fc2ブログ

“かじうむい”から沖縄映画祭へ

5月15日は、沖縄が日本に復帰して50年という記念の日でした。
5月29日、狛江駅周辺で沖縄復帰50年関連イベント「かじうむい」を開催し、数千人の方にお越しいただきました。ありがとうございました。

それにしても「沖縄を感じろ」とは、過激なキャッチコピーでした。
本物の沖縄を感じることは、もしかすると、とっても危険なことなのかもしれません。
「理解するな!感じろ!」
広場での毛遊び(沖縄の伝統的な遊び:いわばビーチパーリー)は、その文化を知らないスタッフも多い中、なかなか難しい挑戦でしたが、素人もプロの演奏家もスタッフも、市内外からのお客様も一緒になって、琉球舞踊や、三線・ギター・ウクレレなんでもござれ、楽しんだもん勝ち、最後にはそんな光景があちこちに出現し、これぞ沖縄のチャンプルー、次に向けての確かな手応えを感じることが出来ました。

ライブやってるみたいだけど、タイムスケジュールがないのでよくわからない、そのてーげーな感じの「けだるさ」は、果たして「かじうむい」というイベントにとって瑕疵(かし)だったのかどうか…

さあ、ここからです!
“かじうむい”からのバトンを、キタコマ映画祭が受けとりました。

少々長くなりますが、どうかお読みくだされば幸いです。

1970年台から、高嶺剛監督が生み出してきた新しい世界、いや、もしかすると、むしろ古くて懐かしい世界が、1985年の『パラダイスビュー』でひとつの完成形として結実しました。
「沖縄の聖なるけだるさ」
それは、前作のコラージュ的作品『オキナワン・チルダイ』(1978年)の観念でした。

「沖縄は日本なの?」
「チルダイしなくなったら日本だ」

映画史研究家の世良利和は言います。「高嶺がチルダイ(=けだるさ)にこだわり、ヤマトンチュとウチンーンチュの違いを強調すればするほど、映画自体はチルダイな感覚から遠ざかってしまった」と。
その観念が、具象として形になったのが『パラダイスビュー』でした。
ここには、日本人にお馴染みの、観光地としての沖縄は存在しません。しかし、まぎれもない沖縄。

5月29日のイベント“かじうむい”の「けだるさ」を、少しでも心地よいと感じた人は、きっとこの『パラダイスビュー』の世界を受け入れていただけるに違いないと思うのです。

高嶺剛は立松和平との対談中で次のように語っています。
「沖縄の島というのは、いろんな過酷な歴史があった。その問題だけで沖縄を語る『一般的』なとらえ方。しかし島が抱えている現実を通り越した向こう側にあるものにたどり着きたい。向こう側とこちら側の境目をあいまいにしたい、向こう側を取り入れたい。スタッフもろとも、チルダイ(琉球の聖なる“だるさ”)の中で漂っている」

以後、沖縄の映画を撮る監督たちは、口をそろえて最も影響を受けた監督として、高嶺剛の名をあげます。

少々ネタバレになりますが…
細野晴臣が演ずるヤマトンチュのイトーと結婚話が進んでいたナビー(小池玉緒)は、チルー(戸川純)が思いを寄せる男レイシュー(小林薫)の、ジュール(リリィ)という愛人のいるレイシューの子供を孕んでしまう。ああ、このもつれた糸よ。

「ナビーの妊娠は毛あしびの所為、誰が悪いわけでもない」
う~む…、お願いです。まずは笑ってみてください。

『パラダイスビュー』から14年後、沖縄復帰から27年の1999年に公開され、大ヒットした『ナビィの恋』は、沖縄ブームを象徴する記念碑的な作品でした。
ところで皆さんは、素敵な旦那さんがいるのに、初恋の男性と駆け落ちをする79歳のおばあさんをどう思いますか?

やはり高嶺剛に影響を受けたという中江裕司監督ですが、『パラダイスビュー』の登場人物「ナビー」を意識して自作の主人公の名前を「ナビィ」にしたのでしょうか。大いにありそうなことですが、たぶんそれは関係ないでしょう。
沖縄の女性特有の名前であるウシ・カメ・ナベ、その「ナベ」を沖縄読みの「ナビ」にして語尾を伸ばす、そうすれば簡単に沖縄からの風を吹かすことができる。
『ナビィの恋』に『パラダイスビュー』から受けた影響はないと言っているのではありません。その影響は、そんな表層にとどまってはいないだろうということです。

あの朝の連続ドラマ「ちゅらさん」が放送されたのは、『ナビィの恋』から三年後の2001年ですが、この頃を境に、沖縄はそれまでの「悲劇の島・苦悩の島」というモノクロの世界から解放され、色彩豊かな「楽園」になりました。

『ナビィの恋』には登川誠仁と嘉手苅林昌という沖縄音楽界二大巨頭が出演しています。この二人の存在が、沖縄のカラフルな風景を沖縄的に増幅させていきます。
しかし、このふたりは、ただただ何も変わらない連続性の中で自然体で生き、三線をつま弾いていたにすぎないのです。
因みに嘉手苅林昌は、パラダイスビューにも出演していました。変わったのは、大和の意識の方なのです。
その意味で『ナビィの恋』は、時代に愛された幸福な作品だったということなのでしょう。

「でもね、おっぱいがちいさいのも、また、いいもんだよ」

セイグヮーさん(誠小:登川誠仁の愛称)のセリフです。
失礼しました。でもね、どうか日本的倫理観で、眉間に皺を寄せたりしないでくださいね。
『パラダイスビュー』と『ナビィの恋』、どっちを先に観た方がいいんだろうか。
お勧めは、時代を逆行して、『ナビィの恋』から『パラダイスビュー』かなあ。

『サンマデモクラシー』と『ひまわり 沖縄は忘れないあの日の空を』には、また別の物語があります。

今から63年前、1959年の6月30日、嘉手納基地を飛び立った米軍ジェット戦闘機が、旧石川市の宮森小学校に墜落、児童11名を含む17名が死亡、負傷者は212名に上りました。
事故の原因や賠償の問題など、沖縄の米軍絡みの事故にいつもつきまとう話しが、この事件にも当然のようにあるのです。
『沖縄大百科事典』によると、この事件が沖縄での反基地闘争の萌芽となり、復帰協結成へと進展していくわけです。当時、世界の航空史上稀な大惨事として内外に報道されたというのですが、しかし、たぶん多くの日本人に、その記憶があるとは到底思えません。もちろん、その後も聞いたことがなかった。

1999年、琉球朝日放送が、「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故」の原因は、当時発表された不可抗力などではなく、明らかな人為的ミスであったという米軍の事故報告書を公表する番組を制作します。

決して過去の話ではない。2004年の8月、米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した「事件」は、僕の記憶にも生々しく残っています。
こうした事故に対する想像力を持っている者ならば、普天間基地と共存するなど考えられないでしょう。ただ目先の利益のために、あえて想像力を働かせないことに慣れてしまった者たちだけが、沖縄の基地に依存して生きているなどと言うのです。
仮に今の普天間基地の現状を知りながら、その危険を感じることができないのだとしたら、刺激的な情報の氾濫する中で、等身大で正常な想像力を失ってしまっているのかもしれないと、一度自らを疑ってみることも必要だろうと、僕は今、尖っているのです。

よく聞かれることですが、はじめは基地の周りには何もなかった、後から住民が移り住んできたのだという主張。さてどうなのでしょう。僕は思います。元々どういうふうに住民が土地を奪われたのかとか、当時普天間基地はすぐにも返還されることになっていたとか、沖縄の土地の少なさとか、諸々の事実を全く考慮しないから言えることだということはさておいても、正常な想像力が機能していれば、基地周辺に人々の生活圏が形成された理由がどうであれ、今のこの時の状況の異常さは明らかではないか、と。
10年ほど前、静岡空港は、滑走路の延長上に成長した木があったためにその開港が大幅に遅れました。間抜けな話です。しかし、普天間基地の滑走路延長上には、静岡の「成長した木」とは比べ物にならないくらい離着陸にとって危険な建造物が建っていて、米軍機はほぼ毎日何十回もその滑走路を使っているのです。当然その建造物群は、日本の法律でも、空港のそばにあってもいい基準を全く満たしていません。しかし日本政府は、普天間は米軍施設であって日本の航空法を適用する飛行場ではないと嘯くのです。もちろん、米軍の基地建設の条件に照らしても、存在することなど許されない代物なのです。

さて、『ひまわり 沖縄は忘れないあの日の空を』のことです。
まず、及川善弘監督の言葉を紹介します。

沖縄には哀しみがある。
それは長く長く続く、
負の歴史の中で背負わされてきたもの。
しかし、沖縄は諦めない。
俯かず、前を見据え、声を上げ、闘い続ける。
沖縄は音楽にあふれている。
唄、三線、カチャーシー、
人々の暮らしを支え、勇気づけてきた。
どこからか弦の音が響けば、
抗議のために振りかざした拳が、
波のように揺れ、踊りの手振りとなり、
フェンスの向こうを射貫く憤怒の表情が、
満面の笑顔に反転する。

しかし、高嶺剛の世界を体験し、その沖縄を感じてしまった僕は、この監督の言葉に首を傾げる。沖縄の音楽は、もっともっと深い場所からやって来る風なのだ、というふうに。
この映画は、今から9年前、2013年公開です。その時点でも「事故」から54年経っている。1999年の琉球朝日放送の番組からは14年。この映画の評価については観た皆様に預けるとして、問題は、「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故」について、我々が、忘れ去ってしまったというのではなく、今まで一度も聞かされたことすらないという事実です。
僕は、あらゆる日本人が、「宮森小学校米軍ジェット機墜落事故」について知るべきだと思っているのですが。

当時の沖縄は、米軍の絶対的な統治下にあり、植民地状態だした。その中で起きたこの「事件」が、ウチナーンチュを復帰運動に駆り立てました。それから13年後、その願いは叶い、沖縄は日本に帰属することになります。

ただね、、先に述べた普天間飛行場の現状は、復帰から50年経った今のことなのです。復帰前と、何も変わってはいません。

復帰運動のきっかけになったのは、基地に関することばかりではありませんでした。

それを教えてくれるのが『サンマデモクラシー』です。今回唯一のドキュメンタリー映画、劇映画よりエンターテイメントなドキュメンタリー!

元々沖縄では、マグロ漁の餌としてサンマを日本から輸入していました。輸入?はい、輸入です。だって沖縄は日本じゃなかったんですから。でもね、ウチナーンチュも、サンマのおいしさを知っちゃったんだなあ。沖縄に入ってくる輸入品に関税をかけるかどうかは、琉球列島米国民政府の高等弁務官布令、物品税法を定めた高等弁務官布令十七号(1958年公布)で決められていました。そこには、関税の対象に指定される魚のリストがあるのですが、そこにサンマの文字はありませんでした。なのに突如サンマに関税がかけられるようになった。なんで? またキャラウェイなの?

1963年のことです。「サンマに関税がかかっているのはおかしい!」と、魚卸業の女将・玉城ウシが、琉球政府を相手に徴収された税金の還付訴訟を起こしたのでした。求めた額は、現代の貨幣換算でなんと7000万円。ウシおばぁが起こした裁判を支えた人々の視線の先には、帝王と恐れられた高等弁務官ポール・W・キャラウェイがいました。この“サンマ裁判”は、いつしか統治者アメリカを追い詰める、民主主義の闘いとなっていった。
ああ、そしてついに、沖縄復帰運動に繋がる大衆運動のビッグウェーブが巻き起こるのでした。
しかし…

ひょんなことから山里孫存監督の著書から・・・

アメリカは、「沖縄を民主主義のショーウィンドーにする」をキャッチフレーズにしていたけれど、「復帰」から50年、今の沖縄のショーウィンドーに飾られている「民主主義」は、相当に変だ!
今、沖縄に君臨した悪名高き高等弁務官キャラウェイの言葉が予言のように聞こえてくる。
「自治は、神話だ」

なんだかねえ、アメリカって、なんとも感じ悪いなあ。でもさ、自治が神話なのは、日米地位協定で手が出せない米軍基地だらけの沖縄だけの話なんですかねえ。決してそういうわけではないんじゃないのかなあ。

あのう、あなたの町はいかがですか? 県や都や、国の言いなりになってませんかねえ。キャラウェイが、あっちこっちにいたりしませんかねえ。こういうこと言うと、「アカ」だなんて、レッテル貼りたくなる人がいたら、一度是非ボクと膝附合わせてお話ししませんか? あ、その前に、映画、見に来てくださいませ。そして、どうか僕に、議論を吹っかけてみてください。



以上の文章はFacebookに投稿した三つの投稿をまとめたものです。
 ⇒https://t.co/n8y3dyUEj9
 ⇒https://t.co/KC6ScU5mJk
 ⇒https://t.co/7eKSiMG2tb
関連記事

Comment

コメントの投稿

Comment
管理者にだけ表示を許可する