2011年02月09日(水)04時46分
旧暦1月7日は“七日の祝”です
旧暦1月7日、七日の祝(ナンカヌスク)
久米村:ナンカノシュク。七草雑炊(ナナクサジューシー)を霊前に供える。
首里:七日の節供(ナンカヌスク)といって雑炊(七日粥)と酢の物を供える。
那覇:七日祝(ナンカヌスク)である。七草を入れた雑炊をご霊前に供える。
(※那覇の項を担当執筆した方は、子供の頃経済的な理由でやらなくなったそうである。)
真和志:七日(ナンカ)の祝(シュクー)。年の夜(ユルー)に飾った、仏壇、神棚、床、火の神、および門の芯松(シンマーチー)、色紙など一切を取り下げる。晩に、御仏壇に雑炊飯を供える。
小禄:豚のコー引きといって豚小屋を拝みに行く。
(以上すべて『那覇市史』資料篇より)
『沖縄大百科事典』では……
七日節句(なのかのせっく)
【奄美】〈ナンカンセク〉という。奄美諸島では、床の間、先祖棚などに飾ってあった供え物を下げて雑炊(七草がゆ)を作って食べる。また地域によっては、この日に天から鬼が降りてくるとか、正月料理を食べて肥満した人間を、夜、鬼が食べにくるとかいう伝承があり、雨戸をたたいたり、鉄砲を天に向かって撃ったり、ホラ貝を吹きたてたりして、村中いっせいに騒ぎたてた。
【沖縄】〈ナンカヌシュク〉という。各家夕食時に火の神、仏壇に雑炊、汁を供える。地域により祈願目的に相違があり、折目であることを報告するだけ(与那原町板良敷)、豊作を乞う(石川市)、正月豚の初七日でその厄を払う(本部町備瀬)など。七日の祝いの料理は豚肉雑炊を供えるところが多いが、那覇市久米村のように七草雑炊というところもある。竹富島ではこの日を後生(グショー)の正月だとして墓地へいくのを忌む。読谷村宇座、那覇市泊、与那城村伊計のように、この日に正月飾りを取り払うところもある。
たぶん、これごく一部です。はあ、もう大変。
これが沖縄なのです。
今晩は“ゆんたくの会(沖縄語を話す会)”です。勉強しているのは首里の言葉です。那覇の言葉とはニアリーイコールです。ヤンバル(沖縄本島中部)とは…… 勉強不足でよくわかりません。
これが沖縄なのです。
久米村:ナンカノシュク。七草雑炊(ナナクサジューシー)を霊前に供える。
首里:七日の節供(ナンカヌスク)といって雑炊(七日粥)と酢の物を供える。
那覇:七日祝(ナンカヌスク)である。七草を入れた雑炊をご霊前に供える。
(※那覇の項を担当執筆した方は、子供の頃経済的な理由でやらなくなったそうである。)
真和志:七日(ナンカ)の祝(シュクー)。年の夜(ユルー)に飾った、仏壇、神棚、床、火の神、および門の芯松(シンマーチー)、色紙など一切を取り下げる。晩に、御仏壇に雑炊飯を供える。
小禄:豚のコー引きといって豚小屋を拝みに行く。
(以上すべて『那覇市史』資料篇より)
『沖縄大百科事典』では……
七日節句(なのかのせっく)
【奄美】〈ナンカンセク〉という。奄美諸島では、床の間、先祖棚などに飾ってあった供え物を下げて雑炊(七草がゆ)を作って食べる。また地域によっては、この日に天から鬼が降りてくるとか、正月料理を食べて肥満した人間を、夜、鬼が食べにくるとかいう伝承があり、雨戸をたたいたり、鉄砲を天に向かって撃ったり、ホラ貝を吹きたてたりして、村中いっせいに騒ぎたてた。
【沖縄】〈ナンカヌシュク〉という。各家夕食時に火の神、仏壇に雑炊、汁を供える。地域により祈願目的に相違があり、折目であることを報告するだけ(与那原町板良敷)、豊作を乞う(石川市)、正月豚の初七日でその厄を払う(本部町備瀬)など。七日の祝いの料理は豚肉雑炊を供えるところが多いが、那覇市久米村のように七草雑炊というところもある。竹富島ではこの日を後生(グショー)の正月だとして墓地へいくのを忌む。読谷村宇座、那覇市泊、与那城村伊計のように、この日に正月飾りを取り払うところもある。
たぶん、これごく一部です。はあ、もう大変。
これが沖縄なのです。
今晩は“ゆんたくの会(沖縄語を話す会)”です。勉強しているのは首里の言葉です。那覇の言葉とはニアリーイコールです。ヤンバル(沖縄本島中部)とは…… 勉強不足でよくわかりません。
これが沖縄なのです。
2010年08月30日(月)01時55分
もう日が変わってしまった《ふたつの甲子園》
ああ、もう日が変わって30日になってしまった。今までずっとブログやサイトをいじくっていました。
昨日追記した記事
⇒尻切ればかりで恐縮です【興南高校優勝おめでとう!】(8/21)
…もちろん高校野球のこと。本当の甲子園。
昨日投稿した記事
⇒首里製麺の沖縄すば(8/25)

⇒人生は短い……【六千人の命のビザ】(8/26)

⇒見方が変われば名前も変わる(8/27)

これでゴーヤーの記事だけはやっと現実に追いつきました。
主な記事一覧も、ようやく2月までリストアップしました。
(※旧ブログの話です… 2013年1月11日)
でも、まだまだ告知しなきゃいけない記事だとか色々あって、だから眠れない夜。
遠い南の方で、台風7号が生まれたらしい……
と、深夜のTVで、こんな番組が…
全国高等学校俳句選手権大会、いわゆる「俳句甲子園」。

沖縄の首里高校が決勝へ。
決勝戦のお題は「白」…

白地図に 国境引くや 沖縄忌
残念ながら優勝は開成高校に譲りましたが、なんだか目頭が熱くなりました。
しかし、サンパチロクでなく、五七五。
「琉歌甲子園」なんて、未来永劫ないのかなあ。
昨日追記した記事
⇒尻切ればかりで恐縮です【興南高校優勝おめでとう!】(8/21)
…もちろん高校野球のこと。本当の甲子園。
昨日投稿した記事
⇒首里製麺の沖縄すば(8/25)
⇒人生は短い……【六千人の命のビザ】(8/26)
⇒見方が変われば名前も変わる(8/27)
これでゴーヤーの記事だけはやっと現実に追いつきました。
主な記事一覧も、ようやく2月までリストアップしました。
(※旧ブログの話です… 2013年1月11日)
でも、まだまだ告知しなきゃいけない記事だとか色々あって、だから眠れない夜。
遠い南の方で、台風7号が生まれたらしい……
と、深夜のTVで、こんな番組が…
全国高等学校俳句選手権大会、いわゆる「俳句甲子園」。

沖縄の首里高校が決勝へ。
決勝戦のお題は「白」…

白地図に 国境引くや 沖縄忌
残念ながら優勝は開成高校に譲りましたが、なんだか目頭が熱くなりました。
しかし、サンパチロクでなく、五七五。
「琉歌甲子園」なんて、未来永劫ないのかなあ。
tag: 首里
2010年07月10日(土)23時53分
「南島妄想見聞録」【打ち上げその2】《藤木勇人と“人類館”》
⇒前の記事から

「後日執筆する。少々お待ちを」……と書いたきり、御報告したいことはなかなかブログで簡単に書けるようなことではなく、ずいぶんと間が空いてしまった。
実はこの記事、9月21日に書いている。もうこれ以上引っ張るワケにもいかず、ボチボチここらでツラツラと書いてみようか。
藤木勇人さんは「うちなー噺家」と名乗っている。立川志の輔さんを師と仰ぐ。談志御大にはなかなか受け入れてはもらえないらしいが、志の輔さんからは「オレの弟子だと名乗っていい」とお墨付きを貰ったらしい。
実は、藤木勇人さんがこの世界で生きていこうと思ったきっかけは、沖縄の高校在学中に観た劇団創造の“人類館”だったという。
藤木さんは“人類館”の作者である知念正真さんのことを深く敬愛している。しかしその敬愛の仕方はそう単純ではない。
僕が知念さんについて、「おっかない顔してるけど、話すととってもシャイで優しくて、普通の人ですよねえ」と言うと、藤木さんは次のように答えた。
「一番ダメな人間が一番すばらしいということを教えてくれたのが知念さんです。僕の最も好きな人」と。
この日伺ったふたりの交流のエピソードは、とても興味深いが、残念ながらブログでは書けないことばかりで困る。
藤木さんは“人類館”を一人芝居でやりたいと考えていた。ところが津嘉山正種さんが先に演ってしまったものだから、自分はもうやらんでもいいかなと思われている。驚いたことは、人類館の再演には決してあまりいい顔をしない知念さんだが、藤木さんには「お前、やらないか」とおっしゃったというのである。知念さんの藤木さんに対する信頼、それはなんなのだろう。
知念正真が書いた「人類館」は、結果的に大きな罪を犯してしまったと藤木勇人はいう。戯曲「人類館」が、それ以後の大和と沖縄の対立構造を作ってしまったのだというのだ。それについては異論もあろうが、しかし「知念正真の“人類館”考」としては実におもしろい。知念さんから聞いた「人類館」の創作意図、「自分にとって沖縄の日本復帰とはなんだったのか、それを整理したかっただけなのだ」という知念さんの思いとも符合する。しかし、そんな知念正真の私的な想念であったものが、伝説的な初演の幕が下りたその時から「社会的な事件」となってしまった。以来、戯曲“人類館”は、知念正真の手から離れていった。そして調教師という登場人物は(実は大和の兵隊は沖縄出身者であったのだが)、沖縄を差別する極悪非道の人物として固定化されることになったのである。
しかし“人類館”に登場する調教師が悪いのではない、本来、人間に悪者などいないのだ、そう藤木勇人さんは語った。
「だから、落語が好きなんです。落語には、ダメだけれど悪い人間はひとりも出てこない。登場するのはみんな愛すべき普通の人たちです。そんな芝居がしたいんです。」
僕は、藤木勇人さんが演じる人類館が観たいと思った。そしてその舞台を客席から観て、心から笑う知念正真さんの顔を見てみたいと思ったのである。
もうひとつ、前の記事で語り足りなかったことを書いておこうと思う。
ウチナーグチについて。
藤木さんと話していて、藤木さんはウチナーグチを相当勉強されたことがあるのだと確信した。最近、ウチナーグチを復活させようと沖縄ではだんだんと盛り上がってきているが、しかしそれがそんなに簡単なことではないということを、藤木さんは深く理解されていると思ったのである。
一口にウチナーグチといっても、地域地域によって大きく違う。ウチナーグチを残すというと、たいがい首里言葉の権威がちらつき始める。しかし、首里言葉を「正しく」復活させることは、同時に各地域の言葉を殺すことにもなるという現実。
そう藤木さんが言ったわけではないが、僕はそう理解した。
藤木さんに奄美の血が流れているということもあるのかも知れないと、僕は勝手に思っていた。
M.A.P.の沖縄語を話す会は、この藤木さんのような思いを、決して忘れないということを第一義にしなければならない。あらためてそれを確認しなければいけないと、僕は襟を正したのである。
この日、テレビマンユニオンの田中さんという方が、藤木さんの「落語」を絶賛していた。どういうふうに絶賛したか、残念ながらそれもブログでは書けないこと。

テレビマンユニオンといえば超有名な制作会社だが、予算が大きく減らされて、テレビ業界は大変らしい。
シーサー玉城さんちゃんと一緒に記念撮影。

シーサー顔みっつだってさ。
⇒この日の続きに続く……

「後日執筆する。少々お待ちを」……と書いたきり、御報告したいことはなかなかブログで簡単に書けるようなことではなく、ずいぶんと間が空いてしまった。
実はこの記事、9月21日に書いている。もうこれ以上引っ張るワケにもいかず、ボチボチここらでツラツラと書いてみようか。
藤木勇人さんは「うちなー噺家」と名乗っている。立川志の輔さんを師と仰ぐ。談志御大にはなかなか受け入れてはもらえないらしいが、志の輔さんからは「オレの弟子だと名乗っていい」とお墨付きを貰ったらしい。
実は、藤木勇人さんがこの世界で生きていこうと思ったきっかけは、沖縄の高校在学中に観た劇団創造の“人類館”だったという。
藤木さんは“人類館”の作者である知念正真さんのことを深く敬愛している。しかしその敬愛の仕方はそう単純ではない。
僕が知念さんについて、「おっかない顔してるけど、話すととってもシャイで優しくて、普通の人ですよねえ」と言うと、藤木さんは次のように答えた。
「一番ダメな人間が一番すばらしいということを教えてくれたのが知念さんです。僕の最も好きな人」と。
この日伺ったふたりの交流のエピソードは、とても興味深いが、残念ながらブログでは書けないことばかりで困る。
藤木さんは“人類館”を一人芝居でやりたいと考えていた。ところが津嘉山正種さんが先に演ってしまったものだから、自分はもうやらんでもいいかなと思われている。驚いたことは、人類館の再演には決してあまりいい顔をしない知念さんだが、藤木さんには「お前、やらないか」とおっしゃったというのである。知念さんの藤木さんに対する信頼、それはなんなのだろう。
知念正真が書いた「人類館」は、結果的に大きな罪を犯してしまったと藤木勇人はいう。戯曲「人類館」が、それ以後の大和と沖縄の対立構造を作ってしまったのだというのだ。それについては異論もあろうが、しかし「知念正真の“人類館”考」としては実におもしろい。知念さんから聞いた「人類館」の創作意図、「自分にとって沖縄の日本復帰とはなんだったのか、それを整理したかっただけなのだ」という知念さんの思いとも符合する。しかし、そんな知念正真の私的な想念であったものが、伝説的な初演の幕が下りたその時から「社会的な事件」となってしまった。以来、戯曲“人類館”は、知念正真の手から離れていった。そして調教師という登場人物は(実は大和の兵隊は沖縄出身者であったのだが)、沖縄を差別する極悪非道の人物として固定化されることになったのである。
しかし“人類館”に登場する調教師が悪いのではない、本来、人間に悪者などいないのだ、そう藤木勇人さんは語った。
「だから、落語が好きなんです。落語には、ダメだけれど悪い人間はひとりも出てこない。登場するのはみんな愛すべき普通の人たちです。そんな芝居がしたいんです。」
僕は、藤木勇人さんが演じる人類館が観たいと思った。そしてその舞台を客席から観て、心から笑う知念正真さんの顔を見てみたいと思ったのである。
もうひとつ、前の記事で語り足りなかったことを書いておこうと思う。
ウチナーグチについて。
藤木さんと話していて、藤木さんはウチナーグチを相当勉強されたことがあるのだと確信した。最近、ウチナーグチを復活させようと沖縄ではだんだんと盛り上がってきているが、しかしそれがそんなに簡単なことではないということを、藤木さんは深く理解されていると思ったのである。
一口にウチナーグチといっても、地域地域によって大きく違う。ウチナーグチを残すというと、たいがい首里言葉の権威がちらつき始める。しかし、首里言葉を「正しく」復活させることは、同時に各地域の言葉を殺すことにもなるという現実。
そう藤木さんが言ったわけではないが、僕はそう理解した。
藤木さんに奄美の血が流れているということもあるのかも知れないと、僕は勝手に思っていた。
M.A.P.の沖縄語を話す会は、この藤木さんのような思いを、決して忘れないということを第一義にしなければならない。あらためてそれを確認しなければいけないと、僕は襟を正したのである。
この日、テレビマンユニオンの田中さんという方が、藤木さんの「落語」を絶賛していた。どういうふうに絶賛したか、残念ながらそれもブログでは書けないこと。
テレビマンユニオンといえば超有名な制作会社だが、予算が大きく減らされて、テレビ業界は大変らしい。
シーサー玉城さんちゃんと一緒に記念撮影。
シーサー顔みっつだってさ。
⇒この日の続きに続く……
2009年12月23日(水)19時33分
銀細工の伝統
国際通りもクリスマス。

アルバトロス・シルバー館。ふと、気になって中に入った。

六代目又吉誠睦は、戦後宝飾店で働き、米兵向けのアクセサリーを作っていた。
⇒http://lince.jp/hito/okinawamap/arumisede…
⇒http://lince.jp/hito/koubousaihou…
もしかすると、この店で聞けば、その頃の「クガニゼーク」ならぬ「カンゼーク」のことが分かるかもしれない……
店の男の子は、興味を持って僕の話しをじっくりと聞いてくれた。
最近、ちょくちょくお客さんから又吉健次郎さんのことを聞かれるのだという。
「でも、勉強不足で。」
彼は、男性用の銀のカミサシをずっと探していたらしい。
「それなら一本だけ、売っている店、知ってるよ。もうこれから出ないかもしれない。絶対お買い得だよ」
仲嶺舞踊小道具店のことである。
「もうあきらめて、髪切っちゃいました」
「ウチナーカンプーにしたくて髪を伸ばしてたんだ」
「そうなんです」
たくさんの銀製品が展示されている。すごい品揃え。
「これ、叩いて作ってるの」
「いえ、鋳型です。叩いて作っていたら、値段も高くなるし、お客さんのニーズに答えられませんから。」
彼は、30年仕事をしている職人さんにわざわざ電話をかけて、「カンゼーク」について聞いてくれた。
「簪(かんざし)を作るからカンゼークというのだと思うよとのことでした」
又吉健次郎さんが「カンゼーク」であることに、何の疑問もないようであった。やはり、切れた伝統の中で、ウチナーグチも右往左往しているのだ、と、僕はそう思った。
「ありがとうね」
「いえ、今日は勉強になりました。」
アルバトロス・シルバー館。ふと、気になって中に入った。
六代目又吉誠睦は、戦後宝飾店で働き、米兵向けのアクセサリーを作っていた。
⇒http://lince.jp/hito/okinawamap/arumisede…
⇒http://lince.jp/hito/koubousaihou…
もしかすると、この店で聞けば、その頃の「クガニゼーク」ならぬ「カンゼーク」のことが分かるかもしれない……
店の男の子は、興味を持って僕の話しをじっくりと聞いてくれた。
最近、ちょくちょくお客さんから又吉健次郎さんのことを聞かれるのだという。
「でも、勉強不足で。」
彼は、男性用の銀のカミサシをずっと探していたらしい。
「それなら一本だけ、売っている店、知ってるよ。もうこれから出ないかもしれない。絶対お買い得だよ」
仲嶺舞踊小道具店のことである。
「もうあきらめて、髪切っちゃいました」
「ウチナーカンプーにしたくて髪を伸ばしてたんだ」
「そうなんです」
たくさんの銀製品が展示されている。すごい品揃え。
「これ、叩いて作ってるの」
「いえ、鋳型です。叩いて作っていたら、値段も高くなるし、お客さんのニーズに答えられませんから。」
彼は、30年仕事をしている職人さんにわざわざ電話をかけて、「カンゼーク」について聞いてくれた。
「簪(かんざし)を作るからカンゼークというのだと思うよとのことでした」
又吉健次郎さんが「カンゼーク」であることに、何の疑問もないようであった。やはり、切れた伝統の中で、ウチナーグチも右往左往しているのだ、と、僕はそう思った。
「ありがとうね」
「いえ、今日は勉強になりました。」
tag: 国際通り 首里 「クガニゼーク」のこと 沖縄の旅_2009年12月 ジーファー うちなーぐち 房指輪
2009年12月22日(火)14時21分
“おきなわ堂”を応援します!【“くがにぜーく”と“かんぜーく”の中間報告】
いつもの“おきなわ堂”今日も新商品入荷です。
⇒Natural Life
⇒中華
去年の7月に初めておきなわ堂の記事を書いた時、レジ周りの画像をご紹介しましたので、今日は残りの全貌をご紹介しましょう。
レジの手前にある売り場。CDなども置いてあります。

おきなわ関連雑誌〜県産本
県産本〜沖縄関連古書

市町村史等〜沖縄関連古書

沖縄の古書店然とした古書店の2大巨頭は“じのん”さんと“榕樹書林”さんで揺るがないかもしれませんが、新しい古書店の“おきなわ堂”だからこそできることがきっとあるはず。M.A.P.は今後もそれを応援していきたいと思っています。
やっぱり、考え続けること、そこからしか始まりません。金城さん、頑張りましょうね!
⇒Natural Life
⇒中華
去年の7月に初めておきなわ堂の記事を書いた時、レジ周りの画像をご紹介しましたので、今日は残りの全貌をご紹介しましょう。
レジの手前にある売り場。CDなども置いてあります。
おきなわ関連雑誌〜県産本
県産本〜沖縄関連古書
市町村史等〜沖縄関連古書
沖縄の古書店然とした古書店の2大巨頭は“じのん”さんと“榕樹書林”さんで揺るがないかもしれませんが、新しい古書店の“おきなわ堂”だからこそできることがきっとあるはず。M.A.P.は今後もそれを応援していきたいと思っています。
やっぱり、考え続けること、そこからしか始まりません。金城さん、頑張りましょうね!
tag: 沖縄大百科事典 おきなわ堂 首里 「クガニゼーク」のこと 又吉健次郎 ジーファー 結び指輪 房指輪 100シリーズ 沖縄の旅_2009年12月
2009年12月22日(火)12時30分
玉那覇味噌醤油店
まだ見ぬ金細工師を求めて首里へ。
このあたりで聞けば誰でも知っていると仲嶺眞永さんは言われたが、道行く若い奥さまに聞いても分からない。その他に人影もなく、すると見つけたこんなお店。味噌醤油屋さんですな。ここならきっとわかるだろう。
「すいません、ちょっとお伺いしたいのですが」……

ふと左を見ると、こんな門が。

そこには案内看板が立っている。
“仲田殿内跡(なかだどぅんちあと)”
説明書きによると、琉球王国時代の士族、仲田親雲上(ぺーちん)の屋敷跡。「玉那覇味噌醤油」は、琉球王家御用達。現在でも手作り無添加で製造しているという。
誰も出ていらっしゃらないので、思い切って中へ。
おお、味噌だ。味噌屋だから当たり前だが、この味噌樽、僕の子どもの頃、東京でもよく見たっけ。ここでは今も計り売りしてくれるんだ。

「はい、いらっしゃいませ」と出てきた年配の女性(お名前は「さくもと」さんとお聞きしましたが、さて)。さくもとさんのお顔は「あたしなんか撮らないで建物を撮りなさい」というお言葉に従いました。
そして、度肝を抜かれたのです。

「この建物は、あの戦争で焼けなかったのですか」
ここで30年間働いているというさくもとさんのお話では、潰れたけれども焼けはしなかったそうで、終戦後すぐに仕事の無い女性たちが、焼け残った木材を洗って再建されたのだそうです。

熟成した味噌の、なんともいい香りでいっぱいです。
さくもとさんは、いろいろな味噌の味見をさせてくださいました。どれもこれも深くて旨い。

「古い庭がありますけど、ご覧になりますか」
「もちろん」

表に出ると、煙突が。
「これはもっと高かったんですよ。でも一番最初に攻撃されてね。軍の施設だと思われたんでしょう。」
夏は、みんな涼みに来るという緑深い庭。
表の案内板にはこう書いてありました。
「庭にある井戸には二カ所に水を汲むスペースがあり、男女別々の専用の水浴場になっていたようである」
これが男性用。

こちらが女性用。

女性用の井戸には蓋が無いから中が見えます。深い。今はもう水は枯れているのだとか。

「なんで男女で分かれてるんですか?」
「首里だから、男尊女卑」
そう言って、さくもとさんは笑いました。
最後に、賄(まかない)のお味噌汁を頂いたのです。

美味であります。
そうか、この味噌ならば、お椀に入れて、それに本部あたりの鰹節とたっぷりふってお湯をかけるだけでも、十分おいしいに違いない。
⇒「社長とは呼ばないで」に、かつてこんなこと書きました。
さくもとさんにそんな話をしたら、さくもとさんは今でも一人暮らしの男子学生なんかには、それと同じ味噌汁の食べ方を教えているんだって。
県外にも卸しているそうですが、設定された賞味期限を過ぎて売れ残ったものは返品されてくる。本当は熟成が進んでいて、おいしくなっているのに。大和の行政が決めたルールが、何か大切なものを奪っています。手作り石鹸も同じことかな。
さくもとさん。ほんとうにありがとうございました。また絶対にお邪魔します。
(その時、何かの撮影クルーが、こちらをチラ見して通り過ぎて行きました。)
このあたりで聞けば誰でも知っていると仲嶺眞永さんは言われたが、道行く若い奥さまに聞いても分からない。その他に人影もなく、すると見つけたこんなお店。味噌醤油屋さんですな。ここならきっとわかるだろう。
「すいません、ちょっとお伺いしたいのですが」……
ふと左を見ると、こんな門が。
そこには案内看板が立っている。
“仲田殿内跡(なかだどぅんちあと)”
説明書きによると、琉球王国時代の士族、仲田親雲上(ぺーちん)の屋敷跡。「玉那覇味噌醤油」は、琉球王家御用達。現在でも手作り無添加で製造しているという。
誰も出ていらっしゃらないので、思い切って中へ。
おお、味噌だ。味噌屋だから当たり前だが、この味噌樽、僕の子どもの頃、東京でもよく見たっけ。ここでは今も計り売りしてくれるんだ。
「はい、いらっしゃいませ」と出てきた年配の女性(お名前は「さくもと」さんとお聞きしましたが、さて)。さくもとさんのお顔は「あたしなんか撮らないで建物を撮りなさい」というお言葉に従いました。
そして、度肝を抜かれたのです。
「この建物は、あの戦争で焼けなかったのですか」
ここで30年間働いているというさくもとさんのお話では、潰れたけれども焼けはしなかったそうで、終戦後すぐに仕事の無い女性たちが、焼け残った木材を洗って再建されたのだそうです。
熟成した味噌の、なんともいい香りでいっぱいです。
さくもとさんは、いろいろな味噌の味見をさせてくださいました。どれもこれも深くて旨い。
「古い庭がありますけど、ご覧になりますか」
「もちろん」
表に出ると、煙突が。
「これはもっと高かったんですよ。でも一番最初に攻撃されてね。軍の施設だと思われたんでしょう。」
夏は、みんな涼みに来るという緑深い庭。
表の案内板にはこう書いてありました。
「庭にある井戸には二カ所に水を汲むスペースがあり、男女別々の専用の水浴場になっていたようである」
これが男性用。
こちらが女性用。
女性用の井戸には蓋が無いから中が見えます。深い。今はもう水は枯れているのだとか。
「なんで男女で分かれてるんですか?」
「首里だから、男尊女卑」
そう言って、さくもとさんは笑いました。
最後に、賄(まかない)のお味噌汁を頂いたのです。
美味であります。
そうか、この味噌ならば、お椀に入れて、それに本部あたりの鰹節とたっぷりふってお湯をかけるだけでも、十分おいしいに違いない。
⇒「社長とは呼ばないで」に、かつてこんなこと書きました。
さくもとさんにそんな話をしたら、さくもとさんは今でも一人暮らしの男子学生なんかには、それと同じ味噌汁の食べ方を教えているんだって。
県外にも卸しているそうですが、設定された賞味期限を過ぎて売れ残ったものは返品されてくる。本当は熟成が進んでいて、おいしくなっているのに。大和の行政が決めたルールが、何か大切なものを奪っています。手作り石鹸も同じことかな。
さくもとさん。ほんとうにありがとうございました。また絶対にお邪魔します。
(その時、何かの撮影クルーが、こちらをチラ見して通り過ぎて行きました。)
2009年11月20日(金)22時55分
素敵な仲間がたくさんできました
10ヶ月ぶりの“じんじん”です。
⇒前回“じんじん”に行った日の記事
4ヶ月ぶりの儀間進さんです。
⇒前回、宇夫方が儀間進さんにお会いした日の記事

そして2ヶ月前、宇夫方路が“儀間進のコラムを読む”那覇チームの皆さんとお会いしました。前回は6名のメンバーのうち2名でしたが、その後メンバーが1名増えて、今日はその7名のうち4名の方が集まってくださいました。僕は皆さんと初対面です。
⇒前回2名の方と宇夫方がお会いした時の記事
実際に儀間進さんのコラムを読んで録音するのは少し先になりそうですが、その準備段階として、とてもステキな広がりが見えてきました。
沖縄語を話す会の國吉眞正さんにも、大変お世話になっています。今日のところは、その全てをミステリーということにしておきますが、近日中に、色々な発表ができると思っています。
それにしても、今日はわたくし高山正樹が喋りすぎました。まずは僕の知っている大好きな儀間さんを、どうしても皆さんに伝えたくて仕方が無かったのです。本当は儀間先生がいらっしゃるのだから、儀間さんご本人のお話をたくさん聞けばよかったのに。
⇒わたくし高山正樹が儀間進さんのことを書いた文章
しかし、やっぱり今日も儀間進さんは儀間進さんでした。
「訛っている言葉なんてない。みんな同じ言葉なんですよ」
ややもすると首里や那覇の言葉が正しいといいたくなる、それを笑顔でたしなめる儀間さん。それは儀間さんのエッセイそのものです。
「はいさい」。沖縄の挨拶としてよく知られた言葉です。しかし女性は「はいさい」とは言わない。「はいたい」が正解。そのことも、コアな沖縄フリークたちには常識になりつつあります。でも、この日、儀間さんは教えてくださいました。女性が「はいたい」というのは、首里や那覇あたりでのこと。ちょっと北に行けば男も女も「はいさい」と言っています。
(もちろん、これにも注釈があります。北部でも、「はいさい」と「はいたい」を言い分けるところもある。どちらの方が多いかは定かではありません。)
さらに田舎へ行けば「さい」も言わずに「はい」だけ。
「まるで英語のようだ」
ウチナーグチは一筋縄ではいかない、と、ますます気が引き締まります。たとえば、と僕は思うのです。「沖縄の標準語」ということを、慎重に考えてみるのはどうだろう。首里という政治・文化の中心地。那覇という街の経済の力。沖縄芝居の心。先日会ったうるま市のおばあさんのように、日本の標準語と、沖縄の標準語と、そして自分の間切りの言葉と、とりあえず三つの言葉を勉強してみるというのはどうだろう。
⇒うるま市のおばあさんに会った日のこと
(でも、それには異論があるでしょう。宮古や石垣などは全く別の言語なのですから。使われている音韻さえ違う。首里や那覇の言葉に関わる人たちが、それぞれの地域はそれぞれでおやりなさいというのは簡単です。しかし、首里や那覇だからできるという状況もあるのではないでしょうか。たとえば鹿児島県の奄美はどうするのだろう。沖縄県の条例からは漏れてしまう。間切りが違えば言葉が違う沖縄。いったいどうすればいいのか。このことはいずれ考えたいと思います。)
昼間、大城立裕さんに「新沖縄文字」について話したことを、僕は儀間さんに報告しました。
「驚きました。こんな若造の意見をきちんと聞いてくださり、ご自分にはなかった視点だということを認めてくださった。大城さんは、とても柔軟な頭脳をお持ちだということを、あらためて感じました。」
儀間さんはそれに対して、次のように答えられたのです。
「そうですね。彼のそういう柔軟さのことを、一番分かっているのは、僕だと思うんだ。」
その言葉に、僕は鳥肌が立ちました。
あの琉大文学時代にあったこと、それは調べれば調べられます。ここで僕が書くことは控えましょう。そのかわり、「社長とは呼ばないで」という怪しげなブログに書いた文章ふたつ、どうかお読みください。
⇒儀間進氏の「ほんとうのはなし」(儀間進氏のひとつの負い目)
⇒三太郎からのバースデーカード(儀間進氏のふたつ目の負い目)
そして、今まで儀間さんが話されたユーモアたっぷりの大城立裕氏のことを、きっといつかここでお話できる日が来るだろうと、確信したのでした。
今日も、じんじんのマスターが、こんな差し入れをしてくださいました。

マスター、いつもありがとうございます。
そして、この日初めてお会いした皆さま。今日はちょっと遠慮してご紹介を控えましたが、もしお許しいただけるのなら、次回は是非とも皆さん一人ひとりのウチナーグチに対する熱い思いをご紹介させていただきたいと思っています。
宜(ゆた)さる如(ぐとぅ)御願(うにげ)ーさびら
⇒前回“じんじん”に行った日の記事
4ヶ月ぶりの儀間進さんです。
⇒前回、宇夫方が儀間進さんにお会いした日の記事
そして2ヶ月前、宇夫方路が“儀間進のコラムを読む”那覇チームの皆さんとお会いしました。前回は6名のメンバーのうち2名でしたが、その後メンバーが1名増えて、今日はその7名のうち4名の方が集まってくださいました。僕は皆さんと初対面です。
⇒前回2名の方と宇夫方がお会いした時の記事
実際に儀間進さんのコラムを読んで録音するのは少し先になりそうですが、その準備段階として、とてもステキな広がりが見えてきました。
沖縄語を話す会の國吉眞正さんにも、大変お世話になっています。今日のところは、その全てをミステリーということにしておきますが、近日中に、色々な発表ができると思っています。
それにしても、今日はわたくし高山正樹が喋りすぎました。まずは僕の知っている大好きな儀間さんを、どうしても皆さんに伝えたくて仕方が無かったのです。本当は儀間先生がいらっしゃるのだから、儀間さんご本人のお話をたくさん聞けばよかったのに。
⇒わたくし高山正樹が儀間進さんのことを書いた文章
しかし、やっぱり今日も儀間進さんは儀間進さんでした。
「訛っている言葉なんてない。みんな同じ言葉なんですよ」
ややもすると首里や那覇の言葉が正しいといいたくなる、それを笑顔でたしなめる儀間さん。それは儀間さんのエッセイそのものです。
「はいさい」。沖縄の挨拶としてよく知られた言葉です。しかし女性は「はいさい」とは言わない。「はいたい」が正解。そのことも、コアな沖縄フリークたちには常識になりつつあります。でも、この日、儀間さんは教えてくださいました。女性が「はいたい」というのは、首里や那覇あたりでのこと。ちょっと北に行けば男も女も「はいさい」と言っています。
(もちろん、これにも注釈があります。北部でも、「はいさい」と「はいたい」を言い分けるところもある。どちらの方が多いかは定かではありません。)
さらに田舎へ行けば「さい」も言わずに「はい」だけ。
「まるで英語のようだ」
ウチナーグチは一筋縄ではいかない、と、ますます気が引き締まります。たとえば、と僕は思うのです。「沖縄の標準語」ということを、慎重に考えてみるのはどうだろう。首里という政治・文化の中心地。那覇という街の経済の力。沖縄芝居の心。先日会ったうるま市のおばあさんのように、日本の標準語と、沖縄の標準語と、そして自分の間切りの言葉と、とりあえず三つの言葉を勉強してみるというのはどうだろう。
⇒うるま市のおばあさんに会った日のこと
(でも、それには異論があるでしょう。宮古や石垣などは全く別の言語なのですから。使われている音韻さえ違う。首里や那覇の言葉に関わる人たちが、それぞれの地域はそれぞれでおやりなさいというのは簡単です。しかし、首里や那覇だからできるという状況もあるのではないでしょうか。たとえば鹿児島県の奄美はどうするのだろう。沖縄県の条例からは漏れてしまう。間切りが違えば言葉が違う沖縄。いったいどうすればいいのか。このことはいずれ考えたいと思います。)
昼間、大城立裕さんに「新沖縄文字」について話したことを、僕は儀間さんに報告しました。
「驚きました。こんな若造の意見をきちんと聞いてくださり、ご自分にはなかった視点だということを認めてくださった。大城さんは、とても柔軟な頭脳をお持ちだということを、あらためて感じました。」
儀間さんはそれに対して、次のように答えられたのです。
「そうですね。彼のそういう柔軟さのことを、一番分かっているのは、僕だと思うんだ。」
その言葉に、僕は鳥肌が立ちました。
あの琉大文学時代にあったこと、それは調べれば調べられます。ここで僕が書くことは控えましょう。そのかわり、「社長とは呼ばないで」という怪しげなブログに書いた文章ふたつ、どうかお読みください。
⇒儀間進氏の「ほんとうのはなし」(儀間進氏のひとつの負い目)
⇒三太郎からのバースデーカード(儀間進氏のふたつ目の負い目)
そして、今まで儀間さんが話されたユーモアたっぷりの大城立裕氏のことを、きっといつかここでお話できる日が来るだろうと、確信したのでした。
今日も、じんじんのマスターが、こんな差し入れをしてくださいました。
マスター、いつもありがとうございます。
そして、この日初めてお会いした皆さま。今日はちょっと遠慮してご紹介を控えましたが、もしお許しいただけるのなら、次回は是非とも皆さん一人ひとりのウチナーグチに対する熱い思いをご紹介させていただきたいと思っています。
宜(ゆた)さる如(ぐとぅ)御願(うにげ)ーさびら
tag: ごうさん うちなーぐち 首里 沖縄の旅_2009年11月 儀間進 大城立裕 沖縄の呑食処.じんじん
2009年11月19日(木)23時59分
クガニゼークは遊女の指輪を作ったのか、と【廃藩置県】のこと少し
Banちゃんに連れられて、Banちゃんの知っている店へと向かいます。
ななしん屋の前を通って。

「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。
国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。

お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。
ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」
そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……

芹沢?介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。
確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。
実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里〜那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。
僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。
少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。
この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。
話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)
首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAX?”と“MAX?”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。
とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。

左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。
それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。
明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。
《追伸》
MAX CASAの暖簾です。

中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
⇒MAXのSHOP MAP(※デッドリンク)
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
⇒http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると(※そのページはもうありません)…
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。(※売り切れ)
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!
(※ページがないのでもう飛びません)
【参考情報集】
2006年6月3日発売の「うるま」6月号。

特集「沖縄の装身具」より
「技の語り部 金細工またよし 又吉健次郎」
(その「金細工」という文字に小さく「かんぜーく」とルビが振られている。しかしそれ以外、本文には「クガニゼーク」も「カンゼーク」も一切カナは使われていない。)
それに一つの房指輪が紹介されている。

「(この結び指輪は)遊女が身につけていたと推測されるものをお父さんの時代に復元した作品だという。又吉さんは、それを確認するために、五年前に元遊女に会った。すると彼女は、『いー、うれーうぬ指輪あったよ。名前はむしびゆびがね』といったそうだ。その遊女の母親がしていた指輪とそっくりだと話してくれたという」
⇒他の房指輪を見る
2006年7月20日に発売された雑誌「沖縄ちゃんぷるー」

又吉健次郎さんが紹介されている。
「かつて琉球王朝が存在していたころ、王府内には、金細工奉行所(かんぜーくぶぎょうしょ)という部署が存在し、献上品の真鍮で作られた酒器や身分の高い人々がつける装飾品などをつくっていた。その金細工の職人たちは首里に工房をかまえて、現在7代目となる又吉健次郎さんの先祖も首里の一角で仕事をしてきたという。父である誠睦さんは、民藝運動を行って熱心に沖縄に通っていた濱田庄司から、『琉球人に帰ってくれ』と言われ、勤めていた宝飾店での仕事をやめ、伝統の結び指輪や房指輪の復元に取り組んだ人だ」
健次郎さんが神業だったという父6代目誠睦さんも、伝統的な飾職一筋ではなかったということである。
2008年7月13日テレビ東京「匠の肖像」
その番組HPでは次のように紹介されている。
「16世紀、琉球王朝のお抱え職人だった金細工師(かんぜーくし)たち。金や銀などを素材に、金づちで形を作り出してゆく。それは王族の装飾品を始め、宮廷の人々の日用品となりました。又吉健次郎さんは、この伝統を受け継ぐ数少ない金細工師の一人です。」
【その他】
2002年4月
南風原文化センター
「匠の技にふれる 黄金細工(くがにぜーく)と鍛冶屋(かんじゃーやー)展」
⇒関連記事を読む
2005年8月
「JALリゾートシーホーク沖縄サマーフェスタ2005」
そのコメント。
「琉球王府御用達だった《金細工またよし》」
「沖縄の銀細工の匠のことを、地元では金細工(かんぜーく)職人と呼びます。」
2007年5月8日〜20日
「琉球伝統工芸銀細工作家 又吉健次郎氏の作品展と特別イベント」
10日:又吉氏講演会&普久原スージさんのピアノ弾語り
”琉球金細工(かんぜーく)と人々との出会い”
2007年8月
浦添市美術館
「沖縄の金細工(クガニゼーク)〜失われようとするわざ・その輝き〜」
(又吉さんが提出した資料にはご自分の工房について「かんぜーくまたよし」とある。)
2008年7月
第2回「白洲賞」受賞
旧白洲邸武相荘のHP、牧山桂子さんの署名記事に第2回受賞者を
「琉球伝統工芸 『金細工(かんぜーく)またよし』 七代目 又吉健次郎氏」
と紹介している。
2009年9月1日発売の「うない」
(「金細工」に全て「くがにぜーく」のルビが振られている。)
⇒関連記事を読む
2009年
「生きる×2」テレビ朝日10月18日放送、他。
「又吉健次郎さんは、金細工(くがにぜーく)と呼ばれる。」
「琉球王朝時代から続く金工職人の七代目。」
「廃藩置県や2度の大戦で殆どの職人が廃業し、現在は又吉さんの工房だけ」
ななしん屋の前を通って。
「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。
国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。

お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。
ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」
そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……

芹沢?介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。
確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。
実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里〜那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。
僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。
少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。
この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。
話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)
首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAX?”と“MAX?”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。
とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。
左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。
それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。
明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。
《追伸》
MAX CASAの暖簾です。
中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
⇒MAXのSHOP MAP(※デッドリンク)
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
⇒http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると(※そのページはもうありません)…
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。(※売り切れ)
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!
(※ページがないのでもう飛びません)
【参考情報集】
2006年6月3日発売の「うるま」6月号。

特集「沖縄の装身具」より
「技の語り部 金細工またよし 又吉健次郎」
(その「金細工」という文字に小さく「かんぜーく」とルビが振られている。しかしそれ以外、本文には「クガニゼーク」も「カンゼーク」も一切カナは使われていない。)
それに一つの房指輪が紹介されている。
「(この結び指輪は)遊女が身につけていたと推測されるものをお父さんの時代に復元した作品だという。又吉さんは、それを確認するために、五年前に元遊女に会った。すると彼女は、『いー、うれーうぬ指輪あったよ。名前はむしびゆびがね』といったそうだ。その遊女の母親がしていた指輪とそっくりだと話してくれたという」
⇒他の房指輪を見る
又吉さんのページに先立って、戦後直後から続く宝飾店が紹介されている。

2006年7月20日に発売された雑誌「沖縄ちゃんぷるー」
又吉健次郎さんが紹介されている。
「かつて琉球王朝が存在していたころ、王府内には、金細工奉行所(かんぜーくぶぎょうしょ)という部署が存在し、献上品の真鍮で作られた酒器や身分の高い人々がつける装飾品などをつくっていた。その金細工の職人たちは首里に工房をかまえて、現在7代目となる又吉健次郎さんの先祖も首里の一角で仕事をしてきたという。父である誠睦さんは、民藝運動を行って熱心に沖縄に通っていた濱田庄司から、『琉球人に帰ってくれ』と言われ、勤めていた宝飾店での仕事をやめ、伝統の結び指輪や房指輪の復元に取り組んだ人だ」
健次郎さんが神業だったという父6代目誠睦さんも、伝統的な飾職一筋ではなかったということである。
2008年7月13日テレビ東京「匠の肖像」
その番組HPでは次のように紹介されている。
「16世紀、琉球王朝のお抱え職人だった金細工師(かんぜーくし)たち。金や銀などを素材に、金づちで形を作り出してゆく。それは王族の装飾品を始め、宮廷の人々の日用品となりました。又吉健次郎さんは、この伝統を受け継ぐ数少ない金細工師の一人です。」
【その他】
2002年4月
南風原文化センター
「匠の技にふれる 黄金細工(くがにぜーく)と鍛冶屋(かんじゃーやー)展」
⇒関連記事を読む
2005年8月
「JALリゾートシーホーク沖縄サマーフェスタ2005」
そのコメント。
「琉球王府御用達だった《金細工またよし》」
「沖縄の銀細工の匠のことを、地元では金細工(かんぜーく)職人と呼びます。」
2007年5月8日〜20日
「琉球伝統工芸銀細工作家 又吉健次郎氏の作品展と特別イベント」
10日:又吉氏講演会&普久原スージさんのピアノ弾語り
”琉球金細工(かんぜーく)と人々との出会い”
2007年8月
浦添市美術館
「沖縄の金細工(クガニゼーク)〜失われようとするわざ・その輝き〜」
(又吉さんが提出した資料にはご自分の工房について「かんぜーくまたよし」とある。)
2008年7月
第2回「白洲賞」受賞
旧白洲邸武相荘のHP、牧山桂子さんの署名記事に第2回受賞者を
「琉球伝統工芸 『金細工(かんぜーく)またよし』 七代目 又吉健次郎氏」
と紹介している。
2009年9月1日発売の「うない」
(「金細工」に全て「くがにぜーく」のルビが振られている。)
⇒関連記事を読む
2009年
「生きる×2」テレビ朝日10月18日放送、他。
「又吉健次郎さんは、金細工(くがにぜーく)と呼ばれる。」
「琉球王朝時代から続く金工職人の七代目。」
「廃藩置県や2度の大戦で殆どの職人が廃業し、現在は又吉さんの工房だけ」
tag: 「クガニゼーク」のこと 沖縄の遊郭 国際通り 沖縄の呑食処.カフーシ 首里 100店.BAR 沖縄の旅_2009年11月 房指輪 結び指輪 ジーファー
2009年08月06日(木)23時38分
当世代田橋沖縄タウン事情【竹富島家庭料理“たきどぅん”】
稽古の話はさておき…
勇んで沖縄タウンへ。
しかし、何か変なのです。ごく普通のお肉屋さん、喫茶店、純和風の居酒屋、焼き肉屋さん…、沖縄関連のお店がとっても少ないのです。酒屋さんは確かにたくさんの泡盛を店頭に並べてあったりしますが、特に品揃えに驚くと言うほどでもありません。中華食堂でも沖縄焼きそばのメニューがあったりしますが、ただそれだけのこと。
もう少し奥にはきっと何かあるだろうと歩を進めたのですが、あっという間に商店街は終わってしまいました。
最後は靴屋さん。その店先。
これで打ち止め。(というか、沖縄サンダルって、はじめて見た。)
あーあ、これから毎日沖縄タウンで楽しめるとワクワクしていたのですが、なんだか拍子抜け。
でも、今日はここ沖縄タウンで、沖縄料理を肴に一杯やると昨日から決めていたのです。M.A.P.沖縄取材班としては、このまま意気消沈して退散するわけにはいきません。
沖縄タウンの中心は、商店街の真ん中のちいさな市場、その屋根付きの路地の中に、沖縄風居酒屋が2軒並んでいます。そのうち一軒は木曜が定休日、となれば選択肢はもう他にはありません。
お店の名前は“たきどぅん”
「たきどぅん」とは竹富島の意味だと説明あり、でも正確には「竹富」のこと。ただ現在の竹富島は一島一字(竹富)なので、竹富島全域が「たきどぅん」ということで問題なしです。
引き戸を開けて中に入りました。まだ5時過ぎという時間の所為もあるのでしょうか、お客様はひとりもいません。
竹富島の家庭料理を食べさせてくれるようですが、特に沖縄本島と変わったメニューがあるわけでもなさそうです。
じーまみ豆腐と…
軟骨ソーキと…
パパイヤのチャンプルー。
ちょっとひねくれた注文ですね。
正直言って、ズドンとゴーヤーチャンプルーあたりから行くという気分にならなかったのです。
ところがです。注文した一品一品が、実にいい。沖縄の家庭料理の王道って感じ。つまり、本物なのです。
他にお客様がいないのがこれ幸い、“たきどぅん”のおかみさん、富本たけみさんに声を掛ければ、気軽に、でもじっくりと話が始まりす。
まず、ここ、沖縄タウンの話題から。
「なるほどねえ」
「ははあ、そういうことか」
4年前、沖縄タウンが出来た当初はすごく話題になって、とってもたくさんのお客さんが訪れた。きっと、その時が勝負だったのです。その機を逃せば、残念ながら後はジリ貧。なぜ、そんなことになったのか、いろいろと伺いましたが、そのあたりの事情は、私たちがブログでとやかく言うことではありません。
話を聞いても、ただ呻るだけ、ならば不景気な話は止めにして、沖縄談義、泡盛談義。そうなれば、ただただ楽しい。とっておきの泡盛を、奥から探し出して飲ませてくださったり、裏メニューを教えてもらったり。
と、その時、店の前を通り過ぎる一人の女性…
たけみさんが、彼女の後ろから声を掛けた!
「あんた、あとで寄りなさいよ」
それから数分後、やってきたのはラジオ沖縄東京支社にお勤めの山川夏子さんでありました。いきなり、宇夫方路と、何やら込み入った話が始まりました。
山川夏子さんは、FM沖縄の山川悦史さんの遠い親戚。
大城立裕先生とも面識があると本人談。
宇夫方路の琉球舞踊の生徒さんの片野さんはFM沖縄の山川さんとは従兄弟同士。
つまり夏子さんと片野さんは親戚。
また片野さんのお母様は、立裕先生の奥様と親友の間柄。
ということは夏子さんの親戚が大城立裕先生の奥様と親友っていうことじゃないの?
はあ、そういうことですねえ。
それ以外にも、いろいろな方が共通の知り合いでした。要するに、沖縄はやっぱり狭いなあということです。
夏子さんのお母様は茨城県出身。50年前に沖縄にお嫁に行った。なんたって復帰前。沖縄のしきたりなんて全くわからない。でも、ヤンバルの親戚はみんな気さくで、しょうがないさあと明るく許してくれた。ところが、首里のお年寄りはそうはいかない。ものすごく厳しくて怖かった。交わす言葉は標準語、ウチナーグチで話そうものなら無礼者と叩かれた。もしかすると、敬い言葉が間違っていたからなのかも知れません……
きっと、いろんな苦労があったのでしょうねえ。
沖縄の男は働かない、頼りにならない、そんなイメージがあるけれど、本当はそうじゃない。ここぞと言う時に現れて、悪者をやっつけて、後はまた、何もなかったようにいつもの調子、まるでテレビの変身ヒーローみたいな存在なのだと夏子さんは言います。
子供の頃、近所に国吉さんというスーパーオジイがいた。遊んでいる子供たちを、一日中遠くから眺めてボーっと座っている。でも夕方になると、オジイの傍にはいくつものハブの頭が並んでいた。はじめて見たときは、なんでこのオジイ、イチゴなんか並べているのか、と夏子さんは思った。オジイは、子供たちをハブの毒牙から守ってくれていたのです。
また、国吉オジイは、遺骨の収集も名人だった。骸骨を見つけると、そこいらで遊んでいる子供たちを集めて、お経を唱えさせた。その頃、仏教の経文を唱えられるなんて、相当な御身分だったのかもしれません。
もちろん、不発弾だって出てきたでしょう。でも、きっとスーパー国吉オジイは、それもうまく処理していたに違いありません。
これから一ヶ月、ここ代田橋で稽古。沖縄タウンはちょっと残念だったけれど、でもこの「たきどぅん」に通うことを、仲良くなった富本たけみさんと約束したのです。だから、夏子さんとも、きっとスグに再会できますね。
記念撮影。
左から、たけみさん、夏子さん、宇夫方、お客さん、そしてたけみさんの幼馴染でお店のパートナー。料理担当、名前は訳あって内緒? お客さんはみんなマスターと呼んでます。
気がつけば、あっという間に11時。
「また、来まーす!」
2009年08月02日(日)23時55分
小禄の目白
私、高山正樹は、6月20日の記事にコメントをつけ、そこでおきなわおーでぃおぶっくの“儀間進のコラムを読む”という企画に関して、次のように書きました。
「儀間さんの視点は、首里を飛び出し、大和の田舎から奄美、果てはいわゆる『先島』にまで及んでいます。この儀間さんの実に奥行きのあるコラムの下に、どうしたらたくさんの若者が集まってくれるのか、毎日毎日、切実に考えています。」
このことについて、もう少し説明したいと思います。
儀間進さんのコラム「うちなぁぐちフィーリング」および「語てぃ遊ばなシマクトゥバ」で扱っているのは、沖縄で標準語的な役割を果たしている首里の言葉が中心です。儀間さん自身が首里の御出身ですから、そうなるのは当然でしょう。でも首里の言葉をメインの食材にして出来上がった料理は、冷静に首里を見つめ、さらには首里以外の地域にも気を配り、結果、重層的な奥深い味付けになっています。
単なる地域の比較にとどまらず、沖縄全体を地理的・歴史的に俯瞰する視点によって、儀間さんのコラムは優れた沖縄社会学としても読み応えのあるものになっているということを、お伝えしたかったのです。
儀間さんは、「首里だらぁ」という言葉について、あるコラムの中で次のように書いています。
「(この言葉は)首里ン人(スインチュ)が口にするものではない。ためしに『沖縄語辞典』を調べてみたがなかった。士族たちが、働きもせずに、だらりと日を暮らしているからともいわれ、首里ことばが悠長で、ゆったりしていることから、ともいわれるが、いずれにしても、悪口であることにかわりはない。色が生白くて、生活能力のない街育ちの首里ン人への侮蔑である。」
続けて「ンムニー カディン 首里ン人」の説明が始まるのですが、これ以上はネタバレ、もうじきデータ配信されますので、携帯電話からでもダウンロードしてお聞きください。
また、先日の沖縄語を話す会で、こんな話を聞きました。那覇空港の東に小禄という地域がありますが、その小禄の言葉は汚いと、那覇や首里から差別されているというはなし。小禄では犬の鳴き方も違うらしい。
船津好明さんによると、あの伊波普猷でさえ 「小禄の目白」という文章で、小禄の言葉の汚さに言及しているというのです。
僕はそれがどうしても読みたくて、宇夫方女史におきなわ堂へ寄った時に探してくれるように頼んだのです。そして7月22日に届いた本がこれです。

伊波普猷全集第十巻。
「小禄の目白」は次のように始まります。
「子供の時分、大人たちにつれられて、目白を捕りに能く大嶺辺に出かけたものだが、その為に小禄に行つたことはつひ一度もなかった。といふのは、小禄の方言は語調が悪いので、目白も自然その影響を受けて、音がだみてゐる、といふ理由からであった。」
たとえ本当に小禄の語調が悪かったとしても、まさかそれがメジロの鳴き声に影響するとは思えません。
そういえばもう40年も前のことでしょうか、僕の母方の田舎は千葉の佐倉あたりなのですが、鳥モチやカスミ網を仕掛けて、小さな野鳥を捕獲し(もう時効ということでお許しを)、その泣き声を楽しんでいました。若い鶯には、その鳥籠に黒い布切れをかぶせ、それを優秀な鳥の籠の傍に置いて鳴き声を憶えさせていたのを、子供心に不思議な思いで眺めていた記憶があります。
佐倉あたりの言葉は、とても汚ないという評判でした。しかしそれが鶯の鳴き声を乱したという話など、もちろん聞いたことはありません。
そんなことよりも、佐倉の言葉は汚いというような会話は、田舎の人たちとよく笑いながらしていたし、それでもって誰かを傷つけたというようなことは全くなかったように思うのです。(本当は違うのでしょうか。)
それが沖縄の小禄ということになると、どうしてこれほど気にかかるのでしょう。
ともかく、伊波普猷の「小禄の目白」が書かれたのは昭和14年という昔のこと、今はもうそんな差別はないと思いたいものです。
でも、沖縄語を話す会で、少しナイーブな話を聞きました。
現在の首里と小禄はどちらも行政的には那覇市ですが、東京にある那覇の人たちの集まりには、久しく首里や小禄の出身者は参加していませんでした。しかし同じ那覇市だからと、首里や小禄の人たちに参加を薦めたときのはなしです。
「小禄」は、やっと「那覇」の仲間入りができると喜んだ、しかし「首里」はいい顔をしなかった、そして今でも首里の人たちは「すいの会」で活動しているとのこと。
ちなみに「すいの会」の「すい」は純粋の「粋」の字を充てているのだそうです。
首里(スイ)や揃(ス)リィ揃(ジュ)リィ 那覇(ナーファ)なあはいばい
首里ン人はいつも揃って連れだち、那覇ン人は離ればなれ…
「儀間さんの視点は、首里を飛び出し、大和の田舎から奄美、果てはいわゆる『先島』にまで及んでいます。この儀間さんの実に奥行きのあるコラムの下に、どうしたらたくさんの若者が集まってくれるのか、毎日毎日、切実に考えています。」
このことについて、もう少し説明したいと思います。
儀間進さんのコラム「うちなぁぐちフィーリング」および「語てぃ遊ばなシマクトゥバ」で扱っているのは、沖縄で標準語的な役割を果たしている首里の言葉が中心です。儀間さん自身が首里の御出身ですから、そうなるのは当然でしょう。でも首里の言葉をメインの食材にして出来上がった料理は、冷静に首里を見つめ、さらには首里以外の地域にも気を配り、結果、重層的な奥深い味付けになっています。
単なる地域の比較にとどまらず、沖縄全体を地理的・歴史的に俯瞰する視点によって、儀間さんのコラムは優れた沖縄社会学としても読み応えのあるものになっているということを、お伝えしたかったのです。
儀間さんは、「首里だらぁ」という言葉について、あるコラムの中で次のように書いています。
「(この言葉は)首里ン人(スインチュ)が口にするものではない。ためしに『沖縄語辞典』を調べてみたがなかった。士族たちが、働きもせずに、だらりと日を暮らしているからともいわれ、首里ことばが悠長で、ゆったりしていることから、ともいわれるが、いずれにしても、悪口であることにかわりはない。色が生白くて、生活能力のない街育ちの首里ン人への侮蔑である。」
続けて「ンムニー カディン 首里ン人」の説明が始まるのですが、これ以上はネタバレ、もうじきデータ配信されますので、携帯電話からでもダウンロードしてお聞きください。
また、先日の沖縄語を話す会で、こんな話を聞きました。那覇空港の東に小禄という地域がありますが、その小禄の言葉は汚いと、那覇や首里から差別されているというはなし。小禄では犬の鳴き方も違うらしい。
船津好明さんによると、あの伊波普猷でさえ 「小禄の目白」という文章で、小禄の言葉の汚さに言及しているというのです。
僕はそれがどうしても読みたくて、宇夫方女史におきなわ堂へ寄った時に探してくれるように頼んだのです。そして7月22日に届いた本がこれです。
伊波普猷全集第十巻。
「小禄の目白」は次のように始まります。
「子供の時分、大人たちにつれられて、目白を捕りに能く大嶺辺に出かけたものだが、その為に小禄に行つたことはつひ一度もなかった。といふのは、小禄の方言は語調が悪いので、目白も自然その影響を受けて、音がだみてゐる、といふ理由からであった。」
たとえ本当に小禄の語調が悪かったとしても、まさかそれがメジロの鳴き声に影響するとは思えません。
そういえばもう40年も前のことでしょうか、僕の母方の田舎は千葉の佐倉あたりなのですが、鳥モチやカスミ網を仕掛けて、小さな野鳥を捕獲し(もう時効ということでお許しを)、その泣き声を楽しんでいました。若い鶯には、その鳥籠に黒い布切れをかぶせ、それを優秀な鳥の籠の傍に置いて鳴き声を憶えさせていたのを、子供心に不思議な思いで眺めていた記憶があります。
佐倉あたりの言葉は、とても汚ないという評判でした。しかしそれが鶯の鳴き声を乱したという話など、もちろん聞いたことはありません。
そんなことよりも、佐倉の言葉は汚いというような会話は、田舎の人たちとよく笑いながらしていたし、それでもって誰かを傷つけたというようなことは全くなかったように思うのです。(本当は違うのでしょうか。)
それが沖縄の小禄ということになると、どうしてこれほど気にかかるのでしょう。
ともかく、伊波普猷の「小禄の目白」が書かれたのは昭和14年という昔のこと、今はもうそんな差別はないと思いたいものです。
でも、沖縄語を話す会で、少しナイーブな話を聞きました。
現在の首里と小禄はどちらも行政的には那覇市ですが、東京にある那覇の人たちの集まりには、久しく首里や小禄の出身者は参加していませんでした。しかし同じ那覇市だからと、首里や小禄の人たちに参加を薦めたときのはなしです。
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