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「枡形城」は今年3度目の稽古でした

多摩の横山のイメージが伝わるような写真がなんとか撮影できないかと考えているのですが。今日も本部のベランダからの風景を撮影。ずっと向こうにうっすらと写っている富士山、分かりますか。
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よく分からない? じゃあアップ。
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よみうりランドの観覧車が見えますが、そのあたりの距離のところに多摩の横山があるのです。
体調もやっと戻ってきました。今日は元気に市民劇、今年になって2回目の稽古です!というつもりで出かけて行ったのですが……
「あら、この前の稽古の日、旅僧さんどうしたんですか」
などと言われ??
どうやら「2回目の稽古」は一昨日の11日だったらしい。

わたくし、自分のスケジュールを明日までしか把握していないのです。朝事務所に行って、ボードを見てその日と次の日のスケジュールをチェックします。事務所に行かない日は電話で聞きます。明後日のことは聞きません。聞いても忘れるから。明後日のことは明日決める。そんなわけだから、10日にダウンして自宅で臥せっていた僕は、12日に何があるか、全く頭の中から抜け落ちていたのです。
どうしてもやらなければならないことがあれば、事務所の誰かが連絡くらいしてくるだろうと高をくくっていました。ところが、業務に関係していない市民劇のことなど、会社の連中の念頭には無かったようで。

というわけで、わたくし、11日の稽古のことは、すっかり失念しておりました。皆様、大変失礼いたしました。そこで、私の役名は「旅僧」ではありますが、その法名を「失念」とすることにいたしました。
「失念した」の「失念」のアクセントは(_ ̄ ̄ ̄)ですが、法名なら( ̄___)ですな、ハハ……。

この日の稽古のダメ出しで、あさや先生は「東国」を( ̄___)と発音していらっしゃいましたねえ。2回も。僕もそう読みたいなあ。

7日の稽古で、ふじたあさや氏は鼻濁音のことを指摘していました。11日の稽古のことは知らないのですが、この日の読み合わせでも、何にも変わってはいませんでした。
僕個人としては、いわゆる標準語のルールとは関係なく、鼻濁音とそうでない音を、場面や個性に応じて使い分ければいいと思うのですが、今の状態はそれとはだいぶ違う。きっと、最後までこのままでしょうね。アクセントも同じこと。

稽古が終わって、近くのお店でちょっと一杯。
居酒屋ますき
6回目の「飲み」。新しい方2名。累計19名。(※小川信夫先生宅へのお年始と、稽古場での親睦会は除く)
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左手前から時計回りにご紹介。
まずは石山海くん。日本映画学校演出科出身。今回の芝居では主人公の稲毛三郎重忠を演じます。彼、パパになったばかりらしい。彼の明るい性格がこの芝居を支えます。そしてそんな彼を支える奥さんは間違いなくもっと偉い。
そのお隣はミズノタクジ氏。超電磁劇団ラニョミリという集団の中心人物。どこやら海の向こうの大学で舞踏などを学んでいらしたらしい。
男優不足なので、頼朝と農兵の二役を演じます。残念ながら踊る場面はみられそうもありませんが。父上の水野哲夫氏が代表をなさっている京浜協同劇団を、彼が退団されたその理由は不明?
そして井上思麻さんは中西和久さんが主催する京楽座の女優さんです。彼女の役は侍女・楓。
最も上座には福留千惠さん。堂々と北条政子の役です。適役? 彼女の自己紹介は、「私のダンナは野球選手の福留孝介のいとこです」。
中谷麻由子さん。超電磁劇団ラニョミリの女優さんで、里の子どもを、手を抜くことなくちゃんと演じています。だから僕は、いつも感心しています。
海浩気くんも京楽座の所属。畠山二郎重保と北条義時を演じます。さて彼がいったいどんな「はんぱない」演技をするのか、ちょっと興味が沸いてきました。注目。
寄せ集めの今回の集団、散漫になりそうな読み合わせ、それをきっちり芯になって引き締めているのが隈本吉成先輩。小沢昭一氏が1975年から5年間限定で立ち上げた芸能座のご出身です。京楽座の中西和久さんは隈本さんの高校の一年先輩とのことですが、中西さんは隈本さんに一年遅れて芸能座に入団されました。現在はザ・スーパー・カムパニイに所属。
(因みに、演出のふじたあさや氏は、芸能座で若手の俳優に演技を教える講師をしていました。)
そして最後がとのぎひろこさん。最近、ミズノタクジ氏を追いやって、超電磁劇団ラニョミリの代表に就任しました。福留さんとダブルで北条政子を演じます。こちらは彼女の学歴のママに……

皆さんきっと芝居をこよなく愛していらっしゃる。というより、俳優として演ずるということが、皆さんにとって人生における最大関心事なんだろうと感じてしまったのです。
すると途端に僕は、自分がここにいてはいけないのではないかと考え始めた。そしてずっと、沖縄の言葉と、古の大和の言葉の、その対峙する文化、などということに思いをはせていたのです。僕は確かに現代の只中にあるのだが、「演ずる」という行為を、単なる個の感覚として語るだけなら、僕はそれよりも、「個」とは無関係に、「言葉」が背負っている過去の総体というものを想うほうに、はるかに関心があるのだ、というふうに。

また、僕の悪い癖が始まりました。

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tag: 「枡形城落日の舞い」  富士山  隈本吉成