第3回 沖縄映画祭②「沖縄愛楽園から伝えたいこと」+α

第3回 喜多見と狛江で小さな沖縄映画祭+α 上映作品2
「沖縄愛楽園から伝えたいこと」
(ドキュメンタリー 35分/2002年)
製作:国立療養所,沖縄愛楽園自治会

沖縄愛楽園

「らい予防法」に対しての
腹の底から湧き上がってくる怒りというものがあります

「らい予防法」があって
私たちハンセン病療養所に隔離されたものが
どういう思いで
どういう状況で生きてきたかということを
まずは話したいんです


本作品は字幕付きで上映することに決定しました。
文字起こしをして、画面のすぐ近くに映す予定です。また両日とも、上映後のトークには手話通訳がつきます。


① 日時:1月27日(金)13:00~
会場:M.A.P.
② 日時:1月31日(火)18:30~
会場:狛江中央公民館 講座室


①1/27の+αは、上映後、宇夫方路が琉球古典舞踊女踊りの最高峰といわれる伊野波節を踊ります。伊野波節には他の琉歌と同様、様々ないわれがありますが、そのひとつに、伊野波村の坂道を登った所に、かつてハンセン病の隔離場所があり、移住を命じられた夫と妻の道行、「この坂を上り切ってしまえばもう一生夫とは会えない、いつまでもこの坂が続いてくれればいいのに」という、妻の深い悲しみを詠んだのだという解釈があります。そんな歌意を思って、20分の踊りを、じっくりとご堪能下さい。
※年明け1月17日に追記
地謡を日高桃子さんにお願いすることが決定しました。※プロフィールは記事の後ろに

②1/31の+αは、12月9日の“さようならCP”上映会に続く企画として、今回も上田要さんをゲストにお迎えし、上映後には上田さんやいらしたお客様の皆さんと、「障がい者の施設について」など、語り合う時間をたっぷりともうけたいと思います。
※上田要さんの半生記は、この記事の後ろに掲載

【チケット料金】
 前売り 1,000円(当日1,200円)
 学生及び75歳以上 前売り 500円(当日700円)

  ※受付で学生証・保険証等を提示してください。
  ※ご予約を頂けば、前売り扱いにて、チケットを受付にお取り置きいたします。
 11枚綴り 10,000円(1000円券×11枚)
  ※ご家族やお友達と分けてのご使用が可能です。

 ※介助の方と御同伴の場合は、お二人で一人分の料金、またはチケット1枚
  (なおM.A.P.会場は車椅子の対応が出来ていません。お問合せください。)


 ⇒オフィシャルサイトのチケット購入ページ
  ⇒CoRich 直通(PC用)
  ⇒CoRich 直通(携帯用)

ご予約・お問合せ:
TEL:03-3489-2246(M.A.P.担当うぶかた)
FAX:03-3489-2279
Mail:mpro@mbh.nifty.com
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1907年(明治40年) 「法律第11号」(「癩予防に関する件」)施行
 (患者施設隔離のはじまり)
1931年(昭和6年) 「癩予防法」成立
 (らい病根絶の方針、全患者施設隔離)
※1943年(昭和18年) 特効薬プロミンが開発される
1953年(昭和28年) 「らい予防法」施行
 (「癩予防法」の精神を受け継ぎ、強制隔離、外出禁止などの人権侵害)
1996年(平成8年) 「らい予防法」廃止

沖縄では1961年(昭和36年)、琉球政府によって「ハンセン氏病予防法」が制定されていた。治癒した入所者の退所や在宅治療も認める画期的な(しかし当たり前の)法律であった。 しかし復帰によって、「らい予防法」へと後戻りすることになる…

youTubeで、こんな動画を見つけました…


単独チラシを作りました。
愛楽園単独チラシ
※1月31日のトークゲスト、上田要(うえだもとむ)さんのプロフィールに替えて、上田さんご自身がお書きになった半生記を、ご本人に許可を得て、ここに掲載させていただくことにしました。

【上田要半世紀】

上田要さん上田要(もとむ)と言います。この字は普通(かなめ)と読みますが、親が勝手に(もとむ)と付けてくれたので、以来63年間何かをモトメ続けて生きてきました。 1948年8月に、広島県の瀬戸内海に浮かぶ能美島(現広島県江田島市)に生まれました。 太平洋戦争が終わった直後、広島の片田舎で医療設備が何もない時代に、難産の末に鉗子分娩で産まれて、生後1週間後高熱を出して冷めてみたら脳性まひの人生が始まったという次第です。 当時は「脳性麻痺」という言葉はなく親も慌てふためいたようですが、3歳の時に「この子はリットル氏病という病気で一生治りません」と著名な医者から宣告されました。

■幼少〜学生時代
 未だによくある話として、障害を持つ子供がいるとその家の恥として隠そうとすることが多いようですが、幸い我が家では周りの同年代の子供たちを家に招いて一緒に遊ぶ機会を作ってくれました。
 そして就学期になったとき、地元の教育委員会から「お宅の子供さんどうされますか?」という問い合わせが来ました。当時は、障害児の場合は「就学猶予」という明らかな差別制度があり、学校に行かなくてもいい(来ては困る)ということで、大半の人たちは教育を受けられなかったのが現実でした。両親も迷ったようです。いわゆるリハビリを中心に考えて遠くの施設に預けるか、地元の学校の普通教育を受けさせるか二者択一で選んだ結果、毎日家族がずっと付き添うという条件で、普通教育を受けさせることに決めてくれました。
 小学校を卒業するまでは順調(?)に通学出来ましたが、中学校は校舎が家から距離が倍近くになりました。1年の時はまだ教室が一階でよかったのですが、2年生からは二階になり、付き添い役の母親が僕を背負って階段を上がれなくなったうえに、家庭の事情も加わり2年生の5月から通学を断念しました。
 中学校の卒業写真にも顔だけ載せられて、卒業証書も貰いましたが、なんだか尻こそばゆい気持ちだったのを今でも思い出されます。
 ほかの仲間たちは社会人として巣立ったり、高校に行くようになるのを見るにつけ、自分だけ取り残されてしまう感覚がだんだん大きくなり、自分でできることとしていろんな本を読み漁り、ラジオ講座で英語の勉強していました。今思うと、その時やったことがすごく影響受けていると改めて感じています。

■施設から自立生活へ、相次ぐ両親の病気
 約10年間、いわゆる滅多に外出もしない在宅生活を送った後、25歳の時、役所から「リハビリをしてくれて介護してもらえる場」ができたので、入ってみないかと誘われました。
 そろそろこれからの人生を考えなければいけない年代に差し掛かったので、リハビリ幻想もあり入所しました。 ところがリハビリ的なものは何もなく、待っていた生活は朝6時30分に起床から、夜9時30分就寝まで、10人部屋の仲間たちと大した話もできずに、プライバシーのプの字もない生活を毎日続けるのみの繰り返しでした。 面会も最初は自由だったのが突然月2回になりました。外出も面会者にやってもらうことしか方法はなかったので、出かけることすらできなくなりました。 ほかにもいろいろな事情が重なり、親もリハビリも何もしてもらえないのであれば出ていいよ言ってくれたので、5月に入所してたったの7カ月で退所しました。 正直な話、その部屋の中ではある程度頼られていたので、申し訳ない気持ちも交錯し、苦い思い出として今でも浮かんできます。
 施設を出た後、自宅で自立生活を目指そうと準備していた矢先に、母がリウマチを発病して急速に悪化して寝たきりの状態になってしまいました。  70歳を過ぎた父が、母と僕と両方の面倒をみなければいけなくなり、このままでは気付いたら今で言う孤立死のイメージが思い浮かび、僕としてすごい恐怖感におちいりました。
 ただ1人の兄弟である姉が東京の世田谷に嫁いでいたので、僕は世田谷の近辺の施設に入り、両親の面倒を姉に見てもらおうという決心をしました。最初は嫌がっていた両親も、僕の頑固さに負けたよう(?)で、30歳(34年前)に最初は父と二人で出てきました。
 悪いことは重なるもので、上京して2カ月後に父が膀胱ガンだと宣告され、初期だったこともありその後約9年間闘病生活しました。  僕自身の入れる施設も探しましたが、役所の方からは「東京都内で施設に入りたいという人は200人いて、ベッド数が年に二つか三つしか空かないので、100年くらい待ってもらうことになります」と言われました。  まさか100年も待つわけにはいかないし、今から田舎に帰るわけにもいかず、どういう結果になるかわからないが、とりあえず親子3人の生活を続けていこうということになりました。
 父は25年前に、母も9年前に亡くなりましたが、田舎で恐れていた孤立死だけは避けられたと勝手に思っています。

■24時間介助、世田谷地域運動
 療護施設で、障害者の置かれた社会的立場をイヤというほど肌で感じていたので、東京に出てきた時に、障害者の活動をやってみたいと思い、ある団体を東京都の身障ケースワーカーに紹介してもらい入会したのをきっかけに、世田谷の地域運動に関わるようになりました。
 施設という問題点の一番大きな部分は、障害を持った側の人間だけが、健常者側の人間だけに管理し尽くされることにあると感じています。
 地域というのは、男と女、健常者と障害者、子供と大人、若者と高齢者、日本人と外国人などいろんな立場の人たちが、いろんな生活を営んでいる場である以上、そこをいかに認め合えるかを考えて行動していく面白さを感じたので、僕自身の生き方も含めてこの活動に没頭していきました。
 その活動していく中で、国内で5番目に24時間介助を入れた生活を始めた人とその仲間たちに出会い、僕の人生は大きく変わりました。
 実際に目の前で、その生活ぶりを見聞きしていくことで、僕が最終的に考えていた自分の生活のパターンのイメージが変わっていきました。  「この生活が軌道に乗れば施設に入らなくても生きていける」  ワラをも掴む思いで、見よう見まねで始めた生活が始まりました。
 出会う人ごとに、介助に入ってほしいと頼む日々だったような気がします。
 その頃介助に入ってくれた人から、「上田さんの仕事は介助者を集めてローテーションを組むことだよね」といみじくも言われたことがありました。
 そして今、介助者派遣を事業として行っているNPOの管理者の立場になっていることに、複雑な気持ちが交錯しています。
 世田谷の地域運動に関わり始めて、当事者の生活から来る問題を解決しなければいけないことと、社会にどう伝えていくかということを具体的に表現する場に関わってきたつもりです。

■「演劇ワークショップ」と八百屋
 1981年前後に、「演劇ワークショップ」というものに触れる機会を得ました。
 当時のフィリピンなどの第三世界(?)の中で、文盲率の高かった人たちに対して、演劇ワークショップを社会教育の一環として行われていたのを、ある劇団の人たちが、実際に行って経験したことを目の前で話されたのを聞いて、障害者自身が健常者と一緒に舞台に立って芝居をしてみたいという提案をしました。
 1988年には、実際に仲間たちとフィリピンのネグロス島に行って、現地を取材したものを芝居にまとめて見てもらうことができました。 今でもこの活動があちらこちらで続けられていたり、街づくりなどに活かされていることを見るにつけ、時代の移り変わりを改めて感じています。 世田谷でワークショップをやっていた仲間たちの数人と、実際に生活の場を通して自分たちの問題を伝えていこうということで、無農薬の野菜を中心とした八百屋を1986年から約5年間開いたこともありました。 一食500円で作った弁当と、三里塚の農家と契約して仕入れた野菜を、電動車いすで配達したり、お客はすべてセルフサービスという店番を一人でやったりの毎日でした。 仲間の一人が病魔で倒れて5年後に閉店をせざるを得なくなりましたが、僕の一番活発に動けていた時だったような気がします。

■バス乗車拒否から「誰でも使える公共交通」の運動
 八百屋を閉じて翌年の1992年に、渋谷でバスに乗って帰ろうとしたら乗車拒否を受けました。 それ以前から、そのバス会社に差別的な扱いをされているのを見聞きしていたので、これから僕の活動の場はこれだと思い、実際に乗車拒否をしたバス会社と交渉をし始めました。 「誰でも使える公共交通」という理念を前提に、当時東京都営バスに導入され始めた「リフトバス」を、直営のバスに全車入れろという要求をしました。 バス会社の本社ビルに交渉に行こうとしたら、そこでも乗車拒否を受けたりで、おまけに交渉相手である担当課の課長からは、「あれは乗車拒否ではなくコミュニケーションのすれ違いだった」という言葉も出るようになりました。 さすがに僕も堪忍袋の緒が切れて、当時の運輸省に直接掛け合いに行き、こういうことが許されていいのですかと訴えました。 一年後に、運輸省からバス会社に対して改善勧告が出されて、そのことがマスコミに報道され、バス会社の役員が3人うちに来て土下座をして謝っていきました。 僕は謝って済む問題ではなく、この問題の根本の解決策である「リフトバス」を早く入れてほしいと要求し続けました。 それから三年間の間に、乗車拒否された路線に2台のリフトバスが導入されて、やはり動いてよかったと一度は安心したものの、僕の目の前で、足の不自由そうな乗客が「自分もリフトを使いたい」と申し出たら、乗務員が「このリフトは車いすの人しか使えません」と簡単に断られました。 「誰でも使える公共交通」という理念からは、完全に外れていることにショックを受けた僕は、何かもっと違う解決策はないものかと考えるようになりました。 その直後に、北欧で「ローフロアバス」という床の低いバスが走り始めていることを知り、実際にそれを体験できるツアーに参加して、デンマーク、ドイツ、スウェーデンの三ヶ国を見てきました。 まるでエレベーターに乗るようなスムーズさでバスに乗れて、おじいちゃんやおばあちゃんとベビーカーを押したお母さんなど、いろんな立場の人たちが一緒に当たり前に同じバスに乗れていることに感銘を受けて、これからのバスはこれしかないと確信をして帰ってきました。 「障害者の交通権を求め、バス乗車の壁をなくす会」という僕の乗車拒否に対して組織として動いていた集りを、このローフロアバスを普及させていくための活動に方針を変えてさまざまな動きを始めました。 1998年くらいから国産のバスが走り始めたのをきっかけに、今では「ノンステップバス」として当たり前に走っています。 乗車拒否を受けた渋谷の南口に帰路のバスに乗ろうとしてふと見渡すと、ほぼ100%近くこのタイプのバスが走っているのを見るにつけ、さまざまなことが思い浮かび感慨深い今日この頃です。

■脳性まひの二次障害
 脳性まひという障害は、進行はしないと言われていますが、障害そのものの特徴として全身の筋肉の力関係が非常にアンバランスで、その結果頸椎や脊椎に損傷を与えるということがしばしば見受けられます。 「脳性まひの二次障害」という名前で呼ばれていますが、僕も三十歳前あたりから現象が徐々に出てきて、ついに15年前から腰から下と両手に感覚がなくなり、必然的に尿が自分では出せなくなりました。 以来、膀胱ろうから導尿カテーテルを装着するようになり、それの維持管理と全身のケアをしてもらうために、訪問看護を週三回受けて、一週間に一回訪問医療の医者の診療を受けています。 ここ数年はだいぶ安定してきていますが、発症直後の十年近くは、感覚の喪失が原因と思われる臀部の床ずれに襲われることが数多くありました。 2003年ぐらいから、おしりの床ずれが一気に深くなり、穴が開いて中の骨が表面から見えるまで至ってしまい、S病院に二ヶ月半入院して手術を受けました。 導尿カテーテルの管理も非常にデリケートで、年に数回それが原因で高熱を出して、救急車で運ばれることは回数に記憶が無いくらい頻繁にありました。

■「あんたのお陰で青春を味わえたよ」
 25歳の時に入った療護施設で、知り合ったK君という友達がいました。 彼は2歳年下で、当時家族が当てにならない状況が出てきたので自分で連絡して、その療護施設に入所して来ました。 しかし、あまりにもひどい施設の扱いに絶望し、僕が退所した直後に二度自殺を図りましたが、障害を負っている身体はそれも許しませんでした。 その後、施設を改革していきたいという事で、僕の紹介で当時の「青い芝」のメンバーと行動を共にしていく中で、施設を退所してアパート暮らしを始めました。 その数年後に、活動などの無理がたたって身体を壊して寝たっきりになってしまったことを聞き、僕は彼の家に訪ねて行きました。 眠ったままの彼がふと目を覚まして僕の顔を見た時、「あんたのお陰で青春を味わえたよ」とぽつんと言ったまま再び眠り込んでしまいました。 その半年後、約一日介助者が見つからず、次の介助者が顔を出した時には亡くなっていました。 その数年のアパート暮らしの間だけが彼の青春であり、人生を生きられた証であった意味を含みながらの「あんたのお陰で青春を味わえたよ」という言葉が、僕にとってはK君からの遺言としてずしんと心に重くのしかかりました。 東京に来てからの約30年は、障害を持った仲間たちの一人でも多くの人が、青春を味わえればという思いがいつも心にありました。

■人権を大いに叫べるような社会に
 これから近い将来、日本の人口の約4割が高齢者になると言われています。 これまでの社会通念からすれば、高齢者の生活はつつましく、ささやかに的なイメージだったと思いますが、半数近くの人達が静かな生活を送ったら、この国はどんなことになるのでしょうか。 高齢者も、いずれは障害者になるのだという感覚を持ち、生きることに拘り、人権を大いに叫べるような社会になる状況がつくれれば、この国はもう少しましになるかもしれません。 その意味でも、障害者がこれまで叫び続けたことを、国民すべてが聞いていくべきだと思っています。
上田 要


【日高桃子(ひだかももこ)プロフィール】
東京都出身。
1991年~1996年沖縄滞在。
1991年野村流保存会師範比嘉康春氏(現沖縄県立芸大学長)に入門。
1996年沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻卒業(第3期生)、同年沖縄タイムス芸術選賞最高賞受賞および教師免許取得。滞在中、沖縄タイムスのエッセイ「唐獅子」を半年間連載。
帰京後、カルチャーセンター講師、東京芸術大学邦楽科非常勤講師を1年間つとめる。声楽、バイオリン、インドネシアガムラン音楽との演奏などを経験。
子育てのため一時活動休止。
2014年沖縄タイムス芸術選賞グランプリを「仲節」にて受賞。
2015年師範免許取得。
琉球古典音楽野村流保存会関東支部所属 (2016年4月~副支部長)。琉球筝曲興陽会宜野湾支部所属。日本音楽表現学会会員。
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