2009年09月26日(土)23時58分
森口豁inBar“土”vol.2【玉川大学】と【都立駒場高校を中退して大検】
沖縄に来た時は連絡する、それがBar“土”のごうさんと交わした約束。だから羽田で飛行機に乗る直前、ごうさんにメールしました。そしたら「今夜なら那覇にいる」との返信が来た。ということで、真喜ちゃんとの食事を終えて、金城君を誘って“土”へ行きました。
今日の“土”は、2階のギャラリーで「森口カフェin那覇」というイベントが開催されていました。元日本テレビの沖縄特派員でもあったジャーナリストの森口豁(かつ)さんが制作した映像作品を鑑賞し、その後、森口さん御本人を囲んでゆんたく(おしゃべり)するという企画です。今回はその第2回目、題して「人類館の舞台に立つ青年の足跡をたどるドキュメント」。
森口豁さんは1937年生まれ。森口さんがテレビ番組のために制作したドキュメンタリーは29本にのぼります。少ないですか? いえいえ、どれもこれも重い題材ばかり。そんな企画を中央のテレビというメディアに供給し続けることがどれほど大変なことであったか、想像するに難くありません。
この夜の「森口カフェin那覇vol.2」では、その中から、演劇集団「創造」の伝説の舞台、「人類館」の初演で調教師役を演じた内間安男さんを追い続けた『沖縄の十八歳 』シリーズの中から3本が上演されました。
第一作の「沖縄の18歳」は、沖縄の「祖国復帰」に先立つ1966年の作品。当時コザ高校の3年生だった一人の少年に焦点を当てたドキュメンタリーです。復帰を望んでデモにも参加するその少年の名は内間安男。
「熱い長い青春・ある証言から」(1972年)では、高校卒業後タクシーの運転手となった内間青年の目を通して、復帰しても何も変わらない沖縄の苦しみを見つめていきます。
まさかこの青年が、それから数年後、「人類館」の舞台に立つことになろうとは、森口さんはもちろん、内間さん自身だって知る由もありませんでした。
そして1978年、内間安男というひとりのウチナーンチュを、自分と重ね合わせるように追い続けた森口豁は「一幕一場・沖縄人類館」を制作します……
⇒“人類館”の作者・知念正真氏の思いに関する記事
⇒“人類館”初演時の台本についての記事
是非ともこの三作目を見たかったのですが、遅れて“土”に行ったバチが当ったのでしょうか、映像のトラブルがあって上映順が変わり、残念ながら第二作しか見ることが出来ませんでした。
上映が終わると、静かなゆんたくの時間。
森口豁さんです。

まず森口さんのお話があって、そのあとお客さんから森口さんへの質問があったり、やがて森口さんの映像に触発された皆さんは、それぞれいろいろな思い出話を話し始めました。
復帰の頃、佐藤栄作首相が沖縄に来た時、歓迎のために振る日の丸を作るのが小学校の宿題だったという女性、復帰から6年経った1978年の7月30日(いわゆる「ナナサンマル」の時)、車がそれまでの右側通行から左側通行に変わったため、海へ行く道の右側にあった釣具店が、帰り道になってしまってたくさん廃業したというお話をされた男性、どれもこれも興味深く聞かせていただきました。
皆さんのいろいろな話を聞いていたら、やっぱり3本とも見たかった、見なきゃいけなかった、という気持ちになりました。
ねえごうさん、今日はちょっとお客さん少なかったから、11月に津嘉山正種さんの「人類館」が“国立劇場おきなわ”で上演されるはずだから、その時また来るから、それにあわせてもう一回この作品の上映会をやってくれないかなあ。国立劇場のお客さんにも宣伝してさあ。
⇒津嘉山正種「人類館」沖縄公演のこと
イベントが終わって、久しぶりにごうさんと話をしました。
“土”のギャラリーでの様々な企画は、最近沖縄で密かに話題になっている、でも採算を考えると大変らしい。そりゃそうだよね、お客さんからお金取らないんだもん。
帰り際、ごうさんが「これ読んで」と壁に貼ってある詩を指差しました。
9.11の時に書いたんだって。
ちょっと長いけど画像を載せちゃおう。

「ここのギャラリーでさ、何かやりたいことがあったら、早めに企画出してよ」
わかった。そうだよね、真剣に何か考えようと思っています。そのときは、よろしくです。

でも、宇夫方路の夜は、まだ終らない……
今日の“土”は、2階のギャラリーで「森口カフェin那覇」というイベントが開催されていました。元日本テレビの沖縄特派員でもあったジャーナリストの森口豁(かつ)さんが制作した映像作品を鑑賞し、その後、森口さん御本人を囲んでゆんたく(おしゃべり)するという企画です。今回はその第2回目、題して「人類館の舞台に立つ青年の足跡をたどるドキュメント」。
森口豁さんは1937年生まれ。森口さんがテレビ番組のために制作したドキュメンタリーは29本にのぼります。少ないですか? いえいえ、どれもこれも重い題材ばかり。そんな企画を中央のテレビというメディアに供給し続けることがどれほど大変なことであったか、想像するに難くありません。
この夜の「森口カフェin那覇vol.2」では、その中から、演劇集団「創造」の伝説の舞台、「人類館」の初演で調教師役を演じた内間安男さんを追い続けた『沖縄の十八歳 』シリーズの中から3本が上演されました。
第一作の「沖縄の18歳」は、沖縄の「祖国復帰」に先立つ1966年の作品。当時コザ高校の3年生だった一人の少年に焦点を当てたドキュメンタリーです。復帰を望んでデモにも参加するその少年の名は内間安男。
「熱い長い青春・ある証言から」(1972年)では、高校卒業後タクシーの運転手となった内間青年の目を通して、復帰しても何も変わらない沖縄の苦しみを見つめていきます。
まさかこの青年が、それから数年後、「人類館」の舞台に立つことになろうとは、森口さんはもちろん、内間さん自身だって知る由もありませんでした。
そして1978年、内間安男というひとりのウチナーンチュを、自分と重ね合わせるように追い続けた森口豁は「一幕一場・沖縄人類館」を制作します……
⇒“人類館”の作者・知念正真氏の思いに関する記事
⇒“人類館”初演時の台本についての記事
是非ともこの三作目を見たかったのですが、遅れて“土”に行ったバチが当ったのでしょうか、映像のトラブルがあって上映順が変わり、残念ながら第二作しか見ることが出来ませんでした。
上映が終わると、静かなゆんたくの時間。
森口豁さんです。
まず森口さんのお話があって、そのあとお客さんから森口さんへの質問があったり、やがて森口さんの映像に触発された皆さんは、それぞれいろいろな思い出話を話し始めました。
復帰の頃、佐藤栄作首相が沖縄に来た時、歓迎のために振る日の丸を作るのが小学校の宿題だったという女性、復帰から6年経った1978年の7月30日(いわゆる「ナナサンマル」の時)、車がそれまでの右側通行から左側通行に変わったため、海へ行く道の右側にあった釣具店が、帰り道になってしまってたくさん廃業したというお話をされた男性、どれもこれも興味深く聞かせていただきました。
皆さんのいろいろな話を聞いていたら、やっぱり3本とも見たかった、見なきゃいけなかった、という気持ちになりました。
ねえごうさん、今日はちょっとお客さん少なかったから、11月に津嘉山正種さんの「人類館」が“国立劇場おきなわ”で上演されるはずだから、その時また来るから、それにあわせてもう一回この作品の上映会をやってくれないかなあ。国立劇場のお客さんにも宣伝してさあ。
⇒津嘉山正種「人類館」沖縄公演のこと
イベントが終わって、久しぶりにごうさんと話をしました。
“土”のギャラリーでの様々な企画は、最近沖縄で密かに話題になっている、でも採算を考えると大変らしい。そりゃそうだよね、お客さんからお金取らないんだもん。
帰り際、ごうさんが「これ読んで」と壁に貼ってある詩を指差しました。
9.11の時に書いたんだって。
ちょっと長いけど画像を載せちゃおう。
「ここのギャラリーでさ、何かやりたいことがあったら、早めに企画出してよ」
わかった。そうだよね、真剣に何か考えようと思っています。そのときは、よろしくです。
でも、宇夫方路の夜は、まだ終らない……
(報告:宇夫方路、執筆:高山正樹)
【駒場同窓生のために追記しました。そっと…】
森口豁氏は2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加しています。その理事を、僕の高校の友人、加藤到が務めています。
森口豁氏は玉川学園文学部中退。高等部に在学中、後輩の金城哲夫氏(※)が発表したウチナーグチの研究がきっかけで、教師や生徒たちと復帰前の沖縄へ。以来、沖縄問題が氏の一生のテーマとなったのです。
(※金城哲夫:37歳の若さで亡くなったでウルトラシリーズの今や伝説となった脚本家。もしもウルトラマンファンがいらっしゃるのならば、金城哲夫がウルトラシリーズに託した「沖縄のメッセージ」を是非とも読み取ってください。)
しかし昨年の夏、森口豁氏は玉川の同窓会を脱会します。そのことについて、氏は自らのブログに書いています。(一部抜粋してここでご紹介させてください。)
「脱会の理由は、在日朝鮮人の入学を認めないこと、『新しい教科書をつくる会』の教科書を使っていると聞いたことの2点。そんな学校とは縁を切りたいので脱会した。玉川出身であることが恥ずかしくさえある。大人気ないという者もいるだろう。でも僕は自分に正直に生きたい。不正から目を逸らす者は共犯者そのものだ。」
⇒森口豁の沖縄日記(2008年7月21日)
※現在この記事は削除されています。その理由は、この後に僕が追記したことと関連があるのかもしれないが、それは定かではない。来年、我が事務所に森口さんを迎える機会がある。その時に聞いて見ることが出来るかどうか…(2015年12月4日に追記)
【2011年正月に追記】
少し補足が必要なようです。玉川大学演劇専攻出身の自称「右」の中原君によると、玉川大学が「在日朝鮮人の入学を認めない」というのは正確さを欠いているらしい。
そこで調べてみました。
実際は、都道府県知事が認可する各種学校(無認可校ではない)である朝鮮学校の高級部(朝鮮高級学校)を卒業しただけの者には、玉川大学は入学試験を受ける資格を与えないということのようです。つまり、日本が定める高校卒業資格のない者には受験資格を与えないということだけのことで、例えば大検に合格すれば誰でも自由に受験できるということです。つまり、玉川大学の対応は、一見至極まっとうであるようにも思えます。
ただし、法令では、高等学校卒業同等以上の学力があると認められる者には、各大学独自の判断で受験資格を与えてもいいことになっていて、以前から私立大学や公立大学の多くが、いわゆる「朝鮮高校」卒業者をそれと認めていました(中原君は朝鮮側の圧力に大学が屈したのだと言けれど)。
一方、国立大学は近年まで認めていませんでした。認めない表向きの理由は「高等学校卒業同等以上の学力がある」と証明できないということだったのでしょうか。
しかし、文科省は2003年、外国人学校卒業者に対して、高等学校卒業程度認定試験に合格しなくても国立大学を受験する資格を認めるという方針を打ち出しました。リベラルな感覚で言えば、遅きに失したといってもいい。
そして現在、4年制大学で「朝鮮高校」の卒業生に受験資格を与えないのは玉川大学だけだと聞いています。
中原君は、玉川大学の判断は、日本の教育制度に基づいた当たり前の処置だと言いますが、文部省の方針などを考え合わせれば、その主張にはちょいと無理があります。
まして玉川がノンポリだなんて、何も考えていない個々の学生たちはそうかもしれないが、大学自体は全く違うでしょう。やはりある傾向を持っています。だからこそ、いわゆる「ネトウヨ」というタイプの人たちは、玉川の「孤高の判断」を、すばらしい英断として持ち上げているわけです。
もちろん私学ですから、どんな学生を受け入れるか、その判断基準をどのように設定するかは自由です。だからそれをもって間違っているというようなつもりはありませんが、高校卒業の実力のある者には差別なく受験させるという「理念」から考えれば、玉川は歪んでいると僕は思います。
大学の門戸を誰に開くかは試験によって判断すればいいことです。少なくとも「朝鮮高校」には、他の日本の一条高校同等以上の学力があるということを文部省も遅ればせながら認めたのです。にもかかわらず、その人たちの受験を「高校卒業資格」という理由で拒否するとしたら、それは方便でしかありません。
(はたして別の外国人学校についてはどうなのでしょうか。どなたか教えてください。)
でもね、そんな大学であることが分かっていて、敢えて受験の願書を出した「朝鮮高校」側にも、なんだか変な政治的意図があったのではないかと、穿ってみたくなるのではありますが。
【おまけ】
我が母校、都立駒場高校のはなし。
平田オリザ氏は駒場の定時制を中退。大学入学資格検定試験を経て国際基督教大学に入学。
大先輩の吉永小百合さんも都立駒場高校中退。大学入学資格検定全科目合格しない段階で早稲田大学に高卒と同等以上の学力があると認められ入学。
森口豁氏は2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に参加しています。その理事を、僕の高校の友人、加藤到が務めています。
森口豁氏は玉川学園文学部中退。高等部に在学中、後輩の金城哲夫氏(※)が発表したウチナーグチの研究がきっかけで、教師や生徒たちと復帰前の沖縄へ。以来、沖縄問題が氏の一生のテーマとなったのです。
(※金城哲夫:37歳の若さで亡くなったでウルトラシリーズの今や伝説となった脚本家。もしもウルトラマンファンがいらっしゃるのならば、金城哲夫がウルトラシリーズに託した「沖縄のメッセージ」を是非とも読み取ってください。)
しかし昨年の夏、森口豁氏は玉川の同窓会を脱会します。そのことについて、氏は自らのブログに書いています。(一部抜粋してここでご紹介させてください。)
「脱会の理由は、在日朝鮮人の入学を認めないこと、『新しい教科書をつくる会』の教科書を使っていると聞いたことの2点。そんな学校とは縁を切りたいので脱会した。玉川出身であることが恥ずかしくさえある。大人気ないという者もいるだろう。でも僕は自分に正直に生きたい。不正から目を逸らす者は共犯者そのものだ。」
⇒森口豁の沖縄日記(2008年7月21日)
※現在この記事は削除されています。その理由は、この後に僕が追記したことと関連があるのかもしれないが、それは定かではない。来年、我が事務所に森口さんを迎える機会がある。その時に聞いて見ることが出来るかどうか…(2015年12月4日に追記)
【2011年正月に追記】
少し補足が必要なようです。玉川大学演劇専攻出身の自称「右」の中原君によると、玉川大学が「在日朝鮮人の入学を認めない」というのは正確さを欠いているらしい。
そこで調べてみました。
実際は、都道府県知事が認可する各種学校(無認可校ではない)である朝鮮学校の高級部(朝鮮高級学校)を卒業しただけの者には、玉川大学は入学試験を受ける資格を与えないということのようです。つまり、日本が定める高校卒業資格のない者には受験資格を与えないということだけのことで、例えば大検に合格すれば誰でも自由に受験できるということです。つまり、玉川大学の対応は、一見至極まっとうであるようにも思えます。
ただし、法令では、高等学校卒業同等以上の学力があると認められる者には、各大学独自の判断で受験資格を与えてもいいことになっていて、以前から私立大学や公立大学の多くが、いわゆる「朝鮮高校」卒業者をそれと認めていました(中原君は朝鮮側の圧力に大学が屈したのだと言けれど)。
一方、国立大学は近年まで認めていませんでした。認めない表向きの理由は「高等学校卒業同等以上の学力がある」と証明できないということだったのでしょうか。
しかし、文科省は2003年、外国人学校卒業者に対して、高等学校卒業程度認定試験に合格しなくても国立大学を受験する資格を認めるという方針を打ち出しました。リベラルな感覚で言えば、遅きに失したといってもいい。
そして現在、4年制大学で「朝鮮高校」の卒業生に受験資格を与えないのは玉川大学だけだと聞いています。
中原君は、玉川大学の判断は、日本の教育制度に基づいた当たり前の処置だと言いますが、文部省の方針などを考え合わせれば、その主張にはちょいと無理があります。
まして玉川がノンポリだなんて、何も考えていない個々の学生たちはそうかもしれないが、大学自体は全く違うでしょう。やはりある傾向を持っています。だからこそ、いわゆる「ネトウヨ」というタイプの人たちは、玉川の「孤高の判断」を、すばらしい英断として持ち上げているわけです。
もちろん私学ですから、どんな学生を受け入れるか、その判断基準をどのように設定するかは自由です。だからそれをもって間違っているというようなつもりはありませんが、高校卒業の実力のある者には差別なく受験させるという「理念」から考えれば、玉川は歪んでいると僕は思います。
大学の門戸を誰に開くかは試験によって判断すればいいことです。少なくとも「朝鮮高校」には、他の日本の一条高校同等以上の学力があるということを文部省も遅ればせながら認めたのです。にもかかわらず、その人たちの受験を「高校卒業資格」という理由で拒否するとしたら、それは方便でしかありません。
(はたして別の外国人学校についてはどうなのでしょうか。どなたか教えてください。)
でもね、そんな大学であることが分かっていて、敢えて受験の願書を出した「朝鮮高校」側にも、なんだか変な政治的意図があったのではないかと、穿ってみたくなるのではありますが。
(文責:高山正樹、2011年1月5日)
【おまけ】
我が母校、都立駒場高校のはなし。
平田オリザ氏は駒場の定時制を中退。大学入学資格検定試験を経て国際基督教大学に入学。
大先輩の吉永小百合さんも都立駒場高校中退。大学入学資格検定全科目合格しない段階で早稲田大学に高卒と同等以上の学力があると認められ入学。
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