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常磐津と守礼門

元来組織が大嫌い、権威なんてクソ食らえ、そんな人間が、三線で賞を貰おうなんてことを考えること自体あり得ないハナシだったわけで。でも、ひたすらに伝統を真似て、それでもなお滲み出てきてしまう個性、そんな古典芸能の魅力も十分に理解しているつもり。だから…

たとえ師匠が間違えても、弟子はそっくりそのまま、師匠が間違えたままなぞらなければいけないという理不尽さを、ボクは大いに面白がってもいたのだ。でもね、そうした魅力的な伝統に付随する醜悪さはやはり受け入れ難く。有り体に言えば、師匠だから偉いのは稽古場だけだということ。




首里城の守礼門は、中山門に続く首里城の第二の坊門として、第二尚氏第四代、尚清王代に創建された。『中山世譜』によれば、1528年と翌29年、二度にわたって請封使(琉球国王の冊封を要請する使節)を中国に派遣した際に加健されたとされる。つまり、冊封使を迎える文字通り一世一代のイベントに先駆けて、中山門に匹敵する国門を造営したのである。はじめ、この門には「待賢」の額が掛けられ、次いで「首里」、そして尚永王の代の時に「守礼之邦」の額が作られ、冊封使が滞在する間だけ掛けられた。尚質王の時にそれが常設となる。門の名称も、額の文字によって、「待賢門」「首里門」「守礼門」と変わっていった。

1933年(S8)、「国宝保存法」によって旧国宝に指定されたが、老朽化が激しく、所有者である那覇市は国庫の補助を受けて1936年(S11)の10月から8ヶ月かけて解体修理を行った。しかし1945年(S20)の戦災で、基盤、礎石、敷石の一部を残して破壊され焼失した。

その後1958年(S33)、個人が保存していた原図を基に復元。
今から60年前の今日1958年10月15日 は…
新しい守礼門の復元落成式のあった日 である。

そういえば、しばらく首里城に行っていない。だから画像もない。今度、あらためて訪れてみようと思う。

《追伸》
10月28日に首里城へ行ってきた。夜だけれど、守礼の門も撮影できた。
守礼門

そして11月30日、あらためて昼間の守礼門を撮影してきた。
2020年の守礼門

《再追伸》※2021年の10月に
沖縄県公文書館のサイト「守礼門の復元落成式」より抜粋~
戦後、沖縄の文化財は、戦闘中の損傷や米軍人の持ち出し、一部住民による破壊等により危機的状況にあった。民間有志や市町村は、焼け残った文化財の収集や博物館設置に尽力し、1954年(昭和29)6月、「琉球政府文化財保護法」が制定され、文化財の指定・保護行政が本格的に始まる。
1956年(S31)、沖縄の政財界、文化財関係者らは、那覇市長を会長にして守礼門復元期成会を結成。礼節を重んじる琉球王国の理想を伝えていくため、「守礼之邦」を扁額に掲げていた守礼門を復元する資金を集める取り組みを始めた。そして、総工費23,514$を、琉球政府や那覇市の補助金、琉米親善委員会や海外在住沖縄人、一般住民の寄付金によって捻出した。
翌57年(S32)着工。守礼門柱材を納入する儀式(木曳式)には首里高校の生徒や教職員も参加。工事終盤には琉球大学美術部の学生が彩色を施す等、多くの住民が関わった。
1958年(S33)10月15日の落成式には、当間重剛行政主席、安里積千代立法院議長、仲松恵爽上訴裁判所主席判事、そしてドナルド・ブース高等弁務官、オルコット・デミング総領事らが出席。門の前で「御前風」の演奏等、数々の余興が披露された。

所蔵している沖縄アーカイブ写真と別冊太陽『首里城』より
本二冊

守礼門の画像たち

戦前の守礼門
戦前の守礼門
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