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枡形城の勉強会と見学会【旧陸軍登戸研究所のこと】

《10月31日その4》
今日はこんなことをやっているのである。

「枡形城」現地見学会のチラシ

枡形城は、秩父党の末裔、稲毛三郎重成が建てたと伝わる。
で、いったい何でこのところ唐突にこんな話ばかりを書き始めたのか。
実は自分でも、もうひとつはっきりとしていないのだ。
ともかく、ふじたあさや氏が川崎の市民劇の演出をすることになった。その市民劇は鎌倉時代の、ここ多摩区の丘陵あたりが舞台であり、稲毛三郎重成がその芝居の中心的な登場人物であるらしい。本番は来年の5月。ずいぶんと先のことなのだが、それがもう動き出したということなのだ。で、それが高山正樹とどんな関係があるのかなのだが、はて、それがどうもモヤモヤしている。まあそれについては、今しばらくお待ちいただきたい。もう少し見極めたいことがある。

ともかくだ。本日午前中の小沢城址&菅の薬師堂ツアーは、市民劇関係者が参加しての催しだったようだが、午後からは一般の市民の方々を交えての稲毛三郎重成についての勉強会と枡形城の見学会である。

薬師堂の本堂を閉めにいらした奥様にお礼を申し上げて、登戸にある専修大学まで歩いていくことにした。これも健康ゲームである。

ここから先は、我が家からかなり離れたことでもあるし、もう詳しいご説明はやめよう。

配られた資料

ただ、秩父一族の中の河越氏が、島津氏の祖だというちょっとした話が、M.A.P.的には妙に気になったのではあるが。

専修大学での地元の研究家の方による講義を終えると、本日の御一行は、枡形城址と重成の縁の広福寺を巡った。
薄くなったあさやさんの頭 稲毛館跡の碑
広福寺は重成の屋敷跡であったとも伝えられている。

夕方、現地解散とあいなった。

そして、小生は新しく「川崎市」というカテゴリを作成したのである。


【追伸】
「枡形城 落日の舞い」の作者は、小川信夫氏です。あのNHKの名古屋支局制作の中学生日記の仕掛け人でもいらっしゃいます。この日の帰り、お車で送っていただきました。途中、ちょっとファミレスに寄って、結局3時間ほど、たっぷりとお話を伺いました。別役実のこと、桜美林で観た学生演劇のこと、今回の市民劇の前身である子供ミュージカルのこと、果ては徳之島の「湯たんぽ」の危なっかしい逸話まで、ここでご紹介する余裕はありませんが、とても興味深いお話をたくさん伺いました。

その中で、登戸という土地の近代史には暗い一面のあること、多少は聞いたことのある話ではあったのですが、それが朝鮮戦争のころまでも続くことだったとは、全く知りませんでした。
いずれ勉強して、お話できる段階になったら御紹介したいと思います。

川崎市のカテゴリを作ったのも、もっと足元をもう少しきちんと見なければならないと、柄にもなく反省したからでもあります。

そこで、今日はディープなお話をひとつ。
M.A.P.の沖縄語を話す会で一緒に学んでいる川崎市在住の日高さんから、8月くらいに送られてきたメールの抜粋です。1939年に開設された旧陸軍登戸研究所のことです。私にはコメントする能力がありません。全くの無知なので、真偽についての憶測も一切いたしません。ただ、こうした話のある施設が、身近にも存在するのだということを、知ってもいいのではないかと考えるのみです。

現存している建物のひとつ、正門近くにある「動物慰霊碑」。中国での人体実験は、南京1644部隊が1941年5月以降、731部隊が1943年12月以降、この頃に登戸研究所は陸軍技術有功賞を受賞した。
1989年、新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地から多数の人骨が発見された。鑑定の結果、銃創痕や実験的な手術の痕が明らかにされた。
中国で人体実験をした犠牲者の骨を持ってきたとは考えにくいので、登戸研究所で人体実験の犠牲になった中国・朝鮮のひとたちのものではないかと、確証はないけれど、私は疑います。
登戸研究所において、無造作に埋めていた人体実験の犠牲者の人骨を密かに堀出し、そこに「動物慰霊碑」を建立したのかも知れないと思うのです。

「旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会」

tag: 小川信夫  「大いなる家族」  「枡形城落日の舞い」  川崎  日高 

菅の薬師堂

《10月31日その3》
菅の薬師堂は我が家のすぐそばにある。しかし何も知らない。ここに住んで20年近くなるにも拘らずである。
薬師堂
文治3年(1187)に、このあたりの領主であった稲毛三郎重成が建立したとされる。重成は妻が死ぬと即座に出家して、妻の供養のために極楽寺を建てた。その極楽寺がこの薬師堂だというのである。

どうやら獅子舞が有名らしい。
菅の獅子舞の説明看板
川崎市多摩区のHPに詳しい。
実は小生、一度も見たことがない。というか、そんなものをやっていることすら知らなかった。ひどいものである。

ご夫婦らしいお二人が、掃除をしていらっしゃったので、声をお掛けしてお話を聞くことができた。
御本尊は源義経の母、常盤御前で(何かの資料には「薬師如来秘伝」とあったが……)、本堂の奥にコンクリの出っ張りがあって、そこに安置されている。
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60年に一度御開帳されるらしいのだが、この次がいつなのかよく分からない、なにしろ偉いお坊さん10人ほど、遠くからお越しいただかなくてはならず、それはそれはお金がかかるのだとおっしゃっていた。前回のことを知っているお年寄りが一人いるとか、もういないとか、おふたりは首を傾げた。

このご夫妻はご近所にお住まいで(ということは我が家のご近所さんでもあるわけだがお会いしたことがないという情けなさ)、管理を任されていると伺った。毎月、薬師様(つまり常盤御前ということか)の月命日の2のつく日に本堂を開ける。その時には御本尊が安置されている厨子を見ることができる。
「今本堂の中を掃除しているからどうぞ」
「本当ですか、それは嬉しい」
写真を撮ることもお許しくださったので、厨子を撮影したのだが、なんともピンボケで申し訳ない。
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仏像の後ろにある黒光りした厨子がお分かりになるだろうか。是非また月命日に再訪して、今度はもう少し上手く撮ってご紹介しよう。火事になると、防火シャッターが下りて、たとえ本堂が焼け落ちても、ご本尊は守られる仕組みになっているとのことだった。

安産と眼の病に効くといってお参りに来る方がいる。
「きっと、ここをお参りして、たまたまそのあとお産が楽だった人がいたり、目がよくなった人がいるんでしょうねえ」

獅子舞の4人の舞手は、このあたりの農家の長男がやることになっている。ところが今の時代、農家の息子は家を出てしまって、もう次の代を近隣の農家の息子でまかなうことができなくなってしまった。そこで今、小中学校で子供たちに教えて、後を継ぐ人材を育成しているのだそうである。

ふじたあさや先生はじめ、川崎市民劇関係の御一行が、間もなくここに到着するだろう。そのことをお話をしたら、このまま本堂を開けておいてくださることになった。

やがてがやがやとやってきた殆ど初対面の皆様に、小生は今仕入れた話を、まるで10年前から知っていたかのようにご説明申し上げたのである。

そして皆さんは次の場所へと向かった。
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小生は姿が見えなくなったご夫妻がお戻りになるのを待った。お礼も言わなければならないが、それよりも、60年間誰の目にも触れない常盤御前を、開けっ放しの本堂に置いたママここを離れてもし何かあったら、家族連れて引っ越さなければならない。


【追伸】
薬師堂を管理されている御夫妻のご主人から、ちょっと興味深いお話を伺った。
このあたりの寺社は、皆ここと同じように高台にある。それは多摩川がよく氾濫したかららしい。その昔、多摩川は暴れ川と呼ばれていた。

ここは川崎市だが、多摩川の向こうは東京の狛江市である。1974年9月の台風16号による狛江市の堤防決壊は、後に「岸辺のアルバム」というテレビドラマにもなった。
その時の堤防決壊の原因について、下記サイトが詳しい。「管理者(国)の過失(怠慢)」が「狛江水害事件」を引き起こした。つまり人災であった。
 ⇒http://www.tamagawa-kisui.jp…

ご主人は当時大手の建設会社にお勤めで、堤防の建設か管理かに携わっていらっしゃったらしい。「あれは天災じゃない。人災だった」とご主人も言われた。
だがその理由は、上のサイトの説明には一切書かれていないことだった。ただ、それをここで書いてしまっていいものか、躊躇している。

いずれにしても別途記事にて、後日あらためて、何らかのご報告をしたいと考えている。

tag: 「枡形城落日の舞い」  川崎  狛江 

小沢城址を歩いた

《10月31日その2》
宇夫方路女史が上野で宣伝活動をしている頃、僕は自宅のそばにある小沢城址あたりを歩いていました。
デジカメは路さんが上野に持っていってしまったので、携帯で撮影した画像でご勘弁。
小沢城址の道 小沢城址の階段 小沢城址の林
もちろん、こういうところがあることは知っていました。何度か散歩したこともあります。でも、ここにどんな歴史があるのかなんてことには、ちっとも興味がありませんでした。
現地にある遊歩道の地図の一部分です。
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この地図の上のほうにも遊歩道は続いているのですが、今日は大よそこの範囲をウロウロしていました。上というのは読売ランドの方角。南向きの案内板なので、上は南です。でも地図屋としては南北逆さまなのは気持ち悪い。

川崎市がこんな地図を出しています。
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こっちはちゃんと北が上です。
ちょいと拡大。
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ところで、なんで今日ここを歩くことになったのか。それは枡形城主の稲毛三郎重成の息子である小沢次郎重政が小沢城の主だったから。
 ⇒関連記事「“枡形城 落日の舞い”があるらしい」

枡形城址も小沢城址も、川崎市の西北の丘陵にありました。小沢城が建てられたのは平安の末期、稲毛三郎重成の築城とも、その子小沢小太郎(重政の別名)の築城とも伝わっています。鎌倉時代、多摩川の南の東西に連なるこの丘陵は、東や北から鎌倉へ向かう交通の要衝で、軍事的にも極めて重要な場所、度々合戦の舞台ともなりました……
なんてことを、ちょっと勉強してみようかなという日なのです。

小沢城址の碑
いずれカメラを持って再訪しましょう。その時にはもう少し詳しく説明できるように勉強しておきます。といってもネットで「小沢城址」で検索すればいっぱい出てきます。“M.A.P.after5”ならではのネタを探さなくちゃね。

みなさんいらっしゃらないので、一足先に薬師堂へ向かうことにしました。
道標
薬師堂は我が家のすぐそばなのです。

tag: 「枡形城落日の舞い」  川崎 

第37回宮古ふるさと祭り

(※本記事は2011年1月31日に投稿しました。)
10月26日〜30日までの記事アップ状況

そして《2010年10月31日》
※多忙な宇夫方路の担当記事です。ようやくアップだ!(高山正樹のコメント)
※以後、青地は高山正樹の突っ込みコメントです。



【宇夫方路による報告】

上野の水上公園で宮古郷友会のイベント“宮古ふるさと祭り”が大々的に開催されると聞いて、三笑亭夢丸with東京奏楽舎の深川江戸資料館公演の宣伝をするために行ってきました。

前日までの台風の影響で心配していました。時々パラパラと小雨が降る空模様ですが、何とか風はおさまって、どうやら開催できそうです。
舞台準備中 五穀豊穣の幟
※幟が全部裏、なんとか表から撮れなかったものか。

ぞくぞく宮古をふるさとに持つ人たちが集まってきました。
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客席は地域別に分けられています。お客さんは自分の出身地の席に座るのです。
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「宮古の中でも栄えているところの人はあまり郷友会には顔を出さないの。田舎の人ほどたくさん集まるのよ」
「へえ、そうなんですか」

耳に入ってきた会話。
「あなた今日踊ってよ」
「え、わからないよ」
「大丈夫よ、裏で練習するから」
「無理だよ」
「うちは出る人が少ないから出てよ」

私は受付の所で、お客さんたちに桃原健一主役バージョン!のチラシを配りました。
奏楽舎のチラシ(桃原健一主役バージョン)

前半は「なりやまあやぐ国際コンクール」で、宮古に古くから伝わる民謡が続きます。この中で優勝者を決めるようです。
※「国際コンクール」ってなんだ?大リーグのワールドシリーズみたいなもんか?
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後半は各出身地別に色々な歌踊りが続きます。

いつまでも遅れてやってくる方がいるので、私は受付のそばから離れられません。それでも後になるにつれ、さすがに途切れるようになったので、その隙に、写真を撮りました。
null 盛り上がっている舞台

シーサー玉城発見!
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シーサー玉城は、沖縄で藤木勇人さんと一緒にラジオ番組をやっているそうです。東京で行われる沖縄の関係のイベントを沖縄の人たちに紹介するという番組。今日はその取材に来たということです。
※だからさ、藤木勇人さんの一人芝居の打ち上げで、そんな話が出てたよね。今は沖縄にいるウチナーンチュより、むしろ沖縄を離れたウチナーンチュの方に強い郷土意識がある。だから、東京から沖縄へ向けて「沖縄」を逆発信していく試みをやるんだというハナシ。宇夫方さん、憶えてないのかしらん?
 ⇒藤木勇人一人芝居の打ち上げ記事
このパンチパーマの方が、宮古ふるさと祭りの責任者の方みたいです。
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※パンチパーマなんてことはどうでもいいだろ。おもしろいけど。

宇夫方路とシーサー玉城
※いるか?この写真。

舞台で踊っていたおじさんが下りてきたので、撮らせてもらっていいですか?と聞いたら、ピースをしてくれました。
(どこの郷友会か、聞きそびれちゃいました。)
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※条件反射だな、きっと。

結局、開場から4時頃までチラシを配り続けました。
お世話になった草野さんと記念撮影。
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※条件反射、ふたつ……
草野さんはヤマトンチュですが、もう何年もクイチャーパラダイスというところで宮古の三線を習っているそうです。その関係でこの宮古の催しに関わっていらっしゃるのです。
無事に終わりそうで、ほっとした様子でした。

帰る前に少し舞台を見せていただこうと客席に入ったら、持田明美先生を発見。ちょっと御一緒して、私はこの後、琉球舞踊の稽古があるので、先に失礼しました。

この日、高山正樹は……

【後日談です…】
草野さんは1月10日の東京琉球舞踊協会の新年会で、クイチャーパラダイスの代表で出席されていました。きっと、頼りにされているんでしょうねえ。

tag: 東京奏楽舎  桃原健一  藤木勇人  シーサー玉城  宮古