fc2ブログ

内緒…と、まんちゃーひんちゃー



だから内緒。



すると、ある人から妙な絡み方をされた。しかし、僕は「永遠の0」も「Fukushima 50」も見ていない、その上での話なので、話は嚙み合わず。だからこの件をブログに転載する気はない。

※その後、「Fukushima 50」を見た。その上で以下を追記することにした。

映画の内容をとやかく言いたいわけではない。
まず前提として、僕は、どんな主張のためでも、「ヒロシマ」「ひろしま」「Hiroshima」といった表記、「フクシマ」だろうが「Fukushima」だろうが、また沖縄を「オキナワ」としても、そのこと自体に何の問題はないと考える。カタカナや横文字にすることに表現者がどんな意味を込めたとしてもかまわない。内容を批判することはあっても、表記だけで批判することは決してしない。だから、“Fukushima 50”という横文字の表題が悪いなどと言うつもりは僕には全くないのである。戦争の背景や、福島の原発事故が抱えている根本的な問題、その中には当然国家や企業を批判する視点もあるだろう、それを棚上げして、「事件」を感動的な人間ドラマに仕立てることに強烈な違和感を感じるということはあるにしても、それは別問題である。

その上で、映画の内容とは関係のない話。
要は、「フクシマ」と表記することは福島にレッテルを貼って利用しようとすることであって、それは許しがたいと主張していた人たちが、「Fushima~」の表記については全くスルーするのはなぜか、そこに僕は違和感を感じると言いたいだけだ。

すると、“Fukushima 50”は「Fukushima」とは違う、海外メディアが現場の50人の作業員を“Fukushima 50”と呼んだのであって、いわばゴレンジャーみたいな固有名詞、それは「フクシマ」という表記とは違うのだと。なるほど一理あるのだが、なぜか妙な気分である。なぜそこまでしてボクに進言されるのか。素直な映画愛なのか。あるいはもしかすると、その方も、「ヒロシマ」や「フクシマ」などとカタカナ表記する「反権力の人たち」のことが、そもそもお嫌いなのではないか…、そんな疑念が沸いたから、僕は「なるほど」と引き下がるわけにいかなくなったのかもしれない。

僕? ふむ、確かに僕は逆に、「フクシマ」という表記を福島にレッテルを貼ることだと決めつける人間が大嫌いなのである。だから、「武漢肺炎という差別用語」とか、「福島に感謝」とかいうtweetに、僕は反応したのだろう、たぶん。

木下さんは、“Fukushima 50”は涙なしには見られなかったとおっしゃる。そりゃそうだ、主義主張とは関係なく、戦争だろうが原発事故だろうが、自らの命を賭して他者のために何かを為そうとする人間の姿が、感動的でないわけがない。たとえその行為が、悪に加担しているのだとしても、他国の人々を敵と見做す行為だとしてもである。だからこそ、感動とは時として実に危ういのだが、感動してはいけないなどと言うつもりは毛頭ない。

木下さんは、「ヒロシマ」や「オキナワ」「フクシマ」というカタカナ表記に嫌悪する人たちがいる、ということについてご存じかどうか、今夜の番組が終わって、あらためて落ち着いた時にでも伺ってみようと思う。

今夜のテーマは「溶融塩炉」のこと。
終わればやっぱりミートステーション。


gajumui

昨夜のまんちゃーひんちゃー。類化性能と別化性能という話。おおよそ一般受けしないだろう内容。それはそれとして、一見全く違うものに共通点を見つける類化性能について伝えたいがために分析的な別化性能に陥る。ラジオというメディアで、少しでも面白く分かりやすく、これが落とし穴なのか。
03-11 10:44

新型コロナについて、インフルエンザに比べて大したことはないから検査限定「派」と、いや大きい脅威なのだから検査増強「派」の違いは、公衆衛生寄りの医師と目の前の患者に向き合う開業医の違いのような気がするとも言ったのだが、これも単純過ぎた。その先こそ語りたかったのだが時間切れ。反省。
03-11 10:55

コロナについてはステージが変わったし、元々人々の意識を単純に分析することなど不可能。ただなあ、公衆衛生は政権寄り、開業医的発想は政権批判的という感じは否めないのだがどうなのだろう。妙なプライドの所為で、最初に自分が発した言葉に縛られたりこだわったりしないこと。自戒を込めて。
03-11 11:13


関連記事

tag: 木下幹康  狛江_居酒屋.ミートステーション 

Comment

コメントの投稿

Comment
管理者にだけ表示を許可する