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恒例、大城立裕先生宅訪問

夏からずっと楽しみにしていた「さかさま執心鐘入」、いよいよ明日ですね。
特に何か用事があったわけではないのですが、ちょいとご挨拶に伺いました。
お馴染みの大城立裕先生宅です。

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最近、親子みたいです。用が無くたって教えて頂きたいことがたくさんあります。
まずは「クガニゼーク」と「カンゼーク」のこと。「クガニゼーク」のことは、はっきりしてきました。それは「クガニゼーク」が首里王朝に関わっていて、少なからず資料が残っているからです。でも今の僕が知りたいのは「カンゼーク」のことです。残念ながら大城立裕先生でも、はっきりしたことはお分かりにはなりませんでした。
立裕先生は書斎からこんな本を持って来られました。
「琉球舞踊歌劇地謡全集」です。(画像はM.A.P.所蔵本)
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この本には、こんな写真も掲載されています。
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昨夜も一緒だった関りえ子さん。
「黒島口説(くるしまくどき)」というコメント付き。

この地謡全集の40ページに、懸案の雑踊り「金細工(かんぜーく)」の歌詞が載っているのです。
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(※雑踊り「金細工(かんぜーくー)」については、過去記事に説明がありますので、どうぞそちらをお読みください。⇒http://lince.jp/hito/okinawa/kogane…
雑踊り「金細工」は明治18年に創作されたものです。
(※沖縄の廃藩置県、いわゆる「琉球処分」が明治12年ですから、首里城が明け渡されて6年後の作。「琉球処分」について⇒http://lince.jp/hito/arumise…
その地謡には、「金細工」と「鍛冶屋」(「かんじやえ」とルビが振られている)と、両方の言葉が出てきます。このことは、立裕先生も認識してはいらっしゃらなかったようです。
「伊波の金細工の加那阿兄」と「上泊鍛冶屋」。
沖縄県の運営する情報サイト「Wonder沖縄」では、それぞれ「美里村伊波の鍛冶屋の加那兄」と「上泊の鍛冶屋」と訳しています。人を指す場合と、仕事場を指す場合と、そんな区別がされているような感じです。

加那兄は、親譲りの「鞴(ふうち)」と「金具(かなぐ)」を売って辻遊廓の遊女の揚げ代を工面しようとします。「鞴」は「ふいご(吹子)」で、溶けて真っ赤になった鉄に風を送り続けて、その温度を1400℃以上に保つために必要な道具です。また「金具」のほうは、前出の「Wonder沖縄」では、「かなとこ」と訳されています。「かなとこ」を漢字で書くと「金床」で、すなわち鍛冶や金属加工を行う際に用いる作業台のことです。

果たして、遊女の真牛(モーシー)は、遊郭でジーファーを挿し、房指輪をつけて踊っていたのかどうか、加那兄は真牛に結び指輪を作ってやったことがあるのかどうか。

ところで、そもそも琉球舞踊ってなんなんだろう。琉球舞踊の現状についてはちょっと書いたことがあるし、岡本太郎の能書きも知ってはいます。でも基本的な成り立ちと変遷については、よく知らなかったなあと反省。そこで、まずはそれを調べてみよう。ということで、「カンゼーク」については、本日ココまでということに。(※琉球舞踊についての勉強成果は本記事の後ろに追加してあります。)

今日は、もうひとつ大城立裕先生に聞きたいことがありました。
船津好明さんが考案した新沖縄文字のこと。船津さんは大城立裕氏について、いつもこうおっしゃっていました。
「大城さんはウチナーグチはなくなってもいいという考えで、僕のやっていることには批判的だと思う」
しかし僕は決してそんなことは無いと思うのです。大城立裕という文学者は、その文学活動の当初から、沖縄の言葉に対して深い思いを持っていたのだと思う。ただ時代が、大城立裕の内面の襞を見なかったのです。船津さんも、大城立裕の一面だけを見て判断していらっしゃるのではないだろうか。たとえ大城さんが、ウチナーグチはなくなっていいと船津さんに言われたのだとしても、本意はそう単純なことではなかったはずだと、大城立裕の仕事を知れば知るほど、僕はそう思うのです。

でも、新沖縄文字についてはどうだろう。立裕先生は「おもろ」などの古典的表記にも造詣が深い。そういう方にとって、船津さんの新しい文字はどういうふうに受け止められるのだろうか。
そこで僕は、思い切って、この旅の始めに西岡敏先生に語ったのと同じことを、ウチナーグチを殆ど分からない者が学ぶのに、新沖縄文字が如何に有効なアイテムであるかということを、大城先生に説明してみたのです。
沖縄国際大学の西岡ゼミの研究室に伺った時の記事
すると、大城立裕先生は即座にこう答えられました。
「なるほど、そういうふうには考えたことはなかったなあ」
この反応には驚きました。こんな若造の言うことを、とてもニュートラルに受け入れてくださった。その柔軟さに、大城立裕という文学者の、物事を極めて多面的に捉えるあり方の根本を見たような気がしたのでした。
「大城立裕」は、その一面だけしか見ない多くの論者たちから、ずっと誤解されているのかもしれません。

大城立裕先生。今日はありがとうございました。
また明日、浦添の劇場でお会いしたいと思います。

《追伸》
2001年8月に出版された『琉球楽劇集真珠道』の「口上」で、大城立裕氏は次のように書いています。
(画像再掲:関連記事⇒http://lince.jp/hito/sinsaku…
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「書く動機になったのは、琉球語(うちなーぐち)のネイティヴ・スピーカー(日本とのバイリンガル)として、組踊りの書けるおよそ最後の世代ではないか、という自覚によるもので、ほとんど責任感に発しています。」
「古典を読みなおしてみたら、あらためて自分の語彙の貧しさを嘆いています。」
また「凡例」では
「歴史的仮名遣いは『沖縄語辞典』『沖縄古語大辞典』『琉歌古語辞典』に多くを負ったが、拗音、音便などについては、現代仮名遣いに拠ったり、さらにたとえば『召しおわれ』を『召しょうれ』とするなど、若年読者のための配慮である。」とあり、さらにローマ字表記についての説明では、沖縄的音韻にも、正確を期す配慮がなされていることがわかります。(※表記についての興味深いあとがきについては、少し長いので、後日あらためて。)
・・・・
沖縄県の運営する情報サイト「Wonder沖縄」“琉球舞踊”のページ
http://www.wonder-okinawa…
雑踊り「かんぜーくー」の説明より
「『金細工(かんぜーくー)』とは、鍛冶屋を業とする加那兄の仕事を意味し……」
「美里間切(現石川市)伊波の鋳物師・加那兄としっかり者の遊女が織りなす打ち組み踊りで……」


『沖縄大百科事典』

琉球舞踊:琉球で創作され、継承されてきた舞踊の総称。(中略)琉球の踊りに関するもっとも古い記録は、『おもろそうし』巻9の〈いろいろのこねりおもろ御双紙〉の間書き(行間にある注釈)である。〈二ておす 二てこねる〉(中略)その後おもろと舞踊の一体化はうすれ、舞踊は三味線(サンシン)と結びつき発展するが、こねるという所作は今なお琉球舞踊の中心をなしている。
琉球舞踊は、沖縄各地の村落で伝承されている民俗的舞踊、琉球王府で完成された古典舞踊、明治・大正時代に創作された雑踊(ぞうおどり)に分類される。(中略)古典舞踊は首里王府時代にできた踊りの総称で、首里・那覇の舞踊家たちによって継承され、現在にいたっている。(中略)雑踊は、明治以降那覇の芝居興行で創作されたもので、民俗的舞踊・古典舞踊を基調にし、所作・テンポなどに技巧がこらされている。

雑踊:(前略)明治10年代、廃藩置県後に禄を離れた下級武士のなかで、芸能の心得のある者たちは糊口をしのぐため那覇港の周辺で仮小屋を建て木戸賃を取って、組踊、古典舞踊を中心に芸を売った。これが沖縄芝居の始まりである。しばらくたって古典舞踊よりは庶民を主人公とする創作舞踊が観客にもてはやされ、芝居のなかで新舞踊と呼ばれる雑踊がつぎつぎと創作された。(中略)古典舞踊が画一的な着付けをし、リズムも悠長であるのにたいして、雑踊の着付けは多様であり、リズムも早間のものとなっている。

琉球舞踊研究所:(前略)1900(明治33)年ごろ、玉城盛重が辻町で役者相手に組踊・古典舞踊を教えたのが最初とされる。(後略)

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おもろ:【『おもろそうし』の表記法・記載法】ごく平易な漢字をまじえた平仮名で表記されている。五十音図をもって琉球語を表記しようとしたため、独特の表記法(国語による歴史的仮名遣い・方言の表音的仮名遣い・規範意識による類推仮名遣いの混用)がおこなわれ、それは以後〈沖縄の歴史的仮名遣い〉として固定化し、仮名遣いの規範となる。(後略)
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