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二重母音・連母音・母音融合

宇夫方女史が沖縄にいる頃、小生高山正樹は午前中人形町の主治医へ。2ヶ月前に貰った薬が切れた。正月のドサクサで、禁を破ってちょいと味の濃いものを食べたりしているうちに、健康ゲームも少し飽きてきた。そんなことを思いながら、事務所に戻って仕事をする。

このブログを読んでくださる方は、小生は酒ばかり飲んでいてちっとも仕事をしていないと思われているかもしれないが、そんなことはない。昨日だって税理士さんが来て、昨年、M.A.P.で働いてくれた60人くらいの源泉徴収表を作成し、山猫合奏団の合わせの開始時間ギリギリに間に合わせたのだ。僕の健康を害しているものがあるとすれば、酒よりも仕事だ、なんてね、嘘ばっかり。
酒をやめないのなら身体を動かすしかない。今夜は市民劇の稽古である。喜多見から鹿島田の稽古場まで自転車で行く。20km弱といったところかな。自転車に乗りすぎると、精子が減少するって知ってた?まあ、もうどうでもいいけれど。

稽古場に着く頃は、もう真っ暗である。多摩川の向こう岸の東京が、なんだか異様だ。
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厳密にいえば日本語には二重母音は存在しない。たまたま母音が続けて出てくるに過ぎない。例えば英語の[day]などは「二重母音」だが、それは言語学的には1音節である。日本語で母音がふたつ繋がる場合は、あくまで2音節なので連母音という。
連母音とは、「愛(あい:ai)」とか「上(うえ:ue)」とか、母音が2回続けて出てくる場合に限っていうのではない。「貝(かい:kai)」とか「杖(つえ:tue)」とか、言葉の途中に母音がくれば、必ずそこには連母音([ai][ue])が存在する。
ところで、「音節」と「モーラ」は違うらしい。

なんでまた唐突にこんな話を始めたのか。

M.A.P.after5は、複数の連載読み物の集合体である。市民劇の成り行きだけが御所望ならば、「川崎市」のカテゴリの中の「枡形城・落日の舞い」というサブカテゴリをピックアップして読んでいただければ事足りる。だがそうはいかないのがM.A.P.after5。こっちの連載とあっちの連載が、時に化学反応を起こし始める。
「連母音」についても、今回の市民劇の稽古のハナシをしたくて持ち出してきたことなのだが、間違ったことを書かないようにと調べていたら、沖縄語と関係するとても興味深いことがたくさん見えてきたのだ。それを語るために、唐突ではあるが、言語学的な導入が必要だった。

英語などの発音記号では、長母音は[a:]とか[i:]というふうに表記する。一方沖縄語の長母音は、例えば沖縄語辞典では[aa][ii]と表記している。しかしカナで書く時は、「ゴオヤア」とは書かず「ゴーヤー」とするのが一般的である。
 ⇒関連記事「うちなぁ」か「うちなー」か(比嘉光龍さんからの回答)
それはいったい何故なのか。音節とモーラの微妙な違いと、なにか関連があるのではないか。

また、日本語の連母音と沖縄語の長母音の関係には法則性がある。いくつか例を挙げれば、日本語の連母音[ai]は沖縄語では[e:(ee)]となり、[au]は[o:(oo)]、[oo]は[u:(uu)]となる等など。
 ⇒関連記事「うちなーぐち講座《2》の2」
今まで僕は、この関係を口蓋化や高舌化との関連で考えようとしていた。「言語の省エネ化」として、一般化できないだろうかと思ったのである。

ところが、どうもそう単純ではないらしい。話しは沖縄にとどまらないのだ。
日本の話し言葉には、古い時代から二重母音(連母音)が極めて少なかったという。二重母音が出てくると、母音融合を起こして一文字の母音(長母音の場合もある)に変換してしまう。しかし、書き言葉は依然二重母音を保持して、母音融合を起こしたがる話し言葉と対立していたというのである。やがて、書かれた文字の通りに話すことが「正しい」とされるのだが、母音融合は無くならず、江戸弁をはじめとするアウトローの方言に、たくさん受け継がれて現存している。

僕は、母音融合の有る無しを、地域差だと考えていた。だが、どうやらそうではないらしい。これを書き言葉(権威)と話し言葉(スラング)の対立として捉えたらどうなるか。すると、沖縄語(ウチナーグチ)も、新たな相貌を帯びてきて興味が尽きない。

ウチナーグチのカテゴリの下に「母音融合」というサブカテゴリを作ってみた。そして、それらのすべての記事に若干手を入れた。市民劇の話題だけが御所望の方にも、お読みいただければとてもうれしいのだが、役者には無用だろうか。

もちろん、専門的な言語学の知識を全く持たないこの僕には、母音融合の背景について、云々する能力も資格もないのだが、理が勝ちすぎている不幸な役者なので、日本の語り物のことばの形を、今一度じっくり探ってみたいと思ってしまうのだ。そんなことをしているから、自分の芝居は一向に弾けないのではあるが。

日本の語り物は二重母音(連母音)を大切に発音するという僕の思い込みが、果たして正しかったのかどうか。そういえば狂言には、特有の母音融合があるではないか。

例えば[au]は[o:]となる。
「謡う」は「うたう」ではなく、[utoo]と発音されるのがその例だ。
また、形容詞の「〜しい」は「〜し」となる。これは[ii]という二重母音(連母音)を嫌った結果である。
「ややこしや、ややこしや」


ほんとにややこしくなった。ここらで、話しを市民劇の稽古に戻そう。しかし少し記事が長くなりすぎた。ひとつワンブレイクを入れることにする。

tag: 二重母音  【総合講座】  「枡形城落日の舞い」  健康ゲーム  高舌化  母音融合 

「上舌化(高舌化)」、うちなーぐち講座《4》

まずは…
過去の記事を加筆更新しました。
 ⇒沖縄語を話す会夏の宴(7/4)

一昨日、昨日、そして今日、三段落ちの猫。
なんと無防備な。
籠の外で寝る猫(一郎)
籠から出しても、どうやら君たちは、野良にはなれそうもない。

横目で猫を見て、こいつら幸せなのか不幸なのか、そんなことを考えながら書斎に入る。

ウチナーグチの音韻について、そのうちきちんと体系的にまとめてご説明しますなどと、春ごろ、このブログに書いた。
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-878.html
しかしながら、言語学をきちんと勉強しなければ、なかなか無責任な説明などできないことが分かってきた。

『沖縄語辞典』の「母音音素」の説明の中に、こういう記述がある。
「発音のしかたは大体標準語のそれに近いが、uは円唇母音であり、oは標準語のそれと同じ、ないし、わずかに広めである。」

なんとも厄介である。
円唇母音とは唇を丸くする、要するにちょっと口をとんがらす感じだろうか。ならば「標準語」はとんがらさないのかといえばそうでもない。例えば江戸っ子の無声音、寿司の[su]の[u]は、ほとんど平べったい口のママ出す[u](非円唇母音)だが、関西人が「すし」と言えば、ちょっと粘った有声音の「su]となって、この場合は明らかに円唇母音である。
 ⇒明石家さんまが「すし食った」と言ったならの記事

沖縄語を話す会の勉強会で、ネイティブな沖縄の方が、ヤマトンチュの喋るウチナーグチは何だか違うとおっしゃっていたが、たぶん、こうしたわずかな違いが、その方の違和感の正体なのだろう。そう思うと、ちょいと絶望的になる。

沖縄語を覚えるのに、なにも言語学など必要ではない。わかっちゃいるが、小生、こういうアプローチをしなければ気がすまない。他にもそういう性質(たち)の人たちが、少数だとしてもきっといるに違いないと、そういう御同輩に満足いただけるような説明をするために、もう少し頑張って勉強してみようと思っている。

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まず、M.A.P.after5うちなーぐち講座《1》の記事をお読み頂きたい。
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/907…

ヤコブソンの「一般言語学」の中に、こんな記述を見つけた。
「私が子供のとき見た変化を例にとると、標準ロシア語の母音のパターンに一つの顕著な変化が起こった.無強勢の、特に強勢のある音節の直前の位置で、/e/と/i/の二つの音素は、モスクワで私の祖父母の世代には区別されていた.私どもや、もっと若い世代のことばでは、この二つの音素は、一つの/i/になってしまっている.中間の世代、すなわち私どもの父母の世代では、この区別は任意的である.(中略)たとえばわれわれは、保守的に話すときは昔風のことばを使う.モスクワのロシア語で、私どもの父母の世代は、親しい間のおしゃべりでは、強勢のない/e/と/i/を区別しなかった.二つの音素を融合させてしまうという、新しいやり方をするのは、実際の年齢よりも若く見られるためである.」

ウチナーグチを考えようとする者にとって、実に興味深い記述ではないか。ヤコブソンは、ただ単にエピソードを語っているわけではない。彼はここから、文化の構造の全貌を、言語という地平で解き明かそうとするのである。

例えば、今ここでご紹介する余裕も能力もないが、ヤコブソンの「失語症」に関する考察は、ウチナーグチと大和の言葉の間に起きたダイナミズムを考える上で、極めて示唆に富むように思われる。そこに、個別の歴史という特殊性を重ね合わせた時、失ってはならぬもの、回復しなければならぬもの、変わっていっていいものを峻別する可能性が開けるのではないかとさえ思うのである。

ああ、この書斎に篭っていると、これが会社のブログであることを、すっかり忘れてしまう。頭を冷やして、少しばかり限定的な話をしよう。

やはりヤコブソンの「一般言語学」から。
「発生的には相対的な広さと狭さで対立し、聴覚的にはエネルギーの高度集中と低度集中(集約/拡散)で対立する口蓋母音は、若干の言語ではある位置では[ae](発音記号のaとeのくっついたやつのつもり。)―[e]で、他の位置では[e]―[i]で具現され、したがって、同じ音[e]が、ある位置では拡散の項を具現し、ある位置では同じ対立の他方、すなわち集約の項を具現することになる.双方いずれの位置においても、関係は依然として同一である.二つの開口度、これに対応して二つのエネルギーの集中度(最大度と最少度)が、双方いずれの位置においても対立している.」

ちょいとウチナーグチからズレるかなと思いながら、僕は、書斎の中で、まるでお経のような声を出してみる。
「あ」から「い」に向かってだんだん音を変えていく。しかし、なかなかうまくいかない。なぜなら、「い」に比べて「あ」は、舌の位置が奥の方にあるからだ。そのことを理解して、口の形を変えながら、舌をだんだん前に移していくことを意識するとうまくいく。しかし、その間に「え」の音は聞こえてこない。
今度は、「あ」を発音したまま、まず舌を前の方に移してみる。すると[ae](発音記号のaとeのくっついたやつのつもり)の音になるではないか。そして、この日本語にはない[ae]から「い」に向かってだんだん音を変えようとしてみると、意外に簡単に出来る。舌はそのまま、唇を、ただ横に拡げていけばいいだけである。そして、[ae]の音は、きちんと途中「え」を通過しながら「い」の音にたどり着く。つまり、「え」と「い」は、舌の位置が同じ位置(前)にあるからだ。「あ」から「い」に移動した時は、ショートカットしてしまったために、唇の横の広がりが「え」と同じ時、舌の位置は、まだ「え」よりも奥にあったというわけである。

口を横に拡げる、それはイコール舌の位置が下から上に上がっていくことと同じ(厳密にいえば違うのだが)。要するに、「え」と「い」は近しい関係。「え」の時の舌を、上に上げると「い」になるのだ。「お」と「う」も同じ関係にある。「お」の舌の位置を上げれば「う」になる。これを「上舌化(高舌化)」、」という。ウチナーグチは、かつてこの「上舌化(高舌化)」が起こったというのが定説である。「雨(あめ)」が「あみ」に、「雲(くも)」が「くむ」に。
これを、ヤコブソンが示したロシアの事例([e]→[i])を比較すると、とても興味深い。

それにしても、ローマン・ヤーコブソンの「一般言語学」という本は、20年以上も前に、文化人類学や構造主義の本を読み漁っていた頃に買ったもの、まさか今になってまたこの本を開くことになろうとは。しかし、あまりにも難解に過ぎる。近いうちに、もう少し簡単な言語学の本を、見つけてこようと思っている。でないと、生きているうちにウチナーグチをマスターすることなど絶対にできない。

しかし、こういう性格なのです。許してください。

tag: 【音韻講座】  高舌化   

「三母音」について(沖縄語の勉強会)うちなーぐち講座《1》

昨夜は鳥の研究。本日はガラっと変わってウチナーグチの研究です。

ウチナーグチの母音について、[e]が[i]に、[o]は[u]に変わるので、だから[a]、[i]、[u]の三つしかないのだというような言われ方を、よく耳にすることがあります。これって、ちょっと昔、かの伊波普猷先生が、何かの書物で書いてしまって、それが定説っぽく伝わったので、そう思い込んでいる人たちが多いということらしいのです。

ちなみに、[e]が[i]に、[o]が[u]に変わることを高舌化(高母音化)といいます。[a]と[i]と[u]は、極めて区別しやすい安定した母音なので、この三つしか母音を持たない言語は、アラビア語やブライ語など、世界中にいくらでもあります。

しかし実際は、沖縄語の母音は三つだけではありません。確かに、短母音での[e]と[o]は極めて少ないのですが、皆無ではありません。例えば「蝶」のことをハベル(haberu)というように、[e]や[o]の短母音も存在するのです。
また、連母音[ai]は長母音[e:]に、同様に[au]が[o:]に変わるというのも、ウチナーグチの特徴で、つまり[e]と[o]も、長母音でならいくらでも存在するということですね。

この[ai]→[e:]、[au]→[o:]という変化は言語学的には普遍的な現象で、この変化によって3母音体系から5母音体系に移行した言語も多いのです。サンスクリット語などもそれです。逆に5母音から3母音へ単純化された言語もあり、ウチナーグチもそのひとつだということになっていますが、ということは、ウチナーグチはその後、再び[e]と[o]を、[e:][o:]という形で組み込んだということなのでしょうか。

もともと日本語の母音は8音だったとか6音だったとか、いろいろな説があるのですが、ともかくそれよりもずっと前の紀元300年くらいに沖縄と大和のことばは分化されたというのが、今のところ一番有力な説ではあるらしいのです。しかし、もともと大和の言葉の基本母音は3音であって、だからウチナーグチは、こうした音韻に関しても古い大和言葉を残しているのかもしれないというような試論もないわけではありません。だとすると、大きく変化したのは大和の言葉のほうだということになりますね。でも、この説はちょっと無理があるかな。

それはそれとして、ウチナーグチに見られる変化と同様の現象は、大和の言葉にもあります。
ちゃきちゃきの江戸弁では、大根を「でーこん」、大概にしろは「テーゲーにしやがれ」といいます。どうです、これ、ウチナーグチで起こった変化と全く同じです。といってもこの音の変化は、やっぱり世界中にある現象なので、特にウチナーグチと大和の言葉を、ことさら関連付ける類の話ではありません。

ほかにも東北弁と比較するのもとてもおもしろいのですが、今日のところはこの辺で。

さて、今、僕に興味があるのは、こうした変化が何故起こるのかということなのです。もちろん政治や経済の「力」が大きく影響してきたということも否定できません。時にその「力」が、理不尽な「暴力」であったこともあるわけで、それは決して許されることではありません。しかし、長い歴史における言葉の変化を知れば知るほど、行きつ戻りつ、大きなうねりを伴いながらも、人智の及ばない根源的な何ものかへ向かって変わっていこうとする「言葉の不思議」も見えてくるのです。そうしたとき、言葉の平板化も、鼻濁音の衰退も、「ら抜きことば」も、言葉の乱れとは全く別の顔を見せ始めるのです。

[e]が[i]に、[o]が[u]に変わる高舌化は、口や舌の動きが小さくなるので、一種の省エネですね。そのようして労力を減らしておきながら、空いた[e]と[o]の席に、まったく別の出自をもつ連母音を長母音化して座らせたウチナーグチ。これ、勉強を始めたばかりの僕には、なんとも不思議なことなのです。
1から24までの正方形の駒を、1個の隙間を利用して順番に並び替えていく、あの懐かしいパズルを思い浮かべます。
今のコンピューターには、ハードディスクの中のデータを整理してくれる「デフラグ」という機能があります。あれ、結構時間が掛かりますよね。なんだか言葉も、それに似た作業を、気の遠くなるような年月をかけて行っているのではないのか、そう思えてきたのです。

生きたウチナーグチを残す、そうしたいと思って「おきなわおーでぃおぶっく」の新しい企画を始めたわけですが、しかしほんとうの意味での生きたウチナーグチとはどういうものなのだろう、甘受すべき変化も、見極めなければならないのではないか、なんだか迷宮の入口に立っているような、そんな不安に僕は包まれています……

というようなことを考えながら、「沖縄語を話す会」の勉強会へお伺いしたのでした。
上級者と初心者に別れての勉強。僕は初心者のテーブルに席を頂き、見学させていただきました。
本日のテーマは「無(ね)ーらん」の二つの使い方について。
「飲んでない」をこの表現を使っていうと「ぬでーねーらん」といいます。
「飲んでしまった」は「ぬでぃねーらん」といいます。
これって、よく使われる表現なのですが、難しくないですか。飲んだのか飲まないのか、真逆の意味です。病院で薬を飲んだか飲まないか、間違えて看護士さんに伝えたら大変なことになってしまいます。

グループごとの勉強会を適当なところで切り上げて、後半はみんないっしょになって昔物語(んかしむぬがたい)を読みます。
今日の題材は「大里ぬ鬼(うふじゃとぅぬうに)」です。
このはなし、オバアから聞いたことがあるよとか、うちのほうではこういうんだとか、実に楽しく豊かなひと時です。

あっという間の2時間半、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。もっとたくさんのことをご紹介したいのですが、間違ったことをお伝えしてはいけないので、僕自身もう少し勉強してから、お話ししたいと思っています。

【復習】
この勉強会で習っているのは、基本的には首里の言葉ということで、帰ってからちょっと調べてみたのですが、沖縄本島の中部、今帰仁(なきじん)地方では、なんと「飲んでない」も「飲んでしまった」も、どちらも
「ぬでぃねん」
というのだそうです。では、どのように区別するのでしょうか…
それは「飲んでない」の方を
「ぬでぃ ねん↑」
と微妙な間を入れて上昇調で言うことによって区別するのだそうです。
うーん、ウチナーグチのCD、やはりハードルはかなり高そうですねえ。

訳あって、もう「さき、ぬまん」

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