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やはり京都は恐るべし《京都【西陣織】のこと》

朝一、桜井篤史の寝首を襲って……
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昔の写真を持ち出すという桜井篤史の反則技で、親父の過去が曝露されたりして……
ここに長居すると碌なことがなさそう。
早々と退散し、懐かしき円町へ、娘と向かう。

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この川の上の方には西陣があって、染めたばかりの布を川の水で洗っていたから、当時、この川はいつも青や赤に染まって艶やかというより、むしろ不気味であった。
しかし、今や西陣織は、すっかり様変わりしたらしい。

自動機織機の導入、生産地の移動、なんとか衰退を止めよう、苦肉の策であった。しかし品質は低下し、逆に西陣織の衰退を招いた。恐れず「本当の西陣織とは」と問うた時、はじめて西陣織は「正しく」復活するのかもしれない。しかし「正しい復活」は何をもたらすか。一握りの名工たちは「先生」となり、その「匠」の作品は芸術品となって高値で売られるが、一方、多くの人たちが生活の糧を失うことになる、それが望ましいことなのかどうか。
こんなサイトを見つけた。
 ⇒http://www.macnet.or.jp/pa/yasuto/genzyou…
そして、ふと沖縄のmoso'sのことを思い出した。

娘が行きたいというから、40年前に住んでいた場所を訪れてみることにした。
青いのだーれ?

昔の面影など何一つ残っていなかった。何の感慨も起こらない。

通っていた小学校まで歩いてみた。あっという間の道のり、こんなに近かったっけ、と思う。
校庭側にある裏門からの光景。
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元々こんな裏門は無かった。今立っているこの場所には蒸気機関車の通る線路が通っていたはず。今はそれが高架になって、その下に新しい道が通り、裏門も出来たということらしい。
そういえば京都の小学校では、組の名を、「い」「ろ」「は」といったっけ。三年い組。四年ろ組。今でもそうなのだろうか。

路面電車の最寄り駅は御前丸太町の交差点である。
記憶の片隅に残っている一つの思い出。母親に連れられて初めて京都に来た日のこと。京都駅から路面電車に乗ってこの御前丸太町で降り、ちょうど昼時だったので、目の前にあった蕎麦屋に入った。そこで食べたきつねうどんの味が、忘れ得ぬ記憶となって残った。おいしいまずいではなく、それは今まで知らなかった世界の味だったのだ。
その店が、たぶんここなのではなかったか。この日、貸し店舗の張り紙がしてあった。
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40年前の蕎麦屋が、最近まで残っていたことに、変化の遅いいつまでも変わらぬ京都を見るのか、40年続いた蕎麦屋が無くなってしまうことに、時の流れを感じるのか。
(老いた母親は憶えていないという。もしかすると僕の記憶違いなのかもしれない。)

京都に革新的な文化が生まれ易いのは、元来京都人気質が新しもの好きである所為なのだ。だがそれは、どんなに新しい文化が現れても、決して太刀打ちできない京都の伝統があるという余裕のなせる業なのかもしれない。

西陣織は元々平安後期の新しい人気ブランドだったが、以後一度すっかり衰退した歴史も持つ。現在の技法を取り入れたのはそれからずっと後、安土桃山の時代である。
仮に西陣織がすっかり消滅したとしても、もしかすると京都の人は、平然とこう言うのかもしれない。
「結局、西陣はんは、京の町とは合わへんかったのと違いますやろか」
京都は、500年かけて文化の価値を見極める、ありそうな話である。
そうだとすると、やはり、京都は恐るべしなのである。
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