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「枡形城・落日の舞い」仮想演出ノート(1)

今日もまた市民劇の稽古である。

真実の歴史など一向に興味はない。しかし……
どうもまた、ややこしい記事になりそうだ。

小林秀雄は『実朝』の中で、鎌倉幕府後期の北条氏の編纂による一級資料「吾妻鏡」について、こう述べている。
「吾妻鏡には、編纂者等の勝手な創作にかかる文学が多く混入していると見るのは、今日の史家の定説の様である」

そこから小林は、「では真実はいかようなものであったのか」と素直に問うのかと思いきやそうではない。そんなことは無駄だと言わんばかりに、肩透かしのように別の話しを始める。
「文学には文学の真相というものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もっと深いところに行こうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。深く行って、何に到ろうとするのであろうか。深く歴史の生きている所以のものに到ろうとするのであろうか。とまれ、文学の現す美の深浅は、この不思議な力の強弱に係るようである」

小林にとって「吾妻鏡」は史書ではなく「文学」なのである。彼は「史実」など全く興味がないように見える。小林が見ているのは、ただ吾妻鏡に記された文字だけだ。だが彼は、ここで再び歴史の真実に立ち返るというマジックを使うのだ。
「吾妻鏡の文学は無論上等な文学ではない。だが、史家の所謂一等資料吾妻鏡の劣等な部分が、かえって歴史の大事を語っていないとも限るまい」

しかし、小林の言う「歴史の大事」とは、学者が探る「真実」とは程遠いものである。
 ⇒“社長とは呼ばないで”「小林秀雄が語るロシア革命のこと」

少し話しは横道に逸れるが、小林秀雄は『モオツァルト』の中でこう言った。
「千七九一年七月の或る日、恐ろしく厳粛な顔をした、鼡色の服を着けた背の高い痩せた男が、モオツァルトの許に、署名のない鄭重な依頼状を持って現れ、鎮魂曲の作曲を註文した。(中略)モオツァルトは、この男が冥土の使者である事を堅く信じて、早速作曲にとりかかった。冥土の使者は、モオツァルトの死後、ある貴族の家令に過ぎなかった事が判明したが、実を言えば、何が判明したわけでもない。何もかも、モオツァルトの方がよく知っていたのである」

結局「レクイエム」はモーツァルトによって完成されることはなかった。モーツァルトは弟子のジュスマイアーに後を託した。そうして完成されたジュスマイアー版「レクイエム」がいいとか悪いとか、以後多くの作曲家によって様々な版が生み出されることになるのだが、小林秀雄はそんなことには一切興味を示さない。
「確実に彼(モオツァルト)の手になる最初の部分を聞いた人には、音楽が音楽に袂別する異様な辛い音を聞き分けるであろう」
小林秀雄は、本当にモーツァルトの音楽について論じていたのだろうか。
 ⇒“社長とは呼ばないで”「小林秀雄のモオツァルトのこと」

小林秀雄は、何について論じても結局自分のことしか語っていないではないか、それが嫌で、小林秀雄を読む度に離れ、しかしまた吸いつけられるように小林秀雄を読む、若い頃、そんな一時期があったが、それについて今日は語るまい。少なくとも真実は史実とは別のところにあるのだということを、小林秀雄を引き合いに出して言いたかっただけのことだ。

史実の実朝ではなく、小林秀雄の『実朝』に戻ろう。
「北条氏の陰謀と吾妻鏡編者等の曲筆とは、多くの史家の指摘しているところで、その精細な研究について知らぬ僕が、今更かれこれ言うことはないわけであるが、ただ、僕がここで言いたいのは、特に実朝に関する吾妻鏡編者等の舞文潤飾は、編者等の意に反し、義時の陰謀という事実を自ら臭わしているに止まらず、自らもっと深いものを暗示しているという点である」
小林の言う「もっと深いもの」とはいったい何なのか。
「実朝の死」に強く揺り動かされた周囲の者たちは、自らの心を鏡に映すかのように「吾妻鏡」という「文学」の中に伝説となる実朝像を作り上げていった。その実朝像に対して、「真実ではない」と言える者はどこにもいない。「吾妻鏡」から読み取れる実朝こそ、真実の実朝なのだと、そのように小林秀雄は言っているように思えてならない。
にもかかわらず結局、小林秀雄の描き出す「実朝」は、小林秀雄自身の分身に過ぎぬではないかと、僕は言いたいのだが。

しかし、今日の僕は小林秀雄に寄り添っている。

「源平交代」という、いかにも眉唾物の思想がある。平家が壇ノ浦で滅びて以来、未来永劫、平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が交互に政権を獲ってきという俗説である。

実際、源氏の後、鎌倉幕府の執権を握った北条氏は桓武平氏・平貞盛の流れを汲む平直方の子孫であったし(といっても、それさえ怪しい話しなのではあるが)、また鎌倉の後、室町幕府を開いた足利氏は、清和源氏一族の河内源氏の流れを汲む武将であった。
その後、信長は平氏を名乗り、家康が源氏を名乗った。何をとち狂ったのか、山猿の秀吉までもが自らを平氏と言い張ったので、織田と豊臣の間が繋がらなくなった。しかし三日天下の明智光秀を源氏ということにしてうまく帳尻を合わせた。まともな歴史家はそんな「源平交代思想」など相手にしない。

しかしである。問題なのは信長や家康の出自の真偽ではない。信長や家康までもが、「源平交代思想」に呪縛され左右されていたということが重要なのである。そう考えれば別の歴史が立ち現れてくる。つまり、長きに亘る戦国の世に散っていった兵(つわもの)の怨霊たちは、あの時代の只中に跋扈し、戦国の歴史に大きな影響を与えていたという確かな真実である。歴史の英雄たちはそんな怨霊を畏れていたのだ。

源平交代の呪縛は、壇ノ浦から始まったのだが、それを仕掛けた頼朝は、未だその呪縛から自由であったといっていい。だから平氏の流れを汲むとされる北条政子を妻とすることに何の躊躇もなかった。

稲毛三郎重成と畠山二郎重忠は平氏であった。しかし後に頼朝に帰伏し、頼朝の寵愛を受け、生涯源氏に尽くすことになる。「源平交代思想」から言えば、あってはならないことだが、その理由を、頼朝同様に重成と重忠も源平交代の呪縛から自由であったからだと捉えるとどうなるだろう。
頼朝が重成と重忠を誰よりも信頼し、重成と重忠もそれに答えるように頼朝に忠義を尽くしたのは、歴史の重みから自由であることが困難になってきた時代にあって、なおまだ自由であらんとした数少ない者同士にしか分からない共感があったからだ、そんなふうに想像してみることは実に面白い。
頼朝は、政子の妹たちを、重成と重忠それぞれふたりに嫁がせた。平氏も源氏もない。それを気に掛けていたのは、政子とその妹たちの父、北条時政であった。

再び言う。真実の歴史を探ろうとしているわけではない。そんなことには興味はない。

ここから先は、今までにも増して戯言である。勿論、市民劇「枡形城・落日の舞い」の行方について、とやかく言うつもりは毛頭ない。ただただ空想である。

「枡形城・落日の舞い」第一部第一場。治承五年(1181年)鎌倉頼朝の館。
源頼朝が義父の北条時政に向かってこう言う。
「折り入っての相談だが、親父殿、政子の妹たち、嫁にやる気はないか。畠山重忠と稲毛三郎重成。勲功著しいこのいとこ同士に、嫁を持たせようと思ってな」
重忠と重成が元は平氏であったことで躊躇する時政に、彼らの所領である武蔵と稲毛が、いかに鎌倉にとって重要であるかを頼朝が説く。
それを、義理の妹たちを嫁がせる本意を正直に語った頼朝の言葉だと読めば、この場面は頼朝の策略の場ということになる。頼朝の独壇場である。説き伏せられた時政は言う。
「流石は頼朝殿、読みが深い。畏れ入り申した」

だが、多摩の横山は厳然と鎌倉と武蔵の間に横たわっているのだ。それを指摘することに、それほど深い読みが必要であろうか。武蔵と稲毛が鎌倉にとって戦略上重要な拠点であることは、農兵でも知っているような分かりきった事ではないか。「畏れ入り申した」? 時政が阿呆では、この芝居は学芸会に堕する。

芝居を成立させるための真相はきっと別にある。頼朝は純粋に重忠と重成とが可愛かったのであり、だからこそ義理の妹たちを彼らの嫁にしたかったのである。しかし、平氏である彼らと縁続きになるためには、それなりの理由が必要であった。頼朝が時政を納得させるために用意した「理由」は、間違いではないが、しかし方便に過ぎなかったのである。
時政も、そんな頼朝の真意を理解していた。そして、その方便に乗ったのである。
「流石は頼朝殿、読みが深い。畏れ入り申した」

頼朝もまた、自分の持ち出した「理由」を時政が方便であると重々理解した上で説得されるであろうことを、あらかじめ分かっていたのだ。なぜなら、北条時政は平氏であるのだから。

しかしである。頼朝には見えていないことがあった。それは時政が「源平交代」という歴史の呪縛に捕らえられていたということだ。なぜそれが頼朝には見えなかったのか。それは頼朝が歴史の呪縛から自由であったからだ。この時既に時政は、「源平交代」に準えて源氏の次の時代を見据えていたのである。頼朝にまんまと平氏の妻を嫁がせた時政だったが、さらに今、重忠と重成という最も有力なふたりの御家人をも縁者とするチャンスが、向こうから転がり込んできたのだ。
《いつの日か、重忠と重成は、源氏から政権を奪い取るための重要な手駒になるに違いない。たぶん捨て駒に……》
そしてこの幕開きの場は、頼朝の策略の場ではなく、一変して北条時政の謀略の臭気が漂う場面となる。

少し記事が長くなった。この先は別途記事にて。
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