2011年02月01日(火)23時50分
異界と交信する琵琶法師
前回の稽古の記事でちょっと紹介した岩波新書の「琵琶法師」。
(画像再掲)
それには、“〈異界〉を語る人びと”という副題が付されている。
あさやさんの仕掛けた「壺」は深かった。というか、自分で勝手に穴を深くしているところもあるのだが。「聖と俗」、「異形のモノ」。書斎の本棚から、20数年ぶりに山口昌男氏の著作などを引っ張り出した。

とても会社の業務の合い間に書くようなブログで扱える内容ではない。こいつらはもう“社長とは呼ばないで”の範疇だが、そっちはますます書く時間がない。だから過去の文章から関係ありそうなものを拾ってはみたのだが……
⇒“社長とは呼ばないで”のトリックスター「三太郎」のカテゴリ
「異形のモノ」のこと……
⇒《お天道様と友達になったオカマvs.つかこうへい》
⇒ジュネを装う三太郎
⇒生物多様性と自然淘汰
……いよいよややこしくなった。
だが、ここで絡まった糸を解すつもりもない。そんなことは無理である。トリックスターは矛盾に満ちている。善と悪。賢者と愚者。聖なるものと穢れたものが未だ渾然としていた原初の時の住人。そんな存在が今に現れれば、遭遇した者たちは過去を体現することになる。現代の権威は秩序を撹乱するトリックスターを抹殺する。だが、古の権力者たちは、道化を屋敷に招き興じた。トリックスターが世界を再生させることを、彼らは知っていたのだろうか。
トリックスターと山口昌男、とくればすぐに兎が思い浮かぶ。山口昌男はジュンク族の野兎噺と比較しながら、狂言の「月見座頭」について論じている。
野兎噺はここで紹介することを憚られるような大変グロテスクな物語である。簡単に言えば盲人を徹底的に苛めて愉しむ野兎の話。
「月見座頭」は、中秋の名月に虫の声を聞いている座頭と、月見に来た男の話しである。意気投合した二人は酒宴を楽しみ、その後、それぞれ帰途につく。
男は「さてもさても面白いことであった。座頭と月見を致いた。まず急いで戻ろう。が、いまひとしおの慰みに、作り声を致いて、きゃつに喧嘩をしかけてみょう」、そして男は座頭を小突き倒して去っていく。
失った杖をようやく見つけ、座頭は最後に言う。「アア、思えば思えば、今のやつは最前の人には引き代え、情けもないやつでござる。世には非道なる者もあるものじゃさて」
山口昌男は言う。
「(ジュンク族の野兎噺で)野兎が演じている役割というのは(中略)『シテ』を喚び出す『ワキ』の役割とでも言えるものである。野兎はまず、原野に出ることによって、日常のあたり前の世界から身を引いて、この世ならぬものに対して、反応しやすい状態に身を置く。この世ならぬ者(盲人・精霊・原野の霊・鍛冶師であるライオン等)が現れた時に彼が、その存在に対して対応する行為の『かたち』が時には呪文、時には歌、時には詐術、時には『食べる』という、つまり、日常生活に入り切らないか、入っても磁気を帯びすぎている行為である。こういった行為の『かたち』を通して、彼は、この世ならぬものに対する透視力を保証されているとも言えるだろう」
山口はこの「ジュンク族の野兎噺」と「月見座頭」に共通点があるというのである。
「偽善的告発ヒューマニズムの卑小さとは質を異にする強靭なヒューマニズムである。」
「何物かを欠くことによって、世界に決定的な何物かをつけ加える『シテ』的存在と、自ら何物か(知性・慎み深さ・道徳性)を欠くことによって、こういった存在の秘める濃い影を曳き出す力を帯びた『ワキ』的存在としてのトリックスターなのである。こういった位相において『シテ』と『ワキ』とは共犯関係にあるのであり、犯行は、我々を強靭なヒューマニズムに向って鍛え直すべく遂行されるのであり、演劇的舞台・神話が語られる場は、こうした祝祭が成立する特権的な場所なのである。」
僕が演じる旅僧の役どころは「ワキ」である。しかし、残念ながらトリックスターとは程遠い心優しき「お坊様」である。はたしてそんな偽善的坊主に、「この世ならぬもの」を呼ぶ出す力があるのだろうか。何かいい手はないものか。
演じるとは、狂気の自己を冷徹に監視するもう一人の自己が存在して初めて「深み」に到達できる行為だと信じてきた。というより、自分が役者であるならば、そうありたいと思い続けてきた。それ以外に、「世界」に匹敵する重層的な構造を表すことなどできない、それができなければ、僕にとって演じることは無意味であるというふうに。なんとも大げさなはなしであるが。
その文脈で、朗読の形而上学なるものも(今はすっかり中断しているが)書き始めた。また、このところずっと拘って書いているイントネーションについての能書きも同じことである。
さて、ふじたあさや氏に「読んどけ」といわれた兵藤裕巳著「琵琶法師」について、これから、語ろうと思うのだが、その内容は、「朗読の形而上学」や「イントネーションについての能書き」に冷水をぶちかけるかのように見えるかもしれない。だが僕自身はそうは思っていない。
僕は琵琶法師ではない。しかし彼らが住む島への橋はある。仮にその橋が絶望的に渡れぬ橋であったとしても、対岸に立ち込める霧も晴れる瞬間がある。盲ではない僕は、その時を逃さず異界を凝視することができるはずだ。
兵藤裕巳氏によると、平家物語の中には、「語りの『視点』がどこにあるのかわからない不思議な文章」があり、それは「『視点』という視覚性そのものを払拭したような文章」なのだという。いわば主語を探し出すことの困難な文章、というより、主語が刻々と変わっていく「非論理的」な文章。なぜそんな文章が生まれたのか。(この問い自体が、近代的論理に呪縛されている証拠なのかもしれないが。)
いくつもの時代の中で形成されていった平家物語には、数多くの人の記憶と、感情と、惧れと、作為とが重なり合っている。つまり「過去(むかし)の死者たち」の「異界」から折り重なって聞こえてくる声の複合体なのだ。それが主語の揺らぎの原因だとするならば、それは傷ではない。だが、これを語ることができる者とは、いったいいかなるものなのか。
兵藤氏は、異界との交流は聴覚によってなされるのだという。だが、視覚が声を文節化し、ざわめきをノイズとして除いてしまうのだ。ならば、盲目であることが、異界との交流を容易にする。
「聴覚と皮膚感覚によって世界を体験する盲目のかれらは、自己の統一的イメージを視覚的に(つまり鏡にうつる像として)もたないという点で、自己の輪郭や主体のありようにおいて常人とは異なるであろう」
だから盲目の琵琶法師たちは「自己同一的な発話主体をもたないモノ語り」になんの違和感も持つことは無い。むしろそれは彼らにとって親しい世界なのである。
琵琶法師は「不断に変身してゆく語り手」である。「『我』という主語の不在において、あらゆる述語的な規定をうけいれつつ変身する主体」なのである。
平家物語を語る琵琶法師について、「個々のペルソナ(人格)を統括するはずの語り手の『我』という主語が不在」なのだと兵藤氏は言う。「語り手がさまざまなペルソナ(人格)に転移してゆくのであれば、物語を語るという行為は、近代的な意味でのいわゆる『表現』などではありえない」。確かに「狂気の自己を冷徹に監視するもう一人の自己」などという「われ思うゆえにわれあり」的な「近代的な分裂」が、世界を小さく限定してしまったようだ。
「自己の輪郭を容易に変化させうるかれらは、前近代の社会にあっては、物語・語り物伝承の主要な担い手でもあった。」
まさに演劇の原点、これこそ「憑依体験」である。また、そうでなければ「見えないモノのざわめきに声をあたえること」など不可能であったのだろう。
彼らが母を神と崇めることについて、僕は母の愛の欠如を、古の語り手たちの共通項として読んでしまったのだが、それは間違いなのだろうか。
「母と子の神をまつり、父なるもの(規範)を他者としてもたないかれらは、『我』という主体を規定する根拠の不在につきまとわれるだろう」
「自己同一的な主体形成の契機となる父なる神(他者)が不在だということだ」
「そこに形成されるのは、自己同一的の不在において、あらゆる述語的な規定を受け入れつつ変身する(憑依する/憑依される)主体である」
だからきっと、彼らは「本質的に両性具有的」なのである。唐突ではない。僕は納得している。そして「両性具有的な主体こそ、非ロゴスの狂気のざわめきに声をあたえる」ことができるのだ。
「平家物語に頻出する慣用句、『あわれなり』は、人としてこの世に組みいれられてあることの根源的な矛盾とその哀感の表白である」
僕は深く深く同意している。
「言語化・分節化されないモノ(ことば以前の非ロゴス)」から言葉が「分離・発生してくる現場」
……ああ、あの頃の匂いがしてきた。そんな「事件」を舞台上に出現させる、しかし、なんとも困難な作業である。
トリックスターは命を賭けている。道化は、王の前でいつも死の危険と向かい合っているのである。しかし、ここは市民劇の現場なのだ。一緒に舞台に立つ方々は河原者ではない。
それでも僕は、少しでもそこに近づきたいと密かに思っている。そのために何ができるのか、例えばその一つがイントネーションにこだわることだと、僕は信じているのである。そうして、ことばひとつひとつに、なんとかして古の重なりあった言霊のざわめきを籠めようと、目を閉じて耳を済まして考えているのである。
僕は琵琶法師ではない。僕は、ロゴスによってしか言葉を考えることができない役者、ホントであれば舞台に立つ資格のない役者である。
だが、僕がやろうとしていることも、琵琶法師の非ロゴスの手法と根本的に矛盾するものではない、と、信じるしかないのである。
そうして更なる別の方法、しかしながら……
いや、それはまた、別のはなし。
それには、“〈異界〉を語る人びと”という副題が付されている。
あさやさんの仕掛けた「壺」は深かった。というか、自分で勝手に穴を深くしているところもあるのだが。「聖と俗」、「異形のモノ」。書斎の本棚から、20数年ぶりに山口昌男氏の著作などを引っ張り出した。
とても会社の業務の合い間に書くようなブログで扱える内容ではない。こいつらはもう“社長とは呼ばないで”の範疇だが、そっちはますます書く時間がない。だから過去の文章から関係ありそうなものを拾ってはみたのだが……
⇒“社長とは呼ばないで”のトリックスター「三太郎」のカテゴリ
「異形のモノ」のこと……
⇒《お天道様と友達になったオカマvs.つかこうへい》
⇒ジュネを装う三太郎
⇒生物多様性と自然淘汰
……いよいよややこしくなった。
だが、ここで絡まった糸を解すつもりもない。そんなことは無理である。トリックスターは矛盾に満ちている。善と悪。賢者と愚者。聖なるものと穢れたものが未だ渾然としていた原初の時の住人。そんな存在が今に現れれば、遭遇した者たちは過去を体現することになる。現代の権威は秩序を撹乱するトリックスターを抹殺する。だが、古の権力者たちは、道化を屋敷に招き興じた。トリックスターが世界を再生させることを、彼らは知っていたのだろうか。
トリックスターと山口昌男、とくればすぐに兎が思い浮かぶ。山口昌男はジュンク族の野兎噺と比較しながら、狂言の「月見座頭」について論じている。
野兎噺はここで紹介することを憚られるような大変グロテスクな物語である。簡単に言えば盲人を徹底的に苛めて愉しむ野兎の話。
「月見座頭」は、中秋の名月に虫の声を聞いている座頭と、月見に来た男の話しである。意気投合した二人は酒宴を楽しみ、その後、それぞれ帰途につく。
男は「さてもさても面白いことであった。座頭と月見を致いた。まず急いで戻ろう。が、いまひとしおの慰みに、作り声を致いて、きゃつに喧嘩をしかけてみょう」、そして男は座頭を小突き倒して去っていく。
失った杖をようやく見つけ、座頭は最後に言う。「アア、思えば思えば、今のやつは最前の人には引き代え、情けもないやつでござる。世には非道なる者もあるものじゃさて」
山口昌男は言う。
「(ジュンク族の野兎噺で)野兎が演じている役割というのは(中略)『シテ』を喚び出す『ワキ』の役割とでも言えるものである。野兎はまず、原野に出ることによって、日常のあたり前の世界から身を引いて、この世ならぬものに対して、反応しやすい状態に身を置く。この世ならぬ者(盲人・精霊・原野の霊・鍛冶師であるライオン等)が現れた時に彼が、その存在に対して対応する行為の『かたち』が時には呪文、時には歌、時には詐術、時には『食べる』という、つまり、日常生活に入り切らないか、入っても磁気を帯びすぎている行為である。こういった行為の『かたち』を通して、彼は、この世ならぬものに対する透視力を保証されているとも言えるだろう」
山口はこの「ジュンク族の野兎噺」と「月見座頭」に共通点があるというのである。
「偽善的告発ヒューマニズムの卑小さとは質を異にする強靭なヒューマニズムである。」
「何物かを欠くことによって、世界に決定的な何物かをつけ加える『シテ』的存在と、自ら何物か(知性・慎み深さ・道徳性)を欠くことによって、こういった存在の秘める濃い影を曳き出す力を帯びた『ワキ』的存在としてのトリックスターなのである。こういった位相において『シテ』と『ワキ』とは共犯関係にあるのであり、犯行は、我々を強靭なヒューマニズムに向って鍛え直すべく遂行されるのであり、演劇的舞台・神話が語られる場は、こうした祝祭が成立する特権的な場所なのである。」
僕が演じる旅僧の役どころは「ワキ」である。しかし、残念ながらトリックスターとは程遠い心優しき「お坊様」である。はたしてそんな偽善的坊主に、「この世ならぬもの」を呼ぶ出す力があるのだろうか。何かいい手はないものか。
演じるとは、狂気の自己を冷徹に監視するもう一人の自己が存在して初めて「深み」に到達できる行為だと信じてきた。というより、自分が役者であるならば、そうありたいと思い続けてきた。それ以外に、「世界」に匹敵する重層的な構造を表すことなどできない、それができなければ、僕にとって演じることは無意味であるというふうに。なんとも大げさなはなしであるが。
その文脈で、朗読の形而上学なるものも(今はすっかり中断しているが)書き始めた。また、このところずっと拘って書いているイントネーションについての能書きも同じことである。
さて、ふじたあさや氏に「読んどけ」といわれた兵藤裕巳著「琵琶法師」について、これから、語ろうと思うのだが、その内容は、「朗読の形而上学」や「イントネーションについての能書き」に冷水をぶちかけるかのように見えるかもしれない。だが僕自身はそうは思っていない。
僕は琵琶法師ではない。しかし彼らが住む島への橋はある。仮にその橋が絶望的に渡れぬ橋であったとしても、対岸に立ち込める霧も晴れる瞬間がある。盲ではない僕は、その時を逃さず異界を凝視することができるはずだ。
兵藤裕巳氏によると、平家物語の中には、「語りの『視点』がどこにあるのかわからない不思議な文章」があり、それは「『視点』という視覚性そのものを払拭したような文章」なのだという。いわば主語を探し出すことの困難な文章、というより、主語が刻々と変わっていく「非論理的」な文章。なぜそんな文章が生まれたのか。(この問い自体が、近代的論理に呪縛されている証拠なのかもしれないが。)
いくつもの時代の中で形成されていった平家物語には、数多くの人の記憶と、感情と、惧れと、作為とが重なり合っている。つまり「過去(むかし)の死者たち」の「異界」から折り重なって聞こえてくる声の複合体なのだ。それが主語の揺らぎの原因だとするならば、それは傷ではない。だが、これを語ることができる者とは、いったいいかなるものなのか。
兵藤氏は、異界との交流は聴覚によってなされるのだという。だが、視覚が声を文節化し、ざわめきをノイズとして除いてしまうのだ。ならば、盲目であることが、異界との交流を容易にする。
「聴覚と皮膚感覚によって世界を体験する盲目のかれらは、自己の統一的イメージを視覚的に(つまり鏡にうつる像として)もたないという点で、自己の輪郭や主体のありようにおいて常人とは異なるであろう」
だから盲目の琵琶法師たちは「自己同一的な発話主体をもたないモノ語り」になんの違和感も持つことは無い。むしろそれは彼らにとって親しい世界なのである。
琵琶法師は「不断に変身してゆく語り手」である。「『我』という主語の不在において、あらゆる述語的な規定をうけいれつつ変身する主体」なのである。
平家物語を語る琵琶法師について、「個々のペルソナ(人格)を統括するはずの語り手の『我』という主語が不在」なのだと兵藤氏は言う。「語り手がさまざまなペルソナ(人格)に転移してゆくのであれば、物語を語るという行為は、近代的な意味でのいわゆる『表現』などではありえない」。確かに「狂気の自己を冷徹に監視するもう一人の自己」などという「われ思うゆえにわれあり」的な「近代的な分裂」が、世界を小さく限定してしまったようだ。
「自己の輪郭を容易に変化させうるかれらは、前近代の社会にあっては、物語・語り物伝承の主要な担い手でもあった。」
まさに演劇の原点、これこそ「憑依体験」である。また、そうでなければ「見えないモノのざわめきに声をあたえること」など不可能であったのだろう。
彼らが母を神と崇めることについて、僕は母の愛の欠如を、古の語り手たちの共通項として読んでしまったのだが、それは間違いなのだろうか。
「母と子の神をまつり、父なるもの(規範)を他者としてもたないかれらは、『我』という主体を規定する根拠の不在につきまとわれるだろう」
「自己同一的な主体形成の契機となる父なる神(他者)が不在だということだ」
「そこに形成されるのは、自己同一的の不在において、あらゆる述語的な規定を受け入れつつ変身する(憑依する/憑依される)主体である」
だからきっと、彼らは「本質的に両性具有的」なのである。唐突ではない。僕は納得している。そして「両性具有的な主体こそ、非ロゴスの狂気のざわめきに声をあたえる」ことができるのだ。
「平家物語に頻出する慣用句、『あわれなり』は、人としてこの世に組みいれられてあることの根源的な矛盾とその哀感の表白である」
僕は深く深く同意している。
「言語化・分節化されないモノ(ことば以前の非ロゴス)」から言葉が「分離・発生してくる現場」
……ああ、あの頃の匂いがしてきた。そんな「事件」を舞台上に出現させる、しかし、なんとも困難な作業である。
トリックスターは命を賭けている。道化は、王の前でいつも死の危険と向かい合っているのである。しかし、ここは市民劇の現場なのだ。一緒に舞台に立つ方々は河原者ではない。
それでも僕は、少しでもそこに近づきたいと密かに思っている。そのために何ができるのか、例えばその一つがイントネーションにこだわることだと、僕は信じているのである。そうして、ことばひとつひとつに、なんとかして古の重なりあった言霊のざわめきを籠めようと、目を閉じて耳を済まして考えているのである。
僕は琵琶法師ではない。僕は、ロゴスによってしか言葉を考えることができない役者、ホントであれば舞台に立つ資格のない役者である。
だが、僕がやろうとしていることも、琵琶法師の非ロゴスの手法と根本的に矛盾するものではない、と、信じるしかないのである。
そうして更なる別の方法、しかしながら……
いや、それはまた、別のはなし。
そして今日も“ますき”の暖簾をくぐったのでした。
中谷麻由子さん(左)は紹介済み。真ん中の方はちょいと顔を出してくださった京浜協同劇団の渡辺高志さん(中)です。要するにここ“ますき”という居酒屋さんは京浜協同劇団ご用達飲み屋ってことなんですね、きっと。
そして初登場、佐々木進仁くんです。

従僕の喜八です。ラスト稲毛三郎と運命を共にすることを諦め、農民となる臆病者。でも、この芝居の中で、時代に流されること無く正しい選択をした唯一の登場人物かもしれません。そう考えると、この役、すごく面白いんだけどな。
井上思麻さんも石山海くんも紹介済み。美奈実さんは既にコアな紹介をしていますが、役の紹介がまだですね。というわけであらためて……
神野美奈実さんです。

井上思麻さんとダブルキャストで侍女・楓を演じます。楓は喜八の女房です。つまり本日は三角関係だね。あれ、おい海、なんでお前が真ん中にいるんだ!
とのぎひろこさんも紹介済み。

居酒屋デビューは3名。累計24名。役柄の紹介はプラス2名で11名になりました。
中谷麻由子さん(左)は紹介済み。真ん中の方はちょいと顔を出してくださった京浜協同劇団の渡辺高志さん(中)です。要するにここ“ますき”という居酒屋さんは京浜協同劇団ご用達飲み屋ってことなんですね、きっと。
そして初登場、佐々木進仁くんです。
従僕の喜八です。ラスト稲毛三郎と運命を共にすることを諦め、農民となる臆病者。でも、この芝居の中で、時代に流されること無く正しい選択をした唯一の登場人物かもしれません。そう考えると、この役、すごく面白いんだけどな。
井上思麻さんも石山海くんも紹介済み。美奈実さんは既にコアな紹介をしていますが、役の紹介がまだですね。というわけであらためて……
神野美奈実さんです。
井上思麻さんとダブルキャストで侍女・楓を演じます。楓は喜八の女房です。つまり本日は三角関係だね。あれ、おい海、なんでお前が真ん中にいるんだ!
とのぎひろこさんも紹介済み。
居酒屋デビューは3名。累計24名。役柄の紹介はプラス2名で11名になりました。
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