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芭蕉翁は朗読の韻律に何を想うか

俳句は「詠む」といいます。重要なのは韻律、言葉の調べです。それは時間の流れの中の強弱であり、抑揚であり、リズムです。言語学的には、文字で記録されない性質のことを「韻律」というのです。
俳句は元々庶民の遊びでした。やがて17世紀になって、松尾芭蕉が、その俳句の芸術性を高めたのだといわれています。

今日の芭蕉翁は、しっとりと雨に濡れていました。
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先日の松尾芭蕉翁の記事を読む。
お隣のそら庵で、野口田鶴子さんの朗読を聞きました。
須賀敦子の「アスフォデロの野をわたって」(『ヴェネツィアの宿』より)。
 大川端語りの会のチラシ クリックすると大きくなります。

野口さんの朗読は独特で素敵でした。それはきっと、オペラで鍛えられたしっかりとした声と息遣い、それに加えて、イタリア語の発音の素養も、きっと影響しているのではないかと思われて、それは余人には真似ができないものだと感じられました。
独特であるということは、表現者にとって貴重な財産ですが、その獲得は並大抵のことではありません。素人の、ちょっと変わった読み方とは、全く異質のものです。

英語圏では、歌や楽器の演奏と同列に、朗読という芸能があったと聞いています。例えば詩などは、いかに感情をこめて韻律を浮かび上がらせるかが、朗読の重要な要素でした。野口さんは、イタリア北部で語られる古詩の抑揚に魅せられた経験があって朗読を始められたとのこと、イタリアにも、朗読の伝統があるということなのでしょうか。

はたして、日本語はどうなのでしょう。
漢字という表意文字をふんだんに使うことによって、より豊かな内容を表現することを選んだ日本の近代小説は、表音文字の欧米とは全く事情が違います。
(※厳密には漢字は表意文字ではありません。厳密な表意文字は、音とは全く無関係な記号ですから読むことは出来ません。漢字のように、音で読むことの出来るものは表語文字というのが正確な表現です。)
つまり、日本語には音だけで意味を伝えることが極めて困難な文章がたくさんあるのです。難しい言葉を使っているからだということではありません。そのことはどんな言語でも同じことです。しかし日本語には、同音異義語がたくさんある、そこに困難のひとつの原因があるのです。
もうひとつ、欧米の言葉が強弱なら、日本語は高低、強弱はいくらでも変化がつけられますが、高低には限界がある……、これ以上のややこしい話は、また別のどこかでということにしましょう。

ともかく、もし日本で朗読というものに関わろうとするなら、音だけで意味を伝えるという課題にどう立ち向かうのか、演者は常に問われているのです。
しかし、そんなことは考えずに、韻律の美しさだけを追い求めればいいのだ、もしかすると、そういう朗読のあり方も、それはそれでありなのかもしれない、そんなことを考えさせられた今日の野口さんの朗読でした。しかしやはり一方で、それには意味を伝えることを諦めるという断固たる覚悟も、また必要なのかもしれないと感じて、正直に言うと、今日の天気のように、うす曇りで憂鬱な気分が、僕の脳みその半分を支配しているのです。
いずれにしても、この大きな課題に対する無頓着さが、日本における朗読の限界、いまひとつ超えられない「何ものか」の原因ではないかと思うのです。

芭蕉のような天才の出現を待つより他はない、なんて、ちょいと大げさに過ぎるでしょうか。

宮澤賢治の「虔十公園林」をお読みになった武順子さんに、車で送っていただきました。
武順子さん

ついつい話し込んで、結局、自宅の近くまで。ありがとうございました。
いずれ御一緒できることを、楽しみにしております。
それまでに、日本の文学を声に出して読むという営みが、いったいどういうことなのかを、もう少し見極めてみたいと思っています。
 ⇒朗読の形而上学連載中
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