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さて、どうしてやろうか

《10月19日(水)》
大震災から222日目……
五日ぶりに事務所の外で線量を測った。
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へえ、0.06μSv/h、ちょっと低め。低いことはいいことだけれど、じゃあ今まで高めだったのは何故か、その方が気持ちが悪い。何度も言うが、外部被曝という意味では、きっと左程に問題視する数値ではないのだろう。ただ、空間を漂っているのかもしれないα線とβ線を放射する核種の存在が気になるのだ。

だが結局、僕にはその存否を知る術がない。どんなに頑張って、自分で調べて考えろといっても、ひとりやふたりの力では不可能事であるというのが、たどり着いた結論である。ならばここから先、どうするか。

自宅。雨どいの出口で測ってみた。
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0.12μSv/h、それなりの数値。
「それなりってなんだ」
「それなりって、だからそれなりさ」

もちろん、こうしていつも線量計を持って、ちょいちょい立ち止まって測っているのは、最低限の危機管理だと思っているのだが、それ以上に、周りに存在する危機を、個人が察知できるものなのかどうか、それこそを知りたいと思っているのである。しかし、どうやらそいつが怪しいということがはっきりしてきたわけだ。

「だろ、だからさ、考えたってしかたないんだよ。きっと放射能なんて大したことないし、楽しくやろうぜ」
「いや、そいつは違う。お前は俺の話を聞いちゃいないらしい。俺は、リスクのことを語っているんじゃない。もっと違う何かに拘っている。」

家の中は0.05μSv/h。
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「じゃあ、家の中でジッとしてりゃあいいじゃん」
「お前と遊んでも、ちっとも面白くない」

選択する道は、まだいくつもある。

それから……
1983年に、僕がショーペンハウエルを嫌悪しながら書いた日記。是非ともお読み頂きたいと思うのである。
 ⇒社長とは呼ばないで《1983年7月18日のノート》


【追伸】
ツイッターで僕は、TVのワイドショーに出続ける竹田圭吾にブロックされている。その竹田圭吾が「江川紹子さんという人は本当に凄い」と呟いたらしい。

また、竹田圭吾のこんなツイートを見つけた。
「経済学って誰もが経済学を学ばなくても済むためにそもそも存在するのではないのか」
「専門家はみんなが専門家になる必要がなくなるために存在してると言い換えてもいい」
これは理念としてはその通りであろう。だが、専門家は往々にして民衆から真実を隠す役割を果たしてきた。特に「有事」の時はそうであった。そうした専門家の犯す罪の片棒を、TVで発言することによって間接的に担いでいるのかもしれないという認識が、どうも竹田や江川には存在しない。
「放射能に対して無知な者は黙っていろ。政府が選んだ専門家の意見を信じろ」というふうに。

グーグル検索が人間の脳の一部になったという言説に対して、竹田は「だから人類はこんなバカになったのか」とおちゃらけて呟いてみせた。
しかし人類の新歩は、脳の外部に記憶媒体を獲得してきた歴史的出来事と切り離して考えることはできないという話を聞いた。まず太古まで遡る。寿命が三世代同居できるまで延びた時から、つまり自分の子世代が子供を生むまで生きていられるほどの寿命を獲得した時から、人類の劇的な進歩が始まったのだという。「親」が経験した子育ての知恵を格納する外部記憶媒体。それは、子供を生み育てる際の重要な知恵を切実に必要とする時に、傍らにいて生きた助言をくれる母親であった。この親の脳そのものが、人類が初めて獲得した外部記憶媒体だった。
その次の革命は文字の発明である。さらに印刷技術による書物の出現で、外部記憶媒体は劇的その容量を増して発展していったのである。人間は過去から現在まで、全ての知識を格納する第二の頭脳を手に入れた。
そして今や人類は、記憶装置の第三次革命ともいうべき、インターネットという巨大な外部頭脳の出現に歓喜し、そして戸惑っている。

こうした文明進化に対して批判も可能だろう。が、竹田圭吾の「人類バカ」発言はそれとは全く事情を異にする「下衆」な言説としか思えない。

インターネット以前、書物もまた、豊富な知識とともに膨大な間違いをも頒布してきたのだ。それを正してきたのは専門家だけではない。むしろ何物とも利権関係を待たず、柵(しがらみ)の一切無い多くの無名の読者たちであったということを忘れてはならない。

竹田圭吾曰く「馬鹿は無視するに限る」、笑止である。
(2011/12/12記:高山正樹)
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