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菊地さんのこと・昔の酒菜の思い出

※紀伊國屋ホールで津嘉山正種さんにご挨拶した後……
久しぶりに菊地さんの顔でも見ようと、歌舞伎町の市場寿しに向かった。5月15日以来。ところが……
テナント募集の貼紙

菊地さんと始めて出会ったのは、喜多見の美登利寿司。世田谷通り沿いに2軒あったけれど、駅に近いほうのお店。
「ウニ、どう?」
そう聞いたら、目だけでやめときなと帰ってきた。ただ「うに」と頼めば「へい」と握ってくれたに違いない。一見の客である。安いネタじゃあない。食わせてしまえばそれで終わり。しかし「どう」と聞かれて菊地さんは何を思ったのか。僕がニヤッと笑ったら、菊地さんは片側の口角をちょっと上げた。
メニューにない“づけ”、握ってもらえるのか頼んでみた。30分ほど待てという。もちろん待つと言った。
出てきた“づけ”には洋ガラシが乗っていた。
「ああ、これさ、小笠原とか八丈島とか、あのあたりじゃあネタを醤油につけ込んで、洋ガラシで食べるんだよね。島寿し。これが美味いんだ」と僕が連れに能書きを垂れたら、菊地さんはちょっとおどけてつまらなそうな顔をした。そうか、これは菊地さんのネタだったらしい。
「いや、ごめんごめん。このハナシは菊地さんが語るはずだったんだ。そして俺はそれを拝聴して、へえそうなんですかって感心しなきゃいけなかったんだな」
「いやな客だ」

それから、僕はちょくちょく店に顔を出すようになった。僕の顔を見れば、時間のかかる“づけ”を菊地さんは黙ってまず仕込んでくれた。新顔を連れて行くと、「づけ、いくつ」が挨拶代わりのやり取りだった。
いつしか菊地さんの本日のお勧めで任せて握って貰うようになった。でも一度もウニを握ってくれたことがない。もしかすると、それは菊地さんの作戦で、まんまと僕は乗せられていたのかもしれない。

このお店は、かの有名な、でも有名になってから地元の人は行かなくなったという梅が丘の美登利寿しの直系。諸々裏事情はお話できないが、“こもろ家”と屋号を変えた後も、菊地さんが店を仕切っているように見えた。

やがて、それまで姿をお見かけしなかったオーナーが、“こもろ家”になってしばらくした頃から、よくカウンターの中に入られるようになった。そうして間もなく、菊地さんの「リストラ」が決まった。菊地さんを慕っていたバイト君も、菊地さんが辞めるのとほとんど同時にいなくなった。僕のように、菊地さん目当てに来るお客さんも、遠退いたと聞く。

“こもろ家”のオーナーがどうのこうのというつもりは全くない。小生も会社の代表の端くれ。一従業員やバイト君の一方的な話しを聞いて、何かを云々するほど単純ではない。むしろ、客やバイトに人気のある職人さんを使わなければならないオーナー職人の立場を想像すれば、その苦労が見えるようで、心からご同情申し上げたいとも思う。
僕が今日語りたいのは、ただ菊地さんのことだけである。それによって、別の何かを貶める気は全くない。

「喜多見で、いい物件ないかな」
せっかく自分についたお客さんたちを相手に、自分の店を持って寿しを握りたい、そりゃそうだ、相談されてよき場所がないか探してみた。今、鳥力中央研究所の入っている店舗が、その時ちょうど空いていた頃で、そこを検討してみたりもした。

数ヶ月後、市場寿しに誘われたと聞いて安堵した。

それから、まだ2年くらいしか経っていない。菊地さん、なんで電話のひとつもくれないのだろう。市場寿しが閉店したのはいつなんだろう。菊地さん、今、どこでどうしているのさ。まだ菊地さんの握ったウニ、一貫も食べてないんだけど。

致し方なく、喜多見まで戻って“酒菜”に寄った。
かつてまだ“酒菜”にスーさんがいなかった頃、沖縄出身の「とくさん」がやっていた。今でも“酒菜”には沖縄のツマミが結構あるが、「とくさん」の頃はもっと沖縄色が強かった。そういえば「はじめちゃん」というかわいい男の子もいたっけ。その「とくさん」がいなくなって、僕は“酒菜”に行かなくなった。
スーさんの“酒菜”に行くようになるまで、ずいぶんと時間が必要だった。今でも、今の“酒菜”に対する微かな「よそよそしさ」が僕の頭蓋骨の裏にへばりついている。それはきっと、昔の“酒菜”での思い出の残り滓なのだろう、そんな気がしてきたのである。

なんとも五十絡みの厚かましいおっさんには似合わない話だ。確かに、僕が今スーさんとする話は、高血圧と尿酸値のハナシばかり。それが現実。

要するに腹が減っているのだ。
カルビ焼肉サラダ。
牛カルビ焼肉サラダ
本日は豚カルビではなく、牛カルビを使用。

「とくさん」は今、狛江の串かつ屋さんにいるらしい。喜多見だけで手一杯。狛江まで範囲を拡げたくはなかったのだが、会社の登記は狛江市だし、串揚げ屋さんをご紹介しない理由はない。
菊地さんにも電話をしてみよう。明るい声で。

そして“こもろ家”さんにも行ってみよう。それがM.A.P.的な正しき道。
(文責:高山正樹)
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tag: 喜多見  菊地さん  喜多見_居酒屋.酒菜 

青年座の“黄昏”《誇りあるノーマンを演じた津嘉山正種のリアリティー》

新宿の紀伊國屋ホールに青年座の芝居を観に行きました。アーネスト・トンプソンの“黄昏”です。
やはり、津嘉山正種は名優でありました。

他の役者さんだって、悪かったわけではありません。ただ時々、何故そこで正面を切った芝居をしなければならないのか、そんな場面がなかったわけではありません。でもそれが気になったのは、主役の津嘉山正種の演技にそんなスキが全くなかったからなのです。一杯飾りの舞台で、リアリズムの芝居を完璧にこなすことがいかに難しいか、かえって思い知らされたような気がします。

幕が上がって、最初に津嘉山さんが短い階段を降りてくるのですが、僕はその姿に驚きました。もしかして津嘉山さん、ずいぶんと弱られてしまったのではないだろうか。その立ち振る舞いが、今月6日にお会いした久米明さんにそっくりだったのです。

芝居が進めば、そういう役なのだということが分かるのですが、それでもなお、もしかするとと思わされるほどリアリティーがありました。決して腰の曲がった老人を演じていたわけではない、むしろ威厳を持って堂々と、肉布団を入れてお腹を大きく見せていらっしゃるようでした。

ただ息子が欲しかった、それだけの理由で通じ合うことが出来ない父と娘。母はあっけらかんと父の側に立っている。頑固な父、そして娘の深い苦悩を理解しようとしない母。なんとも救いがない。しかし、そんな理解は的外れなのです。つまり、そんなことはどうでもいいのです。子供さえ立ち入ることの出来ないエゴイスティックな老夫婦の愛、誰がそれに否を唱えることができるでしょうか。それを支えているのが津嘉山正種の死を見据えた演技です。そのリアリティーの前では、どんな「解釈」も意味を失います。これが、舞台の上で役者が生きるということなのかもしれない、柄にもなく、そんなことを思わされたのでした。

終演後、「もうすぐ津嘉山が出てきますから」と制作の紫雲さんに言われて、津嘉山さんの追っかけの如く「出待ち」することにしました。

「タバコをおやめになったそうで、それでホントに太られたのかと思いました。」
「こんなもんですよ」と、津嘉山さんは実際に少し大きくなったお腹を、トントンと叩かれました。
「玉三郎さんから届いた花の前で撮りましょう」
高山正樹と津嘉山正種さん
でも、ピンボケで「阪東玉三郎」の文字が読めません。残念ながら。

人類館のCD、少しは売れたのかなあ、聞くの、忘れました。

tag: 津嘉山正種  青年座  「人類館」