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《物語りたいことを物語る》【古屋和子“ストーリーテリングの力”】

事務所で仕事をしていると、あさやさんから電話が入った。
「今日の2時から4時まで、体、空かないか」
新百合ヶ丘の昭和音大で古屋和子さんとあさやさんのトークショーがあるらしい。なんでも古屋さんが琵琶を持ってきているとのこと。
北校舎の5階。
へえ、こんなホールがあったんだ。ラ・サーラ・スカラというコンサートホール。
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連続講座の第4回。
「心より心に伝うる~ストーリーテリングの力」
今回の語る人(ゲスト)は古屋和子さん。武順子さんの師匠で、チラシにはこんなふうに紹介されていた。
1947年京都市生まれ。ストーリーテラー。早稲田小劇場を経て、観世栄夫氏に師事。水上勉氏の「越前竹人形の会」「横浜ボートシアター」等で活躍した。その後は近松作品、説経節、泉鏡花作品などのひとり語りを行い、ここ20年ほどは、北米先住民など世界のストーリーテラーたち交流をふかめ、優れた語りや民俗音楽、絵本などの紹介につとめる。
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聞く人はふじたあさや氏。トークショーの前に古屋さんの語りを聞く。

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まずは近松門左衛門の「曽根崎心中」道行の場面。その後も「平家」などいくつか。予定の時間を大幅に超えて殆ど古屋和子独演会の様相、トークに残された時間は30分くらいになってしまった。

さて、ストーリーテラーとは何なのか。物語る人ということだが、いったいどう説明したらよいのだろう。朗読と物語ることとは何が違うのか。どうやら古屋さんは、ストーリーテラーとは、語るべきものを抱えて物語る表現者だといいたげである。

しかし、ならば「語るべきもの」とは何なのか。

古屋さんは言う。日本人は出自を聞かれても、たいがい親の出身地ぐらいしか答えられない。しかし例えばアメリカインディアンなどは、そういう時、自分のルーツを何代も遡って語り始めるのだと。
つまり「語るべきもの」とは、祖先の長い歴史の中で培われてきた自らも属する文化の記憶の総体と、それに対する祈りとでもいうべきものなのだろうか。

かつて古屋さんは、師である観世栄夫氏から、「上手くなったが悪くなった」と言われたという。その意味が古屋さんにはずっと理解できなかった。ざくっとハナシを端折ってしまうが、その壁を、古谷さんは「意味」でもなく「情緒」でもなく、「息」で克服しようとしてきた。

自分の話になるが、僕は学生の頃、歌舞伎研究で著名な今尾哲也氏から、「がっぽう」という芝居を通じて、台詞を息によってコントロールすることの重要性を教わった。呼吸は生理である。だから役者は無意識のうちに楽をして気がつかない。「止める」「吸う」「吐く」、呼吸を意識して操ることは極めて面倒な作業だが、それをしなければ碌な台詞など喋れない。
以来、古典を演ずる者にとって、息とは、古の言霊を復活させるために必要な、黄泉の国から吹いてくる風のようなものだという感覚が、ずっと僕にはあった。

「日本人は語るべきものを持っていない。沖縄とアイヌにはそれがあるけれど……」
ふじたあさや氏は、そう古屋さんに問いかけた。さすがふじたあさや氏、核心を突いた問いだと思った。さて、古屋さんは何と答えるか。
「そんなことないですよ。例えばおじいさんなら子供の頃の話をすればいいんです。みんなそれぞれ伝えたいことがあるでしょう、それを語ればいいんです。この本を読んで聞かせたい、それだけでもストーリーテラーなんですよ」
あさやさん、してやられたな。もう予定の時間。これ以上突っ込んだら終わらなくなる。
「なるほど、そういうことね。誰もがストーリーテラーになれる。大いに日本人も語れということだね」
「そうですよ」
僕としてはだいぶ残念な結末であったが致し方ない。
「しかし、昔はあなたのことを、ちょっと朗読の上手い役者がいるくらいに見ていたが、でもその頃のあなたの朗読は、どうだ!っていうような朗読だったねえ。それがずいぶん変わった」
「少しはよくなりましたか」
「うん、よくなった。変わるもんですねえ」
「そうですか、よかった、少しは私も成長したんですね」
「今日はたくさんの刺激的な話、ありがとうございました」

つまり、ただ語りたいという理由だけで「平家物語」が語れるわけはないということなのだ。自分が本当に語りたいものとして「平家物語」を語ることの困難さを、僕は思っていたのである。

世の朗読好きの方々、古屋和子さんのポジティブな結論に騙されてはいけません、ということかな。

それにしても、僕の琵琶の件はどうなっているのだろう。

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tag: 「枡形城落日の舞い」  アイヌ  朗読  ふじたあさや 

後生の正月・正月十六日

旧暦1月16日、後生の正月

去年は「十六日祭(ジュールクニチー)」と紹介した。そしてこんな記事を書いた。

久米村:ポーポー(沖縄のお菓子)などを持って墓参りをする。
首里:墓参りする。一年間に不幸のあった家では、ミージュールクニチ、あるいはミーサという。
那覇:前の年に亡くなった家族の冥福を祈る。
天久:ミーサ。那覇に同じ。
小禄:ミーサー。那覇に同じ。昔は三年間毎年続けた。


つまらない記事である。今年はもう少しなんとか、と調べ始めたら、大変なことになって、どうやら今日中に書き終わることはなさそうだ。
2011年版の“この日何の日沖縄篇”について、2月2日の記事に「リアルタイムでアップできるのでは」と書いたばかりだというのに、たった3週間足らずでもう挫折した。
それどころではない。今年のトゥシビー(新暦1月3日、旧暦2月5日)も、旧暦12日のアマウェーダーも書きそびれている。

ともかく、なんだかんだと忙しいのだ。それなのに、こうまでしてブログを書く意味なんてあるのかな、とも思いつつ、続けている。まあ、もう少し頑張ってみよう。

“社長とは呼ばないで”にいたっては、1年以上も間が開いてしまったが、それもなんとか再開するつもりである。

後生の正月についても、こうなったらゆっくり書く。

【3月3日に追記】
まずは……
 ⇒「今年のトゥシビー」を追記しました。
 ⇒「今年のアマウェーダー」を追記しました。

そして……
『沖縄大百科事典』より

後生の正月:(グショーヌソーグヮチ)沖縄諸島では旧暦1月16日の〈正月十六日〉をいうことが多いが、本島北部の大宜味村では8月10日の柴差、八重山諸島では八月十五夜以降のシツィの祭りにも〈後生の正月〉という。正月十六日には一族そろって墓参りをし先祖供養をしたが、宮古諸島の狩俣ではこの日を〈正月の大祝い(ウフヨー)〉、池間島や伊良部島で〈正月の祝い(ユーイ)〉、また奄美の徳之島で15日の〈小正月〉の晩を先祖の〈年の夜〉(大晦日)とし、翌16日を〈親方祭り(ウヤホーマチリ)〉という例からすると、大正月以前の先祖の正月は小正月だったと思われる。柴差の日を一年中の行事の総括りといい、八重山諸島でシツィの初日を〈年の夜〉(年の晩とも)とよんで〈節振舞(シツィフルマイ〉を盛大にするのは、現世で祝いを怠ると死霊があの世の呪いに誘うため、村里に近づいてくると考えられているからである。この伝承に、収穫祭が生産年の変わり目の正月儀礼であり、死者儀礼ともする古代意識をうかがうことができよう。

正月十六日:祖霊供養の祭り。ジュールクニチーと称し、正月元旦がイチミ(生身)の正月であるのにたいし、グソー(後生)の正月であるといわれている。清明祭が盛んな那覇や沖縄本島中部では、過去1年に死者のでた家、いわゆるミーサ(新仏)の家だけが墓参りをするが、本島北部や宮古・八重山地方では、ミーサに関係なくそれぞれが所属する墓へ行って先祖供養をする。(中略)過去1年に死者の出たばあいを初十六日という。

そういえば、ななしん屋のママが「宮古には正月や清明祭(シーミー)より大切な“後生の正月”というものがあるんだよ」と言っていたっけ。
 ⇒2009年2月の沖縄の旅2日目の夜のこと
「宮古」のカテゴリーを作りたい、でも、きっと僕には、まだその資格はない。

tag: 沖縄この日何の日  沖縄大百科事典