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ふじたあさや先生からのお言葉。

※おきなわおーでいおぶっくOfficial_Siteの更新記録⑤
 2008/8/15 各作品紹介のページにCDジャケットのイメージをアップしました。
  ※…と、サイトの更新履歴にあるのだが。
  何故か本ブログでは9月7日に、Officialブログでは9月9日に「CDジャケットのデザインが最終決定」とある。
  今となってはその頃の事情は忘れた。どうでもいいことだし。

 2008/8/18 「対馬丸」の記事をアップしました。
  ※この意味が分からない。関連新聞記事へのLINKなら、もうデッドリンクである。


「おきなわおーでぃおぶっく」に、ふじたあさや先生がお寄せくださったお言葉を掲載しました。高山正樹への過分な評価には、穴があったら入りたくなりますが、そう言って逃げてはいられない、身の引き締まる思いです。
また日本語の書き言葉と話し言葉の乖離についての御高論は、今後オーディオブックを考えていく上で大きな示唆を与えてくださるもので、大変参考になりました。ただただ感謝であります。

※追記:後に開設した「おきなわおーでぃおぶっく」Official_Blogに、この日のことをこの日の日付で投稿しました。
 ⇒http://ameblo.jp/okinawaaudiobook/entry-10152361164.html


その他にも、あさや先生には来年5月の新百合芸術祭への山猫合奏団参加を決めてくださったり、またいくつか新しい企画の種もいただいたりと、いくら感謝の言葉を並べても足りません。
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ふじたあさや氏の似顔絵
なお、「おきなわおーでぃおぶっく」のふじたあさや氏のお言葉の脇に、高山正樹が描いたふじたあさやさんの似顔絵をそっと貼り付けてしまいました。いずれあさやさんからお写真をお送りしていただくまでの暫定処置のつもりなのですが、このままでも悪くないかななんて思っています。ただ、あさやさんが何とおっしゃるか、なにぶんにも、あちらはOfficial Siteなので・・・



おきなわおーでぃおぶっくOfficial_Siteの更新記録⑤
 ※いつ消えてなくなってしまうか分からないので、転載しておくことにした。


オーディオ・ブックに寄せる期待・・・ふじたあさや
もともと言語は、声で思いを伝えあうものだが、記録方法としての文字を獲得したところから、変質がはじまった。 日本の場合、原型である〈やまとことば〉を記録できる表音文字(かなもじ)を発明したこと、それと、表意文字としての漢字を音(おん)ごと併用し、 さらに数次にわたって外来語を取り入れてきたことで、結果的に世界一複雑な表記法を持った、文学向きの言語になった。 しかしこれは、本来の話し言葉とは、かけはなれたものである。この話し言葉と書き言葉の乖離が、日本語を考える時の大問題になっている。 話し言葉から見れば書き言葉が、不自然だということだが、読み書き重視の国語教育の中では、書き言葉が正規のものとされたのである。 そこを一致させるべきだろうと、二葉亭四迷も、森鴎外も、夏目漱石も考えた。しかし、今にいたるまで、「~だ ~である」は話し言葉ではない。 この文章にしてもそのまま声にしたのでは、誰も話しかけられているとは思わない。
そういう国で、書き言葉を声にする方法が、〈朗読〉として探られてきたのは、偶然ではない。 それは書き言葉の論理性を話し言葉の情感と活力で包むことで、書き言葉と話し言葉の溝を埋めようとする試みで、声の側からの言文一致運動といってよい。
しかし、そういう意識をきちんと持った〈朗読〉を聞いたことはあまりない。 よくあるのは、〈朗読〉らしい「読み方」を読んでいるというやつで、生きた言葉が聞こえてきたためしはない。
そんな中で高山君は、文学を文字で運ぶのではなく、声で運ぶことを考えた。同じ領域を走っているランナーがいないわけではないが、 高山君の優れているのは、いま述べたようなことを絶えず考え、自分の朗読を「これでいいはずはない」とチェックしていることだ。ともするとひとりよがりの朗読家が多い中で、 彼のような存在は稀有といってよい。
高山君の企画になるオーディオ・ブックが、新しいジャンルを開拓するであろうことを、ぼくは期待している。
さらにいうならば、その第一回に『カクテル・パーティー』を選んだことがある。大城立裕氏がこの一作をひっさげて、本土の文壇に登場した時、戦慄をもって迎えられた記憶がある。 タイトルの「カクテル・パーティー」は、実際にカクテル・パーティーであるだけでなく、言語のカクテル、民族のカクテル、国家のカクテル、支配者と被支配者のカクテル、 さまざまな政治的立場のカクテルでもあり、そのすべてが沖縄の象徴なのである。 その状況の中で、「お前は」一体何をしたのか、しなかったのか、それを問い詰める第二部の文体は、朗読の難易度からいえば、超A級である。 読後の、リアリティーある絶望感は、おざなりの連帯を唱える、本土の沖縄好きの似非文化人を打ちのめす。こんなむずかしい作品を、高山君はなぜ読もうとするのか、 それはきっと自分こそはその似非文化人ではあるまいとする、決意の表われだろう。
(劇作家・演出家・昭和音楽大学教授)

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