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ふじたあさや氏に頂戴した桃

※おきなわおーでいおぶっくOfficial_Siteの更新記録②
 2008/8/1 大城立裕関連Link集のページをアップしました。
 2008/8/2 『対馬丸』オーディオブックCDの同時発売を告知しました。
 そしてこの日、「カクテル・パーティー」のページをアップした。


 カクテルパーティーのページ

大城立裕が沖縄から発信した「カクテル・パーティー」は、40年間、問題作であり続けた。 それは「カクテル・パーティー」の問いに、今なお日本人の誰ひとりとして答えを出せずにいるというその現代性による。 しかし、それだけでは語れない魅力が「カクテル・パーティー」にはある。それはきっと、大城立裕の深層でこだまする重層的な声に関係している。
ここに、ひとりの無名の俳優、高山正樹が、深い尊敬を込めて、大城立裕の《声》を読む。

「カクテル・パーティー」を朗読することの困難・・・高山正樹

大城先生に読み方などいくつか質問をしたら、その答えに添えて、「カクテル・パーティー」について、こんなお言葉が返ってきた。
「この作品は朗読用に出来ていないとあらためて気づいた。」
そして中国の地名や戯曲形式の対話などは、適当に演出のテキストレジーのつもりで直してもよろしいというお許しも頂いた。
しかし、そうはいかない。どうしても変更が必要な箇所がひとつふたつあるが、基本的には原文に一切変更を加えずに、一人で読むと決めたのだから。困難なことは、最初から分かっている。
沖縄のオーディオブックを企画するにあたって、まずはなんとしても大城先生の「カクテル・パーティー」から始める。何故か、その理由については、とても簡単に説明できる話ではないので、 別の機会に譲るとして、ともかく「カクテル・パーティー」を朗読すると決めて、そして改めて読み返してみると、大城先生ではないが、殆ど絶望的な気分になった。
「私」「ミスター・ミラー」「孫氏」「小川」という、若干の年齢は違うにしても、太平洋戦争を生きた同じ世代の男性4人の会話を、いったいどのように読み分ければよいのか。 一度は、割り切ってラジオドラマ風に4人の俳優で読むことも考えたが、すぐにそれは違うと思い直した。
声を作って、4人を演じ分けることは、さほど難しい話ではない。しかし、この「カクテル・パーティー」は、その全編を「私=お前」の独白として読みたい、 「ミスター・ミラー」の言葉も、「小川」も「孫氏」のそれも、できれば「私=お前」が語る言葉として伝えたい、そのときはじめて、「私」と「お前」の違いが際立つことになる。
「カクテル・パーティー」が芥川賞を受賞した際の、諸先生方の選評が手元にある。
石川達三氏の「途中から第二人称にかわる必然性が納得できなかった」という意見に、いまさら賛同するものはいないだろうが、しかし当時の選者のだれも、 この二人称を積極的に評価する者がいないというのも不思議なことだ。沖縄の苦難を少しでも知る者にしてみれば、この二人称の「お前」という言葉が、 強烈なリアリティーをもって迫ってくるはずなのにと思うのだが。
また三島由紀夫氏が言う。「主人公が良心的で反省的でまじめで被害者で……というキャラクタリゼーションが気に入らぬ。このことが作品の説得力を弱めている」、 いかにも三島由紀夫氏らしい批評である。朗読者としては、主人公が悪人で、破天荒で、被害者意識とともに加害者意識も捨ててしまったような人間なら、 どんなにか読みやすかっただろうと思う。しかし問題は、個人の個性ではどうにもならない不条理な状況があるという現実なのだ。 だから、「カクテル・パーティー」の朗読者が表現すべきは、特異な個性ではないのである。
誰がしゃべっているのかを聞き手に正確に伝えることは必須だが、どこまで4人に差をつけて読むことが許されるのか、そのさじ加減をどうするか、多分、録音の最終段階まで迷っているに違いない。 なんとも、困難な作業である。
単なる朗読者なのに、余りに多くを語り過ぎた。偉そうなことを言っておいて、それに表現が追いつかなければ、何を言われるか分からない。 できることなら、誰か信頼おける俳優を探して朗読を依頼し、自分はディレクターに徹したかったのたが、この困難な仕事を、著名な俳優にお願いできるほど、残念ながらオーディオブックの世界は、 まだまだ認知されていない。 ならば、ともかく最初は、すべての批判をこの身で受けとめよう、それしかないと開き直ったのである。
ここまで語ってしまったのだから、最後に、もうひとつ気になっていることも書いてしまおう。それは、「お前」の告訴の決断を、最後には黙って受け入れた「娘」のことである。
再び石川達三氏の批評だが、その中に「娘自身の態度が書いていない」とある。
だが「カクテル・パーティー」が「私=お前」の独白である限り、「娘の態度が書いていない」ことに特に不満はない。しかし本当に娘のことが書かれていないのだろうか。 「カクテル・パーティー」は、やがてやってくるであろう娘の苦しみを知らぬ「お前」を、もうひとつの目が見つめているところで終わるのだが、 そこに、全てに対して不寛容になることに決めた「お前」を、強烈に逆照射する健気な「娘」の姿を、読者は発見するのだ。全てを受け入れ、全てを許している無言の「娘」。 もしかすると、この「娘」こそ、「沖縄」の、もうひとつの、重要な実相なのではないだろうかと、僕はひどく懐かしく思うのである。
ならば、はたして「私」を「お前」と呼ぶものは、いったい何者なのであろうか。
それは大城立裕の《声》なのか、あるいは・・・
大城先生に伺えば、気楽にお答えいただけるのかもしれない。しかし、このことは聞かずに、録音の時を迎えようと思う。これ以上悩むと、きっと、手も足も出なくなるに違いない。
(2008/8/3)




ふじたあさやさんのお宅へふたりで伺った。
桃を切ってくださった。
ペロッと2×2個、腹の中に納まった。
お土産に、桃を3×2個と、しんゆり芸術祭への参加依頼と、お渡しして聞いておいていただいた「カクテル・パーティー」のサンプル録音に対してのダメ出しを頂戴した。

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いよいよ、あさって、本チャンの録音である。


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tag: カクテル・パーティー  ふじたあさや  しんゆり芸術祭  山猫合奏団  おきなわおーでぃおぶっく 

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