2022年01月04日(火)23時10分
01/04のツイートまとめ
実咲ちゃんの年始の挨拶。
それから、本当は、今日ラジオの出演予定だったのですが、急きょお休みさせて頂きました。
ラジオは次回2/1(火)、コマラジの「火曜の夜はまんちゃーひんちゃー」で元気にスタートしたいと思います!
よろしくお願いします。
ボクは待っているよとメンションんを送った。
今年最初の"まんちゃーひんちゃー"は、正月特番のふり返り。流したかったのに流せなかった曲、掛けられなかったリクエスト曲など、全部というワケにはいきませんが、できるだけ掛けたいと思います。
本日のまんちゃーひんちゃーは、正月特番を振り返ります。極めて真面目に。沖縄返還50年記念の年の始めに。
そんなツイートを流してみたのだが…
あまりご期待に沿うような曲はかけられないかもしれない。極私的総括である。
2時から始まるはずの“よんたま映画祭”の反省会は2時間遅れの4時に始まり、やがて今後どうするかの作戦会議に。
いったいどうすれば、政治活動や「市民活動」に奔走する人たちに、映画祭の思いを届けることができるのか、話せば話すほど無力感は増幅していく。
“まんちゃーひんちゃー”の放送時間が近づいてくる。ボクはコマラジへ向かわなくてはならない。
そこで感じたモノは、夕方の会議とは真逆の負のベクトルに刺されての無力感。
きっとこの50年間、まんまと国にしてやられているのだとつくづく思う。僕らより少し年上の先輩たちが青年だった頃、彼らが仕出かした「闘争」に「アカ」のレッテルを貼り、それを憎み嗤う若者たちを作り上げることに成功した年長者は、学生運動全盛の頃には既に訳知り顔の大人だったのだが、何故かその末裔たちが、今、権力を握ってふんぞり返り腕組みをして薄笑いを浮かべているのだ。僕や松本さんの年代、つまり「僕ら」は、あの嵐の時代から「遅れて来た青年たち」なのである。
「僕ら」? 実体のない理念としての「僕ら」…
どうやらきっと今夜の俺は、たくさんの沖縄の人たちが、それぞれ一人ひとりずっと孤独に抱えてきた一種の絶望感に感応して、そして魘されて悪夢を見るのだろう。
極私的ふり返り。こういう国の、こういう町で、「問い」を突き付け続ける。およそウケない放送。知らん顔される番組。大いに結構じゃないか。もう、愛想笑いはしない。
追伸。
ボクは、正月特番のメッセンジャーグループにメッセージを書いた。
ずっと考え続けています。
すると、、松本さんが返信してくれた。
僕もそうです。1960年代の若者からの異議申し立ては、日本では、なぜかき消えてしまったのか。フォーク、ロックの登場は、ある意味アンチな思想が、ニューミュージックという包み紙にくるまれて、メッセージが風俗やファッションの歌詞に変わり、サウンド偏重になり、歌手は、アーティストと言う言葉に変わったのに、政治的発言や心情を吐露することはタブーになってしまった。改めて、高山さんとそのあたり語り合いたいです。
はい、是非
…とボクは答えた。
松本さんがさらに…
本土でいうコザ暴動は、1970年。デモもシュプレヒコールも死語になってしまったんだなあ。
この記事読みました? 最初は、本人が嫌がるであろう古い話掘り起こしてと思いましたが、森田童子とつげ義春の話。ガロとつげ、白土三平あたりも話したかったですねえ。
⇒https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91082?page=3
『森田童子の頑なな意思と、ときどきの危機意識を瞬時に受け止めたのかもしれなかったからだ。その「正しさ」とは「理念を持っている」ということではないだろうか。森田童子の歌は「闘い」の歌ではないかもしれないが、「抵抗」の意思を示す歌ではあるだろう。「正しさ」とは「抵抗」の謂いでもあるのだろうか。「反乱の季節」を若者たちとともに闘おうとした作家・高橋和己の「孤立無援の思想」をモチーフとした歌もあった。つげ義春の「海辺の叙景」をイメージした作品もある。』
ボクはまた、とりとめもなくメッセージする。
「孤立無援の思想」はよく読んでいました。評論集なので、全部読んだかどうかは記憶にありませんが、その本は、断捨離で処分してしまったかもしれない。沖縄の本しか残さないと決めたのです。でも、岡林と同じ同志社大学神学科出身の娘が古本屋をやりたいと言い出して、それならばと、捨てずに段ボールに詰め込んでどっかにしまってあるかもしれません。
どうでもいいような話。
何冊か読みましたが、理解できませんでした…と、松本さん。
まんちゃーひんちゃーのメッセンジャーでグループで、名古屋くんからこんな質問が来た。
高山さんはサンカ(山窩)は詳しいですか?
なんて厄介な質問…
そこから色々と妄想的な連想が始まり変身したのだが、それを、正月特番のグループに転送してみることにした。長いですがご容赦くださいませ、と但し書きを添えて。
河原者の発祥の地と言われる宿河原の宿の別字「しゅく」について。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%99-528096
今から9年前のブログ、ただTwitterをまとめただけでほったらかしている。
http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-3385.html
さて山窩のはなし。朝から簡単に話せるようなことではないのだけれど。「山窩」については詳しくはない。柳田国男の「山の人生」程度の知識。もう忘れたけれど。成城大学で学んだ名古屋ちゃんの方がよっぽど詳しいのでは?ただね…
どんどんと連想ゲームは進む。農耕民族と狩猟民族、縄文人と弥生人、日本はいわば大陸(朝鮮)から来訪した弥生人に支配された民族。天皇家こそがまさに支配者となったわけで。その意味では、元来のヤマト民族は、蝦夷、鬼、アイヌ、沖縄に近しい人たちだったのかもしれない。定住する農耕民族に対して、放浪する狩猟民族のイメージは、まさに「在」を持たぬ旅芸人に通じる。というか、大和のあらゆる芸能者は放浪する旅芸人にそのルーツがあったはずなのです。
沖縄のチョンダラー然り。下級宗教者然り。高野聖だね。そうなると泉龍寺の発祥にもつながる話。
ラジオで語った劇団、「風の旅団」という名前も然り。
当時のアングラ演劇がテント芝居だったのは、放浪(拠点を持たない)という思想が根底にある。
松本さんが特番のグループで語った森田童子はボクも縁のあった黒テントと行動を共にしてライブをしていた。
斉藤暁さんだって自由劇場がルーツ。宇夫方さんは全くノンポリながらどういうワケは早稲田小劇場にはいっちゃって怪優白石加代子と利賀村で一緒だったらしいし。
横須賀の極貧家庭(本人曰く)で育った西川郷子さんが、「渋さ知らず」と一緒にデモのなかで歌っちゃう感覚も分かるし、上々颱風のリーダー紅龍さんは、歌声運動むちゃくちゃ詳しい。酒田出身の白崎さんも、今の活動は、まさに「末路わぬ民」に寄り添っている。鬼だったりアイヌだったり。東北という地、蝦夷が持っている抵抗の精神。
さらにイメージは拡がっていく。障碍者は、かつて呪術的な力を持つとされ、差別されながら畏怖されていた。まさに両義性、アフリカのトリックスター、王様の寝室への出入り自由だったもっとも身分の低い道化の存在。
劇作家つかこうへいは、おすぎとピーコがラジオで人気が出始めた頃、オカマは日の当たる場所に出てくるなみたいな発言をして、美輪明宏を激怒させた。でも、つかこうへいは在日、彼の真意は、差別される者だからこそ持つ「力」が失われることを危惧したのだけれど、時代はもう変わっていた。
60年台70年台の俳優やミュージシャンたちが、テレビに出なかったのは、単に反資本主義や反体制というだけではなく、その力を確保しておくということと無関係ではなかったはず。それを、吉田拓郎は「結婚しようよ」でぶち壊した。荒井由実もまた然り。
今のミュージシャンは、もしかすると四畳半フォークをバカにするかもしれないが、岡林や斉藤哲夫などより、むしろそっちにはるかに根っこがあるというか、親和性があるのだと思う。音楽的にはきっと進化したのだろうけれど。
ちょっと「山窩」とは話がズレちゃったかな。
福岡で原発研究中の木下さんからメッセージが届きました。
「きのうのコマラジ、九州で聞きました。沖縄の現状って(誤解をまねきそうな言い方ですが)国家的ハラスメント、という気がします。
peoples' life/cultur VS national poltics/military のバランス、という視点もあるかなと。
それに対して、僕は次のような返信をしました。
「木下さんらしいw
ただ、シンガーや俳優は、peoples' life/culturの側にいるべき存在だと信じてきました。だってカルチャーなんだもん。それがややもすると、意識してか無意識なのか、national poltics/militaryの側に加担していたりする。その危うさを感じています。問題は教育、そういうことを教えないシステムを、今の権力者たちは何十年も(もしかすると明治維新以来ずっと)かけて構築してきた。その意味で、バランスを欠いてしまっていると感じています。」
木下さんから返信が来ました。
「おっしゃる通りだと思います。日本のマスコミのレベルが低いのは(それこそ国としての文化力、ひいてはエネルギーを作ったり使ったりする文明国として)まずい。」
木下さんは自らを原発ムラの住人だという人、イギリスの国際会議に遅刻しても僕の番組に出てくださった人、僕を自民党本部での自民党議員たちの勉強会に誘ってくれた人、そんな人がこう言うのです。重く受け止めた方がいいと、僕は思うのだけれどねえ。まあ、一朝一夕でどうにかできるものでもないわけで。
かつての深夜放送は、アンダーグラウンドを世に出すという大きな役割を果たしました。でも結果、アンダーグラウンドだからこそ力を持っていたいた者たちの牙を抜く効果もあったわけです。ここらあたりを考え始めるとホントに悶々とする。
Twitterでややこしいことを呟き始めると、途端に「いいね」は減ります。でもそっとフォロワーが増えたりする。50年近く表現の世界で生きて来たけれど、いまだに分からないことだらけです。
アングラは商売にならないと判断され放置され、辺境のママでいられた。音楽業界は、それまでの流行歌に変わるものとして、取り込み、一部のフォーク歌手も自ら取り込まれて、高度成長の果実を遅ればせながら享受したというと、あまりに単純化しているかもしれません。
沖縄、出雲、蝦夷、熊襲、鬼門と裏鬼門
封印され分断され洗浄され
山窩は闇に消え
「辺境のママでいられた」…
深いですなあ。今はみんな辺境から脱出しようとしてもがいている。というか、当時の「辺境」という概念は甘かったのかもしれない。そこにいても生きていられるぬるま湯。本当の沖縄、蝦夷、熊襲、山窩は置き去りにされ、活動家に「消費」されたともいえるわけです。自戒を込めて。
うわー深い
活動家ばかりではなくミュージシャンもそうです。スケッチオブミャークの久保田麻琴然り、あの喜納昌吉の花だって、八重山民謡のパクリだと言われたわけだし。
沖縄歌三線界の大御所の有名な逸話。「本土」の大手レコード会社に騙されて、一曲2万円、本人は訳もわからず演奏が楽しいから何曲も歌った。それを録音した音源で、レコード会社は大儲けしたというハナシ。
ボクは大和の人間なので、沖縄関連の事業をやるだけで、沖縄を使って儲けようとしていると言われる。
ザリガニーズと同じだ(笑)
ザリガニーズと同じって?
確か買い取られて終わったと所さんが言ってましたよ。
泳げたいやきくんだね。でもそれと沖縄の場合は話が全く違う。沖縄音楽を搾取するという意味合いが含まれるからね。
こういう話をしていると、よくこういう話の展開が起きることがある。日本中あっちこっちである話だよね、みたいな。でもね、違うんだよなあ。この感覚がなかなか分かってもらえない。そこに構造的な差別があるかどうかという問題なんだよね。
アーティスト印税は1%しかないので、メンバーで頭分けすると、曲を書いていないメンバーは、レコードはヒットしないと雀の涙です。ただ、レコード会社だけじゃなくて、プロダクションは少なくない育成金や契約金をレコード会社から受け取っていたりします。それを事務所の社長は自分がメンバーに給料を払っているような顔をして中抜きして、事務所の運営費と社長の遊興費に化けていたりもするのです。でも、2~3年経ってレコード会社の契約が終了すると…(😭)
ひゃー
写真家の世界ではほんとによくある話でね。たった一枚沖縄の女性を撮るだけで、沖縄文化を消費するなみたいに言われるのね。これって、何も知らない人が聞けば、そういう文句をつける人が理解できないってことになるんだけど、それって、歴史を知らなすぎるんだよなあ。
プロダクションがブラックボックスになっている。レコード会社もグルですが(苦笑)。実演家印税は、買い取り契約だと、契約の両者の力関係が左右する。契約に疎い演奏者は赤子の手をひねるように簡単です。文化の搾取の問題は、もっと大きな問題です。写真家と被写体の問題も。
僕の場合、いつからか沖縄の人に感謝されるようになった。それはまずたくさんの沖縄の人たちと繋がったこと、そして僕のかみさんが沖縄の人間だということ、さらに、そしてこれが一番なのですが、一緒に仕事をしている宇夫方さんが琉球舞踊をやっているという事が大いに関係している。僕が三線をやっているくらいではどうにもならない。やっぱり琉球舞踊は、沖縄の人にとっても、三線よりもはるかにハードルが高い。ましてや岩手県出身、沖縄には何の関係もないヤマトゥンチュが琉舞の師範にまでなったのだから、これは大きい、並大抵のことではない、信頼を得る力は絶大、沖縄の人の反応が全く違うのです。
12年前の僕の裏ブログです。どうぞお読みくださいませ。
⇒http://uramapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-328.html
それから、本当は、今日ラジオの出演予定だったのですが、急きょお休みさせて頂きました。
ラジオは次回2/1(火)、コマラジの「火曜の夜はまんちゃーひんちゃー」で元気にスタートしたいと思います!
よろしくお願いします。
ボクは待っているよとメンションんを送った。
今年最初の"まんちゃーひんちゃー"は、正月特番のふり返り。流したかったのに流せなかった曲、掛けられなかったリクエスト曲など、全部というワケにはいきませんが、できるだけ掛けたいと思います。
本日のまんちゃーひんちゃーは、正月特番を振り返ります。極めて真面目に。沖縄返還50年記念の年の始めに。
そんなツイートを流してみたのだが…
あまりご期待に沿うような曲はかけられないかもしれない。極私的総括である。
2時から始まるはずの“よんたま映画祭”の反省会は2時間遅れの4時に始まり、やがて今後どうするかの作戦会議に。
いったいどうすれば、政治活動や「市民活動」に奔走する人たちに、映画祭の思いを届けることができるのか、話せば話すほど無力感は増幅していく。
“まんちゃーひんちゃー”の放送時間が近づいてくる。ボクはコマラジへ向かわなくてはならない。
そこで感じたモノは、夕方の会議とは真逆の負のベクトルに刺されての無力感。
きっとこの50年間、まんまと国にしてやられているのだとつくづく思う。僕らより少し年上の先輩たちが青年だった頃、彼らが仕出かした「闘争」に「アカ」のレッテルを貼り、それを憎み嗤う若者たちを作り上げることに成功した年長者は、学生運動全盛の頃には既に訳知り顔の大人だったのだが、何故かその末裔たちが、今、権力を握ってふんぞり返り腕組みをして薄笑いを浮かべているのだ。僕や松本さんの年代、つまり「僕ら」は、あの嵐の時代から「遅れて来た青年たち」なのである。
「僕ら」? 実体のない理念としての「僕ら」…
どうやらきっと今夜の俺は、たくさんの沖縄の人たちが、それぞれ一人ひとりずっと孤独に抱えてきた一種の絶望感に感応して、そして魘されて悪夢を見るのだろう。
極私的ふり返り。こういう国の、こういう町で、「問い」を突き付け続ける。およそウケない放送。知らん顔される番組。大いに結構じゃないか。もう、愛想笑いはしない。
事務所では、ラジオを聴いた数人が、野菜ばかりの鍋を温めて待っていてくれるらしい。帰り際、「火を着けました」という画像付きのメッセージが届いた。 pic.twitter.com/qFEX7WOq8k
— 高山正樹 (@gajumui) January 4, 2022
追伸。
ボクは、正月特番のメッセンジャーグループにメッセージを書いた。
ずっと考え続けています。
すると、、松本さんが返信してくれた。
僕もそうです。1960年代の若者からの異議申し立ては、日本では、なぜかき消えてしまったのか。フォーク、ロックの登場は、ある意味アンチな思想が、ニューミュージックという包み紙にくるまれて、メッセージが風俗やファッションの歌詞に変わり、サウンド偏重になり、歌手は、アーティストと言う言葉に変わったのに、政治的発言や心情を吐露することはタブーになってしまった。改めて、高山さんとそのあたり語り合いたいです。
はい、是非
…とボクは答えた。
松本さんがさらに…
本土でいうコザ暴動は、1970年。デモもシュプレヒコールも死語になってしまったんだなあ。
この記事読みました? 最初は、本人が嫌がるであろう古い話掘り起こしてと思いましたが、森田童子とつげ義春の話。ガロとつげ、白土三平あたりも話したかったですねえ。
⇒https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91082?page=3
『森田童子の頑なな意思と、ときどきの危機意識を瞬時に受け止めたのかもしれなかったからだ。その「正しさ」とは「理念を持っている」ということではないだろうか。森田童子の歌は「闘い」の歌ではないかもしれないが、「抵抗」の意思を示す歌ではあるだろう。「正しさ」とは「抵抗」の謂いでもあるのだろうか。「反乱の季節」を若者たちとともに闘おうとした作家・高橋和己の「孤立無援の思想」をモチーフとした歌もあった。つげ義春の「海辺の叙景」をイメージした作品もある。』
ボクはまた、とりとめもなくメッセージする。
「孤立無援の思想」はよく読んでいました。評論集なので、全部読んだかどうかは記憶にありませんが、その本は、断捨離で処分してしまったかもしれない。沖縄の本しか残さないと決めたのです。でも、岡林と同じ同志社大学神学科出身の娘が古本屋をやりたいと言い出して、それならばと、捨てずに段ボールに詰め込んでどっかにしまってあるかもしれません。
どうでもいいような話。
何冊か読みましたが、理解できませんでした…と、松本さん。
まんちゃーひんちゃーのメッセンジャーでグループで、名古屋くんからこんな質問が来た。
高山さんはサンカ(山窩)は詳しいですか?
なんて厄介な質問…
そこから色々と妄想的な連想が始まり変身したのだが、それを、正月特番のグループに転送してみることにした。長いですがご容赦くださいませ、と但し書きを添えて。
河原者の発祥の地と言われる宿河原の宿の別字「しゅく」について。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%99-528096
今から9年前のブログ、ただTwitterをまとめただけでほったらかしている。
http://mapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-3385.html
さて山窩のはなし。朝から簡単に話せるようなことではないのだけれど。「山窩」については詳しくはない。柳田国男の「山の人生」程度の知識。もう忘れたけれど。成城大学で学んだ名古屋ちゃんの方がよっぽど詳しいのでは?ただね…
どんどんと連想ゲームは進む。農耕民族と狩猟民族、縄文人と弥生人、日本はいわば大陸(朝鮮)から来訪した弥生人に支配された民族。天皇家こそがまさに支配者となったわけで。その意味では、元来のヤマト民族は、蝦夷、鬼、アイヌ、沖縄に近しい人たちだったのかもしれない。定住する農耕民族に対して、放浪する狩猟民族のイメージは、まさに「在」を持たぬ旅芸人に通じる。というか、大和のあらゆる芸能者は放浪する旅芸人にそのルーツがあったはずなのです。
沖縄のチョンダラー然り。下級宗教者然り。高野聖だね。そうなると泉龍寺の発祥にもつながる話。
ラジオで語った劇団、「風の旅団」という名前も然り。
当時のアングラ演劇がテント芝居だったのは、放浪(拠点を持たない)という思想が根底にある。
松本さんが特番のグループで語った森田童子はボクも縁のあった黒テントと行動を共にしてライブをしていた。
斉藤暁さんだって自由劇場がルーツ。宇夫方さんは全くノンポリながらどういうワケは早稲田小劇場にはいっちゃって怪優白石加代子と利賀村で一緒だったらしいし。
横須賀の極貧家庭(本人曰く)で育った西川郷子さんが、「渋さ知らず」と一緒にデモのなかで歌っちゃう感覚も分かるし、上々颱風のリーダー紅龍さんは、歌声運動むちゃくちゃ詳しい。酒田出身の白崎さんも、今の活動は、まさに「末路わぬ民」に寄り添っている。鬼だったりアイヌだったり。東北という地、蝦夷が持っている抵抗の精神。
さらにイメージは拡がっていく。障碍者は、かつて呪術的な力を持つとされ、差別されながら畏怖されていた。まさに両義性、アフリカのトリックスター、王様の寝室への出入り自由だったもっとも身分の低い道化の存在。
劇作家つかこうへいは、おすぎとピーコがラジオで人気が出始めた頃、オカマは日の当たる場所に出てくるなみたいな発言をして、美輪明宏を激怒させた。でも、つかこうへいは在日、彼の真意は、差別される者だからこそ持つ「力」が失われることを危惧したのだけれど、時代はもう変わっていた。
60年台70年台の俳優やミュージシャンたちが、テレビに出なかったのは、単に反資本主義や反体制というだけではなく、その力を確保しておくということと無関係ではなかったはず。それを、吉田拓郎は「結婚しようよ」でぶち壊した。荒井由実もまた然り。
今のミュージシャンは、もしかすると四畳半フォークをバカにするかもしれないが、岡林や斉藤哲夫などより、むしろそっちにはるかに根っこがあるというか、親和性があるのだと思う。音楽的にはきっと進化したのだろうけれど。
ちょっと「山窩」とは話がズレちゃったかな。
福岡で原発研究中の木下さんからメッセージが届きました。
「きのうのコマラジ、九州で聞きました。沖縄の現状って(誤解をまねきそうな言い方ですが)国家的ハラスメント、という気がします。
peoples' life/cultur VS national poltics/military のバランス、という視点もあるかなと。
それに対して、僕は次のような返信をしました。
「木下さんらしいw
ただ、シンガーや俳優は、peoples' life/culturの側にいるべき存在だと信じてきました。だってカルチャーなんだもん。それがややもすると、意識してか無意識なのか、national poltics/militaryの側に加担していたりする。その危うさを感じています。問題は教育、そういうことを教えないシステムを、今の権力者たちは何十年も(もしかすると明治維新以来ずっと)かけて構築してきた。その意味で、バランスを欠いてしまっていると感じています。」
木下さんから返信が来ました。
「おっしゃる通りだと思います。日本のマスコミのレベルが低いのは(それこそ国としての文化力、ひいてはエネルギーを作ったり使ったりする文明国として)まずい。」
木下さんは自らを原発ムラの住人だという人、イギリスの国際会議に遅刻しても僕の番組に出てくださった人、僕を自民党本部での自民党議員たちの勉強会に誘ってくれた人、そんな人がこう言うのです。重く受け止めた方がいいと、僕は思うのだけれどねえ。まあ、一朝一夕でどうにかできるものでもないわけで。
かつての深夜放送は、アンダーグラウンドを世に出すという大きな役割を果たしました。でも結果、アンダーグラウンドだからこそ力を持っていたいた者たちの牙を抜く効果もあったわけです。ここらあたりを考え始めるとホントに悶々とする。
Twitterでややこしいことを呟き始めると、途端に「いいね」は減ります。でもそっとフォロワーが増えたりする。50年近く表現の世界で生きて来たけれど、いまだに分からないことだらけです。
アングラは商売にならないと判断され放置され、辺境のママでいられた。音楽業界は、それまでの流行歌に変わるものとして、取り込み、一部のフォーク歌手も自ら取り込まれて、高度成長の果実を遅ればせながら享受したというと、あまりに単純化しているかもしれません。
沖縄、出雲、蝦夷、熊襲、鬼門と裏鬼門
封印され分断され洗浄され
山窩は闇に消え
「辺境のママでいられた」…
深いですなあ。今はみんな辺境から脱出しようとしてもがいている。というか、当時の「辺境」という概念は甘かったのかもしれない。そこにいても生きていられるぬるま湯。本当の沖縄、蝦夷、熊襲、山窩は置き去りにされ、活動家に「消費」されたともいえるわけです。自戒を込めて。
うわー深い
活動家ばかりではなくミュージシャンもそうです。スケッチオブミャークの久保田麻琴然り、あの喜納昌吉の花だって、八重山民謡のパクリだと言われたわけだし。
沖縄歌三線界の大御所の有名な逸話。「本土」の大手レコード会社に騙されて、一曲2万円、本人は訳もわからず演奏が楽しいから何曲も歌った。それを録音した音源で、レコード会社は大儲けしたというハナシ。
ボクは大和の人間なので、沖縄関連の事業をやるだけで、沖縄を使って儲けようとしていると言われる。
ザリガニーズと同じだ(笑)
ザリガニーズと同じって?
確か買い取られて終わったと所さんが言ってましたよ。
泳げたいやきくんだね。でもそれと沖縄の場合は話が全く違う。沖縄音楽を搾取するという意味合いが含まれるからね。
こういう話をしていると、よくこういう話の展開が起きることがある。日本中あっちこっちである話だよね、みたいな。でもね、違うんだよなあ。この感覚がなかなか分かってもらえない。そこに構造的な差別があるかどうかという問題なんだよね。
アーティスト印税は1%しかないので、メンバーで頭分けすると、曲を書いていないメンバーは、レコードはヒットしないと雀の涙です。ただ、レコード会社だけじゃなくて、プロダクションは少なくない育成金や契約金をレコード会社から受け取っていたりします。それを事務所の社長は自分がメンバーに給料を払っているような顔をして中抜きして、事務所の運営費と社長の遊興費に化けていたりもするのです。でも、2~3年経ってレコード会社の契約が終了すると…(😭)
ひゃー
写真家の世界ではほんとによくある話でね。たった一枚沖縄の女性を撮るだけで、沖縄文化を消費するなみたいに言われるのね。これって、何も知らない人が聞けば、そういう文句をつける人が理解できないってことになるんだけど、それって、歴史を知らなすぎるんだよなあ。
プロダクションがブラックボックスになっている。レコード会社もグルですが(苦笑)。実演家印税は、買い取り契約だと、契約の両者の力関係が左右する。契約に疎い演奏者は赤子の手をひねるように簡単です。文化の搾取の問題は、もっと大きな問題です。写真家と被写体の問題も。
僕の場合、いつからか沖縄の人に感謝されるようになった。それはまずたくさんの沖縄の人たちと繋がったこと、そして僕のかみさんが沖縄の人間だということ、さらに、そしてこれが一番なのですが、一緒に仕事をしている宇夫方さんが琉球舞踊をやっているという事が大いに関係している。僕が三線をやっているくらいではどうにもならない。やっぱり琉球舞踊は、沖縄の人にとっても、三線よりもはるかにハードルが高い。ましてや岩手県出身、沖縄には何の関係もないヤマトゥンチュが琉舞の師範にまでなったのだから、これは大きい、並大抵のことではない、信頼を得る力は絶大、沖縄の人の反応が全く違うのです。
12年前の僕の裏ブログです。どうぞお読みくださいませ。
⇒http://uramapafter5.blog.fc2.com/blog-entry-328.html
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