2018年10月29日(月)23時27分
実さんが元山君に電話で伝えたこと
連れがいたり、よほどの用事でない限り、特に帰り道に寄るとかいうならなおさら、金城実さんのアトリエに行くときはアポなしと決めた。いなかったらいなかったで、それはそれである。
野仏、増えたかな。

前回買い物に行った塩ビのパイプが役に立っている。

「ちわ~」
「おう」
そんな挨拶のようなものを交わしたのかどうか。最近はいつもこんな感じ。
巨大な荷物?がいっぱい。

わ~!



大阪住吉区にある市民交流センターの壁面に、部落解放運動の象徴として設置されていた実さんの作品、高さ12.3m幅7m重さ3tというレリーフ「解放へのオガリ」が8等分され、5月22日、読谷の金城さんの元に帰って来たことを報じる琉球新報の記事。
※画像をクリックすれば大きくなるので、是非全文をお読みいただきたい。開いた画面をさらに部分拡大すれば、壁面に張り付いた巨体の全貌が分かる。
前回訪れたのが5月の10日だから、そのあとすぐに届いたということか。それから5か月、ここに置かれたままになっているということ。あの巨大台風の時もここにあったわけだ。新しい設置場所は読谷の予定、元参議院議員の服部良一氏が色々と画策しているらしいが、さてどうなることか。
「いつまでもこのママにしておくと、合体する時にうまく合わなくなるんじゃないですか」
「そうなんじゃ。まあ仕方ない。どこを切るかも考えて、せいぜい三つくらいに分けたかったのだが、それではトラックにも乗らんし、職人さんも精いっぱいやってくれたんじゃろう」

また、こんな立て看板も。

実さんが名文だとしてこよなく愛する水平社宣言である。
全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。
長い間虐められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
兄弟よ。
吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなゐ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光りあれ。
大正十一年三月三日 全国水平社創立大会
最後の「人間」は「にんげん」と読むのではない。「じんかん」と読むのである。
とことん闘う実さんだが…
沖縄の歴史を刻んだレリーフ「戦争と人間」が、先日の台風でこんな有様に。

「自然にはかなわん」
…と、笑う。識名さんと気が合うわけだと思う。
「業者に頼んどるんじゃが、忙しくてこっちまではなかなか手が回らんのじゃ。あちこちで家の屋根が壊れとるからのう、そっちが先じゃ。こんなのはどうでもいい。生活のほうが大切じゃ」
アトリエで…
※とりあえずここまで。以下後日追記するための覚書
波上宮の話
※ダニエル・ロペスの映画「カタブイ」のハナシもした。そうしたら、そのダニエルが一昨日アトリエに来たので「読谷祭りに連れて行ってやったのじゃ」そうである。そうか、南部に行かず読谷祭りに行ったらダニエルに会えたのかもしれない。
授与式の和服の話
そして県民投票の話
どれもこれも「空気」の話
知花昌一さんがやって来た。
「おう、どうした」
「ちょっと、寄っただけさ」

「元山仁士郎というのはナイチャーか」
「違う、ウチナンチューじゃ。そういうふうに勘違いしとるウチナンチューがけっこういる」
ちょっと寄っただけの知花さんだが、けっこうの時間一緒に話をしてお帰りになられた。
愛楽園の自治会のこととか。しかしそれについては別の記事で書くことにする。
沖縄の闘いと共産党の話。
「沖縄の闘いでは共産党の旗は揚げさせん」
「これは彼に、言っておかなければならんなあ」
(内地の、狛江の共産党や革新系の方々にこそ聞かせたいハナシ)
金城さんのいう彼とは、やはり元山君のこと。電話番号が分からないというので、僕が彼にメッセージした。すぐに返信が来る。
実さんがその電話番号に電話をするが出ない。しばらくすると、彼の方からかかってきた。

県民投票が終わらないと公開できない内容のハナシ。
「どうじゃ、誰も傷つけないように、なかなかうまくしゃべったじゃろう」
県民投票が終わったら追記する。どうかそれまでどうかお待ちを。
「イデオロギーではない、アイデンティティなんじゃ。イデオロギーは変えられるが、アイデンティティは変えられん。ウチナンチューはウチナンチューをやめることはできんのじゃ」
「金城実は右翼だよって、ボクは最近みんなに言ってるんですよ」
「おう、それでいい」
「実さんがそっちでいくなら、ボクは徹底的にアナーキストでいきます」
すると、お互いなんだかしっくりくるのである。
「まさか金城実がこんな穏やかな作品を作るなんて思わんじゃろう。芸術家は詐欺師じゃからな」

確かに
最近の実さんの作品は
野仏といい
金城実らしくないかも。
ひとのよにねつあれ じんかんにひかりあれ
飲み始めた金城さん。泡盛の缶コーヒー割り。

いかん、これに乗っかったら、帰れなくなる。
野仏、増えたかな。

前回買い物に行った塩ビのパイプが役に立っている。

「ちわ~」
「おう」
そんな挨拶のようなものを交わしたのかどうか。最近はいつもこんな感じ。
巨大な荷物?がいっぱい。

わ~!




※画像をクリックすれば大きくなるので、是非全文をお読みいただきたい。開いた画面をさらに部分拡大すれば、壁面に張り付いた巨体の全貌が分かる。
前回訪れたのが5月の10日だから、そのあとすぐに届いたということか。それから5か月、ここに置かれたままになっているということ。あの巨大台風の時もここにあったわけだ。新しい設置場所は読谷の予定、元参議院議員の服部良一氏が色々と画策しているらしいが、さてどうなることか。
「いつまでもこのママにしておくと、合体する時にうまく合わなくなるんじゃないですか」
「そうなんじゃ。まあ仕方ない。どこを切るかも考えて、せいぜい三つくらいに分けたかったのだが、それではトラックにも乗らんし、職人さんも精いっぱいやってくれたんじゃろう」

また、こんな立て看板も。


実さんが名文だとしてこよなく愛する水平社宣言である。
全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。
長い間虐められて來た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々によってなされた吾らの爲の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事實は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒涜されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集團運動を起せるは、寧ろ必然である。
兄弟よ。
吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、實行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり、男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が來たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が來たのだ。
吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなゐ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光りあれ。
大正十一年三月三日 全国水平社創立大会
最後の「人間」は「にんげん」と読むのではない。「じんかん」と読むのである。
とことん闘う実さんだが…
沖縄の歴史を刻んだレリーフ「戦争と人間」が、先日の台風でこんな有様に。

「自然にはかなわん」
…と、笑う。識名さんと気が合うわけだと思う。
「業者に頼んどるんじゃが、忙しくてこっちまではなかなか手が回らんのじゃ。あちこちで家の屋根が壊れとるからのう、そっちが先じゃ。こんなのはどうでもいい。生活のほうが大切じゃ」
アトリエで…
※とりあえずここまで。以下後日追記するための覚書
波上宮の話
※ダニエル・ロペスの映画「カタブイ」のハナシもした。そうしたら、そのダニエルが一昨日アトリエに来たので「読谷祭りに連れて行ってやったのじゃ」そうである。そうか、南部に行かず読谷祭りに行ったらダニエルに会えたのかもしれない。
授与式の和服の話
そして県民投票の話
どれもこれも「空気」の話
知花昌一さんがやって来た。
「おう、どうした」
「ちょっと、寄っただけさ」

「元山仁士郎というのはナイチャーか」
「違う、ウチナンチューじゃ。そういうふうに勘違いしとるウチナンチューがけっこういる」
ちょっと寄っただけの知花さんだが、けっこうの時間一緒に話をしてお帰りになられた。
愛楽園の自治会のこととか。しかしそれについては別の記事で書くことにする。
沖縄の闘いと共産党の話。
「沖縄の闘いでは共産党の旗は揚げさせん」
「これは彼に、言っておかなければならんなあ」
(内地の、狛江の共産党や革新系の方々にこそ聞かせたいハナシ)
金城さんのいう彼とは、やはり元山君のこと。電話番号が分からないというので、僕が彼にメッセージした。すぐに返信が来る。
実さんがその電話番号に電話をするが出ない。しばらくすると、彼の方からかかってきた。

県民投票が終わらないと公開できない内容のハナシ。
「どうじゃ、誰も傷つけないように、なかなかうまくしゃべったじゃろう」
県民投票が終わったら追記する。どうかそれまでどうかお待ちを。
「イデオロギーではない、アイデンティティなんじゃ。イデオロギーは変えられるが、アイデンティティは変えられん。ウチナンチューはウチナンチューをやめることはできんのじゃ」
「金城実は右翼だよって、ボクは最近みんなに言ってるんですよ」
「おう、それでいい」
「実さんがそっちでいくなら、ボクは徹底的にアナーキストでいきます」
すると、お互いなんだかしっくりくるのである。
「まさか金城実がこんな穏やかな作品を作るなんて思わんじゃろう。芸術家は詐欺師じゃからな」


最近の実さんの作品は
野仏といい
金城実らしくないかも。
ひとのよにねつあれ じんかんにひかりあれ
飲み始めた金城さん。泡盛の缶コーヒー割り。

いかん、これに乗っかったら、帰れなくなる。

tag: 台風 金城実 知花昌一 元山仁士郎 沖縄の旅_2018年10月
2018年10月29日(月)13時32分
新生識名農場も間近か
シアタードーナッツを出て、金城さんのアトリエに向かう。
そうだ、その前に識名さんの新旧の農場がどうなったか、見に行くことにした。
古い畑は、もうすっかり更地。

これだけ見ればいいと思っていたのだが、まだ時間には余裕があるので、勝連城の向こう側にある新しい畑の方まで回ってみようと車を走らせる。
南から見る勝連城。これは裏なのか、表なのか。

新しいハウスも出来上がっていた。

誰かがいる気配はない。新しい畑の進捗状況を見ることができたので、それで満足して車を出発させた。しかしなあ、やっぱりここまで来て、識名さんに何も言わずに立ち去るのは如何なものかと考え直し、車を停めて電話を掛けてみた。すると、今畑の中にいるという。雑草の中で見えなかったが、作業をしているのだと。すぐに道まで出ていくからとおっしゃるので、すぐに踵を返した。

先日の台風で、色んなものが打ち上げられてきた。それを行政が回収して行ったので、かえって前よりきれいになった。台風のお陰と、識名さんは笑顔である。
しかしあれだけでっかい台風、大変だったのに違いない。聞けば識名さん、高潮と満潮が重なって、この腰くらいまで水が上がって来たと説明してくれた。

画像では、浜と道の落差が良く分からないので、5月に行った時の浜から写した画像をご覧いただきたい。

いやはやとんでもない高さである。笑い事ではない。
識名さんは台風の中、ひとりでこの畑を見に来ていた。畑は盛り土してあったのでなんとか持ちこたえたが、もう少し水が高かったら、畑もすっかりやられていただろう。

忘れては困る。識名さんは盲目なのである。畑と道路の境にあるこのフェンスにしがみつき、腰まで水に浸りながら、今ここで大きな高潮がきたら、俺はきっと死ぬんだなと思っていたと、相変わらず笑いながら話してくれた識名さんは、やはり只者ではないと、あらためて思い知らされたのである。
今後もっと大きな台風が来るようになるかもしれない。その時はどうなるのだろうか、「だいじょうぶなんですか」と問うたボクに、「いや、大丈夫じゃない」と、識名さんはやっぱり笑って答えたのだった。
識名さんのトマトが無くなっては困るという業者さんがたくさんあって、その人たちが手伝いに来てくれるのだという。初収穫は1月かなと。今識名さんは近くの港町に家を貸してくださる方がいて、そこで1人暮らししている。
「いつでも泊まれるから」
そうか、今度はいつ来られるのかなあ。
でもその前に、次は是非とも狛江にお越しくださいませ。
そうだ、その前に識名さんの新旧の農場がどうなったか、見に行くことにした。
古い畑は、もうすっかり更地。

これだけ見ればいいと思っていたのだが、まだ時間には余裕があるので、勝連城の向こう側にある新しい畑の方まで回ってみようと車を走らせる。
南から見る勝連城。これは裏なのか、表なのか。

新しいハウスも出来上がっていた。

誰かがいる気配はない。新しい畑の進捗状況を見ることができたので、それで満足して車を出発させた。しかしなあ、やっぱりここまで来て、識名さんに何も言わずに立ち去るのは如何なものかと考え直し、車を停めて電話を掛けてみた。すると、今畑の中にいるという。雑草の中で見えなかったが、作業をしているのだと。すぐに道まで出ていくからとおっしゃるので、すぐに踵を返した。

先日の台風で、色んなものが打ち上げられてきた。それを行政が回収して行ったので、かえって前よりきれいになった。台風のお陰と、識名さんは笑顔である。
しかしあれだけでっかい台風、大変だったのに違いない。聞けば識名さん、高潮と満潮が重なって、この腰くらいまで水が上がって来たと説明してくれた。

画像では、浜と道の落差が良く分からないので、5月に行った時の浜から写した画像をご覧いただきたい。

いやはやとんでもない高さである。笑い事ではない。
識名さんは台風の中、ひとりでこの畑を見に来ていた。畑は盛り土してあったのでなんとか持ちこたえたが、もう少し水が高かったら、畑もすっかりやられていただろう。

忘れては困る。識名さんは盲目なのである。畑と道路の境にあるこのフェンスにしがみつき、腰まで水に浸りながら、今ここで大きな高潮がきたら、俺はきっと死ぬんだなと思っていたと、相変わらず笑いながら話してくれた識名さんは、やはり只者ではないと、あらためて思い知らされたのである。
今後もっと大きな台風が来るようになるかもしれない。その時はどうなるのだろうか、「だいじょうぶなんですか」と問うたボクに、「いや、大丈夫じゃない」と、識名さんはやっぱり笑って答えたのだった。
識名さんのトマトが無くなっては困るという業者さんがたくさんあって、その人たちが手伝いに来てくれるのだという。初収穫は1月かなと。今識名さんは近くの港町に家を貸してくださる方がいて、そこで1人暮らししている。
「いつでも泊まれるから」
そうか、今度はいつ来られるのかなあ。
でもその前に、次は是非とも狛江にお越しくださいませ。
tag: 沖縄の旅_2018年10月 識名盛繁 台風
2018年10月29日(月)12時11分
シアタードーナツへ
新しい事業を始めたので、平日、狛江の事務所を何日も空けるわけにはいかない。宇夫方女史は朝の飛行機で帰った。
ボクは、真喜ちゃんに沖縄市に面白い人がいるという情報を貰ってさっそくやって来た。


階段を上がっていくと、そこはカフェ兼待合室。手づくりドーナツがウリ。
だからシアタードーナツ。
上映中はお静かに。

まるでホームシアター。渋谷のアップリンクにも通じる。

寄せ集め(?)の椅子なのはウチと一緒。広いとソファーも置けるんだな。だけどそれはまだまだお客さんが少ないということでもある。大盛況の映画館になればこうはいかない。でも、そのほうがいいよね。だからこれは、今だけの光景なのかもしれない。
残念ながら、このシアターの主、真喜ちゃんに「会ったらいいさ」と言われていた宮島真一氏は出張で不在でした。
でも、スタッフの方とお話が出来た。
スタッフの方からこんなことを聞かれた。
「映画館の興行組合に加盟してらっしゃいますか」
「いえ、ウチは映画館ではないので。映画祭をやる度に、防火対象物一時使用届け(要するに建物の目的外使用の申請)を消防署に出しています」
「そうなんですね」
「だから、そもそも組合には入れない」
「加盟していないと、上映を断られる映画があるので」
上映映画を探すのに苦労していらっしゃるらしい。年に2回の映画祭をやるだけのウチだって大変なのだから、通年毎日3本程度の作品を上映しているシアタードーナツのその苦労は想像に難くない。ウチの場合、映画館ではないということが、逆に制約を免れているのかもしれない。
「ドキュメンタリー映画ばかりにしたくないので」
それは予期せぬ話の展開だった。ここへ来るまで、というか、昨日の夜はじめて真喜ちゃんに聞いてここを知ったのだし、沖縄の映画を、それもたぶんドキュメンタリー映画を中心に上映するところだと思っていたし、それですぐにここに飛んできたのである。事実ネットでは「シアタードーナツは県産品映画を上映するカフェシアター」というふうに紹介されている。沖縄を題材にした映画は数多くあれど、「県産品映画」と限定すれば、ガレッジセールのゴリさんの映画や(それも吉本興行だし)、高嶺剛や若い才能ある沖縄出身監督の作品などもあるが、きっと多くはドキュメンタリー映画にならざるを得ない。でも、当初のコンセプトはどうあれ、今のシアタードーナツは、決してそれでヨシとしているわけではないらしい。
ふと周りを見れば、「ET」や「ひまわり」といった映画のポスターが貼られていたりする。
12月に開催する「喜多見と狛江の小さな映画祭」のことだが、はじめて意識的に、できる限り劇映画をやろうと考えた。それは何故かということを、どうにかして伝えたい、このところとずっと考えているのだが、そのためには、「ドキュメンタリー映画を上映することイコール政治的プロパガンダと見做される」というあたりから話を始めなければならない。たとえそのドキュメンタリー映画が政治的プロパガンダとして制作されたのだとしても、それを上映するという営為は、必ずしも政治的プロパガンダではないということ。ドキュメンタリー映画もひとつのフィクションであるということ。また、娯楽のために作られた一本の劇映画が、観た人の人生を決めることだってあるということ、つまりその人の「政治的な立場」をも大いに左右する可能性だってあるのだということ。
「ウチが、比較的に劇場にかかった映画を上映することが出来るのは、狛江市に映画館がないかららしいのです。だから地域の興行を牛耳るプロの興行屋さんの影響がない」
「わかります。コザにもたくさんあった映画館が、今は全部なくなってしまいました。だからココを立ち上げることが出来た…」
つまり、映画館が無くならなければ、宮島氏は自前で映画館を運営することなどなかったということでもあるのだろうと思った。
東映、東宝、新東宝、大映といった配給会社の映画は、ウチで上映することは一切できない。それでも、日活さんなどは色々と考慮して下さってきたし、松竹さんは、無料上映会ならばDVDでの上映を(もちろん上映料を支払ってのことだが)許可してくれていた。大変感謝している。ところがそれもなかなか難しくなってきた。それは、ウチが認知されてきたからというより、フィルムセンターなどが出来てそこで素材が一括管理できるようになってきて、お金があれば別なのだろうけれど、ウチのような小さなところにとっては、なかなか厳しくなってきたのだ。(まさかジャスラックのようなことがなければいいが。ジャスラックがこのコザという街の文化を潰したというハナシを以前、記事に書いたことがある) この状況は、今後ますます進んでいくに違いない。狛江のようなπ(パイ)の少ない街で、劇映画をできるだけたくさん取り上げるという映画祭を、いったいこれから続けていくことができるのだろうか。同じ内容のイベントをもっと大きな町でやれば今の10倍のお客さんが来るとよく言われるのだが、それに対して「いやこの小さな街で、この街の人たちがやって来るような映画祭にしなければ意味がないのだ」と、果たしていつまで突っ張って叫んでいられるのだろうか。
ボクは俄然、宮島真一という人に興味が沸いてきた。今ボクが考え悩んでいることを、もっともよく理解してくれる人が、もしかするとココにいるのかもしれないと思ったのである。そこでボクは、宮島氏宛に手紙を書いてスタッフの方に託し、必ずまたこのシアタードーナツに来て、今度こそ宮島真一さんに会うと心に決めて、沖縄市唯一の、小さくて、だからこそ素敵な映画館を後にしたのである。
※以上、若干の脚色を交えて、その日のことを再構成してお伝えしました。フィクションも、また真実なのですからw
参考までに。
コザ最後の映画館は「コザ琉映館」、ウィキペディアにはこう書かれてある。
1960年(昭和35年)7月に設立。コザ市内としては最後に開館した映画館。開業当初は第二東映の専門館だったが、その後は各社の邦画を中心に上映。1970年代以降はピンク映画へとシフト。
2010年代に入り、映画業界は本格的なデジタルシネマ時代に突入。沖縄県内の既存映画館が相次いでデジタル上映へと移行していったが、コザ琉映は35mmフィルム映写機のみ設置しており、フィルム映画の上映に特化して営業していた。しかし開業から半世紀以上を経て老朽化が進んだこともあり、2016年(平成28年)7月31日をもって閉館。56年間営業を続けた当館の閉館により、沖縄市内の映画館はすべて姿を消すことになる。(一部省略)
会えなかった宮島真一さんとはこんな人。
ボクは、真喜ちゃんに沖縄市に面白い人がいるという情報を貰ってさっそくやって来た。



階段を上がっていくと、そこはカフェ兼待合室。手づくりドーナツがウリ。
だからシアタードーナツ。
上映中はお静かに。

まるでホームシアター。渋谷のアップリンクにも通じる。

寄せ集め(?)の椅子なのはウチと一緒。広いとソファーも置けるんだな。だけどそれはまだまだお客さんが少ないということでもある。大盛況の映画館になればこうはいかない。でも、そのほうがいいよね。だからこれは、今だけの光景なのかもしれない。
残念ながら、このシアターの主、真喜ちゃんに「会ったらいいさ」と言われていた宮島真一氏は出張で不在でした。
でも、スタッフの方とお話が出来た。
スタッフの方からこんなことを聞かれた。
「映画館の興行組合に加盟してらっしゃいますか」
「いえ、ウチは映画館ではないので。映画祭をやる度に、防火対象物一時使用届け(要するに建物の目的外使用の申請)を消防署に出しています」
「そうなんですね」
「だから、そもそも組合には入れない」
「加盟していないと、上映を断られる映画があるので」
上映映画を探すのに苦労していらっしゃるらしい。年に2回の映画祭をやるだけのウチだって大変なのだから、通年毎日3本程度の作品を上映しているシアタードーナツのその苦労は想像に難くない。ウチの場合、映画館ではないということが、逆に制約を免れているのかもしれない。
「ドキュメンタリー映画ばかりにしたくないので」
それは予期せぬ話の展開だった。ここへ来るまで、というか、昨日の夜はじめて真喜ちゃんに聞いてここを知ったのだし、沖縄の映画を、それもたぶんドキュメンタリー映画を中心に上映するところだと思っていたし、それですぐにここに飛んできたのである。事実ネットでは「シアタードーナツは県産品映画を上映するカフェシアター」というふうに紹介されている。沖縄を題材にした映画は数多くあれど、「県産品映画」と限定すれば、ガレッジセールのゴリさんの映画や(それも吉本興行だし)、高嶺剛や若い才能ある沖縄出身監督の作品などもあるが、きっと多くはドキュメンタリー映画にならざるを得ない。でも、当初のコンセプトはどうあれ、今のシアタードーナツは、決してそれでヨシとしているわけではないらしい。
ふと周りを見れば、「ET」や「ひまわり」といった映画のポスターが貼られていたりする。
12月に開催する「喜多見と狛江の小さな映画祭」のことだが、はじめて意識的に、できる限り劇映画をやろうと考えた。それは何故かということを、どうにかして伝えたい、このところとずっと考えているのだが、そのためには、「ドキュメンタリー映画を上映することイコール政治的プロパガンダと見做される」というあたりから話を始めなければならない。たとえそのドキュメンタリー映画が政治的プロパガンダとして制作されたのだとしても、それを上映するという営為は、必ずしも政治的プロパガンダではないということ。ドキュメンタリー映画もひとつのフィクションであるということ。また、娯楽のために作られた一本の劇映画が、観た人の人生を決めることだってあるということ、つまりその人の「政治的な立場」をも大いに左右する可能性だってあるのだということ。
「ウチが、比較的に劇場にかかった映画を上映することが出来るのは、狛江市に映画館がないかららしいのです。だから地域の興行を牛耳るプロの興行屋さんの影響がない」
「わかります。コザにもたくさんあった映画館が、今は全部なくなってしまいました。だからココを立ち上げることが出来た…」
つまり、映画館が無くならなければ、宮島氏は自前で映画館を運営することなどなかったということでもあるのだろうと思った。
東映、東宝、新東宝、大映といった配給会社の映画は、ウチで上映することは一切できない。それでも、日活さんなどは色々と考慮して下さってきたし、松竹さんは、無料上映会ならばDVDでの上映を(もちろん上映料を支払ってのことだが)許可してくれていた。大変感謝している。ところがそれもなかなか難しくなってきた。それは、ウチが認知されてきたからというより、フィルムセンターなどが出来てそこで素材が一括管理できるようになってきて、お金があれば別なのだろうけれど、ウチのような小さなところにとっては、なかなか厳しくなってきたのだ。(まさかジャスラックのようなことがなければいいが。ジャスラックがこのコザという街の文化を潰したというハナシを以前、記事に書いたことがある) この状況は、今後ますます進んでいくに違いない。狛江のようなπ(パイ)の少ない街で、劇映画をできるだけたくさん取り上げるという映画祭を、いったいこれから続けていくことができるのだろうか。同じ内容のイベントをもっと大きな町でやれば今の10倍のお客さんが来るとよく言われるのだが、それに対して「いやこの小さな街で、この街の人たちがやって来るような映画祭にしなければ意味がないのだ」と、果たしていつまで突っ張って叫んでいられるのだろうか。
ボクは俄然、宮島真一という人に興味が沸いてきた。今ボクが考え悩んでいることを、もっともよく理解してくれる人が、もしかするとココにいるのかもしれないと思ったのである。そこでボクは、宮島氏宛に手紙を書いてスタッフの方に託し、必ずまたこのシアタードーナツに来て、今度こそ宮島真一さんに会うと心に決めて、沖縄市唯一の、小さくて、だからこそ素敵な映画館を後にしたのである。
※以上、若干の脚色を交えて、その日のことを再構成してお伝えしました。フィクションも、また真実なのですからw
参考までに。
コザ最後の映画館は「コザ琉映館」、ウィキペディアにはこう書かれてある。
1960年(昭和35年)7月に設立。コザ市内としては最後に開館した映画館。開業当初は第二東映の専門館だったが、その後は各社の邦画を中心に上映。1970年代以降はピンク映画へとシフト。
2010年代に入り、映画業界は本格的なデジタルシネマ時代に突入。沖縄県内の既存映画館が相次いでデジタル上映へと移行していったが、コザ琉映は35mmフィルム映写機のみ設置しており、フィルム映画の上映に特化して営業していた。しかし開業から半世紀以上を経て老朽化が進んだこともあり、2016年(平成28年)7月31日をもって閉館。56年間営業を続けた当館の閉館により、沖縄市内の映画館はすべて姿を消すことになる。(一部省略)
お、宮島真一さんのアカウント発見。@MiyajimaVAC
— 高山正樹 (@gajumui) 2018年10月31日
先日、コザのシアタードーナッツに行ってきた。ダミーのチケット売り場に、映画館愛を見たのです。来月は宮島さんに会えるかな。
地域の映画上映について、思うところいっぱい。4K・VR徳島映画祭とか、そうだ、それも今回の旅の小さなテーマになった。 pic.twitter.com/lCqIXxnzZm
会えなかった宮島真一さんとはこんな人。

tag: 沖縄の旅_2018年10月 シアタードーナツ 宮島真一 コザ
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- 2019-03-15 MAP : 神楽坂とCHICAGO-「宮沢賢治考」のコメント1
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