれてあります。
「又吉さんによると、灯明は石榴(ざくろ)、鳩は桃という説もあるとか。石榴は子孫繁栄を意味する縁起物ですし、桃は、中国では古くから長寿の象徴でもあるそうです」
なんともうれしい限りではありませんか。高山正樹のちょっとした疑問が、こういう形で結実したのですから。ちょっと、大げさかなあ。
⇒ことの発端
⇒又吉健次郎さんの房指輪の謎解き
それから加藤登紀子さんの記事を見つけました。加藤登紀子さんは高山正樹の高校の先輩なのですが、へえ、おときさんの娘さん、沖縄に住んでいらっしゃるんですねえ。
ついでに、おときさんの沖縄関連イベントがあるようで、そのちょっとしたご案内です。
Peace Music Festa!’09 from 宜野湾 わったー地球(しま)はわったーが守る
日時:2009年 9月 21日(月曜・祝日)開演 12:00/終演 21:00
⇒http://peacemusic.ti-da.net…
そして三つ目は本の紹介記事です。
平田大一「シマとの対話【琉球メッセージ】」
この平田大一さんは沖縄ではちょっと名の知れた詩人・演出家ですが、宇夫方隆士さんのお友達で、隆士氏が自作の詩を朗読した映像作品、「一瞬のコーヒー」で、笛を吹いてくださっているのです。
⇒「一瞬のコーヒー」のページへ
そして平田大一さんは、今こんなことをやっています。
現代版組踊「翔べ!尚巴志」
⇒http://showthestage.ti-da…
こちらもインフルエンザで延期になったらしいです。
それから、高山正樹の書斎の本棚にこんな本がありました。

他にもまだ告知したいことがあったのですが、今日のところはこの辺で。
2009年08月23日(日)12時34分
詩画集と「房指輪」の謎解き
【宇夫方路の沖縄報告】
朝一番、いつもの通り調布からバス。

この日は遅れることもなく、順調に那覇空港に到着。その足で、大城立裕先生のお宅へ向かいました。
そうだ、ご報告していませんでしたが、この度、私の父、宇夫方隆士の詩画集を、M.A.P.で出版することになりました。
詩画集「幻影」

10月10日、出版予定です
で、本日は、その詩画集の推薦文を、大城先生にお願いをしに伺ったのです。
もともとこの出版のハナシは、又吉健次郎さんが火付け役のひとりで、やはり今度の詩画集に一文を寄せてくださるのですが、今日大城先生のところへ行くという話を、ちょっと又吉健次郎さんにお話したら、是非とも同行してご挨拶に伺いたいと健次郎さん。先日、沖縄タイムス賞を受賞された時、大城先生からお祝いのお葉書を戴いたので、そのお礼をしたいということでした。
というわけで、私と父と又吉健次郎さんと、3名でお邪魔しました。

大城先生は又吉健次郎さんへの手紙について、受賞パーティーに行っても大勢の人で、肝心の受賞者御本人には会えないことが多いので、パーティーに行かずにお手紙をお出しになったのだそうです。
大城先生と又吉健次郎さんの会話…
「どうして『くがにぜーく』といわずに『かんぜーく』と言うの?」
「まあいいかな、と思ってたんですが、やっぱりちゃんとしようかな」
健次郎さんの、いい感じのテーゲーさ。
「かんぜーく」は鋳掛屋のことで、銀細工職人のことは「くがにぜーく」というのが正解なのです。私、ちっとも知りませんでした(汗)。
又吉健次郎さんも、だんだん大御所になってしまって、きちんと伝統を背負わなければならなくなったということなのかもしれません。
大城先生から名刺を頂戴した又吉健次郎氏、「私の名刺は『くがにぜーく』と直してからあげましょうね」と、ご自分の名刺はお出しになりませんでした。
今現在、ネットで「かんぜーく」を検索すると「金細工」のルビとしていくらでも出てきますが、「くがにぜーく」は殆ど出てきません。なんでこんなことになってしまってんでしょうかねえ。
ともかく、いつのまにかそれが定着しちゃって、又吉さん御自身も「まあいいか」というテーゲーな感じでそれに乗っちゃったのかもしれませんね。なにしろ、ご自分の名刺の肩書きもそれで印刷しちゃったくらいなんですから。
それから、又吉さんの工房の表札にも「かんぜーく」というルビがふってあるんですよ。証拠写真は下の記事でご確認を。
⇒http://mapafter5.blog.958…
さて、いよいよ……
房指輪の七つの房の意味のミステリー解明の時がやってきたようです。
まずはこちらの記事をお読みください。
⇒http://mapafter5.blog.1004.html…
今、又吉さんの工房で作っている房指輪の説明では、7つの種類は「魚」「灯明」「鳩」「扇」「花」「蝶」「葉」となっています。しかし、この中の「灯明」は実は「ざくろ」ではないか、また「鳩」は「桃」ではないかという説もある、又吉さんは、「ざくろ」と「桃」の方が本当かもしれないと仰っていました。

しかし、房指輪が今こうして形になっているのは、ヤマトの陶芸家である濱田庄司さんが、又吉さんのお父様である6代目の誠睦さんに復元を託してくださったおかげなのだと又吉さんはおっしゃいます。「灯明」も「鳩」も、当時、濱田庄司さんが、沖縄で残されている房指輪を探し出し、その形を見たり調べたりしながら、一つずつ意味を解明をして、ようやくたどり着いたものなのです。健次郎さんは、その濱田さんとお父様の出会いを大切にしたいがゆえに、そのままの説明で通していらしたそうです。
⇒楽天市場沖縄map「房ネックレス灯」
⇒楽天市場沖縄map「房ネックレス鳩」
ちなみに結び指輪はあの版画家棟方志功さんが復元したデザインなのです。
⇒楽天市場沖縄map「房指輪」
※2022年現在、又吉さんの銀細工の販売はしていません。
高山正樹が又吉健次郎さんの工房に伺った時も、健次郎さんはこの話をしてくださいました。それを聞いた高山が、是非そのお話を、ブログなどで紹介させていただけないだろうかとお願いしたところ、快くご承諾してくださいました。
また、健次郎さんも、その時のことがきっかけで、やはり「ざくろ」や「桃」のことも、きちんと伝えて残しておこうという気持ちになったのだそうです。
「M.A.P.の高山さんのお陰だ。ありがとう」
又吉さんは、そうおっしゃってくださいました。
琉球王朝からの金細工の伝統を継いでいらっしゃる方は、もう今は又吉健次郎さん一人だけとなってしまいました。今まで何人か健次郎さんの元で修行をしたお弟子さんもいらしたそうですが、みんな途中でいなくなってしまう。それは仕方ないことだとも思うのだが、このままでは健次郎さんが亡くなったら伝統が途絶えてしまう。それを危惧され、せめて映像で残しておこう、そうすればもしまたやろうという人が出てきたときに、それを見て始めることが出来る、そう思い立って、たくさんの方に頼み込んで協力をしてもらい、現在8割方完成しました。ジーファーの説明の為に、髪結いの小波さん、そのモデルには大城美佐子さんなどなど、みなさん快く引き受けてくださったそうです。
その中で、房指輪についても、「ざくろ」や「桃」のことを、きちんと説明をすることにしたと、又吉健次郎さんは仰っていました。
大城先生に父の詩画集の校正版をお渡しして、お読みになってもしよろしければ推薦文をお願いしますとお願いしました。
先生は一寸ごらんになって「いい絵ですね」と。あとで父は「みんな絵はいいねえと言ってくださるけど、詩の事は何も言わない」と言っていましたが、父もせっかち、お渡ししたばかりで、まだお読みにもならないうちに、コメントなんか言えませんよね。
大城先生は楽しい仕事を下ってありがとうございますと言ってくださいました。

新報ホールに行かなければならないので、1時間ほどで失礼致しました。
【一方、東京で台本を読み続ける高山正樹の息抜き】
今日のゴーヤー、今日の雌花!

⇒明後日のゴーヤーへ
朝一番、いつもの通り調布からバス。
この日は遅れることもなく、順調に那覇空港に到着。その足で、大城立裕先生のお宅へ向かいました。
そうだ、ご報告していませんでしたが、この度、私の父、宇夫方隆士の詩画集を、M.A.P.で出版することになりました。
詩画集「幻影」

10月10日、出版予定です
で、本日は、その詩画集の推薦文を、大城先生にお願いをしに伺ったのです。
もともとこの出版のハナシは、又吉健次郎さんが火付け役のひとりで、やはり今度の詩画集に一文を寄せてくださるのですが、今日大城先生のところへ行くという話を、ちょっと又吉健次郎さんにお話したら、是非とも同行してご挨拶に伺いたいと健次郎さん。先日、沖縄タイムス賞を受賞された時、大城先生からお祝いのお葉書を戴いたので、そのお礼をしたいということでした。
というわけで、私と父と又吉健次郎さんと、3名でお邪魔しました。
大城先生は又吉健次郎さんへの手紙について、受賞パーティーに行っても大勢の人で、肝心の受賞者御本人には会えないことが多いので、パーティーに行かずにお手紙をお出しになったのだそうです。
大城先生と又吉健次郎さんの会話…
「どうして『くがにぜーく』といわずに『かんぜーく』と言うの?」
「まあいいかな、と思ってたんですが、やっぱりちゃんとしようかな」
健次郎さんの、いい感じのテーゲーさ。
「かんぜーく」は鋳掛屋のことで、銀細工職人のことは「くがにぜーく」というのが正解なのです。私、ちっとも知りませんでした(汗)。
又吉健次郎さんも、だんだん大御所になってしまって、きちんと伝統を背負わなければならなくなったということなのかもしれません。
大城先生から名刺を頂戴した又吉健次郎氏、「私の名刺は『くがにぜーく』と直してからあげましょうね」と、ご自分の名刺はお出しになりませんでした。
今現在、ネットで「かんぜーく」を検索すると「金細工」のルビとしていくらでも出てきますが、「くがにぜーく」は殆ど出てきません。なんでこんなことになってしまってんでしょうかねえ。
ともかく、いつのまにかそれが定着しちゃって、又吉さん御自身も「まあいいか」というテーゲーな感じでそれに乗っちゃったのかもしれませんね。なにしろ、ご自分の名刺の肩書きもそれで印刷しちゃったくらいなんですから。
それから、又吉さんの工房の表札にも「かんぜーく」というルビがふってあるんですよ。証拠写真は下の記事でご確認を。
⇒http://mapafter5.blog.958…
さて、いよいよ……
房指輪の七つの房の意味のミステリー解明の時がやってきたようです。
まずはこちらの記事をお読みください。
⇒http://mapafter5.blog.1004.html…
今、又吉さんの工房で作っている房指輪の説明では、7つの種類は「魚」「灯明」「鳩」「扇」「花」「蝶」「葉」となっています。しかし、この中の「灯明」は実は「ざくろ」ではないか、また「鳩」は「桃」ではないかという説もある、又吉さんは、「ざくろ」と「桃」の方が本当かもしれないと仰っていました。
しかし、房指輪が今こうして形になっているのは、ヤマトの陶芸家である濱田庄司さんが、又吉さんのお父様である6代目の誠睦さんに復元を託してくださったおかげなのだと又吉さんはおっしゃいます。「灯明」も「鳩」も、当時、濱田庄司さんが、沖縄で残されている房指輪を探し出し、その形を見たり調べたりしながら、一つずつ意味を解明をして、ようやくたどり着いたものなのです。健次郎さんは、その濱田さんとお父様の出会いを大切にしたいがゆえに、そのままの説明で通していらしたそうです。
⇒楽天市場沖縄map「房ネックレス灯」
⇒楽天市場沖縄map「房ネックレス鳩」
ちなみに結び指輪はあの版画家棟方志功さんが復元したデザインなのです。
⇒楽天市場沖縄map「房指輪」
※2022年現在、又吉さんの銀細工の販売はしていません。
高山正樹が又吉健次郎さんの工房に伺った時も、健次郎さんはこの話をしてくださいました。それを聞いた高山が、是非そのお話を、ブログなどで紹介させていただけないだろうかとお願いしたところ、快くご承諾してくださいました。
また、健次郎さんも、その時のことがきっかけで、やはり「ざくろ」や「桃」のことも、きちんと伝えて残しておこうという気持ちになったのだそうです。
「M.A.P.の高山さんのお陰だ。ありがとう」
又吉さんは、そうおっしゃってくださいました。
琉球王朝からの金細工の伝統を継いでいらっしゃる方は、もう今は又吉健次郎さん一人だけとなってしまいました。今まで何人か健次郎さんの元で修行をしたお弟子さんもいらしたそうですが、みんな途中でいなくなってしまう。それは仕方ないことだとも思うのだが、このままでは健次郎さんが亡くなったら伝統が途絶えてしまう。それを危惧され、せめて映像で残しておこう、そうすればもしまたやろうという人が出てきたときに、それを見て始めることが出来る、そう思い立って、たくさんの方に頼み込んで協力をしてもらい、現在8割方完成しました。ジーファーの説明の為に、髪結いの小波さん、そのモデルには大城美佐子さんなどなど、みなさん快く引き受けてくださったそうです。
その中で、房指輪についても、「ざくろ」や「桃」のことを、きちんと説明をすることにしたと、又吉健次郎さんは仰っていました。
大城先生に父の詩画集の校正版をお渡しして、お読みになってもしよろしければ推薦文をお願いしますとお願いしました。
先生は一寸ごらんになって「いい絵ですね」と。あとで父は「みんな絵はいいねえと言ってくださるけど、詩の事は何も言わない」と言っていましたが、父もせっかち、お渡ししたばかりで、まだお読みにもならないうちに、コメントなんか言えませんよね。
大城先生は楽しい仕事を下ってありがとうございますと言ってくださいました。
新報ホールに行かなければならないので、1時間ほどで失礼致しました。
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