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宮森小学校米軍ジェット機墜落事件《普天間基地の危険を想像してみる》

6月30日
宮森小学校米軍ジェット機墜落事件のあった日


今からおおよそ半世紀前の今日、1959年の6月30日、嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が旧石川市の宮森小学校に墜落、児童11名を含む17名が死亡、負傷者は212名に上った。
事故の原因や賠償の問題など、沖縄の米軍絡みの事故にいつもつきまとう話しが、この事件にも当然のようにある。

『沖縄大百科事典』によると、この事件が沖縄での反基地闘争の萌芽となり、復帰協結成へと進展していったという。当時、世界の航空史上稀な大惨事として内外に報道されたというが、生まれたばかりの僕にその記憶があるわけもなく、以来、一度も聞いたことがなかった。
僕はこの事件のことを、先日の文京区民センターで初めて知った。

1999年、琉球朝日放送が、宮森小学校米軍ジェット機墜落事件の原因は、当時発表された不可抗力などではなく、明らかな人為的ミスであったという米軍の事故報告書を公表する番組を制作した。しかし今現在まで、米軍は対外的には墜落原因を公表していない。

決して過去の話ではない。2004年の8月、米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した事件は記憶に新しい。

大江健三郎風に言えば、こうした事故に対する想像力を持っている者ならば、普天間基地と共存するなど考えられないであろう。ただ目先の利益のために、あえて想像力を働かせないことに慣れてしまった者たちだけが、沖縄の基地に依存して生きていることを言うのである。

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仮に今の普天間基地の現状を知りながら、その危険を感じることができないとしたら、刺激的な情報の氾濫する中で、等身大で正常な想像力を失ってしまっているのかもしれないと、一度自らを疑ってみることが必要なのかもしれない。

よく聞かれることだが、はじめは基地の周りには何もなかった。後から住民が移り住んできたのだという主張。それは元々どういうふうに住民が土地を奪われたのかとか、普天間基地返還の計画とか、沖縄の土地の少なさとか、諸々の事実を全く考慮しない薄っぺらな議論であるということはさておいても、正常な想像力が機能していれば、どういう理由で基地周辺に人々の生活圏が形成されたかという理由がどうであれ、異常さを感じる取る想像力の結果に変わりはないはずなのだ。自殺しようとしている男が、今にもビルの屋上から飛び降りようとしている光景の恐怖感は、その男の人となりとはなんの関係もない。

静岡空港は、滑走路の延長上に成長した木があってその開港が大幅に遅れた。それは間抜けな話しだと笑って済ませることもできるが、普天間基地の滑走路延長上には、もっと危険な建造物が建っていて、米軍機はそれを避けて離着陸をしているのである。当然、日本の法律でも空港のそばにあってもいい基準を其の建造物は全く満たしていない。しかし日本政府は、普天間は米軍施設であって日本の航空法を適用する飛行場ではないと嘯くのである。当然、米軍の基地建設の条件からもかけ離れているのである。(このことは、近日中に別記事で書く。)

ちなみに、宮森小学校米軍ジェット機墜落事件を忘れないための講演活動を続けていらっしゃるのは、1945年6月23日に摩文仁で自決したとされる牛島満中将の御息子、牛島貞満さんである
その貞満さんはこう語った。
「軍隊は住民を助けることはない。父がそれを証明している」と。
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