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原発を詩的に語るには時期尚早だという個人的な思い

落合貴之御一考と別れて、千歳船橋から祖師谷大蔵まで歩く。
耕雲寺というお寺の本堂で、「砂の棺」という芝居を観る。
砂の棺1砂の棺2

原発事故を扱った芝居。
面白かった。一日しかやらないという。もったいないと正直に思った。

しかし原発事故や福島を題材にしているというただその一点で、僕はいまだ「面白い」と公言するのに躊躇する。
3.11の1年後、天願大介氏の「なまず」を池袋の劇場で観た。大好きな世界観で、その舞台を映像化した作品を映画祭で上映したほどで、その「なまず」を思い出した。
 ⇒「なまず」の告知記事
水槽の中に泳ぐナマズを踊るダンサーが強烈だった。「砂の棺」では、鼠と猫を踊るダンサー、その存在感。どこか似ていた。好きなのである、この感覚。
※ナマズは日本らしき国の北から南まで、その地下に眠る巨大なナマズ。その頭と尻尾のある場所には、大きな石が置かれ、伝説のナマズを封じている。北は、放射能で汚染され見捨てられた村。そこには、まつろわぬ者たちが国家を作り、そこで大きな石を守っていた。
※鼠(あるいはもっと大きな獣なのか)は、主のいない被災地の家の中を荒らす黒い鼠。猫は、その家で飼われていた白い猫。震災から何年後なのか(6年後なのか、10万6年後なのか)、家を掃除に来た夫婦。夫は自分の趣味だったウルトラマンのフィギヤを探す。妻はまだ生きていると信じる猫を探す。そして現れた猫。涙で抱きしめる妻。もう一度、ここでやり直そうと、妻は夫に語るのである。


それでも僕は、「まだだ」と思う。

3.11直後、僕は一本の芝居の構想を練った。
何十年か先の未来の話。ある湖のほとりに、老夫婦が住んでいた。ふたりは、夏休みを利用してもうすぐ孫たちがやって来るのを楽しみにしている、そんな第一幕。
第二幕の冒頭は、家の外で元気な子供たちの声が聞こる。町から子供たちが到着したのだ。そしてドアが開く。しかしそこには、防護服を着た子供たちが逆光の中に立っている。
そんな芝居の構想。

しかし僕は、この芝居を完成させる作業を放棄した。書けばどうしたって「詩的」にならざるを得ない。だが、現実に起こった原発事故を、詩的に語るには、まだまだあまりに尚早だと思ったのである。そしてその思いは、今も全く変わっていない。

10万2017年の故郷…「砂の棺」もまた優れて詩的であった。褒めこそすれ、批判しようなどとは少しも思わない。その資格もない。「詩的に語るには時期尚早」という思いは、あくまでも僕の個人的な感覚、自分自身に対する戒めにすぎない。

打ち上げにお邪魔した。
「砂の棺」打ち上げ

伊藤えりかと

帰り際、伊藤絵理花(今は「岩﨑えりか」か)と話した。ちょっとお酒の入った彼女は、はたして僕が言ったことを覚えているかどうか。

インディアンには、七代先のことを考えて判断しろという教訓がある。反原発を標榜する人たちが好んで持ち出す話である。
僕は、原発対話の会という企画を2013年から続けているのだが、その第一回「どうする原発?異なる意見で対話する会」で、僕もその「七代先」の話をした。だが、多くの理系の参加者から、無感動にこんなこと言われた。
「たった7代先までしか考えないの?」

世の中には、詩的に語る以外に出口のないことは星の数ほどたくさんある。しかし、詩的な表現をもって人様の心を深くとらえるためには、詩的世界に逃げ込むことを、ギリギリまで絶え、論理的に考え続けることをしなければ決して叶わないのだと、僕はつくづく思っている。ことに原発の問題に関しては、そう簡単に詩的な世界に転がり込むわけにはいかないと、自分に言い聞かせ続けているのである。

えりかの父君、伊藤克さんが右脳と左脳の話をする。
「女性は、右脳と左脳の境を軽々と乗り越えることが出来るのだが、男はなかなかそれが出来ないんだ」
伊藤克さん語る
ピースしてるのは劇団仲間の女優、小野瑞穂さんである。
女優はたいがい誰でもみんな名優だが、めったにいい男優はいないと語ったのは鈴木忠だったか。

「克さん、僕、自分の演技をどこまでもどこまでも理論的に考える役者が好きなんです。たいがいそんな役者は華もなくてへたくそなんですが、それがダメだって分かっていても、理屈にこだわり続ける役者が、僕、やっぱり好きなんです」
すると克さんはニヤリと笑った、…と、そんな気がした。



さて…

以上はFacebookに投稿したものである。実は、珍しくこういう記事をFacebookの自分のタイムラインにアップしたのには訳がある。それは間近の10月7日(土)に迫った原発対話の会、記念すべき第20回目に、ちっとも人が集まらないからなのである。
 ⇒http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-4614.html
総選挙の所為なのかもしれない。その日はアチコチで集会が開かれている。そういうイベントに勇んで参加するだろう人たちに向けて、ちょいとジャブのような宣伝をしてみたかったからなのである。

以下、その宣伝文を掲載する。

もうすぐ20回目の原発対話の会があります。電力中央研究所から元ICRPの佐々木道也さんを迎えて、「徹底的にトリチウムを考える」という勉強会です。
3.11前から、原発から流れ出て来る暖かい水(つまりそこにはトリチウムが含まれていたわけですが)の問題を指摘する論文や映画もたくさんありました。近海の生態系が壊れているという報告。反原発を唱える人たちは、そうしたことどもを事実として、だから原発はダメなのだと断じていました。そうした方々こそ、トリチウムを徹底的に勉強してみようという今回の企画に、興味が沸くはずだと僕は思ったのですが、しかし殆ど関心がないようです。放射性物質であるトリチウムを流す、いいわけないだろう、そんな分かり切ったことをなぜわざわざ勉強する必要があるのか、ということなのでしょうか。それともみなさんはちゃんと勉強して、もう学ぶことはこれ以上ないということなのでしょうか。元ICRPの佐々木氏でさえ「トリチウムは難しいので準備に三か月下さい」といったことだのに。
今度の土曜日です。お時間があれば是非参加していただきたい、また、ご興味のありそうな方に、是非声を掛けて頂きたいと存じます。


しかしながら、予約の電話はいっこうに鳴る気配がない。ジャブは空振りであったのか。あるいはクリーンヒットして、相手を怒らせてしまったのか。いずれにしても、戦ってはダメなのである。対話が重要なのである。そのことを忘れていた。この僕も、選挙戦とやらに影響されているらしい。
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tag: 伊藤克  トリチウム 

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